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YAMAHA YDS-1 1959

2018.04.25 12:09

YAMAHA YDS1 

(リード)

富士登山レース、浅間火山レースといった大イベントがメーカー間の技術競争の舞台となって、1950年代の後半になると、我が国のモーターサイクルの性能は飛躍的に向上することになった。戦後の混乱期に雨後の竹の子のごとく誕生した2輪メーカーは、存亡をかけてレースに参加したのだ。こうした熾烈な戦いを経て、技術力をともなわない多くのメーカーは次第に淘汰されることになった。

(本文)

 ヤマハも、この次期、社運を賭けてレースに没頭した。1957年10月、第2回浅間火山レースにヤマハは、実用車のYD系を改造した魅力的なレーサーを投入した。YD/A、YD/Bと呼ばれたそのレーサーは、ベースのプレスフレームにかえて、新たに設計されたクレードルフレームが用いられていた。さらに、セパレートにカウリングを装着するなど、その出で立ちは本格的なレーサーにみえた。 この2種類の250㏄クラスのレーサーは、それぞれ異なった仕様のエンジンを搭載していた。その違いは、主に両エンジンのボア・ストローク比で、YD/Aは54×54㎜のスクエア・タイプ、YD/Bは56×50㎜のショートストローク・タイプのエンジンが搭載されていた。ヤマハのエンジニアは、決定的な自信を持てないまま、レース当日を迎えることになったのだ。しかし、レースでは、そんな技術陣の不安をよそに、どちらのタイプも並外れた競争力を発揮して、1位から3位までを独占してしまった。この日、ヤマハは125㏄クラスでも圧勝し、レースに強いヤマハをアピールすることになった。

  勢いを得たヤマハは、浅間で優勝したYD/Bをベースに、さらにチューニングを施したレーサーを、アメリカのカタリナ島で行われるダート・レースに送り出した。ライダーは、エースの伊藤史朗。伊藤は、トラブルにもめげずにYD/Bを6位でフィニッシュさせた。その後、YD/Bはアメリカ本土のレースを転戦して、アメリカ市場にヤマハの名前を印象づけた。この海外遠征したYD/Bは、後にカタリナ・レーサーと呼ばれることになる。

 1959年になると、このカタリナ・レーサーをデ・チューンしたような本格的なロードスポーツ、250Sが発表された。エンジンは、パワーバントが広げられた結果、最高出力は20馬力にダウンしていたが、件のパイプフレームは、カタリナ・レーサーを彷彿させるクレードル・タイプが採用されていた。また、当時のヤマハのデザインを担当していたGKグループの手になるコバルトブルーを基調としたカラーリングは、マニアの度胆をぬく斬新さであった。この250Sは他にも、国産モーターサイクルとしては初の5段ミッションやレーサーゆずりのツインギャブが採用されていた。そして、これらのメカニズムを使いこなすための必需品ともいえる、タコメーターも標準で装備していた。このロードスポーツが発売されたのは6月のことだったが、8月の浅間火山レースにははやくも、250Sをベースとしたレーサーが登場した。

 このレースには、昨年の雪辱に燃えるホンダが、市販レーサーともいえるCR71を大量に送り込んできた。対するヤマハは250S用にレーシングキットを用意して、レースにそなえた。この年のレースは、関西ホンダ・スピードクラブからエントリーした、弱冠18歳の北野元選手が大活躍したことで知られている。250㏄クラスでも、北野の駆るCR71が抜群の速さをみせつけ、食い下がるヤマハ勢をおさえて、ホンダに勝利をプレゼントすることになった。

 しかし、YESと名付けられたボアアップ仕様の250Sが、350㏄クラスで優勝したのをはじめ、耐久レースでも、ホンダの4気筒レーサーを相手に善戦して、観客を沸かせた。優勝こそ逃したが、充分に駿足ぶりをアピールした250Sはレース後、ただちに一般のマニアに向けて市販に移された。この量産タイプの250Sは、浅間の教訓からフレームが補強されてはいたが、その他の部分はレーサーそのものといった出で立ちで、キャブレターやバッテリーがむき出しのスタイルは、プレスフレームが特徴だったヤマハのイメージを一変させるものだった。

 また、レーシングパーツも同時に市販された250Sは、その後の我が国のレースシーンに欠かせない存在となっていった。浅間火山レースは第3回大会を最後に、その幕を閉じることになった。しかし、その後も浅間の名は、250S改造レーサーに引き継がれることになった。通称“アサマ型”と呼ばれた250Sにキットパーツを組み込んだレーサーは、その後も全国各地で開催されたクラブマン・レースを席巻した。宇都宮やジョンソン基地を舞台に、アサマ型レーサーはCR71やCB72をライバルとして大暴れしたのである。 

 一方、アップマフラーに改造されてモトクロス用タイヤを履いた250S改造モトクロッサーも、MCFAJ全日本モトクロス大会やMFJモトクロスGPで大活躍した。1960年代前半、アサマ型レーサーの2サイクル・ツインのエキゾースノートは、日本全国に響きわたったのだ。250Sはその後、3000台を生産した時点で、ヤマハ伝統の呼称にならって250㏄を表すDの文字を使う『YDS1』と名称を変更したのである。YDS1は、ピーキーな出力特性のエンジンを素直な車体に搭載した、荒削りなロードスポーツであった。乗り手に腕を要求したYDS1は、それゆえに熱狂的なマニアに支持された。その後、今日に到るまで連綿と続く、ヤマハ伝統の2サイクル・ツインの歴史は、このYDS1によって第一歩が記されたのである。