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『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』感想 〜無類のエンターテイメント体験【ネタバレ】

2018.04.27 10:00

ついにこのときがやってきました。

2008年に公開された『アイアンマン』から10年。映画史に残る一大プロジェクトであるマーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)の到達点であり、集大成であるといえる『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』が公開されました。

当初は、2019年公開の『アベンジャーズ4(仮題)』とセットで二部作であると発表されており、題も『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー PART1/PART2』とされていました。しかし、その後それは撤回され、それぞれ作品として独立性が高いことから、前編は『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』と改められ、また後編のタイトルは未発表(2018年4月27日時点)となっています。

二部作でありながら独立性が高いというのは、ファンを非常に混乱させるものでした。他にも、関係者からは「衝撃の展開が待っている」「皆さんは何も知らない」といった意味深な発言が連発し、マーベルスタジオの徹底した秘密主義も手伝って、公開前から非常にミステリアスな一作であるというイメージでした。

では実際のところ、本作はどうだったか。

まず言えるのは、150分という長い上映時間で、これほどまでに一瞬たりとも興奮がおさまらなかった映画は初めてだったということです。内容どうこう以前に、まずエンターテイメントとして無類であることは確かだと感じました。

さらにヒーロー映画として言えば、これまた他に類を見ない試みをやってのけたとともに、おそらく最終的にはとんでもなく力強く普遍的なメッセージを伝えようとしていることがわかりました。

今回の感想記事では、本作がなぜ「無類」なのか、そして何を成し遂げようとしているのかということについて、詳しく作品構造や内容を振り返りながら書いていきたいと思います。



〈あらすじ〉

6つすべてを手に入れると世界を滅ぼす無限大の力を得るインフィニティ・ストーン。その究極の力を秘めた石を狙う“最凶”にして最悪の敵<ラスボス>サノスを倒すため、アイアンマン、キャプテン・アメリカ、スパイダーマンら最強ヒーローチーム“アベンジャーズ”が集結。人類の命運をかけた壮絶なバトルの幕が開ける。果たして、彼らは人類を救えるのか?  

(公式サイトより引用)



〈感想〉

※以下、ネタバレ注意



■史上最も「主人公」な悪役

本作における最も印象的な要素は、究極のラスボス・サノスの存在でしょう。2012年公開の『アベンジャーズ』でその存在が明らかになって以降、彼とアベンジャーズの戦いに向けて、MCUは周到に準備を重ねてきました。そしてついに本作でその戦いが描かれるわけです。

サノスについて、映画の宣伝では「最強の敵」や「最凶最悪の敵」などという、この手の作品ではよくある表現が用いられていました。「またそういう感じの悪役か」と思った方もいらっしゃるかもしれません。しかし、実際に映画を見てみると、これほどまでに「最強・最凶・最悪」の名に恥じない悪役は見たことがないというほどの圧倒的な強さでした。

兎にも角にも存在感のあるサノスですが、それは単に悪役として強いからというわけではありません。むしろ、彼は単なる「悪役」の枠に収まらず、本来主人公であるはずのアベンジャーズのメンバーを圧倒するほどの「主人公感」を備えていたのです。というのも、本作を観終わってみると、この物語はどちらかというとサノスの物語ではないかという印象が強いからです。

まず重要なのは、彼の目的が宇宙を破壊したり支配したりすることではなく、宇宙を救うことだということです。つまり、本作はサノスを単なる悪役や災厄にせず、自分なりの思想や正義のもとに行動する「もう一人の主人公」であることを強く印象づけて描いているわけです。しかも、その意志の強さは生半可なものではありません。大いなる目的のために自らの全てを犠牲にして、一人我が道を突き進む彼の姿は、ある種高潔といってもいいほどです。他にも、ガモーラを巡るシーンで苦悩したり、涙を流したりして人並みに葛藤するシーンがあるあたり、彼を「理解しがたいバケモノ」には絶対にするまい、という強い信念を感じます。『アベンジャーズ』、『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』、そして本作と、サノスの顔が次第に人間臭いものに調整されていったのも、このような理由からかもしれません。

作品構造の観点からみれば、本作は基本的に「一対多」の物語なので、必然的に「一」の方の存在感は強くなります。とりわけ、本作ではヒーロー全員がバランスよく見せ場を与えられているだけに、それぞれキャラ立ちはする一方で、やはりその分一人ひとりのサブキャラ感は増しています。逆に言えば、「一対多」でどうしても「多」の方が脇っぽくなってしまう作品の宿命をある種利用した作りともとれるわけです。

極めつけは、ラストシーンのあの表情です。全てを終えたあとの恍惚とした笑み。そこからの "Avengers will return." ……ではなく、まさかの "Thanos will return." 我々はそれを見た瞬間、本作がまさにサノスを主人公としたときのハッピーエンドの物語だということを悟るのです。


 ■本気でバッドエンド

つまり本作は、MCUが10年で積み上げてきたものをあえて破壊し、本気でバッドエンドを描くことに注力した作品であると言えます。もちろん、これは二部構成だからこそできることで、当然後編でヒーローによる巻き返しが起こると予想されます。しかし一方で、前述のように本作はサノスをある種の主人公として描いているために、「ヒーローのバッドエンド」=「サノスのハッピーエンド」となる構造が成り立ち、この作品単体で一応話は終わっているともいえるのです。明らかに悲劇的な結末でありながら、どこか一段落ついたような余韻が残るのはこのためです。『シビル・ウォー』でヒーローを分裂させたまま物語を終わらせるという器の大きさを示したMCUですが、本作は明らかにそれ以上です。映画史に残る世紀の大プロジェクトでこの「バッドエンド」を描くというとんでもない思い切りの良さ、器の大きさに感服するしかありません。

では、このような作りにすることで本作が得た恩恵は何だったのでしょうか。それは、エンターテイメントとして無類の興奮、熱量、エモーションを体験できることだと思います。

やはりどんなに凶悪な敵が出てこようが、「最強の敵」が出てこようが、ヒーロー映画は大抵最後には「正義は勝つ」を実践するため、ある種安心して観られる部分があります。しかし、本作は「本気でバッドエンド」の話であるため、冒頭から作品全体にどことなく絶望感と死の匂いが漂い続け、「これは本当にまずいんじゃないか」「シャレにならないんじゃないか」という気持ちを我々に抱かせてきます。しかも、それは後で覆されるための前振りでもなんでもなく、ラストに我々は本当にただただ絶望を突きつけられ、サノスの圧倒的な力を見せつけられることになるのです。この緊張感と恐怖感。本当にシャレにならないからこそ、「サノスを止めなければいけない」というプロットに現実味が湧き、それに立ち向かうヒーロー達への応援にいっそう身が入ります。これこそ、シリーズを追ってきたか否かに関わらず、本作が観客に圧倒的な興奮を与え、全身が沸騰するほどエモーションを掻き立ててくれる所以でしょう。しかもそれを、10年続いたシリーズの集大成といえるお祭り映画でやるわけですから、まさに無類の映画体験・エンターテイメント体験ができるわけです。これは、本作の大きな価値の一つであるといえます。


■代償と選択

突然ですが、トロッコ問題をご存知でしょうか。それは次のようなものです。


制御不能になったトロッコが、5人の作業員がいる線路に向かって猛スピードで向かっている。あなたが唯一できることは、分岐器を切り替えて、そのトロッコを別の線路に向かわせることだが、そちらの線路にも作業員がいる。ただし1人だけ。あなたは分岐器を切り替えるだろうか?


簡単に言えば、「5人を救うために1人を犠牲にしても良いのかどうか」という問題で、いわゆる倫理的ジレンマに関する有名な思考実験です。なぜこの問題を例に出したかというと、本作はまさにこのトロッコ問題をひたすら考え続ける物語でもあったからです。

本作のテーマは、「代償と選択」であるといえます。本作ではもっぱら「より大きな善を成し遂げるために、小さな何かを代償にするか」という問いが何度も投げかけられるのです。まさに、トロッコ問題のような倫理的ジレンマを扱っているわけです。

具体的に振り返ってみましょう。まず、サノスの行動原理がまさにそれです。このまま宇宙に生命が増え続けると均衡が崩れ、全てが死滅する。だからその前に全生命を半分に減らす。そこに貧富や地位の差を考慮しなかったり、ヒーローを倒すことより石の入手を優先するのが、その思想の「純粋さ」を物語っています。極め付けはソウルストーンのためにガモーラを犠牲にするシーン。サノスは、先の問いにひたすら「YES」と答え続け、全てを犠牲にしてきたのです。

一方で、ヒーロー側は「NO」と答え続けます。いや、正確に言えば、その前提条件が間違っているとするのです。すなわち、「命に大小はない」ということ。これはつまり、可能な限り全員を救える方法を最後まで探し続けるということなのです。

実際、ヒーロー側のキャラクターは一貫してこの姿勢を貫いています。


・ロキは兄を守るためにキューブを手渡す

・ピーターはガモーラを死なせまいと悩み続ける

・ガモーラは妹を守るためにソウルストーンのありかを教える

・ストレンジはトニーを救うためにタイムストーンを渡す(追記:もちろんこれは「たった1つの勝利パタ―ン」とも関係しているでしょう)

・ヴィジョンは逃げずにキャップを救う

・ワンダらはヴィジョンを死なせまいと最後までもがき続ける


そしてそれぞれの選択は、結果的に全てインフィニティストーンの行く末に関わっていることがわかります。すなわち


・ロキは兄を守るためにキューブを手渡す→スペースストーン

・ピーターはガモーラを死なせまいと悩み続ける→ソウルストーン

・ガモーラは妹を守るためにソウルストーンのありかを教える→ソウルストーン

・ストレンジはトニーを救うためにタイムストーンを渡す→タイムストーン

・ヴィジョンは逃げずにキャップを救う→マインドストーン

・ワンダらはヴィジョンを死なせまいと最後までもがき続ける→マインドストーン


このようにみると、この物語において、インフィニティストーンが「より大きな善」としてのマクガフィンになっていることがよくわかります。要は、トロッコ問題において分岐器を切り替える者がインフィニティストーンを手にしていくわけです。恐らく、ヒーロー側もサノスのように「より大きな善」を機械的に選び続けていれば、この悲劇は避けることができたはずです。しかし、そうはしなかったところにヒーローのヒーローたる所以があるといえるでしょう。すなわち、トロッコ問題において、最後まで6人全員を救う方法を考え続ける者こそ、ヒーローであるということなのです。

とはいえ、それは理想論といえば理想論です。実際、最終的に「大きな善」のために犠牲になったガモーラとヴィジョンのようなキャラクターもいます。そして、ヒーローたちはサノスに敗北し、全てのインフィニティストーンを奪われてしまうのです。「理想」に対して、どうしようもならない「現実」というものが描かれるわけです。

唯一の希望は、「より大きな善」より優先されて救われたキャラクターたちは、皆最後まで生き残っているということです(トニー、キャップ、ソー、ネビュラ)。ここに、ヒーローたちの行動が決して無駄ではなかったことが強く示されています。


■アベンジャーズが見せてくれるもの

ヒーローのバッドエンドと悪役のハッピーエンドを両立させ、とんでもない映画体験を提供してくれた『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』。とはいえ、続編への期待は無限に膨らみます。というのも、本作は先の「倫理的ジレンマ」の問いに完全に答えているわけではないからです。また、『シビル・ウォー』にて残された数々の問題も解決していません。他にも、ドクターストレンジの言う「たった一つの勝利パターン」をはじめ、頑なに変身を拒むハルク、トニーの見た夢、登場しないホークアイとアントマン、そしてエンドロール後のアレなど、お楽しみ要素はまだまだありそうです。

そもそも、本作には「アベンジャーズが全員集合してお馴染みのテーマが流れる」という『アベンジャーズ』シリーズにおけるお決まりシーンが存在しないのです(ヒーロー単体の登場時には何度かあのテーマが流れましたが)。逆にいえば、全ては後編に託されているということです。このあたりはやっぱり巧いですし、手のひらで踊らされている感もあります。

では、『アベンジャーズ4』では何が描かれるのでしょうか。それを考えるために、再びトロッコ問題に立ち返りましょう。ヒーローたちはトロッコ問題における6人全員を救おうとし続け、ある種の理想論を語り続けた結果、本作でサノスは目標を達成し、アベンジャーズは文字通り半壊してしまうに至りました。しかし前述の通り、まだ希望は残されています。それは、生き残った者たちの存在です。なぜなら、彼らはヒーローたちが理想論を語り続けたからこそ生き残ったとも言えるからです。とすれば、まだ理想論は完全否定されていません。むしろ、『アベンジャーズ4』では、本作でこれだけの悲劇を生んでも、なおヒーローが守り続けようとしたものの尊さが描かれるはずです。

そしてこれは、『シビル・ウォー』の事件やソコヴィア協定とも繋がります。というのも、あの作品において、キャップはアベンジャーズの安定より、たった一人の親友を救うことを優先したからです。これは、まさしく本作において様々なヒーローが取った行動に通ずるものです。たとえアベンジャーズが崩壊しようと、宇宙が半壊しようと、彼らは目の前で失われそうな命を諦めないのです。

ソコヴィア協定については、署名済みのローディがキャップらと共に戦った時点で答えは出ているようなものですが、作品としての最終的な答えは、やはりトニーとスティーブの仲の決着で与えられることになるでしょう。その観点から言うと、本作ではトニーとスティーブは会ってさえいないのです。電話は結局かけずじまい。現在トニーは宇宙にいて、スティーブは地球にいます。となれば、次作に期待するのは、彼ら2人が再び手を取り合い、アベンジャーズが結束することでしょう。本編に登場しなかったホークアイが生きているとすれば、奇しくも生き残り組には初代アベンジャーズのメンバーが全員揃っていることになります。彼らが再び団結したそのときこそ、「倫理的ジレンマ」や「現実論vs理想論」といった、これまでシリーズが提示してきた全てのテーマに答えを示してくれるはずです。


■おわりに

現実は辛く厳しいものです。本作は、その「現実」の辛さや厳しさを知らしめる物語であったといえます。全てを守ろうとしても、そう上手くはいかない。むしろ、場合によってはそれは「キレイゴト」であり、かえって悲劇を招くことがあるのです。

では、「キレイゴト」を語り続け、それを実現させようとすることは、全く無駄なことなのでしょうか。いや、決してそうではありません。むしろ、辛く厳しい現実の中にあってこそ、理想を大切にし、それを実現させようともがき続ける必要があるのです。この「現実的理想論」を高らかに謳う物語として、MCUは10年の歴史を一点に収束させようとしています。そして、次回の『アベンジャーズ4』で、彼らがこれまで我々に見せてくれたもの、信じさせてくれたものの強さと尊さを、満を持して示してくれることを願います。今まで散々焦らされてきた、あのセリフとともに。