〝シェアリング・コミュニティ〟という共有可能性 行政区分や伝統的地理境界を超えたネットワーク社会の 地理学と〝パブリックネス〟。
〝シェアリング・コミュニティ〟という共有可能性
行政区分や伝統的地理境界を超えたネットワーク社会の
地理学と〝パブリックネス〟。
〈パブリックネス〉とは、情報・思考・行動をシェアする行為、またはそれらをシェアしている状態。人を集めること、または人・アイデア・大義・ニーズの周りに集まること。つまり〈パブリック〉を形成すること。そして、周囲とコラボレーションするために、プロセスをオープンにすること。オープンであることの倫理である。
単に物理学的な空間を意味するだけでなく,何かを論じる際の基本的論述形式,あるいは論題を蓄えている場、共通の観念を想起させてることで、特定の場所を意識させる現代の〝トポス〟であるともいえる。
オキュパイ・ザ・リージョン
コンソーシアム・パスポート
オープンアクセスとコモンズ
バウヒュッテの公共的スクウォットでは、アーチストなどが周りの人に活動をオープンにするなどの実績を示すことにより参加を認めています。つまり、イリーガルだったものでもサーティフィケイトにより、パブリックネスの場になるというプロセスがおもしろいと思います。
そして、「場」を用意するとともに創造性を高め合える自発性を軸としたコミュニティ(アソシエーション)を育んで行くことが継続のためには重要である。
これまでクリエイティブシティを標榜する都市復興は、施設優先の発想だった。しかし、立派なミュージアムを建設すれば、都市がクリエイティブになるわけではない。大事なのは創造性を高め合えるコミュニティをつくることなのである。
あなたがもしユニークなアイデアを思いついたら街ですぐに仲間たちにシェアし、そのアイデアを膨らませ進化させることができる。バウヒュッテは人口1000人あたりに3ヶ所という、発想を交流させるのに適度な人口密度だ。創造性の好循環があるコミュニティづくりこそが「家」と「地区」の再構築の本質である。
ホームエレクトロニクス・カフェの起業は、自宅や全国に点在する空家や廃屋を舞台にした「公共的スクウォット」により展開され、自主独立の経営と社会的使命達成に対する報酬としての、適正な利益に基づく運営を目指している。自宅と家電を使用することで、ほとんど予算を必要とせず、高齢者を中心に自己学習による参加で、地域社会の主役となり、経済的自立や年金・医療・社会保障の問題の解決だけではなく、高齢者どうしの見守りなどによる地域社会との恊働を積極的深めていく志の高い運動である。
HECP/ホームエレクトロニクス・カフェは、普段自分一人だけいるとき、家は「プライベート」な空間だが、客がくれば、その空間は「パブリック」になる。つまり、「パブリック」と「プライベート」は対立する要素ではなく、何を「プライベート」にして、何をオープンにして「パブリック」にするかということを個人が自分自身で選んでいく自己決定性にある。個人個人がいろんなリソースをパブリック化し、シェアすることで、地域、経済、市場の共有可能性が生まれる。つまり、オルタナティブなマーケットは、時間や場所による分割ではなく、オンレイヤー=「築層」による多層な重なりなのである。
「オープンアクセス」と「コモンズ」
論理化される「家」と「地区」ー社会的共通資本としての〝家〟
この新たな諸局面、新たな諸形象 、新たな諸世界。
バウヒュッテー「家」と「地区」の再構築は、スクラップアンドビルド(破壊と再構築)ではなく、行き過ぎた人工的な“都市化”からの転用、つまり、「家」と「地区」をずらす(ディトルヌマン)ことにある 。HECPは、日本の危機的状況の原因の根本は「家」にあり、地球規模での「家」と「地区」の再構築の観点から、初発的に「家」の形象を全ての始まりとする「芸術」による運動なのである。
「家」と「地区」の再構築は僕たちにとってのアウトノミアなんだ。アウトノミアとは、自己学習ー自律・自主という意味だ。1970年代にイタリアを中心として,学校・工場・街頭での自治権の確立を目指して行われた社会運動である。また、スクウォットとは所有者が何らかの理由で不在となり、そのまま放置された建物に人々が勝手に入り込み、占拠し、生活、管理をしている場所のことである。スクウォットの重要性とは、人々が集まり、自分達の文化を生み出すスペースを供給しているという役割だ。バウヒュッテの公共的概念としてのスクウォットは、様々の実践を通じて文化創造と社会的包摂にむけた「家」と「地区」の再構築を目指すインスタレーションである。「家」は社会的共通資本である。国有であろうと、私有であろうと所有者の勝手は許されない。社会的共通資本は、国有か私有という所有を問う概念ではない。社会各層の関与によって策定された制度にのっとって管理・運営される。そしてその管理の在り方は、歴史的な経路の中で、進化していくものなのである。
「アッセンブリー」の転用により出来上がった「家」もまた、一つの「アッセンブリー」に過ぎない。
アッサンブラージュの原点は、「寄せ集めること」と「未完全であること」である。アッセンブリー(部品)を本来とは違った方法で使用することによって、使用者の主体性を回復しようとする試みであり、それは「転用=ずらし(ディトルヌマン)」と呼ばれる。
HECPの"THE REGION"ー「家」と「地区」の再構築とは、都市インフラのような「大芸術」と「家」と「地区」という「小芸術」に二分しつつも、分離した両者を芸術全体へと再融合すべく、日常生活の「小芸術」に足掛かりを求める。高齢者が「小芸術」の在り方を見直し、日常的な暮らしの中で使われてきたアッセンブリーの転用による「用の美」を見出し、活用する日本独自の運動である。用とは共に物心への用である。物心は二相ではなく不二なのである。
「家」と「地区」の再構築は、〝家〟を工芸的側面ではなく、「住まい=Home」という生活の場として捉える。そして、リ・コンシャスの「芸術」のひとつである「小さな家」づくりを「全ての始まり」としている。初発的には日本の各地での「家」と「地区」の形象は、究極的には世界中の多くの、〈無名なる者たち〉〈ささやかなる者たち〉〈負けざる者たち〉が〝自己学習〟により、自足的に家を構えることを理想とするのである。
〝家〟の強みは、それが存在の内部に生きているということ、存在を完全に包囲することができるようになるまで、そのどんな小さな欠片をも自分のものにすることができるということなのである。そして、芸術はいかなる具体的存在も必要とはせず、価値創出のすべての決定に対して、つねに先んじるのが芸術なのだ。
「芸術」とは決して絵の上手な人間の類いを指すのではない。「芸術」とは圧倒的イノベーションの実践者であり、いち早く未来に目を向けて、その予想図を持続可能な社会へと変換する人々を指すのである。