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“わからない”自分とゆっくり付き合う人生

2023.01.20 16:15

(HIROYOSHI/50代)

【ジェンダーフルイドについて】

まず初めに私の自認している性についてお話しします。

私は、ジェンダーフルイドという、自認する性が揺れ動くタイプです。それも、自分がどの性別にいるのか、その瞬間によって違います。「男性」だと思うときもあり、「女性」だと感じるときもあり、「どちらでもない」と思うときもあれば、「わからない」と感じるときもあります。長さも何か月というときもあれば、秒単位で変わるときもあります。

男性だと感じるときには、女性らしい身体の部分を全部取ってしまいたいという衝動に駆られる時もありますし、女性だと思うときは、女性らしい服装を身に着けたいと感じるときもあります。言葉遣いも、瞬時に代わることもありますが、周りの人に違和感を与えないように抑えていることが多いです。その時には、自分を自分らしく表現できないことと、相手のことを、自分の性別を打ち明けるまで信頼していないという後ろめたさを感じ、特に親しくなるにつれ、その思いはだんだんと深くなっていきます。

【“わからない”自分との葛藤】

私は中学生の頃から男装をし始め、高校で地元を離れてからは、周りに対して自分のことを「HIROYOSHI」と呼んでくれるようお願いし、自分のことも「僕」というようになりました。当時の仲間の多くがそれを受け入れてくれて、自分を素直に表現するということができる環境に身を置く喜びを感じていました。しかし、私が自分の性別についてもっとも思い悩んだのも高校生の頃でした。当時は男性、女性の他というと「中性」くらいしか概念がなく、年齢が上がるにつれ、自分自身が「中性」であるというはっきりとした自覚も持てず、ちょうど同じころにキリスト教に触れる機会があり、自分は自分の女性性を否定しているだけなのではないかと考えるようになりました。

そうして、自分の気持ちではなく、社会のとらえ方や考え方を重んじるようになり、「自分の世界が広がるかもしれない」と、好みではない服を受け入れ、卒業してからは、仕事の礼儀として化粧をして働くようになりました。

職場で出会った人と結婚し、子どもも生まれ、子育てをしていくうちに、世の中ではSNSが盛んになり、Facebookで、長年連絡を取り合っていなかった高校時代の友だちと再びつながるようになり、当時よく集まっていた仲間で同窓会を開くことにしました。その同窓会が、再び自分の性別と向き合う機会となりました。みんなの顔を見ていると、自然と「僕」と自分のことを名乗りたくなり、当時の感覚が戻ってきたのです。

そこからしばらく混乱が続きました。自分の女性性を否定していただけだという考えと、そうではなく自分の性別は、自分も気づいていない別の何かなのではないかという思いと、そんな考えはただ自分を都合よく肯定したいだけなのではないかという考えとが、毎日ぐちゃぐちゃとめぐりながら、このままでは頭がおかしくなって、気がついたら死を選んでいるのではないかと思うほど苦しい時期がありました。

そんなとき、Xジェンダーという性自認を知り、その中の「不定性」に自分は該当するのではと思い当たったのです。

そこからは、ゆっくりと自分自身の性と対話して、見つめていく日々でした。

そして、今では冒頭にあったとおり、ジェンダーフルイドがもっとも自分を表現した性自認だと感じています。

【福音派の教会との関係】

自分は、洗礼を受けたのは日本キリスト教団でしたが、結婚してからは、自宅から遠くない福音派の教会に通っていたので、いわゆる福音派の皆さんの感じ方・考え方も知っており、自分も福音派の影響は多大に受けていたので自問自答の日々でした。

その中で、前主任牧師が教会内の講演会で話した「信仰は1つ。神学はたくさんあっていい。自分の神学を持ちなさい」との言葉は、私のその後の信仰生活の中でとても励みになりました。それまで抱いていた福音派の考え方に対する違和感に対しても、違和感を持っている自分を否定するのではなく、違和感をもっていることを認め、自分の中で考えを導き出せるようになりました。

そのような信仰生活を歩む中、教会内で、信徒の歩みをインタビュー形式で人々に伝える働きをされている方々から「インタビューがしたいので、そのためのたたき台となる証を書いてほしい」との依頼があり、その文中で自分が性的マイノリティであることを書いたことがありました。それが教会の方への、初めてのカムアウトでした。

そうしたところ、その働きの中心になられている3名の方から、インタビューの前に一度お話をうかがいたいとのお申し出があり、お会いしました。

おひと方は、「よく打ち明けてくれました!」と感激して、私の存在をそのまま受け入れてくれました。もうひと方は受け入れている心とともに、とても戸惑っているように見えました。

そしてもうひと方は「私はあなたの味方です。」と言いつつも、出てくる言葉の端々に否定的な言葉が入り、「これを今、形にしても、教会の人たちが受け入れてくれるかわからない。なので今回は見送りましょう」とおっしゃりました。

最終的に3名の方が主任牧師と相談して、時期を見て改めて形にするかしないかを決めることになり、その後、半年以上経ちますが、未だお話は上がってきていません。

ただ、このカムアウトにおいて、受け入れてくださった方がいたことは、私にとってとても大きく、それまで抱いていた恐怖心が少し解け、その後、“自分を正直に出して付き合いたい”と思っていた方数名に打ち明けるきっかけとなりました。

今の課題は、つれあいにどう自分の性自認を伝えるかです。娘には早い段階で伝えており、彼女が今の私の最大の理解者なのですが、つれあいはもともととても保守的な考え方をする人なので、未だ勇気が出ずにおります。

相談できる方と話を重ね、いつかは伝えたいと願ってます。