シャルル・ドゴール 民主主義の中のリーダーシップへの苦闘
シャルル・ドゴールは、フランスの軍人政治家です。第二次世界大戦において、ナチス・ドイツがフランスに侵攻し、フランスのヴィシー政権はその傀儡政府となりドイツとの宥和政策を継続する中で、イギリスに亡命した若き国防次官ドゴールは、ロンドンのBBCラジオを通じてドーバー海峡の向こう側のフランス国民にフランスの独立を叫びました。第二次世界大戦後、いったんは政界から退きますが、再びフランスの国難となったアルジェリア動乱にあたり、フランス大統領として再び政界に復帰。フランス外交の難しい局面を見事打開することに成功した国民的英雄です。
ドゴールは、1890年フランス、リール県生まれ。父親はイエスズ会系の学校の校長として歴史を教え、祖父は歴史家という家庭で、幼い時から祖国フランスに対する偉大さ・敬愛精神を育みます。また幼少時代からへんに意固地で、自尊心の高い性格。また文才もありました。このような特徴は彼の後年の軍人気質や文筆活動にもつながって行きます。1909年9月には、サン・シール陸軍士官学校に入学、軍人としての道を歩み始めます。第一次世界大戦では、軍人として戦地へ赴きますが、最も厳重な捕虜収容所だったインゴルシュタット城をはじめいくつかの捕虜収容所を転々とし、五回におよび脱走を試みるも全て失敗、終戦と共に解放されます。同じ時代に生きたイギリスの軍人政治、W.S.チャーチルは、軍人としてボーア戦争に赴き、鉄道で移動中、敵軍との交戦に巻き込まれ、捕虜生活を約1年間送りましたが、脱走を企て見事成功。イギリス帰国後は、英雄的扱いを受けたのとは対照的です。おそらくは、捕虜として終戦を迎えたことに対し、本人の中で忸怩たる思いがあっただろうとこは想像に難くありません。
前述したように、第二次世界大戦では、ロンドンで、亡命政府「自由フランス」を結成し、BCCラジオでフランス国民に向かって演説を行いフランス国民を勇気づけます。そして、1944年6月6日の連合国軍によるノルマンディー上陸作戦成功後の同年8月、パリ解放を実現します。ド・ゴールはパリ市庁舎で、臨時政府の帰還と解放を伝える演説を行い、翌日凱旋パレードを行い、パリ市民から歓喜をもって迎え入れられます。この後のフランス解放から 1946年1月まで、フランス臨時政府の首相を務めいったんは政界から身を退きます。
ロンドンから亡命政府代表としてフランス国民を勇気づけ、結果的には、連合国軍と共闘し、フランス解放を成し遂げた英雄ドゴールですが、連合国軍の中では、むしろ厄介者で扱いにくい人物として疎んじられていた存在でした。当時の彼はフランスの若き指揮官でしかなく、ましてやフランスの国民選挙で信任された「代表」では全くありません。対するルーズベルトやチャーチルはアメリカ、イギリスの大統領、首相という一国を代表する立場です。さらに、連合国軍中、フランスは、ドイツに侵略された立場で、対ドイツ戦に資金、軍人、武器を供与するアメリカやイギリスに比べ、同等の決裁権や発言権などの権限はなかったのです。にもかかわらずドゴールは、彼ら二人に対して、故国フランスの立場から常に率直で、忌憚のない発言を行っていったのです。
第二次世界大戦に勝利し、国際連合の常任理事国入りしたフランスに再び暗雲が立ち込めます。アルジェリア動乱です。第二次大戦後、世界では、植民地独立の流れから民族自決・独立運動が巻き起こっていました。アルジェリアというのは、フランスの地中海の対岸の北アフリカにあるフランス領地で、そのフランスの支配は100年以上に及ぶものでした。それだけにこのアルジェリアの独立運動に対しては、アルジェリアの植民者やフランスの保守派からは過激な反対運動が起こります。「1958年5月、アルジェリアのフランス植民者(コロン)がアルジェリアの独立運動に対抗するためアルジェリア駐留軍と結託して本国政府に反旗を翻し、「ド・ゴール万歳」(*)を唱えてフランス本土への侵攻計画を立案。」(Wikipediaより)アルジェリアのフランス駐留軍がフランス本国に武器を持って侵攻する、というのですから、穏やかではありません。一種のクーデターみないな感じです。しかし、このアルジェリア動乱というのは、後にアルジェリア戦争と呼ばれるようななったことからもわかるのですが、当時はフランス世論を二分し、多くの国民を巻き込んだ大問題だったのです。
朴訥で生粋の軍人あがりのドゴールですが、おそらく、フランス国民は、第二次世界大戦当時、自国がドイツに侵略され失意のどん底にあった時、ラジオの向こうでひたむきにフランス国民の団結、フランスの独立のための戦いを叫んでいたドゴールの姿が再び目の前に蘇ってきたのでしょう。ドゴールは、この国難にあたり国民投票により強力な執行権を与えられ第18代フランス大統領として政権に復帰します。(第五共和政)
ドゴールは当時の状況からアルジェリア独立やむなし、と判断し独立を容認しますが、独立反対派はテロや暴動を起こし、さらにはドゴール暗殺も企て未遂事件まで起こします。しかしここからが軍人ドゴールの面目躍如たるところで、幾たびかの暗殺計画にも物おじせず、最後までアルジェリア独立を支持し続けました。このドゴール暗殺は都合30回にも及んだと言いますが、ドゴール暗殺を題材にした映画もあります。(「ジャッカルの日」1973年製作、フレッド・ジンネマン監督) 身の危険を顧みずアルジェリア問題に取り組んだドゴール。そして1961年、フランスの国民投票によりアルジェリアの民族自決が決定。ついに翌1962年、遂にドゴールはアルジェリア独立を承認したエビアン協定の調印に成功するのです。
このようにアルジェリア問題において難しい局面を打開したドゴールですが、第二次世界大戦後から冷戦時代へ移行する中でヨーロッパにおける外交においても難しい舵取りを行いました。アメリカとソ連の冷戦激化とそれに伴うアメリカによるNATO 創設という大きな時代にうねりの中で、ドゴールはNATOからの脱退や共産国中国との国交樹立やソ連との独自接触、先の大戦での仇敵、ドイツとの融和姿勢など外交においてもフランス独自の姿勢を示しフランスの存在感を示し続けたのです。特に強国であるアメリカとの外交における難しさにおいてはある面、日本人にも理解できる部分があると思いました。
本書の著者、渡邊啓貴さんは東京外国語大学/院教授で本書の執筆に10年以上費やしたそうです。そのせいかフランス戦後史の全くの初心者である私もドゴールの人間的魅力が理解できました。余談ですが、武骨で堅物のドゴールですが、彼の次女アンヌは生まれつきの知能障害で、その人生はわずか20年という短いものでした。彼女が生まれた時、ドゴールは「私たち家族で、できる限りの愛情で彼女を包んであげよう。この試練のために神が我々を選んだとしたら、私たちは特別だと思われたのだよ。」と泣いてる妻を優しく抱きしめたといいます。そして夫妻はアンヌが短い人生を終えるまで、愛し続けたのです。
(*)愛国者で軍人でもあるドゴールを自派に取り込み、煮え切らない現政権の交替を加速させたかった保守派の意向。ドゴールはアルジェア独立反対側に与していない。
(下)パリ解放後、凱旋門前でパレードを行うドゴール(中央左側手前)