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福井中央キリスト教会 【日本同盟基督教団】

「危険迫る中で」

2023.01.22 07:35
使徒の働き 9章18―31節
18. するとただちに、サウロの目から鱗のような物が落ちて、目が見えるようになった。そこで、彼は立ち上がってバプテスマを受け、
19. 食事をして元気になった。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいて、
20. ただちに諸会堂で、「この方こそ神の子です」とイエスのことを宣べ伝え始めた。
21. これを聞いた人々はみな驚いて言った。「この人はエルサレムで、この名を呼ぶ人たちを滅ぼした者ではないか。ここへやって来たのも、彼らを縛って、祭司長たちのところへ引いて行くためではなかったか。」
22. しかし、サウロはますます力を増し、イエスがキリストであることを証明して、ダマスコに住むユダヤ人たちをうろたえさせた。
23. かなりの日数がたち、ユダヤ人たちはサウロを殺す相談をしたが、
24. 彼らの陰謀はサウロの知るところとなった。彼らはサウロを殺そうと、昼も夜も町の門を見張っていた。
25. そこで、彼の弟子たちは夜の間に彼を連れ出し、籠に乗せて町の城壁伝いにつり降ろした。

26. エルサレムに着いて、サウロは弟子たちの仲間に入ろうと試みたが、みな、彼が弟子であるとは信じず、彼を恐れていた。

27. しかし、バルナバはサウロを引き受けて、使徒たちのところに連れて行き、彼がダマスコへ行く途中で主を見た様子や、主が彼に語られたこと、また彼がダマスコでイエスの名によって大胆に語った様子を彼らに説明した。

28. サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の御名によって大胆に語った。

29. また、ギリシア語を使うユダヤ人たちと語ったり、論じたりしていたが、彼らはサウロを殺そうと狙っていた。

30. それを知った兄弟たちは、彼をカイサリアに連れて下り、タルソへ送り出した。

31. こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地にわたり築き上げられて平安を得た。主を恐れ、聖霊に励まされて前進し続け、信者の数が増えていった。

礼拝メッセージ

2023年1月22日

使徒の働き 9章18―31節

「危険迫る中で」

 

 2020年、コロナが世界中に広まっている頃、隣の教会の牧師からこんなお祈りの課題があげられました。「ある国からこちらに嫁いで来ている教会の婦人が一時帰国していた。でもコロナのために再入国できなくなっている。夫婦が再会できるように祈ってほしい」。今は、海外との往来が再開されていますので、そのご夫婦も一緒に暮らせていると良いのですが。

 私たちは、海外にはめったに行けなくても、日々近い所・遠い所と移動しながら生きています。今朝も、それぞれのご自宅からこちらの教会に出て来られています。

 今日の聖書個所のサウロ後のパウロも各地を転々として行きます。ダマスコからエルサレム、カイサリアからタルソへと。聖書のこの時代は、現代のように便利なカーナビや交通手段はありません。自動車も飛行機や新幹線も無い時代。旅は、私たちが想像もつかないほど大変で危険であったはずです。「すべての道はローマに通ず」とことわざが残っています。ローマ帝国が広大な領土を有していたこの時代、道はそれなりに整備されていたようです。ローマへと向かっていく街道、石畳の立派な道が整備されていました。それでも、そこを一歩一歩、歩いて旅して行かなければなりません。時にパウロは船に乗り、時に長い距離を歩きながらローマ帝国中を旅して行きました。

 サウロは「学問の都」として名高いタルソという大きな町で生まれ育ちました。現在のトルコの右下辺りにあった町です。そのタルソからエルサレムに移り住みます。そこでパリサイ人となるため厳しい学びを受けました。そして、先週のみことばにありましたように、クリスチャンたちが数多く現れると、「この教えは、旧約聖書の教えに反する異端だ!」と決めつけ、クリスチャンを迫害しキリスト教を撲滅させることに執念を燃やすようになっていました。

 エルサレムからダマスコの町まで、逃げて行ったクリスチャンを追い詰め、逮捕するため北上していたサウロに天から光が照らされます。主イエス様ご本人が「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と声をかけてくださいます。サウロは、自分が迫害していたのは本当に神の御子だったのだ!神ご自身だったのだと気付かされます。「もう死んでいる、生きてなんていない…」と考えていたイエス様が、よみがえって、天におられることを知ってしまったのです。イエス様と出会ってしまったのです。キリストを迫害していた立場から、このお方を神の御子=救い主と信じ、このお方を宣べ伝える者になるという、180度人生が変えられる経験をします。

 バプテスマを受けたサウロは20節で、すぐに伝道を始めています。語らずにはおられない。伝えずにはおられないのです。「この方こそ神の子です」と確信をもって語るサウロの言葉を聞いた多くのユダヤ人は戸惑っています。21節を見てみますと、「えっ!あのサウロが、クリスチャン迫害のリーダーであったサウロが何を語っているんだ!?」と大きな驚きが起こっています。22節の終わりには、「ダマスコに住むユダヤ人たちをうろたえさせた」とあり、人々はサウロの姿を見て、あっけに取られてしまったのです。

 続く23節は「かなりの日数がたち」と始まります。これは後にパウロが著したガラテヤ人への手紙1章13節以降を読んでみますと、イエス様と出会い救われたサウロは、その後すぐにアラビアに行って、そこで3年以上の日々を過ごしたことが分かります。

ガラテヤ人への手紙1章13~21節
13 ユダヤ教のうちにあった、かつての私の生き方を、あなたがたはすでに聞いています。私は激しく神の教会を迫害し、それを滅ぼそうとしました。
14 また私は、自分の同胞で同じ世代の多くの人に比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖の伝承に人一倍熱心でした。
15 しかし、母の胎にあるときから私を選び出し、恵みをもって召してくださった神が、
16 異邦人の間に御子の福音を伝えるため、御子を私のうちに啓示することを良しとされたとき、私は血肉に相談することをせず、
17 私より先に使徒となった人たちに会うためにエルサレムに上ることもせず、すぐにアラビアに出て行き、再びダマスコに戻りました。

18 それから三年後に、私はケファを訪ねてエルサレムに上り、彼のもとに十五日間滞在しました。

19 しかし、主の兄弟ヤコブは別として、ほかの使徒たちにはだれにも会いませんでした。

20 神の御前で言いますが、私があなたがたに書いていることに偽りはありません。

21 それから、私はシリアおよびキリキアの地方に行きました。


 このアラビアに滞在していた期間が、使徒の働き9章23節の「かなりの日数」なのでしょう。衝撃的な体験をして救われたサウロは、自らの人生を振り返るために、もう一度学び直すために、そしてイエス様と深く交わり、祈りに集中するために約3年間、アラビアの荒野にまた砂漠に退いて行ったのです。

 その後、再びダマスコに戻って来て、キリストを大胆に力強く証しするサウロに、ダマスコのユダヤ人たちは、激しい怒りと憎しみを燃やします。「サウロ殺害」を陰で企むまで至っています。反キリスト教の人たちから見れば、サウロは「仲間を裏切った」存在でした。「ミイラ捕りがミイラになった」と映ったでしょう。味方と思っていた男が一番の敵となったのです。だから、あいつは抹殺せねばと考えたのです。

 当時の町は、外敵に備えて周りを城壁で囲まれていました。ダマスコの町もそうでした。町から出入りするためには、城壁の間の門を通り抜けなければなりません。サウロを殺害すると決めた人たちは、24時間体制ですべての門のところに見張りを置き、サウロが通るのを今か今かと待ち構えていました。

 サウロは、この後も何度も命の危険にさらされます。キリストを宣べ伝えたがために、人々のねたみや憎しみにあい、命を狙われるのです。主イエス様が9章16節で、アナニヤを通して語られた言葉、「彼がわたしの名のためにどんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示します」が、その通り実現していくのです。

 私たちの人生には、命を狙われるようなサウロのような危険はめったにないでしょう。そんな危険に直面したくはありません。けれども、様々な危険が待ち構えている私たちの人生です。身体は傷付けられなくても、心が傷くことはあります。言葉で攻撃されること、嫌がらせをされることもあるでしょうか…。自分ひとりでは背負いきれない重過ぎる課題やプレッシャーを負わされることあるでしょうか…。深刻な病や痛みと向き合わなければならない時もあり、私たちの家族も社会も、将来どうなるか分からない危険性をはらんでいます。日常生活でも歩いている時、自転車に乗っている時、車に乗っている時、危険も隣り合わせです。

 サウロは私たち以上に、いつも危険と隣り合わせの歩みをしていますが、いつも「不思議」と守られていくのです。彼を伝道者として選び出してくださった主なる神様が、サウロをあらゆる危険から守ってくださるのです。危険や悪しき者の企みからサウロを確実に守ってくださった主の御業を覚えながら、神様の守りの御手の素晴らしさ・確かさを確認していきましょう。サウロと同じように、私たち一人ひとりの人生も確実にご支配くださり、私たちを守っていてくださる神様の素晴らしさに、しっかりと心を向けていきましょう。

 

 三つのポイントで見て行きます。第一にサウロには、三位一体の神=父なる神・御子イエス・キリスト・そして聖霊が味方となってくださっていたという事実です。何よりも力強い、絶対的な味方です。ダマスコにおいて、サウロ殺害の陰謀が企てられましたが、「彼らの陰謀はサウロの知るところとなった」(24節)のです。その後、エルサレムでもサウロ殺害の陰謀が企てられますが、「それを知った兄弟たちは」(30節)と出てきます。「陰謀」ですから、本来は人に知られないように、こっそりと企てた計画のはずです。それなのに、その計画すべてが相手に筒抜けなのです。第Ⅱ列王記6章8節以降で、預言者エリシャは敵の王が寝室で語った言葉までも、知ることができた。敵の計画全てを事前に分かっていたという出来事が記されていますが、まさにそれと同じようだったのでしょう。パウロは後にローマ人への手紙で「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」(ローマ8:31)と語っています。

 全知全能なる神=すべてのことを知っていてくださり、すべてのものの支配者なるお方が、私たちのことを愛していてくださり、私たちのことを心配してくださっているのです。これ以上、素晴らしいことはないでしょう! これ以上、力強いことはないでしょう!

 主イエス様は、私たちに、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」(マタイ28:20)と約束してくださっています。そしてイエス様がともにいてくださることの確かな保証として、私たち一人ひとりの心に聖霊を宿らせてくださいました。ペンテコステの日、使徒たちに与えられた聖霊はイエス様を信じる私たち一人ひとりと、ともにいてくださるお方です。このお方は「助け主」でいてくださいます。絶えず私たちとともにいてくださり、私たちに寄り添い、私たちを慰め、守り、助け、弁護し、とりなし、導いてくださる、素晴らしい御霊が私たち一人ひとりに与えられているのです。この恵みに、もっともっと気付いていきたいと思います。

 先ほど詩篇121篇を交読しました。「私の助けは主から来る。天地を造られたお方から」(2節)。「主は すべてのわざわいからあなたを守り あなたのたましいを守られる。主はあなたを 行くにも帰るにも 今よりとこしえまでも守られる」(7,8節)


 第二に、神様はサウロを守るため多くの信仰の仲間たちを近くに備えてくださいました。アナニヤというダマスコのクリスチャンが、「兄弟サウロ」と親しく呼びかけ、サウロにバプテスマを授け、仲間に迎え入れてくれました。ダマスコのクリスチャンたちは、敵が城壁の門すべてを見張っていたとき、サウロをかごに乗せ、城壁の外に=町の外に下ろして、逃がしてくれたのです。

 ダマスコからエルサレムへ逃げていった際にも、素晴らしい仲間が用意されていました。最初、エルサレムの教会員は、サウロが回心したこと、クリスチャンになったことが信じられず、サウロのことを警戒します。「味方になったフリをして私たちに近づき、私たちが気を許したすきに、逮捕しようと企んでいるのではないか」そのように考えていたのかもしれません。

 でもただ一人、バルナバだけはサウロを受け入れ、ペテロやヨハネなど使徒たちに紹介し、教会の仲間としていったのです。仲間となったエルサレム教会の信徒たちは、サウロのいのちが狙われていると知った時、教会挙げてみなでサウロのカイザリヤ行き、そしてタルソ行きを支援していくのです。

 神様は、私たちにも信仰の友=教会の仲間たちを備えてくださっています。苦しみのさなかにあって、兄弟姉妹がかけてくれた言葉に本当に慰められ、励まされた経験があるのではないでしょうか。背後で祈っていてくれる仲間たちの祈りを感じることがあるではないでしょうか。

 私たちに危険が迫って来る時にも、ともにその危険と向き合ってくれる仲間を、神様は備えてくださるのです。私たちに知恵と力を与えてくれる仲間を。寄り添ってくれる仲間を、神様は私たちに与えてくださいます。主から与えられた信仰の仲間たち、教会の仲間たちを大切にしていきましょう。互いに助け合っていく。互いに分かち合っていく。それがクリスチャンの交わり、教会の交わりです。


 第三に、危険から身を避けるためにサウロ自ら行動する必要がありました。ダマスコからひたすら歩いてエルサレムへ移動しました。次は、エルサレムから地中海沿岸の港町カイサリアへと逃げました。そしてふるさとタルソに一時避難したのです。

 以前紹介しました藤本満先生が書かれた『祈る人びと』という本の中に、こんな文章がありました。

行動派タイプの人が陥りやすい落とし穴は、先に手足が動いてしまうということでしょう。もちろん、行動派もよく考えはしますが、基本的に神により頼むことは、すべて自分で行動したあとで、最後に来るのです。「ちゃんとやりましたから、神様、あとはお願いしますよ」と。けれども、よく祈る人にも、手足を動かさないという欠点があります。神に全面的に信頼していると言って、実際に自分に課せられた責任をなかなか実行しないということです。祈ってさえいれば、いつか海が二つに分かれ、川が二つに分かれるように期待し、実際に行動しない人もいます。しかし、本当の意味で祈る人とは、まず祈り、次に細心の注意を払ってじっくりと考えて行動するのです。祈りは、私たちの第一の行動であるべきです。それが徹底して第一です。しかし、同時に最善の努力を怠ってはならないのです 。

藤本満『祈る人びと』(2005年、いのちのことば社)387,388ページ、「ネヘミヤの祈り」から。


 ご自分はどちらのタイプに近いでしょうか? お祈りするよりも先に気持ちだけあせって、すぐに行動してしまうタイプでしょうか? それとも、「祈っています。委ねています」ということを隠れ蓑にして、神様から与えられた使命=なすべきことを怠ってしまうでしょうか?

神様は、私たちをあらゆる危険から守っていてくださいます。そのために信仰の仲間たち、教会の仲間たちを備えてくださっています。さらに、私たち一人ひとりに、祈って最善をなすこと、祈って最善を求めて行動すること ― 時に危険を回避し、時にそれと向き合っていくこと ― を求めておられるのではないでしょうか。

祈りましょう。


みことばへの応答

Q. 思い出してみましょう。以下、自由にご記入ください。

① これまで神様は、あなたをどのような危険から、どのような方法で助け出してくだましたか?



② 今、直面している危険がありますか? 神様の助けを祈り求めましょう。