一水四見(いっすいしけん)
Facebook草場一壽 (Kazuhisa Kusaba OFFICIAL)さん投稿記事
一水四見(いっすいしけん)
面白い言葉です。
同じ水を見ても・・・人間が「水」と見ているものを、魚は己の住まいとして見ますし、
天人にとっては歩くことができる水晶(宝石)の床に見え、地獄の餓鬼にとっては膿で満ちた河に見えるそうです。
見る者によって、同じ「水」でも色々な見え方があると説くのが「一水四見」です。お話として極端ですが、同じ物を見てもその人の見方や感じ方、立場によって、大きな違いが生じるというのですね。
この言葉を知ったとき、あ、魚だったらいいな、という気分になりました。水を住処と解釈するのが素敵に思えたからです。絵的、詩的な領域ですが。
それはさておき、互いに異なる世界を生きているとも言えますが、それでも共感しあえるのが人というものです。
いえ、世界が異なるところに「共感」というものが生まれるというほうが正解でしょうか。なんでも同じがいいと子どもの頃から漠然と教えられてきたように思いますが、そんなことはありえないですね。むしろ、そんな言葉や雰囲気が、「同じ」とか「違う」ということを、必要以上に意識させてきたように思います。
わかり合うということは、互いに思いやるということができるからのことですね。同じ気持ちになれなくても・・・その気持ちに寄り添いたいという優しさですから。
https://www.d-tokoji.com/issui001/ 【第31回 一水四見】より
一水四見(いっすいしけん)という言葉があります。
全てのものは見る側の心によって存在するという言葉です。
人間が「水」と見ているものを、魚は自らの道や住まいとして見ます。
また、天人には宝石(瑠璃)で出来た大地に見えて、地獄の餓鬼にとっては「水」とは膿で満ちた河に見えるそうです。
このように見る者によって、同じ「水」でも色々な見え方があると示す言葉が、一水四見です。
ただの「水」がきれいな宝石のように見える者もいれば、逆に毒の河に見える者もいる。面白い話です。
「何か」をみてポジティブに考えるか、ネガティブに考えるか。宝石と見るか、毒と見るか。
どう受け取るかによって、受ける苦しみの量も変わってきそうです。
この一水四見は、なにも水だけに限った話ではありません。
私たちの身に起こる、出会いや、物事は、全て「一水四見」なのです。
水は水であるという、自分一人の考えに凝り固まるのではなく、見方によって、立場によって、同じ水でも、さまざまな姿になるというのを覚えておきましょう。
私たちも、出来ることなら、色々なものがきれいに見れるよう、日々精進していきたいものです。―――と、普通ならここで法話を終わるところなのですが、今回はもう一つ先のステージに進んでみたいと思います。
教えのステップアップです。
例えば、一水四見でいう「水」を、仏様が見たとしたらどう見るでしょう?
一水四見の話には人間と魚と天人と餓鬼は出てきますが、仏様は出てきません。
天人は天道の人であって、仏道を極めた仏様とは違います。
仏様が「水」を見てどう見るか――?
答えは―――「無(む)」です。
見る人によって解釈が変わるというのは「唯識(ゆいしき)」の思想です。般若心経では「唯識」は「空(くう)」であるとされ、結論として「空」は「無」であると締められます。
つまり仏様から見ると「水」は「無」なのです。
「分別(ふんべつ)」から離れている仏様にとっては、「水」だろうが何だろうが、全て同じ「無」なんですね。
この「無」という「仏心」を掴むのが、私たち仏教徒のとりあえずの目標となります。
一水四見の話では、普通に考えると「きれいな宝石の大地である」と見ている天人が一番優れているように感じられます。しかし、これは半分正解で、半分ハズレでもあります。
仏様から見れば「水」とは、「空(くう)」であり、「無」です。
下手に、「水」がきれいで美しい宝石に見えるという「妄想」を持ってしまっている天人よりも、「水」を、「ただ水」とだけ、ありのままに見ることのできる人間の方が、仏様に近いところにいる可能性もあるのです。
とはいえ、「水」は「水」であると考える凝り固まった凡夫の思考と、「水」は「水」であるという、ありのままを受け止めることが出来る覚者の境涯は似ているようでまったくの別物になります。
柳は緑、花は紅。
もしも、「水」は「水」と、「真実」ありのままに受け止めることが出来れば、一水四見を通り越し、もう一歩先へ進むことが出来るでしょう。
一水四見と教えのステージ
見え方は一つではありません。
見る者、見方によってさまざまな姿を持っています。
しかし、妄想に惑わされないよう気をつけて。
まっすぐに見ることが大切です。