脱中華の東南アジア史⑥モンゴル編
~チンギス・ハーンの登場で世界史は誕生した~
13世紀、モンゴル帝国(大元ウルス)が日本や東南アジアに遠征軍を送ったとき、東南アジア各地は大変動期を迎えていた。モンゴルは1253年、中国雲南省にあった大理国を滅ぼすとここを拠点にベトナムやビルマに遠征軍を送った。ビルマのバガン朝はこれによって滅び、ビルマは少数民族に分かれた王国分立時代に入る。モンゴルはまた、海路でもベトナムやチャンパ、ジャワに遠征軍を派遣した。ジャワでは内戦に巻き込まれ、のちにマレーシアまで勢力を拡大するマジャパヒト王国の成立につながった。モンゴル軍の侵攻を3度にわたって撃退したベトナムの陳朝は衰退期に入り、日本も3度目の蒙古襲来に備えなければならず、鎌倉幕府の体制を大きく揺るがす要因となった。一方、モンゴルの南下に伴って、中国中西部や南部にいた民族が南への移動を迫られ、のちのタイ(シャム)人やラオス人など民族的なまとまりが作られた。これがタイ人による初の王朝スコータイ朝やラオス人による初の統一王朝ラーンサーン王朝の誕生につながった。彼らは上座部仏教の担い手として、それまでのヒンドゥー教や大乗仏教を中心とした文化を大きく塗り替えたといわれる。(『東南アジアの歴史』p34)そればかりではなく、モンゴルは貿易通商・活動にも力を入れたため、ユーラシア大陸の陸路を結ぶ交易路だけでなく、東シナ海から南シナ海、インド洋・ペルシャ湾を結ぶ海の通商ネットワークが作られた。この時代の交易と通商を担ったのは主にムスリム商人たちで、大航海時代を前にした東南アジアにイスラム教が浸透するきっかけにもなった。
ここではしばらくモンゴル帝国の成立と東南アジアに及ぼした歴史の衝撃を振り返ってみたい。
<13世紀モンゴルから世界史が始まった>
1206年、モンゴル高原に遊牧民の部族の代表者が集まって大会議クリルタイが開かれ、テムジンを最高指導者に選挙し「チンギス・ハーン」の称号を奉った。歴史学者の岡田英弘氏は、「これがモンゴル帝国の建国であり、また、世界史が誕生した瞬間でもあった」(『世界史の誕生』ちくま文庫p213)という。さらに「(現在の)インド人、イラン人、中国人、ロシア人、トルコ人という国民は、いずれもモンゴル帝国の産物であり、その遺産なのである。そればかりではない。現代の世界の指導的経済原理である資本主義も、モンゴル帝国の遺産である」(p240)ともいう。
モンゴル帝国第2代ハーンのオゴデイ・ハーンは1234年、モンゴル高原の地で大会議を招集し、「世界征服計画」と呼ぶべきモンゴル遠征軍の派遣計画を決定した。この計画に従い、ヨーロッパ、インド、華北の甘粛南部、華中・華南の南宋、韓半島の高麗などにそれぞれ遠征軍が派遣されることになった。岡田氏がいう「モンゴル帝国の産物」であるロシア人とは、このときチンギス・ハーンの長男ジョチの次男バトゥを総司令官にしたヨーロッパ遠征軍、いわゆる「バトゥの西征」で、ジョチ家のハーンとともに移住したモンゴル人の末裔がいまのロシア人の起源だという意味である。おなじくインド人の成り立ちは、チンギス・ハーンの次男チャガタイ家が支配したサマルカンドを拠点にしたテムル帝国まで遡ることができ、テムル帝国の流れをくむムガル朝が、現在のパキスタンやバングラデシュを含むインド帝国の起源だった。「ムガル」とはモンゴルがなまった言葉で、ムガル帝国はモンゴル帝国の継承国家だった。
チンギス・ハーンから数えて4代目と5代目のハーンは、チンギス・ハーンの第4子トルイ家の長男モンケと四男フビライである。モンケ・ハーンは弟のフビライをモンゴル高原から華北方面に派遣し、同じくフレグ(五男)を西南アジアに派遣した。フレグは1256年、イラン高原に入ってバグダッドを攻略。フレグはイル・ハーンを自称し、その子孫がイラン高原を版図にイル・ハーン朝を築いた。この領土を引き継いだのがサファビー朝であり、のちのイランということになる。またアナトリア半島には、イル・ハーン家の時代からモンゴル軍の駐屯地があり、ここからオスマン家が出た。オスマン家は近隣のトルコ人たちを併合しながら勢力を拡大し、1453年コンスタンティノープル(イスタンブル)を攻略して東ローマ帝国を滅ぼした。オスマン帝国が分割してできたのが、トルコやアラブ諸国、バルカン諸国だった。
こう見てくると確かに「チンギス・ハーンのモンゴル帝国が東は韓半島から、西は地中海に至るまで、ほとんどすべての国々を生み出したことになる。まことにチンギス・ハーンは世界をつくったのである」(『岡田英弘著作集Ⅱ「世界史とは何か」』p103
<「世界史の大転換」=大陸国家が海洋国家に変身>
岡田氏が言うように、1206年、チンギス・ハーンによるモンゴル帝国の成立がまさに「世界史の誕生」だったとすれば、1260年、第5代ハーンを襲名したフビライ・ハーン政権の成立は「世界史の大展開」だったと、モンゴル史研究の第一人者杉山正明氏はいう。その著『クビライの挑戦 モンゴルによる世界史の大展開』はサントリー学芸賞や司馬遼太郎賞を受賞した名著だが、そのクビライ(これ以後は原音に近いという杉山氏に従いクビライ・カーンと表記する)の「挑戦」とは、ユーラシア大陸を席巻した大陸国家としてのモンゴル帝国を、海洋国家に変身させ、海上勢力として東シナ海からインド洋、アラビア海まで進出させ、ユーラシアの内陸世界と海洋世界を完全に結合し、陸と海を結ぶ巨大な通商ネットワークを作ることだった。
大陸国家であるモンゴルが海洋国家に進出するきっかけは、南宋を滅ぼし、当時、世界一流の実力をもっていた南宋の水軍や海上兵力をそのまま手に入れたことだった。南宋は、長江や太湖など大小の河川と湖に恵まれ、水に守られた国だった。また当時、世界最大の都市といわれた首都の杭州をはじめ、寧波・福州・泉州・広州など外洋に面した大きな港湾都市を抱えていた。その南宋は、長江と外海を支配し巡視する強力な水軍と海軍を常備軍として保有していた。南宋は「常備水軍」の大艦隊を保有する世界史上、最初の政権だったといわれる。
モンゴルにとって、馬を駆使して乾燥地帯で行う戦闘は何の苦もなかったが、大河や湖沼ばかりの中国・江南の地を相手にするのは得意ではなかった。そのうえ敵が広大な海洋に逃げたら打つ手がなかった。そのためクビライは、南宋を攻める前に、遠征軍の編成と軍需物資の調達、補給網の手配など入念な準備を進めた。黄河の南の開封に補給基地を作ると、漢水のほとりにある襄陽を攻撃目標にし、足掛け6年に及ぶ包囲作戦を行った。ほとんど戦うことはなく、城郭の周りに土塁と空堀を築き、交通の要所に堡塁や砦をつくる土木工事をえんえんと行った。その一方で、モンゴル軍は猛然と水上戦力の構築と増強につとめた。華北各地から大量の水船を集め、指揮官が乗る武装船は新たに建造した。これらで水軍を編成し、連日、水上作戦の訓練を繰り返した。『元史』によれば、この時のモンゴル水軍は船5000艘と兵員7万を擁したという。
長期間の包囲戦で食料の備蓄も底をつき、孤立無援となった襄陽を救うため、南宋軍は1271年6月、水陸10万の大軍を襄陽に向かって北上させた。このときを待って迎撃態勢を整えてきたモンゴル軍は、水陸同時に待ち伏せ攻撃を行い、南宋軍を完膚なきまでに打ちのめし、ほぼ全軍を壊滅させた。このとき陸上の戦闘で使われたのがカタパルト式の巨大投石機、ペルシャ語でマンジャニーク(メカニック・マシーンと語源は同じ)、漢籍では「回回砲」としてその名が残る新兵器だった。城郭や城楼をつぎつぎとうち壊し、なぎ倒す新兵器の威力に圧倒され、籠城兵たちは戦意を失って、住民とともにモンゴルにくだった。足かけ6年に及ぶ籠城が終わった。モンゴルは降伏してきた軍人や地方の役人を現職のままにとどめた。降伏した敵の指揮官を優遇し、あらたに地方の軍司令官の地位を与えたほどである。その後のモンゴル軍の展開は、まるでドミノ倒しのように、進むごとに各都市や住民は戦うことなく、すすんで門を開いてモンゴル軍を迎え入れてくれた。モンゴル軍は次々と投降してくる南宋軍を自軍に組み入れ、おそるべき大軍となって長江をくだった。モンゴルの軍には、クビライの「不戦の思想」が徹底されていた。南宋の行政・軍事組織は、無傷なままモンゴルのもとで再編されていった。中国史上ではきわめて異例のことだが、モンゴル軍はいっさい血を流すことなく、いかなる略奪をおこなうこともなく、1276年、杭州の無血開城を果たした。こうして南宋は平和裏にモンゴルの領土となった。そして、南中国を手に入れたことで、モンゴルは遊牧民出身の国家でありながら、海の世界に進出し、海軍力を手に海上帝国への道を進むことになったのである。
(続く)