いろはきんつばは歌舞伎を守る!
歌舞伎座向かって右側のほうにエスカレーターがあり、降りると木挽町広場があります。
地下鉄の駅もありますので、そこからも直接行けます。
エスカレーターを降りると、こんな世界が広がっています。
ここでは、お弁当からお土産、お菓子、コーヒーショップ、ちょっとしたお食事処、着物、アクセサリーに加えてセブンイレブンまであります。劇場のお客様だけでなく、どなたでも行けます。
右の奥のほうに「いろはきんつば」を売っているお店があります。
いろはきんつばとその他のお菓子です。
登志夫の2002年9月の切抜帳に「歌舞伎座みやげ、いろはきんつば(命名、題字)」として、チラシ(30cm× 40cm)が貼ってあります。早いもので、もう20年も前になります。苦手な筆の字に四苦八苦していたのを思い出します。
4年後の2006年3月号「演劇界」に「いろはきんつば由来」という随筆を書いています。
「歌舞伎座の売店にひしめく実演販売の中に「いろはきんつば」というのがある。甘みを抑えて作るのでごく自然な美味で、観劇しながらも食べられるように一個売りするのもよい。
無論宣伝のつもりなど毛頭ないが、実は私が名付け親なのである。信州飯田で200年続いている老舗の和泉庄という店で、亡父が同郷人としての依頼だった。
きんつばと聞いて、瞬間に思い出したのは、もへじきんつば。松濤に住んでいた五、六歳頃の記憶だ。生きたハチ公の頭を撫でたこともある渋谷駅の近くには甘栗太郎とか「九里四里(栗より)うまい13里」と看板を掲げた焼き芋屋などが並んでいた。もへじきんつばの場所は忘れたが、なぜか名前だけを覚えている。
そこで考えついたのがもへじを「いろは」に替える案。その心はー歌舞伎座だけは座席の列の表示がまだ「いろは、、、」だったからで、それに「もへじ」より格が高い感じだし語呂もいい。さいわい店主も気に入って、そう決まったのである。
と、去年の夏、店主夫人から意外な手紙が届いた。父繁俊がなくなる2年前の昭和40年に書いた古い色紙が出てきたと言う。「和泉庄の栗きんとんは三都にも比類まれなる佳品にてこそ」と書かれている。飯田出の詩人の日夏耿之介か倉沢興世の紹介で栗きんとんを賞味したのではないかとある。日夏さんは、早大で父の懇意の同僚で、倉沢さんは父を頼って書生となったが、関東大震災の時、黙阿弥の遺書や手記が入った古つづらを背負って逃げてくれた人。もしあの時古つづらが消失していたら、私の「作者の家」も「黙阿弥」も書けなかっただろう。倉沢さんは後に彫刻家として名を成した。両氏とも同店の菓子にいくつか名前をつけてくれたという。こんな縁があったことなど、私も今の店主も夢にも知らず、何十年後に私がまた同じ店の菓子の名付け親になろうとは奇縁と言うほかはない。
しかし、今や歌舞伎座の座席も1列2列となった。時代の流れには逆らえない。だが、「いろはきんつば」の名はもう一人歩きしているし、いろはを最後まで固守した歌舞伎座の伝統への心を、思いおこすよすがになるかもしれない。」
(2007年刊「背中の背中」(小学館スクエア)に所収)
下は同店のしおりで、きんつばの歴史が書かれていて興味深いです。京都清水坂で生まれ、銀つばと呼ばれたお菓子が、3 、40年後に江戸に伝わり金つばと呼ばれ出世したのは、上方は銀遣い江戸は金遣いだったから、金の方が通りが良かったのだろうと言う説が面白い。江戸時代の貨幣制度が上方は銀貨、江戸は金貨で精算していたからですね。著者の駒敏郎氏が飯田へ来て「大きんつば」をおいしいので苦もなく平らげたと言うのがなんだか楽しい。
ところで、小倉和夫氏はフランス大使を始めとして外交官をつとめ、国際交流基金理事長など、多方面に活躍なさっています。外交関係のたくさんの著書のほかに、こんな楽しい本も出されています。
小倉氏が信濃毎日新聞(2006年3月)に「歌舞伎のお菓子」を書かれています。