五感で六感を抱きしめる
内側に何通りもの自分がいるくせに、飽き性のくせに、結局のところ本当に好きなものはほとんど変わらない。のが、わたしだな、と思う。
基本的には、化粧品も、服も、香水も、ずっとずっと同じものを使っている。しっくりこなくて次々と変えてしまうものもあるけれど、それはそのジャンルにおいて、これだ、と運命を感じるような本物に出会っていないだけで、出会う前提で彷徨い、探しているのだと思う。
同じものを使う理由も情で捨てられないのではない。毎回ときめきを感じていて、使うたびに心がしゃんとする。この瞬間が深いため息をついてしまうほどに嬉しい。
人にも動物にもそうで、一日経ったら昨日とはもうまるで '別物' くらいに考えているため、(色々と寝たらリセットされる)(わたしの長所は、何事も引きずらない)、毎朝毎晩、新鮮に大好きでしかたない。
寝ている猫に「目瞑ってるお顔、可愛い〜〜〜」といって起きてしまうくらい顔をフニフニするし、ご飯を食べている猫に「小さい歯で、ちゃんと噛んでるの愛おしい〜〜〜」といって後ろから眺めている。また、外に出たくて鳴いてくる猫に「わざわざお風呂にいるわたしの場所を突き止めて、訴えかけてくるの、すごい〜〜〜」といって本気で関心している。
本当の好きには飽きはこない。
物が壊れても、形が壊れても、肉体が壊れても、本当の好きは終わりを知らない。言いかたを変えれば終われない。そもそも始まってもない。なぜなら、出会ったその日から、「もう始まっていた」「知っている」という不思議な感覚に陥るほど、自分のなかにあるのが自然なのだ。
今、わたしたちのなかにある、肉眼では見たこともない臓器が知らぬ間に在りつづけているように。始まったのではなく、あったのだ。あるという事実に気づいた瞬間に、わたしたちは始まりを錯覚するのだ。
本質は、きっと目には見えないところでしか存在しえない。そう思う。三次元のすべては、心のなかであふれ、こぼれ落ちたものの余韻に過ぎない。
時代の流行り、周囲の人気、一般常識の範囲内、で、選んだり、年齢、状況、環境、あたりでの、タイミングの一致かなんかで手に入れたものであれば、「好き」という魂が響いているというよりも、「好き」以外に響いているからこそ、必要に応じてまた卒業を迎えたりもする。
一番分かりやすい例えは、学校。全員が全員、ときめく仲間ではない。むしろ、友情であっても魂がときめく相手が一人もいない、なんていうのがほとんどではないだろうか。
タイミングの一致によって集まった、ある意味で、’卒業の美しさ’を知る間柄でもある、いっときの学び合う者たち。 わたしはこの寂しさという痛みを背負った美しさが嫌いじゃない。
もう肉体が壊れた祖父や猫たちは目に見える三次元にはいないけれど、わたしの心には変わらずに存在している。 そして今でも、愛を、癒しを、感じている。
この三次元で五感をもって触れ合っていた頃とそこまで大きな差はない。ただ、本当に大きな差ではないけれど、やっぱり、五感をもってして感じられるなんて涙がでるほど嬉しいのだ。
ゆっくり呼吸をすることが、こんなにも気持ちがいい。愛している存在の頭や顔を指でなぞり、撫でることが、こんなにも愛おしい。「好きだ」と相手に向かって伝えることが、こんなにも恥ずかしい。けれど、素直に表現できたことが、こんなにも誇らしい。
与えられた、無限のなかにある有限の世界、贅沢な奇跡の時間を、生まれて初めて出逢ったあの日のような新鮮な気持ちで、今日も明日も、抱きしめていく。