HISTORY YAMAHA
メーカー・ヒストリー
YAMAHA
■楽器屋の造ったオートバイ
我が国を代表する楽器メーカー、日本楽器がヤマハ発動機の母体だったことは今日、よく知られている。その日本楽器は、紀州徳川藩士の山葉寅楠(やまは・とらくす)によって、明治初期に創立された。ヤマハ(株)と社名を変更した今日でも、ピアノに代表されるヤマハの楽器は、業界のトップブランドとして世界中で愛用されている。
楽器作りには良質な木材が必要とされる。そのため、日本楽器は、天竜川の河口に位置し、木材の集積地として栄えた浜松に本拠をかまえることになった。この木材の加工技術が、先の戦争では、軍用機のプロペラを製作するのに役立てられたのだから、運命とは皮肉なものである。平和の象徴ともいえる楽器を生み出していた工場は、一転して軍需産業への転身を余儀なくされたのだ。
ともあれ、日本楽器の高度な木工技術によって、木製プロペラの生産は開始されることになった。やがて飛行機の進歩にともない、プロペラは金属製へと変わっていく。こうした過程で、日本楽器の金属加工技術は飛躍的に向上することになった。開戦当時には、軍用機のプロペラの実に60パーセントが、日本楽器製だったといわれている。
しかし、戦時中の日本楽器は、米軍の格好の爆撃目標となった。そして、次々と主要工場を焼失することになった。こうしたなかで唯一、天竜市に疎開していた佐久良工場だけが戦火を逃れることになった。だが、その工場も戦後に進駐してきたGHQによって接収され、伝統ある日本楽器は存亡の危機に立たされることになった。
この佐久良工場の接収が解除された昭和27年になって、やっと日本楽器は再建の道を歩むことになったのである。しかし、戦後の国内にピアノの需要があろうはずがなかった。そこで当時の社長、川上源一は、返還された機械類を使って、多くの需要が見込まれたオートバイ生産を決断したのだった。日本楽器は、浜松だけでも40数社が存在したといわれる乱立期の2輪業界へ、後発メーカーの不利を承知で参入することになったのである。
■ヤマハ発動機の発足
日本楽器のオートバイ生産は、実績のある外国製品の模倣からスタートした。しかし、手本とすべきモデルの選定は二転三転した。そうした状況を見兼ねた川上源一は“慎重とは急ぐことなり”と発言。それを期に、日本楽器のオートバイ計画は、急速に具体化することになった。そして昭和29年6月28日、ようやくDKWの125ccモデル(RT125) に目標が絞られることが決定された。
だが、いったん車種が決まった後の開発スピードには、たとえコピー車といえども目を見張るものがあった。わずか2か月あまり後の8月31日には、試作車が完成、さっそく開始された走行テストには、社長自らが参加したといわれている。それだけ、日本楽器のオートバイ事業への期待は大きかったのだ。
突貫作業で完成した2サイクル125ccのオートバイは「YA1」と命名されて、同年10月12日に東京で発表されることになった。しかし、量産態勢が整備されるまでにはまだ、しばらく時間が必要だった。翌30年1月1日の浜名工場の完成をまって、日本楽器のオートバイ事業は、本格的に稼働することになったのである。そして同年7月1日、ついにヤマハ発動機が日本楽器から分離独立して、名実ともにヤマハは、オートバイ・メーカーの仲間入りを果たすことになった。とはいっても、当時のヤマハ発動機の従業員は、わずか100名足らず、工場は木造平屋建、というつつましやかな旅立ちであった。
発売間もないYA1は当時、最大級のレースだった第3回富士登山レースに参加、ホンダをはじめとする並み居る強豪を相手に、見事に勝利を飾ったのである。勢いにのったヤマハはその後、浅間火山レースにもYA1を投入して、ここでも再びライバル・メーカーを退けることになった。この2大レースの勝利によって、楽器屋の作ったオートバイの名声は、広く一般に知られることになった。翌31年に175ccの「YC1」をラインナップに加えたヤマハは、その後も大レースで連勝を重ねることによって、自社製品の優秀さを大いにアピールしていったのである。
■2サイクル・ツインの登場
昭和31年1月、日本楽器の敷地内に浜松研究所が設立され、オートバイの設計/開発部門が一箇所に統合されることになった。YA1の開発で2サイクルの技術に自信を得たヤマハは、この研究所で250cc2気筒エンジンの開発を急いだ。この2気筒モデルは当初、ドイツのアドラーMB250を手本に開発されることになっていた。しかし、車体設計グループは、ヤマハのオリジナル・デザインを頑なに主張した。その熱意が通じて、次期250ccモデルは、まったくの白紙から設計されることになったのである。「YD1」は、こうしたヤマハのデザイナーの情熱が、ストレートに表現されたオートバイだった。昭和32年 2月に発表されたYD1は“ダイナミック・デザイン”と呼ばれた斬新なデザインが評判となった。
しかし、同年3月に発売されたYD1は、重大なトラブルを抱えていたのである。初めて挑戦した2気筒エンジンは、そのクランクシャフトに欠陥が発見されたのだ。このトラブルは、個々に対応できるという範囲のものではなかった。そこでヤマハは、改良型エンジンが完成しだい支店に送って、欠陥エンジンとアッセンブリー交換することになった。こうした回収、交換作業には、莫大な経費と労力が費やされた。しかし、徹底した対応策が功を奏して、ヤマハはユーザーの信頼をつなぎ止めることに成功したのだった。
秋には、恒例の浅間火山レースが開催された。ヤマハは、YD1のエンジンをチューンしてパイプフレームに搭載した250ccクラスのレーサーを、このレースに送り込んだ。そして2サイクル・レーサーは軽量を利して、このレースに圧勝したのだった。このレーサーのベースとなった「250S」はレース後、昭和35年に「YDS1」と名称を変更して、発売に移されることになった。前後してデビューしたホンダのCB72とともに、YDS1は、我が国のロードスポーツ・ブームの口火を切ったのである。
■再起を懸けたレース復帰
YDS1によってロードスポーツ市場の開拓に成功したヤマハは、順調に売上げを伸ばしていった。神武、岩戸景気といった好況が続く国内に向けて、ヤマハはこの時期、次々とニューモデルを送り出した。
しかし、スクーターの「SC1」、モペットの「MF1」といった意欲作が、凝り過ぎメカニズムが災いして、まったくの不評をかうことになった。このため、東証一部に上場されていたヤマハの株価は一転して大暴落、ついには無配という創業以来の危機に見舞われることになったのである。そこで、日本楽器は再建役として、小池久雄をヤマハに送り込んだ。小池取締役はまず、弱体化した国内の販売網に大ナタを振るい、他資本の販売店制度を見直して、ヤマハ自身の資本による営業所と販売会社を開設した。こうした流通段階のシンプル化によって、ヤマハは消費者のニーズに敏感に対応できるようになった。また一方では、中断していたレース活動の再開を決断した。こうして、レースによって培われたヤマハの技術は、新たなチャレンジを開始することになったのである。久々のレース復帰に向けて、ヤマハの社内は活気を取り戻していた。営業部門ではライダーの育成が急がれ、技術部門はレーサーの開発に全力を注いだ。
こうして完成したのが、赤タンクの「TD1」型250ccレーサーだった。YDSをベースに開発されたこのレーサーはその後、連綿と登場するヤマハの市販レーサーの先駆けとなった。鈴鹿サーキットのオープニング・レースとなった第一回全日本ロードレース大会に出場したTD1は、ライバルの本拠地で見事なデビューウィンを飾ったのである。威信回復をかけたヤマハにとって、この日の勝利は意義のある1勝であった。
海外のGPレースにも駒を進めたヤマハはその後、多くのタイトルを手中にして、世界中にヤマハの存在をアピールした。また、こうしたレーサーの開発過程では、多くの新技術が開発されることになった。2サイクル・エンジンに革命をもたらした分離給油システム“ヤマハオートルーブ”も、もとをただせばGPレーサーの技術であった。この新機構はさっそく、市販車の「YA6」、「YG1D」にフィードバックされ、大反響を巻き起こすことになった。
■新たなジャンルの開拓
だが、再建の道は容易ではなかった。一時は13パーセントあった国内シェアは、3パーセントにまで落ち込んでいた。そこで、起死回生を期して、ヤマハは海外市場に活路を見出すことになった。そのためまず、現地の生きた情報が収拾されることになった。また、量産設備の充実もはかられ、新たに磐田工場が建設された。余談になるが、この磐田工場の初仕事となったのが、トヨタの委託をうけたトヨタ2000GTの生産だった。
こうした努力はやがて実を結び、ヤマハの輸出は急速に増加していった。そして、海外のユーザーの要求に応えて、ヤマハは新たな商品展開の必要に迫られることになった。その結果、従来の国内仕様とは、一線を画したユニークなオートバイが続々と誕生することになった。その先駆けとなったのが、デュアルパーパス・モデルの「DT1」であった。オフもオンも難無くこなせるこのオートバイは、アメリカ市場のユーザーのニーズに見事に応え、内外でヒット作となった。このDT1のデビューをきっかけにして、ヤマハは、他社に先駆けてオフロード・モデルの充実をはかっていったのである。
一方、アメリカの現地法人“ヤマハインターナショナル”からは、大型モデルの要望が日増しに強まっていた。当時のアメリカでのビッグバイク市場は、英国のトライアンフが人気を独占していたのだ。そこでヤマハは、4サイクルのバーチカル・ツインを搭載した「XS1」を開発して、アメリカ市場に送り出した。OHCヘッドを奢られたXS1は、OHVという旧態依然としたメカニズムのトライアンフを軽く凌駕するオートバイであった。しかし、実際にXS1を待ち受けていたのはボンネビルではなかった。ホンダのCB750をはじめとする国産メーカーの最新型ビッグバイクがすでに、アメリカ市場を席巻していたのだ。2サイクルの技術ではトップランナーだったヤマハは、アメリカでブームとなった4サイクル路線には、立ち遅れることになったのである。その後もヤマハは4サイクル・モデルを開発したが、ロードスポーツの分野では苦戦を強いられることになった。 しかし、ヤマハの需要創造への努力は止まることがなかった。その一環として登場したのが、いわゆるソフトバイクであった。この原付バイクの国内需要は、驚異的な伸びをみせることになった。昭和48年に「ヤマハチャッピー」をいち早く発売したヤマハは、昭和52年に発表した「ヤマハパッソル」で爆発的な人気を博し、ソフトバイク市場をリードすることになったのである。