Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

右脳と左脳をつなげる訓練。抽象と具象

2023.01.29 07:24

https://weekly-haiku.blogspot.com/2010/08/4.html?m=0 【仲介者をさがせ】より

山口優夢

角川『俳句』8月号の「現代俳句の挑戦」(髙柳克弘)は、第20回「主題に奉仕する季語」というタイトルで、同誌6月号に掲載された座談会「若手俳人の季語意識」の内容を髙柳氏流に噛み砕いた内容となっている。

座談会で出た関悦史の「季語があると便利」という発言を「季語の偏重への疑問」が「もっともラディカルなかたちで出ている」例として挙げ、若手俳人の発言と句作に季題主義からの脱却を見ている。そのような態度は、季語だけを詠んでゆくという姿勢とは異なるものを志向している点で、俳文学者乾裕幸氏の、「季語は、古典と現代、幻想と現実、優雅と卑俗等々の仲介者」という論と通底しているとし、そもそも季題主義の権化のような虚子にさえ

酌婦来る灯取虫より汚きが

という句があることから、季語のみを詠み込むのではない、「主題に奉仕する言葉として季語を見る」俳句というものが元々あったのであり、それが若手を中心に顕在化しつつある、とする流れだ。

季語以外に主題を見ることで、俳句の領域を拡大し、季語そのものの更新もはかることができる、という野心的な論だと思うが、最後の段落における「季語以外の主題を意識するほど、主題の通俗性、散文性を、詩歌の枠内にとどめておく「仲介者」としての季語の役割は、むしろ重くなってくる」というまとめは、いささか疑問を感じないでもなかった。仲介者の役割を担うことができるのは、本当に季語だけなのか、という点である。

もちろん、有季定型派の大多数に対する目配せの意味もあるには決まっているが、実際、季語以外に仲介者はいないのか、というのは気になることではある。なぜなら、少なくとも髙柳氏の議論においては、季語が俳句の中でどう使われているかという点から「季語が仲介者である」の論議がなされているのであり、季語が季節の言葉であるというところに立ち戻った形で「仲介者」の議論が出ているわけではないからだ。だから、季語であることは、仲介者であることの必要条件ではあっても十分条件ではないかもしれないのである。

しかし、季語以上に「古典と現代」、「優雅と卑俗」をつなぐにふさわしいものは確かに実感としてちょっと思いつかない。それは、季語というものが千年以上の間に多くの詩歌によって鍛え上げられてきた言葉であるからではないか。古人を思い起こすものであると同時に、自分自身でも実感できるものでもあり、はるかを思うものであると同時に、自分の身近にあるものでもある。日本語が、季語というものをそういう言葉として鍛え上げてきた経緯があるからではないか。

そもそも無季俳句における「仲介者」とはなんだろうか。

二十のテレビにスタートダッシュの黒人ばかり 金子兜太

鉄を食ふ鉄バクテリア鉄の中 三橋敏雄

戦争が廊下の奥に立つてゐた 渡辺白泉

タイプの異なる無季俳句を並べてみた。先ほど僕は、「季語以外に仲介者はいないのか」という問いをたててみた。しかし、実際にこうして無季俳句を並べて見てみると、無季俳句とは、仲介者を顕在化させない方式と言うこともできないだろうか。

金子の句では、テレビで黒人がスタートダッシュをしているということ自体は単なる現実である。そこに「二十」という数の限定を行なうことで、もちろんこれは電機屋の店頭であろうと思うものの、どこか異様なエネルギーが渦巻いた空間を作り出している。そこに、現実がゆがんで幻想に足を伸ばそうとする契機が孕んでいる。

三橋の句では、鉄バクテリアの存在そのものが、我々にとっては実感できるものではないという点で幻想のようなものであるが、そこに「鉄を食ふ」という措辞を持ってくることであたかも現実としてそれを感じ取ることができるような書き方をしている。しかも、「鉄の中」という落とし込み方のナンセンスさが、幻想を些細な現実と隣り合わせにしている。

渡辺の句は、「戦争」という抽象と「廊下」という具象を「立つてゐた」という言葉で強引に結び付けたもの。その強引さは、新興俳句らしくモダンな現代詩の味わいを残しており、仲介者を顕在化させる有季俳句とは異なる質感をもたらしている。

それぞれ三句とも、顕在化した仲介者ではなく、句を書きあげる方法論の中で、詩的空間を構築していると言えよう。よく、無季にするためには死や戦争といった大きな主題が必要だ、と言われることが多いが、それ自体が、季語を主題とした見方をベースにした話であり、主題ではなく仲介者としての季語、という見方を認めるならば、無季俳句において季語にかわるものを模索するのは、実はもっと難しいことなのかもしれない。

なぜ季語以外に仲介者が顕在化しないのか。高山れおな氏が豈weekly95号で坪内稔典氏の著書『モーロク俳句ますます盛ん -俳句百年の遊び』に触れている文章(「モーロクの辺境の反対なのだ 『モーロク俳句ますます盛ん -俳句百年の遊び』をめぐって」)がある。その中で、彼は、ネンテン氏が俳人は日本語の辺境に住んでいるべきだ、と発言したことに触れて、次のように述べている。

俳人という人種の稟質からすれば、当然、日本語の辺境に住んでいるはずだとわたくしも思い、また辺境に住んでいるべきだとさえ思いますが、じつは俳句というのが全然辺境でなかったりする可能性はないのでしょうか、日本語においては。「自己、正義、理念」が位しているべき場所に、よりにもよって「俳句」が席を占めている。二十年来のわが国の政治状況を見ながら、わたくしの中で半ば確信となりつつある悪夢です。恐怖と申しても過言ではありません。第二芸術論は結局のところ無力だった、ということでしょうか。不幸にもなのか、幸いにもなのか、なにがなんだかわかりませんが。

よりにもよって日本語の中心に据座っているのは、俳句、というよりも、季語なのではないだろうか。日本語は、「自己、正義、理念」といった概念を育てる代わりに、季語という四季の風物に対する美的感覚を磨いて来たのではないか。

だから、僕らがやらなければならないのは、便利な季語を使って現代を更新してゆくことや、仲介者を顕在化しないことで句法を編み出してゆくことと同時に、季語以外の、まだそれがなんであるかよく分からない辺境の「何か」を仲介者として育ててゆくことでまだ誰も見たことのない新しい俳句を作ってゆくことではないのだろうか。それとも、そんなことはただの夢想に過ぎないだろうか。


https://minamiyoko3734.amebaownd.com/posts/15971358/ 【「閑かさや」の句に秘められた真実】

https://www.muji.net/lab/living/150909.html 【右脳と左脳と虫の声】より

灼熱の太陽が照り付けた夏も終わり、澄んだ空気が心地よい季節を運んできました。スポーツ、芸術、味覚と、秋の楽しみはいろいろありますが、夜長の楽しみのひとつは虫の声。ところで、この虫の声を心地よいと感じる私たち日本人は、世界のなかでは特異な存在だということをご存じでしたか?

あれ松虫が…

秋になると、虫かごに入れた鈴虫の鳴き声をBGMとして聞かせる日本料理店もあるように、私たち日本人は遠く万葉の時代から虫の音に耳を傾け、季節を感じてきました。「虫の音(ね)」「虫の声」と表現するように、日本人にとって、それは心地よいサウンド。ネット上に、コオロギや鈴虫などの鳴き声を納めたサイトがたくさんあるのも、虫の音を楽しむ人が多いことのあらわれでしょう。

ところが、西欧の人たちには、この虫の音が「ノイズ」と認識されているとか。同じ虫の音を聞いて、なぜこんな違いが起こるのでしょう? それを解明したのは、東京医科歯科大学名誉教授、角田忠信博士の「日本人の脳の研究」でした。

外国の人には聞こえない?

そもそものきっかけは、角田博士が1987年にキューバのハバナで開かれた国際学会に参加した時のこと。

歓迎会の会場をおおう「蝉しぐれ」のような虫の音に驚いた博士が、周囲の人に何という虫かと尋ねたところ、だれも何も聞こえないと言うのだそうです。パーティが終わった深夜、静かな夜道には、先刻よりもさらに激しく虫の音が聞こえていました。若い二人のキューバ人と帰途についた博士が何度も虫の鳴く草むらを指し示しても、二人には何も聞こえないようで、不思議そうに顔を見合わせるばかり。博士はその後、毎日この二人と行動を共にしましたが、一人は3日目にようやく虫の音に気づいたものの、もう一人は1週間たってもついにわからないままだったといいます。もしかしたら、日本人の耳と外国人の耳には違いがあるのかもしれない…博士の研究は、そんなところから始まりました。

左脳で虫の音を聞く日本人

人間の脳は右脳と左脳とに分かれていて、それぞれに得意分野があります。言葉や計算などの知的作業を分担するのは、言語脳といわれる左脳。これに対して音楽脳といわれる右脳は、非言語音を感覚的にとらえるのにすぐれているといわれます。この脳の働きを日本人と西欧人で比較してみると、西欧人は虫の音を右脳(音楽脳)で処理するのに対し、日本人は左脳(言語脳)で受けとめる、つまり虫の「声」として聞いていることが角田博士の研究で明らかになりました。

一体どうしたら、そんなことがわかるのでしょう? 人間の耳から脳への神経系の構造は、左耳から入った情報は右脳へ、右耳から入った情報は左脳へ行く、という交叉状態になっています。そこで、左右の耳に同時に違った音を流した後でどちらの音を聞きとれたかを調べることで、どちらの脳が認識しているかを判定。いろいろな音でこうした実験を積み重ねていくと、音楽や機械音、雑音は右脳で、言語音は左脳で受け止めていることがわかったのです。

ここまでは、日本人も西洋人も共通なのですが、違いが出るのは虫や動物の鳴き声。こうした音を、西洋人は楽器や雑音と同じように右脳で聞いているのですが、日本人は言語と同じく左脳で聞いていることがわかりました。

日本語の脳

こうしたことの背景には、その言語における「母音」が大きく関わっているといわれます。母音より子音の方が重要な役割をもつことの多い西洋人は、母音を音楽脳で処理するのに対して、母音で言葉を形成する部分が大きい日本語を話す日本人は、母音を言語脳で処理するのだとか。そして、虫や動物の声は母音に非常に似ていることから、日本人はこれらの音を言語脳で聞くと推察されています。それだけでなく、波・風・雨の音・小川のせせらぎといった自然音や邦楽器の音なども、日本人は左脳で聞いているのだそうです。

さらに興味深いのは、日本人でも外国語を母語として育てられると西洋型になり、外国人でも日本語を母語として育つと日本型になってしまうこと。西洋型か日本型かは、人種の違いではなく、幼児期にどんな言語を母語として覚えたかの違いである可能性が高く、「日本人の脳というより"日本語の脳"と言うべきだろう」と角田博士は語っています。博士の今までの調査では、日本語と同じパターンは世界でもポリネシア語でしか見つかっていないということです。

虫の音をはじめ、生きとし生けるものの「声」に耳を傾ける。自然に対する日本人のそんな感受性は、左脳で聞くという日本語の脳とも関係していたのかもしれませんね。その一方で、さまざまな音にあふれる現代の暮らしでは、虫の声に耳を傾ける時間が減ってきているような気もします。せっかく虫の「声」を聞く能力が備わっていても、心のゆとりがなければ、聞こえるものも聞こえてこないでしょう。

夏の暑さで疲れた体と心をリセットするためにも、ちょっと立ち止まって虫の声に耳を傾けてみませんか。そういえば、「虫時雨(むししぐれ)」という美しい季語もあるようです。

https://www.youtube.com/watch?v=bO8OFSfw5ss