うん!?喰いつく瞬間。(2023.1.29) 2023.01.30 12:21 私はこう思う。対話の中で、当たり前に出るフレーズだ。しかし、その多くが自分の価値観から出た単純な感情的な反射だろう。対話している方に、絶大なる信頼を寄せていれば、少し短絡的だが、あなたが思うのならばそうかな・・・とも思える。しかし、議論好きな私はなぜなら、それは・・・・という理由を、ぜひ、拝聴したい。さて、そうした理由を、皆さんはどこから引っ張ってくるだろうか?個人的な体験から引用するであろうか。個人的な体験ならば、1つだけを話すか?3つぐらいを話すか?(サンプル数は多くあるべき)個人的な体験故に、その視点に、すでに個人的価値観が入っていないだろうか?(どのくらい客観的に捉えているか)どの程度、多角的な視点で、その理由を説明することができるだろうか。いやいや、それは、あなたの視点や価値観がどうかと思うよ。と心の中で思いつつも、優しさと良好な人間関係を重視するために、笑顔でひたすら頷きながら聞いている。そんな時も多いのではないか。また、最後に、〇〇(テレビやラジオ、タレントなど)で言ってたから。と相手が言うフレーズに対して、聞く側が、どの程度、◯◯を信頼しているかを前提に話さねば、あまり意味がない。私はこう思う。の発端は実は大変難しい。そのフレーズを発した人の経験値、視野の広さ狭さ、多角的視点が求められる。まあ、日常での対話の多くが、実は議論ではなく、聴いてほしい。励ましてほしい。だから、上記を思考することは、無意味だと言えるかもしれないが。議論がする。議論ができるとは、一体どのようなことを言うのだろうか。議論を前提となる「なぜなら」を頭の中にたくさん用意する必要がある。必要に応じて、アウトプットできるような備え。それは、普段からの情報集め、知識、自問自答と言えるだろう。これは、大学のゼミや学士論文で習うことなので、高等教育を受けた者にとっては、当たり前のことであると考えたい。また、これは頭の良し悪しではなく、学習の基本である。ここで問い直されるのは、学習の意義だ。知識のインプットと用意された答え(正解)との照合。というレベルを学習の意義とする今の教育の限界はここにこそある。幼少の頃にあった、素朴ななぜ?なぜ?なぜ?を、脱線することを良しとしない今の学校教育では伸ばすことができないのだから、議論脳は育むことができまい。議論好きの私が、議論を前提として対話をする際に、喰いつくのは、とても興味深い「なぜならそれは・・・」に出会った瞬間である。しかし、なかなか、そうした機会に出会えないのも事実である。