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無為自然

2023.01.30 06:33

https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/7123472/ 【無為自然】

Facebook兼井 浩さん投稿記事

危険が迫るこの地球 大気大地が汚染して 緑なくなりゃ人も死ぬ 天知る地知る 人のみ知らず

***

『福岡正信 いろは革命歌』の一部です。

い 

一番初めに捨てりゃよい 手錠の時計 足かせお金

一番初めに捨てりゃよい  煮ても焼いても食えない時間(心)

箸にも棒にもかからぬ空間(物)

論より証拠 粘土団子(100種類以上の種を団子にしたもの)の種まけば

地球は元のパラダイス

論より証拠 他の生き物はみな 無心無知無為で 無一物

論より証拠  絶対変わらないと信じられていた時空間(時間と物)も

相対性理論で変わると言われ  時空伸び縮みを実証する宇宙船で実験開始

恥ずかしいのは 人間ばかりが偽物造り 悪銭見につけ浮き名を流す

恥ずかしいのは 人間ばかり 時空のどれい 学び働き 金貯めて

恥ずかしいのは人間の欲望の拡大  地球独占で飽き足らず

この際と宇宙開発まで乗り出した

ほっとけ仏 ほっとけないのがおまえさん 閻魔出てこいこの世は地獄

正邪善悪裁く人が無し

兵は兵器で滅ぶと知りながら 儲かる兵器造りが止められず

とうとう来たか 世も末か 原爆まいて 自然も人も皆殺し

智慧と知識は違うぞなもし 知識集めじゃ 智慧滅ぶ 知恵の木の実は蛇の知恵

のらりくらりと横道それる

理屈 屁理屈 馬のわら靴 日ごとに変わる 使い捨て

抜き足差し足 濃い泥棒は猫のこと 今じゃ国泥棒が大流行

流転の生死 心の迷いは 遺伝子操作じゃ片付かん

運がつきたか 地球の命運 この一瞬 たった独りでのたれ死に

運のつき 神と自然と人と分別し ちりじりばらばら地球が滅ぶ

桜咲いても 散るのは早い 人間だけが無駄花咲かして 憎まれる

聞く耳持たず話もしない 山川草木 秘め言葉 天知る 地知る

目玉二つできょろきょろするな 心眼ひとつでこと足りる

見たい聞きたい知りたいが仇となり 溺れて死ぬる知恵の海

死ぬる生きるは大間違い 生きて万歳 死んで万歳

偉い賢い善い悪い 人の分別 基準がなけりゃ 何が善いやら悪いやら

人の一生はただ一度 片道切符でどこに行くやら帰るやら

問題にならぬ問題こそが重大事 なぜに人間ばかり 働くために学び苦労す

急かすな騒ぐな 自然にまかせ人知 人為を捨てりゃより

すったもんだで苦渋(九十)の坂超えた あとは放っときゃ仏になれる

「自然農は、これまで40年、50年やったけど、結局結論出せなかった。。何も残せなかった。だから数え唄でも残そうかと思った。」

「子供でも唄にして歌ってくれれば残るかもしれないが、それもなければ今日でおしまい」

*毎日のように書いていらっしゃったようで、その度に新しい「いろは革命歌」が生まれたようです。

http://www.haginet.ne.jp/users/kaichoji/hw-bunnka8.htm 【文化 第8話  老荘に学ぶ 】より   

老荘とは、老子(紀元前4世紀頃の人)と荘子(紀元前4世紀後半の人)のことで、その教えを老荘思想とも言います。当時の中国は戦国時代と呼ばれ、戦乱の絶えない時代でした。

このような乱世にあって、儒教の大成者である孔子(紀元前552~479)は、道徳や儀礼が失われたので乱世となったのであり、道徳や儀礼を取り戻さなければならないと主張しました。

これに対して老子は、道徳や儀礼こそが乱世を招いた張本人であると主張しました。すなわち道徳や儀礼は人間が作り出した「人為」であり、これが人間社会に差別を生み出し、その差別が乱世の原因になっているというのです。だから老子は道徳や儀礼といった「人為」的な生活をやめて、「自然」の生活に帰れと主張しました。

老子がこのように主張する根拠に、戦乱に明け暮れる都市とは無関係に天下太平を満喫する農村風景があったからだといわれています。「日出でて作ち、日入りて息い、井をうがちて飲み、田を耕して食う。帝力、我において何かあらんや」(「撃壌歌」)という中国の農村風景を歌った古い歌がそれを表しています。

老荘が主張する「自然」とは、いわゆる「自然」(nature)とは異なり、文字通りの「自ずから然り」という意味です。これを森三樹三郎氏は「他者の力によらないで、それ自身に内在する力によって、そうなっていること」と説明しておられます。そしてこの場合の「他者」とは「人為」のことですから「自然」は「人為」を排除するため、「無為自然」ともいわれます。

老子にはまた、「無為にして為さざるは無し」という言葉もあります。「無為にして」とは「人間の人為なくして」であり、「為さざるは無し」は「万物それ自身の力によって全てはうまく為されている」という意味です。人間が余計な手出しをしなければ、万物はそれ自身の力によってうまくいくという主張です。

これは、人間が余計な手出しをするので、全てが乱れるという主張でもあります。環境破壊等の多くの問題を抱える現代文明にとって、老荘の教えは学ぶに値する教えと言えましょう。

そもそも日本文化は老荘の「自然」に共鳴する基盤がありました(「日本文化の特質」)。親鸞の「自然法爾」の思想や、国学者本居宣長の説く「自然」、俳句の大成者である芭蕉も、偉大な自然の働きとしての「造化」という言葉を盛んに使っています。

このように日本文化には老荘的な「自然」が脈打っているわけですから、我々日本人は自国の文化を振り返ることによって、現代的な問題解決の糸口を十分つかみ得るように思っています。 (平成13年9月)

https://www.ningenclub.jp/blog02/archives/2008/08/post_485.html 【無為自然と万物斉同】より                                            船井幸雄

にんげんにとってもっとも大事なのは生きる哲学(考え方)だと思います。 

私の考え方(哲学)は、「老荘思想に近い」とよく言われます。

75才にもなると、だれにもそれなりの哲学が出来ますが、たしかに老荘思想とよく似ています。 

といっても皆さまにはお分りにくいと思います。

つぎに紹介するのは京大学生新聞6月20日号の記事の一部なのですが、非常にうまく老荘思想を説明しています。 

そこで、そのポイントだけを紹介します。 

老子の「無為自然」と荘子の「万物斉同」

老子思想の根本は「無為自然」であったが、それを受けた荘子思想の根本は「万物斉同」であると言ってよい(ちなみに老子の生地候補の一つたる沛〔はい〕も、荘子の生地蒙〔もう〕も東夷族とされた殷の遺民を集めて作った宋国に属しているので、殷の宗教文化を相続していたのかもしれない。

また、宋国は 「四戦の地」と呼ばれるほど戦禍の集中しやすい土地でもあった)。

「無為自然」は人為的な分別・区別・差別を排するが、荘子は是非・善悪・美醜等といった

二元的対立をなくし、万物をあるがままに受け止めることによって(「斉同」とは「斉〔ひと〕しく同じ」ということである)、自然に至ろうとするのである。

これは有無の対立をも包含する「絶対無」「無限なる無」の本体論(ちなみに『荘子』大宗師篇には「造物主」「造化者」の語も見られ、ヨブ記を思わせるような不遇な運命の享受が語られており、応帝王篇では「造物者」を友とするといった寓話も出て来る)に立つもので、これを本性論・人生論に適用すれば「死生存亡の一体」(生死斉同、死生一如)となり、生死をも超越した観を持つことになるのであるが、実に荘子は中国の思想家の中で「死」を正面から論じた最初の人物であると位置付けられている。

荘子は妻の死を従容として受け入れ、あるいは旅先で髑髏を叩き、死後の世界を語らせるなどしているため、六朝時代には荘子は死を楽しみ、生を厭う死の哲字を説く者だという理解もなされていたが、これについては 『荘子』の注を書いた晋の郭象(かくしょう)の理解が最も正確なようである。

「もし荘子が死を楽しみ、生を厭うのであれば、それは万物斉同の思想に反する。

 生死を斉(ひと)しくするというからには、生にあっては生に安んじ、死にあっては死を安んずるのでなければならない。これが荘子の本意である。」 (『荘子』至楽篇注)

「聖人」「真人」は「道枢」の人

荘子によれば、「聖人」(「真人」「至人」「神人」とも表現される)は相対差別の立場に依ることなく、これを天に照らして、人為の差別を超えた自然の立場から物を見るとし、こうした対立を消失した境地を「道枢」(どうすう、「天釣〔てんきん〕」「両行〔りょうこう〕とも言う」と呼んだ。 

有名な「朝三暮四」「胡蝶の夢」の寓話も、「万物斉同」の立場を達観した「道枢」の教えに他ならないのである。

そして、それに至る道が「心斎」(しんさい、虚心になること)や「坐亡」(ざぼう、座禅入定に通ずるものがあるが、実は荘子思想こそ禅宗の淵源に他ならない)

であり、そうした境他に生きることが「逍遥」「遊」ということになる。

「上古の真人は、生を喜ぶことも知らず、死を憎むことも知らなかった。

この世に生まれ出ることを喜ぶでもなく、死の世界に入ることを拒むこともない。ただ悠然として行き、悠然として来るだけである。

 生の始めである無の世界を忘れることはないが、さりとて生の終わりである無の世界だけを求めることもない。

与えられた生は喜んで受けるが、これを返す時も未練を残すことがない。このような態度を

『計らいの心を以て道を捨てることなく、人為を以て自然の働きを助長しようとしない』

というのであり、このような境地にある者を真人と呼ぶのである。」 (『荘子』大宗師篇)

船井幸雄という人間も、老荘とよく似た考えを持っているということを皆さんに知ってほしいのと、皆さんなりにこれ以上の勉強をしてもらえるとうれしいと思い、少しむつかしい文章ですがあえて紹介しました。