練馬区 10 (21/01/23) 中村 - 中村北/中村/中村南
中村
中村北
- 旧中村橋駅井戸跡
- 城山 (富士見高等学校)
- 九頭竜弁財天、庚申塔 (35番)、弘法大師碑、九頭竜弁財天の祠、渡邊龍神
- 中杉通り
- 馬頭観音 (12番)
- 成田山新勝寺中村不動尊
- 矢原稲荷神社
- 馬頭観音 (16番) [未訪問]
- 下練馬道碑
- 地蔵尊
中村
- 稲荷利大神祠、垢離取不動尊 (こりとりふどうそん)
- 良辨塚
- 石幢七面六観音勢至道しるべ
- 庚申塔 (30番、31番、32番)
- 庚申塔 (27番、28番、29番)
- 南蔵院
- 慈母観世音菩薩像
- 本堂
- 鐘楼門
- 赤門
- 薬師堂
- 閻魔堂
- 境内社
- 地蔵菩薩立像
- 首継地蔵尊
- 日川地蔵、川施餓鬼供養塔
- 庚申塔 (34番)
- 御嶽神社
中村南
- 中村八幡神社
- 首つぎ地蔵
- 稲荷神社
- 田中稲荷神社
- 福泉禅寺
- 地蔵尊
- 馬頭観音 (14番、94番) [未訪問]
- 馬頭観音 (13番)
- 庚申塔 (25番) [2023年12月2日 訪問]
今日は自宅から近い現在の中村にあった北仲村、中村、中村南の三つの村を訪問。近いので自転車ではなく、徒歩見て巡る。
中村
練馬区の南部に位置する旧中村町は現在では中村北、中村、中村南の三地区に分かれている。
明治以降、中村には中内、新屋敷 (あらやしき)、寺原、原、北原、西原 (にしはら)、精進 (しょうじん)、南、籠原 (かごはら)、城山 (しろやま) の10の小字があった。中内 (中村3丁目)、新屋敷 (中村2丁目) が村の中心だった。1889年 (明治22年) に中村は隣りの中新井村と合併し、同村の大字「中」となった。関東大震災後から人口の増加、市街地化が始まり、1932年 (昭和7年) の市郡併合で板橋区中村町1~3丁目となり、1945年 (昭和20年) の区画整理事業完成後に中村北、中村、中村南の三つに町名となっている。民家の分布の変遷を見ると、明治期には既に多くの集落があったことが判り、戦前にかけては武蔵野鉄 (現在の西武鉄道池袋線) 道の中村橋が1924年 (大正13年) に開業し、特にその駅周辺で集落が拡張している。戦後は一気に中村の全地域に民家が広がり、現在では公園や学校の公共施設や神社仏閣以外は民家で埋め尽くされている。
関東大震災後から人口の増加、市街地化が始まった事で、戦前には多くの住民が住み人口も増加が続いていた。高度成長期前半には人口の増加は見られるが、その半ばには増加は抑えられている。再び人口増加がみられるのは2000年からで近年まで続いていた。ここ三年程は、世帯数は相変わらず増加が続いてはいるが人口は横ばい状態となっている。練馬区ン中では世帯当たりの人数は低い地域になっている。
練馬区史 歴史編に記載されている中内の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り
- 仏教寺院: 南蔵院、福泉禅、
- 地蔵尊等: 地蔵尊 (中村北)、地蔵尊 (中村南)、九頭竜弁財天、成田山新勝寺中村不動尊
- 神社: 矢原稲荷神社、稲荷利大神祠、御嶽神社、中村八幡神社、稲荷神社、田中稲荷神社
- 庚申塔: 9基 馬頭観音: 5基
庚申塔 (25番)、馬頭観音 (14番、16番、94番) はその地番付近を探すも見つからず。
中村訪問ログ
中村北
旧中村橋駅井戸跡
むかし、むかしのこと、上練馬村の権兵衛さんが千川上水にかかる中村橋のたもとで練馬大根を洗っていると、川上からおぼれかけた一匹の猫が流れてきました。権兵衛さんは練馬大根をさしだしてその猫を助けてあげました。猫は猫飛 (にゃんぴ) と名付けられ、かわいがられていましたが、元の飼い主の所へ帰ったのか、ある日、突然いなくなってしまいました。それから数年後、権兵衛さんが足にけがをして仕事ができず困り果てていたある朝、納屋の前に何と一枚の小判を見つけたのです。まわりにあった足跡から猫飛が恩返しに来たのだとわかり、感謝の涙を流したのでした。
城山 (富士見高等学校)
中村橋駅から千川通りを渡ったところには富士見高等学校があるのだが、ここは小字の城山と呼ばれた場所で、練馬城の出城があった場所だった。城山という名はそこからきている。現在は平坦地になってしまい、遺構もなく、昔を偲ぶものも無くなっている。
九頭竜弁財天、庚申塔 (35番)
中村橋駅の西側、千川通り沿いに九頭竜弁財天があり、祠といくつもの石柱が建てられている。元々はここを流れていた千川上水に架かる九頭竜橋の付近いあったが、上水は暗渠化工事でこの場所には移された。
右端には千川上水で溺死した母子を悼んで近隣の有志が造立した角柱型の地蔵菩薩像 (1956年)、隣りには九頭竜弁財天奉賛会が建てた馬頭観世音菩薩がある。今でも馬頭観音信仰が残っている様だ。
隣の東屋には1974年 (昭和49年) 造の方形文字型の庚申塔 (35番)、弘法大師碑、九頭竜弁財天の祠、渡邊龍神が祀られている。庚申塔は1974年 (昭和49年) に方形文字型で造られている。
中杉通り
中村橋駅前まで戻り、そこから中杉通りを南に進む。
馬頭観音 (12番)
中杉通りを西に外れた住宅街の角に馬頭観音が保存されていた。練馬区では12番で登録されている方形文字型のものだ。いつ作られたかは不明との事。
成田山新勝寺中村不動尊
祠前の灯籠は比較的新しく1963年 (昭和38年) に造立されたもの。不動明王像と合わせてここには1778年 (安永7年 写真左から2番目) と1726年 (享保11年 写真右から2番目) に建てられた2基の供養塔が置かれていると資料には記載されていたが、1726年 (享保11年) の供養塔のみ置かれていた。
矢原稲荷神社
中村北の東側に矢原稲荷神社があるのだが、由緒など、創建も不明だそうだ。
下練馬道碑
この道はかつての下練馬道で、旧下練馬村の今神・本村・重現・早淵など、村のほぼ中央を北東から南西へ走る幹線道の一つだった。旧川越街道を旧上板橋村字七軒家付近でわかれ、練馬に入り、錦の金乗院を迂回して、須賀神社から開進第一小学校の南側を通り、中之橋で石神井川を渡る。そこからはさらに練馬城址の東側 (豊島園駅西側) を通って清戸道と交叉し、ここを通り、中村の良弁塚前から鷺宮福蔵院方面へ古鎌倉道 (こかまくらみち) へと繋がっている。江戸時代、この街道沿いには名主役宅や高札場があった。下練馬道は村の中心から近郷の村々へ通じる生活道だったと説明板に書かれている。
馬頭観音 (16番) [未訪問] 中村北 2-20-18
成田山新勝寺中村不動尊の南側千川通りを渡った所辺りに馬頭観音 (16番) があるそうなのだが見つからなかった。 1920年 (大正9年) 10月に造られた方形文字型となっているそうだ。
地蔵尊
矢原稲荷神社と下練馬道碑の中間ぐらいのところ、民家の間に于堂があり地蔵尊が置かれている。1816年 (文化13年) 3月に願主を西貝半右エ門とした念仏講中十八人により建てられている。この地蔵尊がある民家は西貝さんなので、この何代か前の人が西貝半右エ門なのだろう。台座には「右 江戸みち」「南 中野ほりのうち道」「左 かみねりま志ら六道」とあり、道しるべも兼ねていた。この西貝さんの名は、この後訪れた神社などで寄進者として出ていた。
中村
続いて、中村北の南側にある中村地区を巡る。中村は北で中村北、北東で豊玉北、東で豊玉中、南東の道路上の一点で豊玉南、南で中村南、西で中野区上鷺宮と接している。
稲荷利大神祠、垢離取不動尊 (こりとりふどうそん)
下練馬道を中村北から南に進み中村地区に入った所に稲荷利大神祠と垢離取不動尊が祀られている。それぞれの祠には説明書が貼り付けられている。
稲荷大神の縁起が説明は
稲荷利大神は京都の伏見稲荷大社境内に数多く祭られている稲荷の中の一つで、稲荷利大神の分霊をお祀りしています。稲荷利大神の他に松山稲荷、近郷近稲荷の御族 (きんごうきんざいいなりのごけんぞく) が合祀されています。創建は、八代将軍吉宗の頃 (在位1716年~1745年) と云われており、五穀豊穣を祈り当時の土地所有者により「屋敷稲荷」としてお祀りされたようです。かつて農村であった中村地区には、現在でも数多くの稲荷社が祀られています。また、産業、商業の神様としても崇められており、多くの企業や商業ビルの屋上などにも多くの稲荷社が祀られています。現在の社殿は令和元年に建て替えられたものです。
垢離取不動尊縁起
垢離取不動尊は神奈川県伊勢原市の雨降山大山寺 (西暦755年 良弁僧正開山) に安置されている「大山不動尊」(国重要文化財) の分霊として、文化10年 (1812年) 6月に村の方々により祀られました。農業の守護神の山 (富士、大山、榛名、三峰、武州御岳) へ参拝する前日、ここへ集まり不動尊に水を掛け、自分達も水を被り垢離取り (穢れを落とし、身を清める事) を行ったそうです。かつて、この地には「千川上水」から分岐した「中村分水路が流れており、水路を挟むように不動尊と稲荷社が安置されていたそうです。また、中村北公園~中村公園交差点~当地~良井塚へ至る道は、鎌倉時代数多く整備された「鎌倉みち」の一つであったと云われています。当不動尊は用水路と古道が交わる場所に祀られました。大正末期~昭和30年頃の間、千川上水のほとりに安置されましたが、地元の方々のご協力により再びこの地に安置されました。中村分水路は現在は暗渠となりましたが、中村公園から当地前の交差点を経て中村児童館方面至る区道の下を流れています。
当不動尊と大山信仰
大山は別名「阿夫利山」「雨降山」(あふりやま)と云い。「雨乞い」の山としても有名であったようです。江戸庶民にとっての「大山詣り」は信仰だけでなくレジャーとしての性格も有していたようで、古典落語に「大山詣り」という演目があるほど、庶民に親しまれていたようです。言い伝えによりますと、日照りが続くと、村の若者数人を選抜し、当不動尊に集まり水垢離 (みずごり) をして体を清め、中村の氏神 (中村八幡) に参拝した後、大山へ向かったそうです。現地では大山不動尊に参拝の後、近くの池で竹筒に水を汲み、中村まで持ち帰って来ると数日中に雨が降ったと言われています。 ただし、途中で寄り道をすると、寄り道をした場所に雨が降ってしまうと言われていた為、急いで中村まで帰って来たとの事です。
当不動尊にまつわる伝承
大正時代、当不動尊は盗難に遭い、美術品として外国へ売り払うべく横浜港まで運ばれてしまいました。不動尊像を荷車に乗せ桟橋まで運んで来たところ、突然、 荷車が重くなり立ち往生してしまいました。そこへ、偶然警官が通りかかり荷車を押すのを手伝おうとしたところ、積荷が盗品である事が露見し盗賊は逮捕されました。警察からの連絡を受け、村の若者が一人で横浜港より持ち帰って来た とのことです。
良辨塚
下練馬道を更に進むと、良辨塚が道沿いにある。良辨塚は、この近くにある南蔵院の中興第一世良辨僧都により1357年 (延文2年) 3月21日に造立されている。良辨は、日本各地の霊場を巡拝し、数百部にのぼる法華経 (妙法蓮華経) を書き写して奉納していた。最後にたどり着いたのが南蔵院で、そこにに滞留し、周辺の人々を教化したと伝えられている。造立当時は銅製の経筒が埋納されていたが、江戸時代に塚を改修した際に経筒が取り出され南蔵院に保管、その後近くに祀られていた庚申塔や道標などの石造物が当地に移されている。
石幢七面六観音勢至道しるべ
その中の「石幢七面六観音勢至道しるべ」は練馬区文化財に指定されている。写真左上から、❶ 聖観音「講中 三拾八人」、❷ 千手観音「願主 西貝三良左衛門」、❸ 勢至菩薩「講中拾六人 元文五年」、左下から ❹ 如意輪観音「村中 寄進」、❺ 准堤観音「光明真言拾五万遍妙隆為二世安楽」、❻ 十一面観音「元文五庚申歳十月吉旦」、❼ 馬頭観音「本願主 内田治良左衛門」が浮き彫りされ、台石は道しるべになっており、「此方なかのミち 東 目ぐろみち」、「此方た可いど 西 大山ミち」、「武州豊嶋郡 南 中村里」、「此方ねりま 北 川口ミち」と刻まれている。
庚申塔 (30番、31番、32番)
良辨塚の中には幾つもの庚申塔が集中している。近くに祀られていた庚申塔や道標などの石造物を良辨塚に移されている。敷地内の南端に5つの石柱がある。
1740年 (元文5年) 2m程の擬宝珠付き方形笠付型庚申塔 (30番) で正面には「武刕豊嶋郡中村」と刻まれ、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が浮き彫りされ、台石には二鶏の浮き彫りと「願主内田五平次、講中廿二人」と刻まれている。この庚申塔は道しるべも兼ねており、右側面には「是 右ハ下祢りま道」、左側面には「是 左ハ上祢りま道」とある。
その隣には、1695年 (元禄8年) 造形の板碑形文字型の庚申塔 (31番 写真左端) がある。「庚申石塔国家安全 武刕豊嶋郡中村南蔵院」と刻まれている。更にその隣、弘法大師碑 (左から二番目) の後ろの石塔も庚申塔 (32番 右から二番目) なのだが、風化が激しく、刻まれていた文字は全く読めない。造られた時期は不明で明治期と推測されている。「庚申塔 内田鉄太郎」と刻まれ、道しるべにもなっていたそうだ。
庚申塔 (27番、28番、29番)
敷地内北側にも庚申塔などが移設されている。
左の庚申塔 (28番) は1697年 (元禄10年) 建立のもので、上部に三猿が浮き彫りされ、「奉納庚申供養為二世安樂也」と刻まれている。
南蔵院
ある日南蔵院に薬師像を背負った六部がきて、泊めてほしいと頼んだ。住職は、病気であったのでことわったところ、諸病にきくという「白竜丸」の処方を教えてくれた。この六部が良弁であるといい、病気のなおった住職は、あつくその薬師を祀ったという。白竜丸の効能あらたかなことと、その後火災があったときも薬師像だけ焼けあとに残って光り輝いていたということで、一層信仰が高まった。
上の伝承にある白龍丸は、別の伝承では良弁が「夢枕で製法を教えられた」秘伝の薬だという。江戸時代に南蔵院で作られあ万病に効くと言われ頒布しており、1877年 (明治10年) に売薬法で禁止されるまで「南蔵院の投げ込み」として全国に広まっていた。その薬の収入で本堂、庫裏、薬師堂、閻魔堂などを建てることが出来たと言われている。
本堂
江戸中期の1753年に建造された本堂は寺務所と、薬師堂に連なっている。本堂には不動明王 (写真右下) が安置されている。
境内には長屋門、鐘楼門、薬師堂、閻魔堂、不動堂、仁王像、日川地蔵がある。また数多くの石碑や板碑があった。特に多かったのが弘法大師と刻まれた石柱で、いずれも道しるべとなっている。中村の道沿いに置かれていたものを移設しているのだろう。
慈母観世音菩薩像
公道から門を入ったところには慈母観世音菩薩像が置かれている。これは新しく建てられてものの様だ。
長屋門
詳細は見つからず。
鐘楼門
境内の西側には柱が朱に塗られた南蔵院鐘楼門が残っている。高さが約10mの門で、屋根は、母屋を切妻造りとし、その四方にひさしをふきおろしてひとつの屋根とした入母屋造りで、桟瓦ぶきになっている。門の上の階は吹き放しで梵鐘が吊るされている。建築年代は不明ですが、様式から江戸時代中期のものと推定されている。
赤門
鐘楼門の近くには簡素な造りの朱塗りの門がある。赤門と呼ばれている。何の目的の門かは書かれていないのだが、通用門か墓地に近いので裏門なのだろう。
薬師堂
本堂の隣には薬師堂がある。薬師堂は1707年に建てられ、本堂とは渡り廊下で繋がりっている。薬師堂には南蔵院の御本尊である薬師如来が安置されており、秘佛とされ、33年に1度、御開帳されている。
閻魔堂
江戸中期の1753年に建てられた閻魔堂には中心に閻魔大王が安置され、その両側には死者の罪状を審判するといわれている十王像が鎮座している。閻魔様の上の棚には病気平癒を願った小さな地蔵が無数に置かれている。千体祀られているといい、千体地蔵堂とも呼ばれている。
境内社
境内には二つの祠あるが、名も書かれておらず、詳細は不明。
地蔵菩薩立像
鐘楼門の近くには地蔵菩薩立像が置かれている。1696年に建造され高さ3mに達し、石造の地蔵としては練馬区内最大だそうだ。
首継地蔵尊
別の地蔵尊があった。首継地蔵尊という変わった名前なので、何か由来があると思い調べると。首の無い地蔵が中村にあった。昭和7年に、あるところから首だけが保存されているという話があり継ぎ合わせたところ、ぴったりと合った。これからこの地蔵を首継地蔵尊と呼ぶ様になったという。 この後に訪れて
た中村八幡神社にも首つぎ地蔵があったと資料には載っていたが、見当たらなかった。この南蔵院の首継地蔵尊と同じ物の様に思える。神社からここに移設されたのではないかと思うのだが、その様な記述は見つからなかった。(その後、やはり移設された事が判明)
日川地蔵、川施餓鬼供養塔
南蔵院の墓地には日川地蔵と呼ばれる地蔵が2体ある。元々、千川上水で溺死した子供たちの慰霊のため上水畔に安置されていたもので、千川上水の暗渠化に伴い、ここに移設されている。その隣には川施餓鬼供養塔がある。明治時代に千川上水畔に安置されていたものを移設している。
庚申塔 (34番)
墓地を囲んでいるブロック塀の前に大型の庚申塔がある。1800年 (寛政12年) に造られた唐破風笠付きの角柱型の庚申塔で、正面には日月雲、剣を持ち邪鬼 (ショケラ) を踏みつけた青面金剛立像、三猿が浮き彫りされている。これは元々は中村南にあったものを移設したもの。下の台の正面に「北」、右側面には 「西 せき 石神井」、左側面には「東 高井戸 大山 堀之内」と刻まれて道しるべを兼ねていた。
御嶽神社
中村御嶽神社は、この地域の史跡を巡るとよく出てくる谷原村の豪農の増島家が創建し、天御中主神、高皇産神、神皇産神、国常立尊、大己貴命、少彦名命を祀っている。この御嶽神社を創建した増島大博 (明治35年歿) は行者一山の門人として、一山講社を結し御嶽神社 (現富士見台の稲荷神社) を興し、近隣への神習教の普及に務めていた。講員は千数百人を数えたという。その範囲は、当時の記録によると、中村・中新井村(現豊玉)をはじめ下練馬・鷺宮・中野・小榑・保谷の各村から遠く神奈川県下にも及んでいたそうだ。
中村南
中村八幡神社
御嶽神社の南側に祭神を応神天皇とする中村八幡神社がある。この神社の創建年代等は不詳ながら、正保年間 (1644-1648年) 以前の創建と伝えられ、鳥居を入ったところにある手水舎の卍の彫刻の御手洗石 (写真右上) は1830年 (文政13年) に奉納されたもので、神仏混淆時代の名残りをとどめる石造遺物だ。
現在の本殿中の神殿は、1773年 (安政2年) の再建で、拝殿は1866年 (慶応2年) 改築とされ、練馬区内でも屈指の古建築物となっている。境内社として須賀神社、三社神社 (熊野、伊邪那美神、北野 菅原道真、秋葉 火産霊神)、御嶽神社が並んで鎮座している。記念碑のまわりには、むかし若者たちが力競べに興じた力石が置かれている。
首つぎ地蔵
本殿裏の一角に「首つぎ地蔵」があったそうだ。首と別々にあった地蔵尊が、信心深い二人のひとの夢枕に立った結果、首と体を継ぐことができたと言い伝えられ、その名にちなみ昭和初期の不況時代には「首切り」を免れようと、参詣者でにぎわったという。この首つぎ地蔵は周りの板碑などと共に、先程訪れた南蔵院に2014年頃に移設されていた。昔の写真があるのだが、地蔵尊には頭部がない様に見えるので昭和初期の写真だろう。
稲荷神社
民家の畑の中に赤鳥居があり、その奥に小さな祠の稲荷神社がある。この稲荷神社の詳細は見つからないのだが、多分、ここに住んでいた家の邸内社と思われる。
田中稲荷神社
田中稲荷神社は、1798年 (寛政10年) に京都伏見稲荷より神霊を奉祀、社殿を建築したと伝えられている。祭神は宇気母知命。現在の社殿は1957年 (昭和32年) に改築されたもの。鳥居を潜り拝殿に向かうと、社殿を守っている狐が台座に比べ小さい。経済的な問題でミニチュア狐にしたのかと思っていたら、祠の中に元々置かれていた狐があった。いたずらされないように中に入れたのかも知れない。
福泉禅寺
中村南には曹洞宗の福泉禅寺現がある。新しい寺だ。この寺についてはインターネットでは葬儀案内だけで、ホームページでも同様で、葬儀PRだけで、この寺の沿革については載っていなかった。
地蔵尊
中村南を更に南に進んだ所のアパートの塀を掘り込んで、地蔵が2体置かれていた。向かって右は1740年 (元文5年) 像率の聖観音で、左が地蔵菩薩像で像率時期は不明だそうだ。
馬頭観音 (14番、94番) [未訪問] 中村南 2-18-3
地蔵尊のすぐ西側の中村南 2-18-3に14番と94番の二つの馬頭観音があるそうだが、いくら探しても見つからなかった。14番の馬頭観音は1859年 (安政6年) に造られた駒形で馬頭観音像が浮き彫りされ、94番の馬頭観音は1922年 (大正11年) に造られ、方形文字型だそうだ。
馬頭観音 (13番)
更に南側、新青梅街道近くに馬頭観音 (13番) が道沿いに残っていた。1902年 (寛政9年) に造られた駒形文字型の馬頭観音。
庚申塔 (25番) [2023年12月2日 訪問]
中村南の西側 (中村南1-24-8) には25番で登録されている庚申塔があると資料にはあったが、探すも見つからなかった。この庚申塔は1777年 (安永6年) 7月に造られ、駒形で青面金剛像が浮き彫りされ、側面は 道しるべになっているそうだ。
その後、別の資料で調べると、住所が異なっている。こちらでは中村南1-26となっており、そこを探すと見つかった。
中村の史跡巡りを終えて、自宅に戻ると今日は12kmを歩いていた。一日中歩いていた割にはそれほど歩いていない。資料やインターネットで調べ、訪問記に記載しながらで、今日は特に南蔵院でかなりの時間をつかったからだろう。
参考文献
- 練馬を往く (1983 練馬区教育委員会)
- 練馬区史跡散歩 (1993 江幡潤)
- 練馬区の文化財 指定文化財編 (2016 練馬区地域文化部)
- 練馬区史 歴史編 (1982 練馬区)
- 練馬区史 現勢編 (1981 練馬区)
- 練馬の寺院 三訂版 [郷土史シリーズ 3-4] (2004 練馬区教育委員会)
- 練馬の神社 三訂版 [郷土史シリーズ 5] (2006 練馬区教育委員会生涯学習部)
練馬の石造物 路傍編 1 (1991 練馬区教育委員会)