谷屋で過ごす飛騨の日常(2日目)
前回から続く。
天気予報は大雪の予報だったので心配していたが、翌朝は奇跡的に良い天気で、障子越しの爽やかな朝日に包まれて爽やかな気持ちで目が覚めた。
・朝日が優しく入り込む寝室。壁には飛騨で漉かれた山中和紙が貼られている。
今回の滞在では、追加で朝ごはんのご用意をお願いしていたので、眠たい目を擦りながら、昨晩お話をお聞かせていただいた本宅の囲炉裏に再び伺うと、暖かな朝ごはんがすでに用意されていた。
・素朴で味わい深い郷土料理がお禅の上に所狭し並ぶ朝食。
この日は、市内で食事処を営んでいる『久田屋』さんが、朝食を用意してくださった。小鉢に盛られた郷土食の数々は、目にも楽しく、食べて美味しく大満足だった。恥ずかしいことに地元育ちの僕にも馴染みが薄い食材もあった。聞くと山菜の一種で最近はあまり食べられなくなったものだが昔はよく食べられていたものだという。
郷土料理と方言は、現在まで昔の心意気を伝える数少ない文化資産だ。街の景色や生活は随分と変わったが、暖かな味わいを届けてくれる人々の心は、今も昔も変わりない。
・この日は寒さが厳しかったので、特別に本座敷で食事をいただいた。
使われた食材のほとんどは地物だと言う、お米は市内で手植えされたものだそうで、日下部さん自ら田植えから関わられた思い入れのあるお米だそう。アクティビティでは米作りにまつわる体験もできるとのことだった。手の届く範囲で、顔の見える人が作ったものだからこそ丁寧に紹介したくなる。そんな当たり前のことが、気がつけば特別になってしまっていることに気がつかされた。
高い山々に囲まれた飛騨の地で、身近な人々が互いを支え合い生きてきたのが飛騨の風土だ。そう考えると、地域の人々と一緒にお客様をもてなす谷屋の心配りは、実に飛騨人らしい気風に満ちているように思う。
我々は利用しなかったが、事前にお願いをすれば日下部と縁が深い飲食店さんに出張してもらい谷屋や本宅で、夕食を食べることが可能とのこと、国の重要指定文化財を貸切で楽しむ食事・・さぞ思い出に残る特別な時間となることだろう。
朝食の後、谷屋にへと戻り、帰り支度を済ませたので、室内をゆっくり見て回った。古民家の魅力のひとつに陰翳礼讃(いんえいらいさん)がある。古民家は光によって際立った影が美しい、光に照らされた屋内の様子は美しく、ついついカメラを向けてしまった。
・2階の通路から寝室を望む。
・春慶塗りの建具。妖艶な艶は、飛騨の美意識の現れのひとつ。
・食器類は、民藝に縁ある窯元の作品、食材買ってキッチンで料理をすることも。
・テッシュカバーやゴミ箱もオリジナルで作ったものだ。
・メディアアーティスト落合陽一の展示会の際に製作した『愛染明王坐像』のレプリカ
日下部民藝館では、近年多くのイベントを開催している。大きな吹き抜けと広い空間を活かしたライブの開催が盛んだが、個人的に思い入れがあるのは、昨年『日下部民藝館 55周年記念特別展』として開催された『落合陽一 / 遍在する身体 交錯する時空間』だ。上記の『愛染明王坐像』は、江戸時代の僧『円空』が、飛騨を訪れた際に残したと言われている木彫の仏像を元に、特別展の際、落合さんが飛騨の木工家たちと共作したもので、円空の手がけた現物を3Dスキャンして、それを元に機械加工したもの、飛騨の仏師が仕上げたものだ。
過去と現代が時間を超えて交差することで生まれたこの作品は、過去が脈々と生きる内に現代の心地よさが混ざり合う谷屋とよく似ていた。
・谷屋の外観、江名子川にかかる『布引橋』傍の松が美しい。
片付けを済ましたが、チェックアウトまで時間があったので、すぐ近くで開かれている朝市を覗いてみることにした。偶然、今日は二十四日市という年初めの市が開かれているというので足を伸ばすことにした。
・宮川朝市の様子。
高山には、二つの朝市がある。ひとつは陣屋前朝市で、もうひとつが宮川朝市だ。飛騨においての朝市の歴史は古く、文政年間(1267~1275)高山別院前で始まったとされる。当時は『桑の朝市』と呼ばれており、文字通り、桑の葉が並ぶ朝市であった。現代人からしたら桑の葉を買うことなどまずないだろうが、桑の葉は養蚕を行うために必須であり、蚕に餌となる桑の葉を与え、絹糸(シルク)を作ることは、自らの衣服を作るための生糸を作るに止まらず、明治時においては外貨獲得の為の一大輸出品となり、今日の日本の近代化を支えた。外国に生糸を売り、そこで得た外貨で日本は多くの機械や兵器を購入して近代化を果たした。明治元年の輸出総額はおよ3,700万円、そのうち生糸が1,900万円だったことを見ても、小さな小さな蚕が生み出す絹なくしては今日の日本の発展はもっと遅くなっていたかもしれない。
桑の朝市は、徐々に桑の葉以外の野菜や生花を売るようになり、食べ物や雑貨も並ぶようになっていった。現在の二つの朝市は戦後の起こりと言われているが、近隣の農家が野菜や果実、漬物を並べる姿は、はるか文政の時代から続く人々の営みの香りを残している。
ふと見ると、先ほど朝食を作ってくれた久田さんが、慣れた様子で大きな飛騨ネギを買っている。お店の仕込みの前に朝市を見て回ってその日使う新鮮な野菜を選ぶのだそうだ。自転車のカゴにたくさんのネギを載せて走り去って行く姿も、昔から変わらない飛騨の風景なのだろう。
・息子が食べたいと言うので朝市でりんごを買った。飛騨はりんごが有名だ。
朝市を抜けて、本町通り商店街で行われている24日市に到着した。この市は元は12月24日に開催された年の瀬市だった。年の暮れに里に降りて、蓄えてきたものを販売して換金し、正月飾りやおせちの食材を買う文化は古くからある。かさじぞうの話など、その典型だろう。今では1月24日に、郷土の食材や、遠く海沿いから運ばれてきた干物、地元の工芸品が並ぶが、その品揃えの雰囲気は、江戸の昔から大きく変化はしていないだろう。
古い言葉に『ブエン』と言うものがある。漢字で書くと『無塩』塩を使っていないと言う意味で、ブエンは塩漬けでない鮮魚を指す言葉だ。山奥の地で新鮮な海魚を食べることは貴重だった。なにせ海から里まで人の足で数日を要したのだから。塩は太古の昔から山の民にとって死活問題でありつづけてきた。塩は単にミネラルを補給するものでなく、保存食を作る際に多用するものでもあった。醤油も味噌も、豆腐も漬物も皆塩を用いる。しかし、山では塩を採ることは出来ない。古来、塩の道が日本のあちこちに引かれた飛騨においても同様であった。谷屋の前の街道も、その昔『越中ぶり街道』と呼ばれた塩の道だった。今や味付けとして振られる塩だが、元は保存の為に塗り込まれたものだった。美味しそうな匂いを漂わせる岩魚の塩焼きを見ながら太古の塩と人々との関わりに想いを馳せた。
・飛騨の伝統工芸品 『宮笠』イチイと檜で編まれている。
宮笠、江名子バンドリ、有道杓子、一位一刀彫り、飛騨には今も多くの伝統工芸が残る。写真はその中の一つ『小屋名しょうけ』の実演だ。久々野町小屋名地区で作られてきた竹細工のざるで、野菜の水切りや米とぎザルとして使われてきた。片口になっていることが多く、水を切るのが容易いのが特徴だ。竹細工は日本中どこでも見られたものだが、制作に大変な手間と時間を要し、材料の調達も容易ではないので、減少に歯止めが効かない。飛騨においても保存会が技術継承を行なっていなければとうに潰えた文化であったろう。
『使いやすい』とは、『壊れない』や『手入れが容易い』と言うものさしだけで測れるものではないだろう。僕はこのような手間がかかって愛おしさを感じる道具のことを『気が合う道具』と呼びたい。道具に対する情愛は、人に対する情愛と同じだ。自分にとって都合が良く、何をしても傷つかない人よりも、めんどくさいけれどかけがえのない、そんな気の合う人々と生きることの方が、僕は何倍も魅力的に感じる。生きること、関わることはめんどくさい。しかし、めんどくさいからこそ、生は輝くのではないだろうか?
谷屋の戻り、朝市で買ったりんごを切り分けた。瑞々しい甘さが口いっぱいに広がる。今日ここでしか得ることが出来ない経験がある。それは飛騨が豊かである証拠だ。そして、旅人を自宅に招くように受け入れてくれる懐の深さが谷屋の、いや飛騨の旦那衆・日下部家の魅力なのだろう。
・谷屋のご予約、詳細は以下の公式サイトからが便利です。