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池田 元

8. ソノサービスの遺伝子

2014.04.01 23:53

随筆春秋との縁

ソノサービスの遺伝子


サラリーマン・エッセイストの近藤健さんとは、赤穂浪士が縁で一昨年から交流が始まった。私の先祖が堀部安兵衛切腹の介錯人、彼の先祖が父弥兵衛の介錯人だったのである。昨年、赤穂事件の研究家に先祖伝来の口承を寄稿してくれませんかと依頼され、書いたものを近藤さんに添削して頂いた。添削後は見違えるほど出来栄えが良くなり、文章というものの奥深さを思い知らされた。

メールのやりとりをしているうちに、彼が佐藤愛子先生から作品の感想を頂いたり、指導を受けたりしていることがわかった。私は突然文壇の大御所の名前が出てきたので驚き、そして憧れた。近藤さんは私の読書好きを知ってしきりに随筆を書けと勧める。

初心者の怖いモノ知らず。夏休みに書き上げた初エッセイをもって、いきなり随筆春秋のコンクールに応募した。すると年末、ちょうど満四十九歳の誕生日に佳作に当選したとの通知を受け取ったのである。私は有頂天になり、人生最高の誕生日だと日記に記した。

私が生まれた年、佐藤愛子先生のご主人は社員教育教材の販売会社ソノサービスを知人と設立した。ご主人はさらに分派してソノフイルムという会社の社長になったが、どちらも間もなく倒産。先生はご主人の背負った莫大な借金を肩代わりして返済するため「戦いすんで日が暮れて」以下の名作を次々に生み出されたことは周知の事実である。

「社員はノラクラ、管理者はボンクラ」

と作中で先生に評された中に貝谷(かいや)さんがいた。

昭和二十年、貝谷さんの父は朝鮮で客死。すぐ終戦となり、小学生の彼は母に手を引かれ内地に引き揚げてきた。苦労して大学を卒業したのち、二十五歳でソノサービスに入社。社員教育のイロハを教わった。

立身出世の執念に凝り固まっていた彼は、

二年ほどでソノサービスを退社、同社の事業を模倣して独立した。セールスマン用のテープ教材を自主製作して、飛び込みで売って歩いたのである。若くて無名、後援者も持たない彼の起業は博打であったが、高度成長の追い風に乗って奇跡のように会社は生き延びた。

途中、精神を病んで自宅に引きこもったまま経営の指揮を執っていた貝谷さんは、創業十五年にして名案を思いついた。彼の会社も、

「社員はノラクラ、管理者はボンクラ」

であったが、そんな使えない人間達を自宅に集めて特訓する事は得意であった。

「これを他社の社員にも広げてみよう」

そう思い立った彼は富士山の裾野にビジネスマンの合宿特訓学校を創った。

これが信じられないほどの大当たり。

結論から言うと日本と韓国から二十万人を超える企業人が入学し、世界二十四カ国のマスコミが取材に殺到、一時は米国と台湾と沖縄にも分校を持ち、首都圏を中心に十カ所の進学塾チェーンを展開。卒業生からは数え切れないほど上場企業、有名企業のエグゼクティブに就任した人が出て、貝谷さんは三十年に渡って業界のカリスマとして君臨した。

私は十九歳から二十四歳まで貝谷さんの会社にいた。彼の思い付きで訓練の一環として青木ヶ原樹海の探検をやらされ、天然記念物の苔類を踏み荒らした。それがばれて地元の営林署に叱られ、一緒に後始末をしたエピソードを随筆に書いた。それが受賞作である。

私が会社を辞めたのは、慕っていた主任講師が貝谷さんに疎まれて徹底的に苛められ、退職に追い込まれた事に憤慨して飛び出したためだ。同じように飛び出した仲間が二十人余りもおり、当時の業績に大打撃を与えた。

貝谷さんは自分の狷介固陋な性格が招いた事件であることを反省せず、烈火のごとく怒って辞めた者達を徹底的に追撃してきた。我々はそれぞれ散り散りになって難を避け、長い間、彼のことも忘れて暮らしていた。

ところがつい先日、久しぶりに貝谷さんと再会することになった。件の元主任講師が、

「貝谷先生が会社を追い出されたらしい。昔の弟子として見過ごせないが、袂を分かって二十五年。今さら一人で行くのは不安だ」

と言うので付き添って自宅を訪れたのだ。

貝谷さんは現在七十五歳。世田谷の高級マンションで一人暮らしをしている。想像以上に歓迎してくれたが、私の事はすっかり忘れていた。顔も覚えていないくらいだから、樹海探検の話もすぐに別の話題と混同されてしまった。一将功成りて万骨枯る。私の青春の価値などこんなもんだろう。却って気が楽になった私は遠慮なく彼に近況を質問した。

「うむ。じゃあ飲みに行くかい」

否応なしだった。貝谷さんは昔のまんまサッサッと早足で歩く。こちらは贅肉が付いていてついて行くのが大変だ。途中彼は、ちょっと失礼と言って銀行のATMに立ち寄った。七十五歳の老師におごらせるわけにはいかない。私の財布には一万五千円しかなかったが、主任が偶々五万円持っていたので安心した。

どうせ厚化粧の女がいる店に行くのだろうと思ったら、今どき軒下に赤提灯を釣っている汚い居酒屋に入って行くので驚いた。貝谷さんも元主任講師も酒癖の悪さで有名である。乾杯が終わると、私は焼酎のお湯割りを薄めに作って、用心深く彼らに飲ませた。

「自分が生み育てて四十五年、未だに筆頭株主でもある自分の会社を、こんな形で追い出されるとはねえ」

昨年会社に労働組合ができ、主な講師がほとんど加入した。今年に入ってささいな事から貝谷さんとの間に衝突が起き、双方が刀を引けなくなった時、仲裁に入った役員たちに裏切られ、あっけなく会社を放り出されたのだという。

しみじみ語る目に涙がにじんでいた。私の脳裏に二十五年前、自分達が受けた仕打ちがまざまざと甦った。今さらどうしてあげる事もできない。自分を守るべき盾を、片っ端から打ち砕いて捨てたのは貝谷さん自身なのだ。

話が暗くなったので、佐藤愛子先生の話題に変えた。四年ほど前、貝谷さんの住まいの近くの文学館に講演にいらしたとのこと。

「講演後に、昔ソノサービスでお世話になった者ですとご挨拶をしようと思ったが、しそびれちゃってね。しておくべきだったね」

懐かしそうに語る貝谷さんの声には、ソノサービスへの郷愁が確かに感じられた。

六人もの子を為した糟糠の妻とは、彼の浮気が原因で離婚した。今は子や孫とも絶縁状態だと言う。それじゃあ貝谷先生は独身貴族だ、そっちのほうも現役ですかと聞くと、君はそんな事まで聞くのかと叱られたが、今の風俗嬢はデリバリーで呼ぶのが安全で、サービスも良いと言ってにやけていた。

結局焼酎のボトルはすっかり空になってしまった。勘定は私が払って店を出た。さすがに貝谷さんもふらついていて、駅までの帰り道、今度はついて行くのに苦労はしなかった。


執筆時期|2014年

作品の舞台|社員教育研究所

媒体露出|非公開、習作



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