命の大切さと私の大切さ
以前にも書きましたが、私は何度も何度も、子供を亡くすという過去世を経験し、今世でも子供を病気で亡くしました。
その意味を、掘り下げて考えてみたのです。
その奥には、命を粗末にする人が許せない、という思いがありました。
子供を亡くしているから、当然と言えばそうですよね。
生きたくても生きられなかった命がある。
そこを思うと、どうして自ら死を選んだり、人を殺めたりするのか、という葛藤が出てきていました。
でも、命と向き合うのは、そういう場面だけなのでしょうか?
命とは、人間の生命だけではありません。
私たちがいただく、肉や魚、野菜たち。
私たちが着ている服。
日々使っている物たちにも、公園の木々にも、全てのものに命はあるのです。
そしてなによりも、つい忘れがちだけれど、生きている私自身にも、命があります。
私はずっと、罪悪感や無価値観で自分をコントロールしてきたように思います。
子供が早産で生まれたことも、自分のせいだと思っていました。早く産まなければ、病気になることもなかったかもしれないし、亡くなることもなかったかもしれない。
ずっとそんなふうに、何かあるたびに自分を責め続けていたのかもしれません。
そして、過去世でも似たような経験が繰り返されている意味を考えた時、私はずっと、自分の命そのものを粗末に扱ってきていたのだな、ということに気づいたのです。
自分に罪悪感を持つと、自分自分を否定したり、自分で自分を苦しめてしまう、という状態に陥ります。
それって、生きながら自分を殺しているようなものなのかも、と思います。
そう、命を粗末にする人とは、自分のことなのです。
自分を大切にしない人。
そんな自分に、嫌悪感を抱き続けてきたのですね。
前からわかってはいたのです。
自分を責めている自分のことは。
でも、どこかでそんな自分をまた否定し、善人にでもなろうとしていたのかもしれないな、ということに、また気づきます。
完璧ではない自分を知っているのに、完璧ではない自分を否定し、完璧になろうとしているかのような、そんな自分がいたのですね。
自分で自分を罪人にしていたこと、自分に嫌悪感を向けていたことを素直に受け止めて行くと、不思議なことに似たようなことで悩んでいる友人から久しぶりに連絡が来ました。
彼女の話を聞いて、罪悪感への対処法を話しながら、自分も浄化され、癒されていったのでしょうね。その日はいつも以上にすごく眠くなっていました。
そしてその翌日、職場に行くと、以前から職場にいる時に限って、不思議と自分の中から次々と気づきが起こったり、自分の中の湧き上がってくる感情に気づいたりしていたことにも、改めて気づきます。
職場はこどものための空間で、どうやらここに来ると、こどもたちの純粋なエネルギーが私の中にあるものを浄化してくれているのだな、ということにも気づくことができたのです。
今まで、受け取れていなかったものが受け取れた瞬間でした。
とてつもない大きな愛を感じたのです。
どれほどのサポートが入り、バックアップしてくれているのでしょう。
計り知れない宇宙の愛の深さを感じました。
そして、もっと自分の思いを感じようとも思えた瞬間でもありました。
決して自分を責めるのではなく、ただ感じる。
ありのままの自分の気持ちを、ジャッジせず、ただ受け入れる。
もっと深く、自分と繋がりたい。
純粋に、今そう思っています。