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練馬区 12 (23/01/23) 上板橋村 - 小竹町/旭丘

2023.01.24 13:40

旧上板橋村 小竹町 (こたけちょう)

旭丘


今日は今回の東京滞在で史跡巡りの最終日となる。今回は二週間の滞在雨の日が多く外出出来ない日もあったので、7日間を練馬区巡り、1日を港区の坂道巡りに費やした。

今日は旧上板橋村の小竹町と旭丘、更に他の地域の見落としていた史跡を巡る。



旧上板橋村 

板橋は平安時代から交通の要所で、源頼朝は1180年 (治承4年) に下総から武蔵に入ったとき、板橋で陣をとったとされている。奥州平泉で育った義経も、兄頼朝が平氏討伐の挙兵をした際に川口から板橋を経て武蔵府中へ向かったと言われている。江戸時代はじめに板橋は、ー上板橋村と下板橋村に分かれた。上板橋村には小竹、江古田、向原、小山、毛呂 (もろ)、根ノ上 (ねのかみ) など11の小名があった。

1932年 (昭和7年) に東京市域拡張により板橋区が誕生した際には板橋区に属し、それぞれは小竹町、江古田町となっている。1944年 (昭和19年) に板橋区に練馬支所ができ、小竹町と江古田町(現旭丘)は練馬支所管内となった。1947年 (昭和22年) に、練馬区が板橋区から分離独立したとき、両町は練馬区に移管された。練馬区にならなかった旧上板橋村の小名の小山、毛呂 (茂呂)、根ノ上は合併し小茂根 (こもね 板橋区) となり、向原は小竹向原となっている。1960年 (昭和35年)、小竹町は旭丘に一部を移管し、地番整理を行い江古田町は旭丘一丁目と二丁目、小竹町は小竹町一丁目と二丁目となっている。

1922年 (大正11年) に武蔵野鉄道の江古田駅が開業した後は沿線沿いは戦前までには住宅街になっている。1960年代には住宅街は拡張し、ほぼ前期期までに広がっている。

小竹町の人口は入手できた人口データの1956年以前に既に増加している。高度成長期の前半は人口増加がみられるが、後半は人口増加が鈍化している。それ以降は徐々に人口が減少していたが、2010年以降は微増に転じている。現在は横ばい傾向にある。世帯あたり人数は.7人と低くなっている。

旭丘の人口は練馬区の中では、1956年と比較して減少している少ない地区のひとつになっている。高度成長期の1969年が人口のピークで約9,900人だったが現在は約7,300人と26%も減少となっている。


まちづくり情報誌「こもれび」- 江古田

 


小竹町・旭丘訪問ログ



小竹町 (こたけちょう)

小竹町は北部を板橋区小茂根、南部を同区旭丘、東部を板橋区向原、西部を板橋区区羽沢、栄町と接している。江戸時代には上板橋村に属し小竹村だった。コタケともヲタケとも呼ばれていた。タケは高い所や崖を表した岳で、この辺りは起伏の多い所で、台地上に集落が、低地に水田が営まれていたことからの地名とも考えられている。二代将軍秀忠の庶子の保科正之 (会津23万石 ) の生母お静の方はこの小竹村の大工の娘といわれ、小竹村の娘が将軍の寵愛をうけていたのかも知れない。1932年 (昭和7年) に東京市域拡張により板橋区が誕生した際に小竹町となり、1947年 (昭和22年) に練馬区が板橋区から分離独立した際には、江古田町 (現旭丘) とともに練馬区に移管されている。1960年 (昭和35年)、小竹町は旭丘に一部を移管し、地番整理を行い小竹町一丁目と二丁目となっている。


練馬区史 歴史編に記載されている小竹町内の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り

  • 仏教寺院: なし
  • 神社: 江古田浅間神社、八雲神社
  • 庚申塔: 5基  馬頭観音: なし


江古田駅周辺から小竹町の史跡を巡っていく。


江古田浅間神社

賑やかな江古田駅前には木花佐久夜姫命を祀る富士信仰の神社の江古田浅間神社がある。創立年代は931年 (承平元年) と伝わり、平安時代まで遡るが、はっきりとはしていない。新編武蔵風土記稿によると富士浅間社とされ、別当寺は旭丘の真言宗豊山派能満寺と記されている。また、境内の茅原浅間神社(かやはらせんげんじんじゃ) とも呼ばれていた。この神社には伝承が残っている。

昔、小竹町と江古田町の人々がこの神社の所有をめぐって争ったところ、夏にもかかわらず雪が降る天変地異が起きた。これに驚いた双方は争いをやめ、共有の氏神として祀ることにし争いを収めた。

境内の奥に社殿があり、次から次へと参拝者が訪れていた。

社殿と社務所の間の道を進むと、拝殿後方に江古田富士と呼ばれている富士塚がある。日本各地にある浅間神社は富士山信仰の神社で、関東には多くあり、浅間神社や各所に富士山を模した富士塚が築かれている。山岳信仰者は富士講などを組織して、富士山への登山が御利益があると考えられ、江戸時代にはブームとなっていた。この富士山登拝は宗教的意味だけでなく当時の観光旅行でもあった。富士山登拝ができない人達は富士塚に登ることで同様の御利益が得られると考えられていた。この江古田浅間神社にも江戸時代後期に、下練馬村、中新井村、中村の各講で構成される富士講の一派の小竹丸祓講 (こたけまるはらいこう) によって築造されたと伝わっている。高さ約8m、直径約30mで、富士山を模して溶岩を配置している。関東大震災の時に損壊したが、復旧されたものが現在の富士塚になる。都区内の富士塚の中でも規模は大きく、国の重要有形民俗文化財に指定されている。この富士塚への登山は7月1日の山開き、正月三ヶ日、9月の例祭の時だけ、一般登拝ができ、今日は立ち入り禁止日だった。頂上には唐破風屋根のついた石祠は、1839年 (天保10年) に造立されたもので、他に経ヶ嶽、太郎坊、小御嶽神社の石碑や大天狗、小天狗・神猿などの石像もあるそうだ。


武蔵ヶ原古戦場碑

江古田浅間神社の西側に路地がありそこを進むと錦花学院の校門に突き当たった。校門を入った所は近くの団地の駐車場なので開放されている。この駐車場の真ん中に大木を囲った鉄柵がある。その中に武蔵ヶ原古戦場碑がある。この古戦場碑がいつ、銭湯に参加したものが誰なのか一切情報がない。この近くでは、豊島氏と太田道灌との戦いが1477年4月にあるがその一連のものか、1333年 (元弘3年) の新田義貞軍と鎌倉幕府軍の戦いに関連したものだろうか?今後の宿題とする。


稲荷小祠

江古田駅から東に進んだ住宅街の一画に祠が置かれていた。Google Mapでは稲荷小祠となっている。この祠については情報が見つからなかった。元々は木に場所の北側のマンションあたりにあったのだが、ここに移設されている。邸内社だったのかも知れない。


つげの木の庚申 (5番、6番、7番、8番、9番)

稲荷小祠から更に道を東に進むと坂道の道沿いの空き地の中に、幾つもの石塔が置かれている。板橋区向原との境あたりになる。かつての村道筋で向原から西へ向かい谷を下りきると小竹に入る。つげの木庚申と呼ばれている。庚申塔が合計5基置かれている。江戸時代ここに在った可能性が高い庚申塔群だそうだ。

  • 右端には1698年 (元禄11年) の唐破風笠付角柱型の庚申塔 (9番) が置かれ、正面には「奉寄進庚供養」文字とその下には三猿が刻まれている。
  • その隣には1680年 (延宝8年) 造立の舟形の石塔に地蔵菩薩立像が、その足元には三猿が浮き彫りされている。右脇には「奉造立庚申供養二世安樂所」と刻まれているので庚申塔 (5番) になる。練馬区では地蔵菩薩像の庚申塔は三体しか登録されておらず、その希少なタイプの一つになる。この地蔵菩薩像の庚申塔は江戸時代初期に多く作られている。
  • 真ん中の庚申塔 (7番) は1772年 (明和9年) 造立で唐破風笠付角柱型になっており、正面には日月雲 邪鬼を踏みつけた合掌型六臂青面金剛立像が浮き彫りされている。青面金剛の横には二鶏、下には三猿も刻まれている。
  • その隣、左から二つ目の庚申塔 (6番) は江戸時代初期の1673年 (寛文13年) の造立のもので、板碑型の三猿庚申塔となっている。ここなる庚申塔の中では最も古いものだ。
  • 左端には1717年 (享保2年) の駒型庚申塔 (8番) で、塔正面には日月雲 邪鬼を踏みつけた合掌型六臂青面金剛立像、足の両脇に二鶏、下部には三猿が浮き彫りされている。

八雲神社

つげの木の庚申の北側、小竹向原駅の西側に

小竹町の氏神となっている八雲神社がある。この神社の詳細は不明だが、江戸時代の初め頃、この地の厄除、魔除、農業の守り神として、氷川神社の分霊を勧請して宝蔵院境内に創建されたと伝わっている。明治10年に現在地に移転している。祭神として素戔嗚尊 (須佐之男命) を祀り、除災招福、病気平癒の御利益があるとされている。

初詣の甘酒配布、節分祭の餅つき大会、2年に1度の大祭など、行事を開催している。


小竹町と隣の旭丘も江古田駅に接しているので、小竹町の史跡巡りに旭丘の史跡も併せて巡っている。


旧上板橋村 旭丘 (あさひがおか)

旭丘は練馬区東部に位置し、北部を小竹町、南部を中野区江原町、東部を豊島区長崎、南長崎、千早、西部を豊島区区栄町、豊玉上、豊玉北と接している。旭丘は西武池袋線江古田駅周辺で、地域内には日本大学芸術学部、域外近くには武蔵大学、武蔵音楽大学、武蔵高等学校/中学校、錦花学院、第四商業高校、豊島高校があり学生の街で、江古田駅周辺には商店街もあり大いに賑わっている。都心に近い事で、町の発展も練馬区では最も早く、商店数も人口密度も区内屈指だそうだ。 現在は練馬区旭丘となっているが、江戸時代には上板橋村字江古田といって、多摩郡江古田村の新田でだった。地名の起こりは諸説あり、荏ごまの栽培をしていたからとか、エゴの木が生えていたからといわれる。地形的には谷などの水の流れ込んだ所を方言でエゴという。1932年 (昭和7年) に板橋区ができて以来、江古田町と呼ばれていた。1944年 (昭和19年) に板橋区に練馬支所ができ、小竹町と江古田町 (現旭丘) は練馬支所管内となった。1947年 (昭和22年) に板橋区から練馬区が独立の際に練馬区に編入された。1960年 (昭和35年) の地番整理の際に、それまで江古田町は、中野区江古田と間違われることが非常に多かったため、住民投票で地元小学校 (旭丘小学校、旧上板橋第三小学校) の名にあやかって旭丘と町名が改められ、旭丘一丁目と二丁目となって現在に至っている。


練馬区史 歴史編に記載されている旭丘内の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り

  • 仏教寺院: 能満寺
  • 神社: 穴守稲荷、子育稲荷 (消滅、移設?)
  • 庚申塔: 4基  馬頭観音: なし


穴守稲荷

かつて千川上水が引かれていたルートは千川通りとなっている。この千川通りに面して鳥居があり、参道が伸びている。この奥に神社拝殿があるのだろうと思っていたが、一般的な拝殿ではなく、参道と思った道沿いに普通の建物の一階が旭丘穴守稲荷神社となって祭神 の豊受姫命 (とようけひめのみこと)、宇迦之御魂神 (うかのみたまのかみ) を祀っている。2階は旭丘東町会の事務所だそうだ。建物前に鳥居があるので神社とわかるが、無ければただの民家としか見えない。創建年代等は不詳だが、明治~大正年間にかけて町内会・商店会の商売繁昌を願って羽田の穴森稲荷から勧請したのではと思われる。近隣住民の商売の神様とされ、昔は竜田稲荷と呼ばれていたそうだ。


子育稲荷 (消滅、移設?)

このすぐ近くに子育稲荷が地図には示されているのだが、探すも見つからない。後で調べると、どうも2014年頃になくなってしまった様だ。以前は、千川上水の堤の上桜並木の間にあったがそうで、赤ん坊の夜泣きにご利益があるという、夜泣きがおさまると、お礼に油揚げをあげたという。下の写真はありし日の子育稲荷。(左:2011年、白黒: 1980年)


能満寺

穴森稲荷から西武池袋線を渡った北に真言宗豊山派寺院で本尊を不動明王とする夏雪山広原院能満寺現がある。豊島八十八ヶ所霊場61番札所にもなっている。創建は不詳だが、元和年間(1615~1623) に僧源心 (承応2年1653年没) が創建したと伝えられている。寺の縁起によると、昔、夏に雪が降って美しい景色の地があると聞いた源心僧都が、武蔵野に来て、村民のために仏教を説き、村民より篤く信望を得た。そこで堂宇を創建し、不動明王を安置して本尊とし、名づけて夏雪山能満寺としたとある。その後、火災にあい、庫裡の一部を焼失したが、1786年 (天明6年)、11世の克龍が庫裡 (くり) を再建し、あわせて大日堂も造営している。明治初期の廃仏毀釈の頃には無住の時代もあり、この期間に文書類などが失われてしまい、寺の詳細がわからなくなってしまった。ここは1947年 (昭和22年) まで板橋区だったこともあり、板橋七福神の寿老人が安置されている。


山門を入ると参道が本堂へ伸びている。境内は落ち着いた雰囲気で、他の寺院境内によく見られる多くの仏像や燈籠で埋め尽くされてなく、シンプルで一ヶ所に燈籠、板碑、塔が置かれているだけ。その中に宝篋印塔。造立年は1718年 (享保3年) 造立の笠付角柱型の宝篋印塔 (写真中央の右側の塔) があり、宝篋印陀羅尼経が梵字で刻まれている。燈籠を挟んである板碑は自然石で造られた二十三夜塔がある。月を拝む民間信仰で、月待行事が十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜の際に祭事が行われて、それぞれの月待塔が作られている。ここにあるのは、そのうちの二十三夜の供養塔にあたり、陰暦23日の夜に講中が集まり、勢至菩薩の掛軸を拝しつつ、飲食をし祈願をしていた。

参道を進み、竹塀を入ると本堂 (写真上) がある。現在の本殿は2003年 (平成15年) に建て替えられたもの。境内には本堂以外に建物が二つあるのだが、何なのかは載っていなかった。古いものは大師堂ではないかと思う。もう一つは庫裡に繋がっているようなので受付の建屋の様な感じがする。


庚申塔 (4番)

参道の入口の左手に数基の石仏が並んでいる。左の二体の地蔵菩薩立像は六地蔵のうちの二体と言われている。中央の背の高い地蔵菩薩立像は1731年 (享保16年) 造立されたもの。その隣にあるのは駒型の庚申塔 (4番) で1728年 (享保13年) の造立され、塔の正面には日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が浮き彫りされ、側面には「奉造立青面金剛尊講中」「八人現當諸願如意満足所」「ビリ豊嶋郡上板橋村」と刻まれている。


千川地蔵

隣にある小堂には千川地蔵 (延命地蔵) が置かれている。造立年等の詳細は不明だが1925年 (大正14年) に千川上水の暗渠工事の際に上水から拾い上げられ、1952年 (昭和27年) にこの能満寺に移されたそうだ。


六地蔵

境内奥は墓所となっている。

墓地の入り口付近は六地蔵が置かれている。新しく作られた様だ。


庚申塔 (1番、3番)

六地蔵近くには古い石仏や地蔵が移設されている。向かって左側に二基の石仏がある。地蔵尊と思えるのだが、資料では庚申塔だそうだ。舟形光背型の美しい石仏が並んでいた。

  • 左側は1697年 (元禄10年) 造立の舟形光背の庚申塔 (3番) で地蔵菩薩立像が浮き彫りされている。右脇に「奉新造立庚申供養二世安樂祈所」と刻まれているので、確かに庚申供養塔だ。左脇には造立年月日。その下に武州豊嶋郡上板橋村能滿寺。足元には本願とあり10名の名前が刻まれていた。
  • 右側のものも庚申塔 (1番) で、1676年 (延宝4年) 造立され、舟形光背型の塔に地蔵菩薩立像が浮き彫りされている。右脇「奉新造庚申供養二世安樂処」とあるのでこれも庚申塔だ。


庚申塔 (2番)

その隣の小堂の中には三基の石仏が祀られている。左側のものは合掌型六臂青面金剛立像が浮き彫りされているので庚申塔 (2番) とわかる。1725年 (享保10年) に作られた駒型の石塔で像の上には日月雲、下には邪鬼と三猿も浮き彫りされている。右脇には「奉造立供養青面金剛尊為講中二世安樂」と刻まれている。その隣には2体の地蔵菩薩立像がある。赤いマントの地蔵は1716年 (享保元年) に作られたもので道しるべ地蔵と呼ばれているので道しるべになっていたのだろう。元々は江古田駅南にあったそうだ。黄色マントの地蔵は造立年月日は刻まれておらず不詳。向きかえ地蔵と呼ばれている。


これで今回の東京での史跡巡りは終了。明日は一日、娘との時間に使い。1月25日に沖縄に帰る。25日当日、フライトは国内線なのだが国際線ターミナルからの出発で、ここ二年間閉鎖状態だった国際線も人が増え始め、ようやく新型コロナも落ち着いてきているようだ。


参考文献

  • 練馬を往く (1983 練馬区教育委員会)
  • 練馬区史跡散歩 (1993 江幡潤)
  • 練馬区の文化財 指定文化財編 (2016 練馬区地域文化部)
  • 練馬区史 歴史編 (1982 練馬区)
  • 練馬区史 現勢編 (1981 練馬区)
  • 練馬の寺院 三訂版 [郷土史シリーズ 3-4] (2004 練馬区教育委員会)
  • 練馬の神社 三訂版 [郷土史シリーズ 5] (2006 練馬区教育委員会生涯学習部)