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練馬区 11 (22/01/23) 中新井村 - 豊玉北/豊玉中/豊玉南

2023.01.24 04:38

中新井村 

豊玉上

豊玉北

豊玉中

豊玉南



中新井村 (現 豊玉)

豊玉の前身の中新井村は1559年 (永禄2年) の北条氏記録の小田原衆所領役帳に江戸廻中新居として現れている。江戸時代は中荒井村と呼ばれ、新井とも新居とも書かれていた。「新井」は中世に新しく開墾して人の住む所である事が多く、中新井村誌は村名の由来を「新居の中の村」と解釈している。また、隣村であった中村の開村は、中新井村よりもさらに古いので、中村の中か、中村の新居 (新開墾地) という意味で呼ばれた地名とも推測されている。

江戸時代の新編武蔵風土記稿には中荒井村の小名として本村 (ほんむら)、徳田 (とくでん)、神明ケ谷戸 (しんめいがやと)、原、北荒井、中通(なかどおり) の6つがあったと記載している。

  • 本村が最初に開墾がなされた地で、後に村の中心となっている。現在の豊玉南2丁目の氷川神社を中心とする一帯で、南方に中新井川沿いに水田が広がっていた。
  • 徳田は江古田村との境で、この辺りにむかし検地を免れ得をした田があったのが名の由来だという。
  • 神明ケ谷戸は神明社があった事から、明治以降に社も地名も消滅して、明確な場所は判らないが、村の西南部と見られている。
  • 原は一般に広くて平らなところを指し、村の西北部にあたり、中村の小字の原と接している。
  • 北荒井は武蔵大学付近で、 北新井公園にその名が残っている。
  • 中通は下新街 (しもしんがい、現在の豊玉北4・5丁目、豊玉上2丁目の一部) から沼袋へ通じるバス通りにあたり、昔は新井薬師への参詣道であった。

明治になって中新井村となる。明治初年の地租改正時の小字は13あり、中に弁天、於林 (おはやし)、新街 (しんがい) などの地名がある。明治になって中新井村となる。明治9年に豊玉小学校が南蔵院を借りて開校し、学区は北豊島郡の中新井、中村、谷原などと東多摩郡の鷺宮、江古田など広い区域だった。校名は北豊島郡と東多摩郡の名をとって豊玉と命名された。一時はホウギョクと音読みしたこともある。当時の公立学校の経費は村の負担で、運営は苦しかった。村では荒れた官有沼地を開墾耕作して、収穫は学校費用の一部にあてた。田んぼは学田 (まなびた) といわれた。現在の学田 (がくでん) 公園付近だった。

  • 弁天は今の市杵島神社のこと。
  • 於林は江戸幕府の官林があって、 立入や伐木を禁止したお留山 (とめやま) で、於林稲荷 (林稲荷神社) がある。
  • 上新街、下新街は清戸道に沿ってできた新しい町並みで、下新街は目白通りのバス停にその名が残る。
新井村は1932年 (昭和7年) に板橋区中新井町1~4丁目となった。関東大震災後の都市化の波はここへも押し寄せ、人口は急増した。村特産の練馬大根はこうした影響を受け、さらに病虫害の被害によって全滅した。農村から市街地への本格的な町づくりが始まり、土地区画整理事業と併行して地番整理が行われた。1940年 (昭和15年) に新しい町名は、豊玉 (宝玉) 小学校の名をとって豊玉とつけられた。豊玉地区は上、北、中、南の4町から構成されている。明治時代の地図を見ると、豊玉南以外の三つの地域は既に多くの集落が確認できる。戦前には練馬駅がある豊玉の北西部分に住宅地が拡大している。戦後は北から南にかけて住宅地が拡大し、現在は、ほぼ全地域が住宅で埋め尽くされている。

豊玉四地域は戦後急速に人口が増えて、高度成長期が始まる前には住宅地が広がっていた。ク度成長期前半は他の地域と同様に高い人口増加率になっている。その後は増加率は抑えられてはいるが、近年に至るまで、堅調に増加している。ここ三年程は横ばい状態となっている。世帯数は、一貫して増加傾向が続いている。世帯当たりの人数は1.6人と練馬区の中でもかなり低い地区になっている。



豊玉地区訪問ログ


豊玉上、豊玉北

まずは豊玉の四つの地域の北側の豊玉上と豊玉北地域から巡って行く。

豊玉上は北部は練馬、桜台、栄町、南部と西部は豊玉北、東部は旭丘と接している。豊玉上には豊玉 (とよたま) の地名の由来となった豊玉 (ほうぎょく) 小学校 (1876年 (明治9年)) があった。

豊玉北は豊玉上の南側にあり、北部は練馬にも接し、南部は豊玉中、中野区江古田、東部を旭丘、中野区江原町、西部を中村、中村北に接している。

練馬区史 歴史編に記載されている豊玉北内の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り。(豊玉上にはなし)

  • 仏教寺院: なし
  • 神社: 練馬大鳥神社、東神社、市杵島神社、林稲荷神社
  • 庚申塔: 5基 馬頭観音: 5基


豊玉上

豊玉上地区には史跡は紹介されておらず。唯一、一つだけ記念碑が残っていた。



北新井公園、区画整理記念碑

北新井公園内に区画整理碑がおかれている。戦前、この辺りは畑地帯で道も整備されず不便な地域だった。人口も増加し、練馬の多くの地で区画整理事業が行われた。1935年 (昭和10年) に土地所有者140名の承諾を得て、工事が開始され、土地を平に整備し、道路を通し、水路橋を架け、宅地を造成している。この事業の一環として各地で公園も作られている。この北新井公園は中新井村の区画整理事業で設置された歴史ある都市公園で、公園内には1940年 (昭和15年) に区画整理記念碑が建立されている。

練馬大鳥神社

練馬駅の前を走る千川通りの南側が豊玉北地区になり、練馬駅前なので、ここには賑やかな練馬商店街がある。その商店街の中に練馬大鳥神社があった。この神社の縁起が案内板に書かれていた。

江戸時代の初め1645年 (正保2年)、中新井村のこの地に三羽の鶴が飛来した。村人たちは、その鶴を瑞祥としていつまでも厚く保護していたが、のちに開村の旧家森田文庵の邸内にて死んでしまい、鶴は霊鳥という事で役人検視の末村預りとなった。村人はその霊を小社を建て鶴の霊を祀り、併せて、和泉国一宮大鳥大社 (堺市) の祭神の天日鷲命 (あめのわしのみこと) の分神を勧請したという。

現在は境内には社殿と神楽殿が建てられている。

練馬大鳥神社は近郷の崇敬篤く、特に11月酉の日の祭礼は、境内は福徳円満・開運熊手を購う群集で販わい、練馬駅前の商店街にも多くの屋台が出て多くの人が訪れる。拝殿には創建の由縁となった大きな鶴の絵馬が奉納されているそうだ。

境内左手にはこの近くにあった石の薬師如来が移設され祀られている。 万病を治癒し、延命に御利益があり、特に眼の病に効があるとされ、昔から信仰されている。


東神社 (とうじんじゃ)

練馬大鳥神社の隣が大正元年に建てられた東神社になる。地の神の八大龍神と天の神の

天照大神を祀っている。東神社は関東八州八大竜神の本宮になっている。八大竜神は伊勢皇大神宮五十鈴川の守護神で、八宝開運の神とされている。

境内には天明神水と称するものがある。パワースポットとなっている。東神社は出世・金融祈願としても有名で、参拝者はこの神水を自分の守護神に基づいて、その月の水取 (すいとり) の方角から水を掬って、8回に分けて飲むことで御利益が得られるという。所謂、奈良時代から始まったと言われるお水取りになる。この神社には鳥居も手水舎もないので、参拝の際はこの天明水で清めるそうだ。

拝殿の側には御神水之宮の祠がある。

境内の隅にも二つの祠がある。手前は馬頭観音の祠で中には馬頭観音の石仏が安置されている。奥の祠は稲荷神社で、その隣に小さな石造りの祠が置かれていた。


庚申塔 (20番) [不明]

東神社から道を西に進み、路地を南側に入った所に庚申塔があると資料にはあった。30年ほど前の写真を頼りに探すと、写真の場所が見つかった。しかし、周辺は変わってしまい庚申塔も撤去されている。どこかの寺に移設したのだろう。運が良ければ、どこかの寺で出会うかもしれない。(これまでも消えたと思っていた庚申塔を運良く見つけているので期待している。) ちなみに、庚申塔 (20番) は1956年 (昭和31年) 4月23日に自然石を利用して造られて、中新井庚申と文字が刻まれている。


新井薬師道跡碑

新井薬師道は、中荒井村の清戸道から分岐 (豊玉北五丁目、旧江古田橋付近) し、南東へ向っている。 徳田付近で江古田村へ入り、新井薬師へ、新井薬師から小滝橋を経て大久保・新宿方面に至り、中野駅方面に達していた。旧暦の四月には、新井薬師で釈尊降誕の祭礼が行われることから、近隣の村々から人々が集まり賑わっていた。 麦の実りの頃にも重なり、麦畑の中を埼玉方面から人々が行列をつくりこの街道を通っていたという。この道沿いに道標が建てられている。


庚申塔 (23番、24番) [不明] 

新井薬師道跡碑の北側には二つの庚申塔があったと資料にはあった。23番は30年前の写真があるので、それを頼りに探すが、街並みは変わってしまい。写真と同じ場所も二つの庚申塔はみつらかなかった。いせつされているのだろうか?今日はこれで庚申塔の三つ連続して見つからず、この後も続くのかと嫌な予感。

  • 庚申塔 (23番): 1729年 (享保14年) に造立、駒形文字型で三猿が浮き彫りされている。
  • 庚申塔 (24番): 1744年 (延享元年) に造立、方形笠付の石塔に青面金剛像が浮き彫りされている。


市杵島 (いちきしま) 神社

武蔵大学の南側に、市杵島神社がある。豊玉氷川神社の兼務社で、創建時期は不明だが、江戸時代の宝暦年間以前と推測されている。祭神として市杵島姫命 (いちきしまひめのみこと) を祀っている。市杵島姫命は福岡の宗像神社中津宮の神なのだが、江戸時代に弁財天と同一視される様になった。それで本殿には弁財天と書かれた扁額が掲げられている。昔はこの辺りは中新井村弁天という地名だったのも、この神社から来ている。境内は広場になっているが、昔は池があったのだが、昭和20年代から30年代に埋められている。


庚申塔 (22番) 

境内末社の稲荷神社が本殿の裏に置かれている。その隣には三つの石仏が移設されている。右から武刕豊嶋郡中荒井村23人念仏講中が1708年 (宝永5年) に造立した地蔵菩薩立像。その隣に堂宇の中に1907年 (明治40年) に造られた不動明王像。左の方形の石塔は庚申塔で1763年 (宝暦13年) に建てられ、正面には「奉造立庚申尊像家内安全」と刻まれ、三猿が浮き彫りされていた様だが、今では摩耗して判読できなくなっている。


林稲荷神社

林稲荷神社があるあたりは江戸から明治時代にかけて中新井村北於林 (なかあらいむらきたおはやし) と云われ、江戸時代幕府要人が鷹狩や狩猟のために使用した林 (於林、御林) があった。 神社の名の由来となっている。創建は寛文年間 (1661~1673年) の頃と考えられ、その縁起は、

この地は江戸時代から将軍家の直轄地で、御 (於) 林と呼ばれていた。

ある年干ばつがあり、農作物が収穫できなくなったため、少なからぬ村民たちが食糧を買うためのお金を得ようと、お林の木を伐って売り始めました。 これを見て困ったのは、お上からこの林の管理を任せられていた村人、仁左衛門です。同じ村人のやることであるし、木を伐って売らねばならない事情も理解できるからです。すっかり困り果てて悩んでいたところ、ある晩、夢枕に稲荷大明神 (宇気母知命) が二匹の白狐をつれて現れ、「この干ばつに苦しむのはこの地に良い水源が無いことである。この丘の崖下を浚い、数町北にある窪地を掘れば水が沢山得られるであろう」と告げられ、汗をびっしょりかいて夢から覚めました。 これは不思議なことと思い、朝になってお林の中を探し回ったら、狐の棲家と思われる穴がみつかり、その部分だけ少し開けた穴の前の土地は、掃き清められたように平らで、そこには二、三匹の狐の足跡がありました。あれは正夢であったか、と驚いて、このことを百姓頭三郎左衛門に話し、村民七名と共に神のお告げのあった場所に井戸を掘 りました。すると清水がこんこんと湧き出し、田畑が潤って農作物の収穫が得られるようになり、木を伐る必要がなくなりました。 村民たちが稲荷大明神に感謝の気持を込めて創建した。

という。

更にこの神社に纏わる話は明治時代にもある。

明治維新で江戸幕府大政奉還して瓦解し、於林が時の政府から林稲荷神社のある所を含めて、名主の岩堀伝内に払い下げられ、社殿が壊されることになりました。人々が社の無くなることを憂いていたところ、子孫の矢島三郎左衛門や矢島仁左衛門は、屋敷の周りで、悲しげに鳴く狐の声を耳にします。それを聞 いて二人は、これは稲荷社の保存を狐が訴えているのだと思いました。そこで、昔、干ばつの時、稲荷大明神のお告げで助けられた言い伝えを思い出して、村民たちと相談し、二人を含め二十五人の者が境内社地を買い戻し、社も新しく造り替えてお祀りすることにしました。 1879年 (明治12年) のことであります。

以来、明治、大正、昭和と、林稲荷神社は旧中新井村住民を中心に維持管理されてきたが、昭和14年、区画整理により社地を拡げ、石段などを整備されたが、土地の区画整理で住民の家々と社が目白通り (十三間道路) で分断されたことや、第二次世界大戦と戦後の混乱期で、社殿や鳥居などは朽ち果て、境内も荒れ果てた状態が続いていた。その後、旧中新井村東部地区(現在の豊玉上1丁目、豊玉北1/2丁目) の住民が林稲荷神社復興世話人会を組織して平成11年に59年ぶりに境内を整備し、現在の社殿、鳥居などが改築されている。


庚申塔 (21番)、馬頭観音 (8番、9番) 

林稲荷神社鳥居脇に祠があり、その中には聖観音立像 (写真下左から2番目)、庚申塔と馬頭観音が納められている。

  • 庚申塔 (21番 下右から2番目) は角柱型で、正面中央に「奉造立庚申供養諸願成就処」、右上には「寛文三癸卯天 (1663年)」、左上には「十月廿四日」の陰刻がある。下段には「本願」の文字と造立者名が陰刻されていたが風化で今では判読不能となっている。下部には三猿と鶏が浮き彫りされ、区内では古いもので、江戸初期の庚申塔の典型を示しており、練馬区の有形民俗文化財に指定されている。元々の場所は不明だが、昭和14年 (1939年) 頃の区画整理により移設されたもの。
  • 馬頭観音 (8番 左下) は小さな駒形の石柱で、かなりの風化が進んでいるが1886年 (明治19年) につくられた文字型になっている。
  • 馬頭観音 (9番 右下) は造立時期は不明だが、方形の石柱に馬頭観音像が浮き彫りされていたが、これも風化が進んでおり、殆ど馬頭観音像とはわからない。


馬頭観音 (10番、11番、95番) [不明] 

林稲荷神社の北には三つの馬頭観音があると資料には載っていた。示された番地の住宅街の道沿いを何度も見渡したが、いずれも見つけることはできなかった。どこかに移設されているのだろう。10番と11番は年号も刻まれていないようなので、移設されていても写真がない限り見つけるのは難しそうだ。

  • 馬頭観音 (10番、豊玉北1-8) 造立年号不明の方形文字型
  • 馬頭観音 (11番、豊玉北1-9) 造立年号不明の方形文字型 
  • 馬頭観音 (95番、豊玉北1-4) 1832年 (天保3年) に造立の舟形で馬頭観音像が浮き彫り


豊玉中、豊玉南

次は豊玉の南の二つの地区を見ていく。

豊玉北の南側が豊玉中になり、南部は豊玉南、東部は中野区江古田、西部は中村に接している。豊玉南は豊玉中の南側に位置しており、南は中野区丸山、東は中野区江古田、西は中村南に接している。

練馬区史 歴史編に記載されている豊玉中、豊玉南の地区内の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り。

  • 仏教寺院: 正覚院
  • 神社: 豊玉氷川神社、富士稲荷神社
  • 庚申塔: 7基 馬頭観音: 5基

三の橋庚申塔 (12番)

練馬駅から南に通る北町豊玉線 (庚申通り) を豊玉北から豊玉中に入った所 (江戸時代には中新井西組と呼ばれた地域) の道沿いにブロック塀で囲まれた敷地内に祠があり、その中に庚申塔がある。この庚申通りはかつては江古田川 (中新井川) の支流の川筋で、この場所には三の橋が架かっていた。現在は川も橋もなくなってしまったのだが、三の橋庚申塔と呼ばれている。庚申塔は「庚申」と刻まれた御影石になっている。1966年 (昭和41年) につくられたもので、右面には「父之碑 子之碑」、左面には「豊玉十人より合う人々建之」とある。これは再建されたもののようで、元々の庚申塔は1723年 (享保8年) に方形文字型 (15番) で造立され、道しるべとなっていた。この後に訪れる正覚院に移設されたそうだ。正覚院で見つかるだろうか?


新井薬師道標

豊玉中の東端に近いところ、江古田の森公園の西側の道路沿いには庚申塔と馬頭観音がある。この道はかつての新井薬師道だった。先ほど、豊玉北にも新井薬師道標があったがこの同じ道沿いだった。新井薬師への参拝にはこの道を通っていたのだ。


庚申塔 (13番)、馬頭観音 (3番)

新井薬師道標の後ろ、木の根元に二つの石柱がある。庚申塔 (13番) と馬頭観音 (3番) だが、どちらも風化が激しく、ほとんど識別ができない程になっている。

資料にある石柱形状によれば向かって右側が馬頭観音 (3番) で左側が 庚申塔 (13番) のようだ。馬頭観音 (3番) は1859年 (安政6年) に造立された板駒形で馬頭観音像が浮き彫りされていたそうだ。左側の庚申塔 (13番) は1723年 (亭保8年) 造立の方形笠付型で青面金剛像が浮き彫りされていたというが、笠は無くなっており、両方ともに像が認識で機内ぐらいに風化が進んでいる。40年程前にこの地を訪れた人が撮った写真がある。それではまだ像はかすかにわかる。



豊玉南

次に豊玉中から最後の地区の豊玉南に入り、そこに残っている史跡を巡る。


正覚寺

真言宗豊山派天満山正覚院は、本尊を不動明王とした豊島八十八ヶ所霊場第7番札所になる。寺伝によると太田道灌が長禄年間 (1457-60年) に江戸城築城の際、外濠に住む一農家を立ち退かせ、その代償として、ここ中荒井の陣屋にあった道灌が信仰していた天満宮 (現在の氷川神社) を守るため天満宮の別当にこの農民をあて創建させたと伝わっている。

幕末から明治にかけて、ここには筆道稽古所という寺子屋が開かれ、地域子弟の教育に携わっていた。

この正覚院には昨年10月にも訪れている。ここに載せている写真は昨年10月のものと今回のものが混雑している。今回は落葉しているので建物などは全景を写真におさめることができた。山門から入った境内は全面日本庭園になっており、綺麗に整備されている。


本堂

境内参道の先に本堂がある。正覚院は明治の廃仏毀釈や火災で、境内は一部を失い、寺記、寺宝類は焼失したが、寛永年間 (1624 ~ 44年) の過去帳と涅槃像画は焼失を免れた。

その後10年程は無住の時期があり、明治10年代に地元有力者により本堂等が再建された。現在の本堂は新しく、昭和51年に改築されたもの。


多宝塔

朱色が鮮やかな多宝塔。この建物は平成3年に建立されたもの。


観音堂

多宝塔の隣には昭和51年に改築された観音堂がある。


八子地蔵尊

観音堂前には八子地蔵尊が建立されている。これは昭和13年には町内有志によって、不幸な厄にあった8人の幼児の霊を供養するためにつくられたもの。


六地蔵、延命地蔵

この他にも墓地入り口に、六地蔵、延命地蔵などの地蔵尊が置かれている。


弘法大師像

墓所への道には弘法大師像がある。


不動明王像

境内には二ヶ所に不動明王像が祀られている。一つは多宝塔の横に不動明王坐像があり、その両脇に矜羯羅童子 (こんがらどうじ) と制咤迦童子 (せいたかどうじ) が不動明王を守っている。もう一つは本堂から墓所へ向かう所にあり、滝がつくられた下と上に2体の不動明王が置かれている。不動明王は1881年 (明治14年) には成田講も組織されて境内に祀られたものだそうだ。

境内には村内各所にあった庚申塔や仏像などの石造物が、庭園に移設されている。他の寺院の様に無造作に並べられているのではなく、庭園に溶け込む様に上手く配置している。


庚申塔と馬頭観音も多くがここに移設されている。


庚申塔 (17番)

本堂の右側には1804年 (文化元年) に造られた舟形の庚申塔が移設されている。正面には青面金剛像が浮き彫りされ、側面は「左 ほりの内」「右 中村薬師」と刻まれ、道しるべとなっている。


庚申塔 (15番、16番)

庭園の中に二基の石塔が置かれている。左側のものは、1679年 (延宝7年) に造立された方形笠付文字型の庚申塔 (16番) で、塔の下部には三猿が浮き彫りされている。右には、1723年 (享保8年) に建てられた方形型の庚申塔 (15番) だが、上部は欠損して、正面には「申」の文字だけが残っている。塔の右脇に願主名、左脇に講中拾三人と刻まれている。道しるべにもなっている。この庚申塔は元々は、今日見学した三の橋庚申塔だったものといわれる。現在の三の橋庚申塔は再建されたものだが、元々の庚申塔が欠損してしまったので再建し、以前のものをここに持って来たのかも知れない。


馬頭観音 (4番、5番、7番)

本堂の裏側にある墓所への向かう道脇の傾斜地に四基の石塔が移設されている。その内、三基が馬頭観音だった。右端には5番で登録された馬頭観音 (写真右下) で1924年 (大正13年) に造立された方形文字型になっている。その隣にも1878年 (明治11年) に建てられた方形文字型の馬頭観音 (中下) があり、4番で登録されている。左端の小さな石塔も方形文字型馬頭観音だが造立年月日は刻まれていない。多分、練馬区で7番で登録されているものだろう。


馬頭観音 (6番)

墓所の中にも馬頭観音があった。墓石の前に置かれており、自然石を利用した文字型になっている。1960年 (昭和35年) に造られたもの。馬頭観音や庚申塔を巡っていると個人の墓に多くの仏像や馬頭観音、庚申塔が置かれている。仏像は故人の供養のために墓標と共に建てることは一般的だったので理解できるが、庚申塔や馬頭観音は道沿いに置かれていたので、なぜ金神の墓にあるのかガ気になっていた。元々そこにあったものか、移設されたものか、その家が個人または講中代表として建てたからその家の墓に移設したのか?この疑問はまだ解けていない。


豊玉氷川神社

豊玉氷川神社が昔の天満宮の別当の正覚院の隣にある。素戔嗚尊 (須佐之男命 スサノオノミコト) を祀っている。

この神社の創建不詳だが、正覚院が長禄年間 (1457-60年) に創建されたというのでそれ以前からあった事になる。当初は北野神社 (現在では境内社) を主祭神としていたと伝えられ、次いで須賀神社 (現在では境内社) 、そして現在の氷川神社へと遷移していった。江戸期には中荒井村の鎮守として崇敬されていた。

豊玉氷川神社への入り口の鳥居は二つある。参道が本殿正面に伸びているのものと、境内社の三峯神社、北野神社への裏参道。


ビール麦 金子ゴールデン 発祥の地

これは史跡ではないのだが、境内参道の脇にはには「ビール麦 金子ゴールデン 発祥の地」と書かれた石碑がある。ビール樽を二つに割った形をしている。日本でのビール麦の栽培は明治初めに外国からもたらされた品種の二条大麦を北海道で栽培を始め、その後、明治中期以降に政府が栽培を奨励し盛んになった。その中、北豊島郡中新井村の金子丑五郎が1900年 (明治33年) 輸入品種二条大麦の「ゴールデンメロン」と麦飯・醤油・味噌などに使われていた国産の六条大麦の一品種の「四国」の交雑種の 「金子ゴールデン」を開発育成した。早生で草丈が低いため成熟しても倒れにくく、 関東一円に栽培が広がり、その後、この金子ゴールデンをもとに改良された幾つもの品種が生まれ、日本におけるビール事業の発展に繋がったという。


六町会神輿庫

本参道の脇には各地区の神輿が納めらている六町会神輿庫が置かれている。その背後には先程訪れた正覚院の多宝塔が見える。


稲荷神社

神輿庫の隣には稲荷神社があり、境内社となっている。


日露戦役従軍記念碑、力石

更に、その隣には明治39年建立の日露戦役従軍記念碑があり、その手前には河原石の力石が八つ置かれている。それぞれの石には村名と重量が刻まれている。重いものは三十五〆(貫) の約131㎏、五十五〆 (貫) 約206kg があり、区内では大きな力石だ。


手水舎

その隣には手水舎があるが、コロナ蔓延防止のため使用されていない。


氷川神社拝殿、本殿

参道の先に拝殿があり、その奥が本殿となっている。現在の主祭神となっている氷川神社は鳥居から真っ直ぐ奥に続く参道の先にある。大宮一宮の分霊を勧請している。現在の社殿は昭和3年に建てられたかつての主祭神だった須賀神社の上屋を本殿としている。


神輿庫

氷川神社の拝殿/本殿横に神輿庫がある。ここには氷川神社境内社の須賀神社に伝わる本社の神輿が納められている。飾り収納箱に1813年 (文化10年) とあり、この年に作られたと思われる。

ニ年に一度氷川神社例大祭が行われており、豊玉連合町会6町会が、5基の神輿がそれぞれに町内を渡御している。


須賀神社 (牛頭天王) 

氷川神社の拝殿/本殿横にかつての主祭神だった須賀神社がある。この須賀神社は「天王さま」と呼ばれている。天王様の祭礼は、昔は旧暦6月15日に行われ、神輿の渡御が行われていた。田圃の中を暴れ廻り「中新井天王さまの暴れ渡御」と言われていた。現在は、9月の例大祭で祭礼で神輿の渡御が行われている。


神楽殿、額殿 (旧神楽殿、旧須賀神社拝殿)

境内の南側に神楽殿 (写真左下) がある。この神楽殿は昭和59年に新らしく神楽殿として建てられたもので、その隣にある建物が旧神楽殿 (右下) になる。江戸時代後期 1811年 (文化8年) の建築とされ、釘を一切使わない組込式の旧神楽殿は須賀神社の上屋が氷川神社の本殿とし主祭神となった際に、須賀神社の旧拝殿をこの場所に移築して神楽殿として使用していた。新神楽殿が造られると、絵馬堂として使われ、額殿と呼ばれている。


北野神社 (天満宮)

神社の裏参道に北野神社がある。最初の主祭神だった神社で現在は豊玉氷川神社の境内社となっている。1476年 (文明8年) に太田道灌濯が石神井・練馬の両城を攻めたとき、江古田原の合戦のおり、北野神社に賽し、戦捷したことにより、太田道灌の祈願所として崇敬したと伝わっている。


三峯神社

北野神社の隣にはもう一つの境内社の三峯神社がある。この神社についての情報は見つからなかったのだが、目についたのはここを守っている狛犬。他の神社のでっぷりとした狛犬と比較してユニークで細身で狩猟犬か狼の様だ。三峯神社といえば埼玉県秩父市三峰山にある神社で、御眷属 (山犬) 信仰の三峯講がある。この神社では狼が守護神で狛犬の代わりに狼像となっている。豊玉氷川神社の三峯神社はこの三峯講の関連で分霊された事は間違い無いだろう。という事で、ここでも狛犬ではなく狛狼が守っているのだ。


庚申塔 (18番)

1715年 (正徳5年) 方形笠付 青面金剛像


庚申塔 (19番)

19 1711年 (正徳元年) 方形笠付文字


富士稲荷神社

豊玉氷川神社鳥居の前の道を西側に進むと公園の上に朱塗りの富士稲荷神社がある。公園に置かれている案内板によれば、1803年 (享和3年) 11代将軍徳川家斉の時代に山城国紀伊郡の稲荷本宮 (現在の京都伏見稲荷神社)を移して祭ったとある。昭和58年に木造瓦葺から現在の祠に建て替えられている。また、神社公園の道路側にあるクスノキ (写真左下) は三代将軍徳川家光のお手植えといわれている。


学田跡 (学田公園)

更に道を西に進み、南蔵院の南側に学田公園がある。学田公園の一帯は、明治時代に田圃として開墾された地域だった。その田圃を貸し出し、その小作料の一部を小学校の運営に当てていたため、「学田」と呼ばれていた。学田公園には野球場が併設されている。


徳殿公園、区画整理記念碑

徳殿公園にも区画整理記念碑がおかれていた。北新井公園の区画整理碑と内容はほぼ同じで、土地所有者151名の承諾を得て1941年 (昭和16年) に工事が完了して、ここに記念碑が建立された。

旧中新井村の豊玉巡りを終了。東京滞在もあと二日間となった。明後日は別の予定が入っており、明日が練馬区巡りの最終日となる。


参考文献

  • 練馬を往く (1983 練馬区教育委員会)
  • 練馬区史跡散歩 (1993 江幡潤)
  • 練馬区の文化財 指定文化財編 (2016 練馬区地域文化部)
  • 練馬区史 歴史編 (1982 練馬区)
  • 練馬区史 現勢編 (1981 練馬区)
  • 練馬の寺院 三訂版 [郷土史シリーズ 3-4] (2004 練馬区教育委員会)
  • 練馬の神社 三訂版 [郷土史シリーズ 5] (2006 練馬区教育委員会生涯学習部)