人間の暮らしと俳句 間の暮らしと俳句 ―目前脚下にある世界を感じ取る「生きも 目前脚下にある世界を感じ取る「生きもの感覚」の表現
https://www.seikaisha.blue/wp/wp-content/uploads/2018/02/kaneko.pdf 【人間の暮らしと俳句 間の暮らしと俳句 ―目前脚下にある世界を感じ取る「生きも 目前脚下にある世界を感じ取る「生きもの感覚」の表現】より
前衛俳句運動の旗手として,戦後の俳壇に旋風を巻き起こして以来,卒寿を過ぎた現在も俳壇の重鎮として最も活躍している俳人の 1 人,金子兜太氏。少年時代を過ごした「産土」たる秩父谷で うぶすなは,月に一~二度,俳人でもあった父・伊昔紅の句会が開かれていた。句会に集まる生き生きとした男たちの記憶から,俳句では生々しい人間を書くことを徹底してきた。
戦後の人間や社会を見続け,「生きもの感覚」こそが人間の生な姿ではないかとの思いに至っ
た金子氏は,その考えを見定めるために,江戸時代を代表する排諧師の 1 人である小林一茶を掘り下げたいと考えるようになった。今回は一茶の中に見出した「生きもの感覚」を中心にお話しいただいた。
編集部 金子先生のご著書『悩むことはない』の中で,「自分自身が俳句である」という言葉が印象的でした。お父様が俳人であり,小さい頃から俳句が身近にある環境におられた,それが大きいのでしょうか。
金子 親父が秩父音頭のつくり直しと宣伝普及を熱心にやっていたのですね。その関係で,小学生の頃はしょっちゅう,家の庭に村人が大勢集まって,歌や踊りの練習をしていました。その秩父音頭の七七七五の歌詞が耳に入っていて,この日本語の短詩形のリズム,七五調・五七調が身体の中に染み込んだのです。
それから,親父のところに集まって句会をやっていたのは,みんな 30~40 歳代の,山仕事をやるなど屈強な男たちでした。頭もなかなかしっかりしていて,「知的野生の固まり」と感じさせました。そういう男たちが,あんなに俳句を喜んでつくったことはすごい。逆にいえば,ああいう男たちに俳句という形式は向いているんだと思い込んだ。この 2 つが大きいですね。
中学時代は母親に禁じられて,俳句をやれなかったのですが,旧制水戸高校の先輩の影響で,また俳句をやるようになりました。やっている間,常にその七五調と,知的野生の男たちとが出てきて,俳句俳句と自分の一体感 というのは,こういう連中がつくるものだと思い込
むようになりました。それで,自分もこういう男になりたいと思ったのですね。
そうなってくると,「俳句をやっていればああいう男になれる」と思ったり,「ああいう男になりたいからやっているんだ」と思ったり,俳句と自分が緊密に結び付いてきた。旧制高校から大学にかけてずっと,なにかといえば俳句をつくってしまっていたのですね。戦争に行って,「こんなひどい場面で,俳句なんかつくっちゃいかん」と思っていながら,俳句ができてしまうようになってきてね。「ああ,俺はもう俳句の固まりなんだ」と思い込んだのです。
戦争から帰ってきて,日本銀行に復職して定年まで勤めました。勤めながら俳句をやろうと決め,初めて俳句をつくった 18 歳の時から 75 年間,ずっと俳句をやってきたのですね。自分には俳句しかない。
しかも,俳句は自分に一番向いていると思ってきました。
生活に密着した季語を追求した小林一茶
編集部 金子先生は小林一茶(1763~1828 年)を研究してこられましたが,一茶とはどういう人物だったのでしょうか。
金子 一茶は,ずぶの庶民ですね。「俳諧セールス業」と私は言っていますが,俳諧で生活の糧を得るために歩いていました。俳諧というのは,今でいえば俳句ですね。山奥の農家の子は,宗匠(師匠)にはなれません。当時は,武家,豪農,豪商,僧侶でないと宗匠になれなかった。一茶は苦労を経た後,27 歳の時に宗匠のすぐ下のポストにまではなりましたが,基本はずぶの庶民です。
業 俳(ぎょう はい 俳句を生業とする俳人)になろうと,江 戸に住み,付近を旅して歩いたのですね。江戸には年間 3 分の 1 ぐらいしかおらず,3 分の 2 は出歩いていました。彼の属していた葛飾派という俳派は,千葉県周辺の下総,上総,安房から常陸にかけて,つまり千葉県から茨城県・埼玉県あたりにかけて一番多かったようです。俳派の連中がいるところに行って,俳句の指導をしたり,江戸の噂話をする。それでお 鳥 目( ちょう もく お金)をもらっては泊めてもらう,そういう旅暮らしをしていました。旅暮らしの記録には,行った先の女将さんが嫌な顔しておったとか,お鳥目をもらったと思って喜んで出て,木立の影で包みの中を見てみたら入ってなかったとか,そういうメモも残っています。
一茶の俳句観で,私が重要だと捉えているエピソードがあります。一茶が 29 歳の時に,旅の道すがら,利根川べりの,ちょっとお金持ちの家に泊まったのですね。高台にあるので,富士山が見える。庭には池があり,蓮がいっぱい咲いています。彼はそれを見ながら,「蓮の花 虱 を捨るばかり也」とい しらみ すつう句をつくった。29 歳の句にしては,ませた句なん
ですけどね。彼がそれについて文章を書き留めて,自分は景色の罪人だ,自分の目は犬の目と同じで, 美しいといわれている景色を見ても美しく見えない,と言っています。
「雪月花」というのは,日本の詩歌にとっての命のような言葉です。それを詠うことによって詩の心 に近づける,自分の思いをどんなことでも表現できるとまで言われています。松尾芭蕉(1644~1694 年)もそれを尊重しているけれど,自分は雪月花なんていう暮らしに役に立たないものを,いいとは思わないという言い方をしているんですよ。
彼が説明している中で一番分かりやすいのは,雪月花の雪です。一茶は信州の奥信濃という,雪が深いところで育った人ですね。11 月から雪が降って,4 月の終わりぐらいまで残る。だから雪というのは,自分たちにとっては敵に等しい。あんなに暮らしのつらい時期はないと言っているのです。というのは,今のようにテレビもラジオもなく,コタツにあたって黙っているだけ。みんなで集まって人の悪口を言うぐらいがせいぜいなんですね。
雪の下の暮らしのつらさを知っている者にとっちゃ,雪が美しいなんてことは,おくびにも出せないと言うんですね。「蓮の花 虱を捨るばかり也」とは,蓮の花がきれいに咲いてるけども,それよりも今,旅をしている間に身体に付いた虱を一生懸命つぶしている。蓮の花なんぞ見てる暇はないと,そういう句をわざわざつくっているわけです。
自分たちの暮らしにとってなじみのない,役に立たない季題(「季語」という語が明治末年頃に用いられるまでは「季題」といった)は,あってもなくてもいい。俳句をつくる時,自分たちの暮らしに直接役立つもの,暮らしに染み込んでいるもの,そういうものを季題として扱いたいと,そういうことを一茶自身が書いているのですよ。暮らしに役に立たないような季題なんていうのは,やむをえず使う場合もあるけど,自分は使わないと言っています。
言葉に必要な生活感
編集部 季語も,形式として使うのでは生き生きとした表現ができないのですね。言葉にも,生きた言葉と死んだ言葉があるということでしょうか。
金子 言葉というものは,暮らしをしているうちに人間の中に生まれてきたものですね。だから,そういう生き生きした関係が言葉と人間との間にある。
だから,人間の暮らしと関わりの薄いものは形式的な言葉の使い方であって,使いにくい。その形式的な言葉を使っていると,言葉の世界は死んでしまって,ろくなことは表現できないという考え方ですね。
言葉というのは,たとえば桜なら桜という言葉として独立しているものではなくて,人間と桜との生きた関わりの中にある。この生きた関わりというのが非常に大事だと思います。その生きた関わりが言葉から失われると,言葉が乾いたものになって,人間にとって助けにならない。私はそれを「堕落した季語」と呼ぶんだけど,人間の暮らしの生々しさが映らないような季語は死語に近い。ただ人間が言葉を機械的に使っているだけです。生きた伝達関係を築けるということが人間のいいところでしてね。そこから生まれて使われる言葉が,言葉としては美しい。言葉が生きていれば伝達力を発揮すると思うのです。
芭蕉も,季語によって自然と人間の結び付きができる,俳句という詩形式はそういうことができる形式として貴重だと言っています。それで,「物の微びと情の 誠 」という言葉を使っています。「物の微」 というのは,物のデリカシー,物の本当の美しさ。「情の誠」というのは,人間の心の真実,心の奥底にある美意識のことです。物のもっている非常に美しい部分と,人間の心の非常にデリケートな部分とが触れ合った時に,本当に言葉が生きる。それが俳
句に詠まれれば,素晴らしい俳句になると,彼は言っているのです。
「物の微と情の誠」を俳句に書き留める時に,それを媒介してくれるのが季語である。このように芭蕉は季語の役割を大きく認めており,それ以降の俳諧でもこの考え方は通用してきました。しかし一茶は,暮らしに役立たない雪月花のような季語は使う気になれない,使う人間によってその媒介する季語は違うのだという考え方を提示したのです。
芭蕉と一茶の間には,150 年くらいの時代の差があります。芭蕉の頃は,まだ武家の出の者やお坊さん,豪商や豪農が俳句をつくっていた。一茶の時期になると,庶民がつくるようになった。そうすると俳句をつくる者の生活のかたちが違ってきますから,季語の扱いや好み方が違ってくるのですね。
俳句に結び付く「生きもの感覚」
編集部 先生の言葉に,すべてが同じ生き物世界のこととして感じられるという「生きもの感覚」というものがありますが,一茶に見出された「生きもの感覚」についてお聞かせいただけますか。
金子 一茶が言っていることは,「自分の暮らしと共にある自然の現象と自分とがうまく組み合った時に素晴らしい言葉が出てくる。季語もそうなのだ」という考え方ですね。自然との素晴らしい出会いを体験してつかみ,それを自分の言葉として使える。それが季語であれば,その季語をうまく使える状態を確保できるには,天賦の才能がいりますね。その大事な資質の持ち主を「生きもの感覚に恵まれた人」だと,私は捉えています。
文化人類学者の岩田慶治氏が「アニミズム」ということを言っています。彼は,アニミズムというものは,目前脚下もく ぜん きゃっかの世界,つまり目の前の脚の下で, 誰も普通は気づかないけど,そこにしっかりとある世界だと言っています。
アニミズムが分かる人は,人間としては質が高いというのが私の受け取り方です。私の言い方をすれば,それが生きもの感覚に恵まれた人ということになるのですね。現代のアニミズムが分かる人には,美しい自然との交わりのある言葉,自然と共にある言葉を得やすいと思います。日本の神道の考え方は近いかもしれませんね。神道はすべてアニミズムですよね。樹木がそのまま神社になったりしていますから。
私は小さい頃は 漆 アレルギーで,林をかけ回って うるしは漆にかぶれていたんだけれども,叔母が「漆と結婚すれば治る」と言うので,漆に冷酒をかけ,私もちょっとなめた。そうやって漆と結婚してからは,本当にかぶれなくなりました。その時,漆の木に一種の妙な交流感,生きもの感覚をもった。気づきもしなかったような目前脚下の事実に,フッと目覚めたということでしょうね。だから私は,その瞬間にアニミズムに触れたのですね。
俳句は,自然な生き方をしている人が結び付きやすい詩の世界です。季語という,自然ともろに触れ合っている言葉がある。それを使って,最も短い定型の詩を書く。そこには無駄がありません。無駄なく書けることからも,一番自然に近いところにある詩であるということは言えますね。自然の四季の流れに順応して,そこから恵みを受けて生きていける人たち,それがアニミズムに触れ,俳句に結び付きやすい人ではないでしょうか。
いのちは死なない
編集部 アニミズムに触れ,漆という存在にいのちを感じられたのですね。金子先生にとって,「いのち」とは何でしょうか。
金子 私は今 93 歳ですが,20 年ぐらい前から次第に固めてきた自分の考え方があるんです。それは,自分の言葉でいうと「他界説」。命は死なないという考え方を確信しています。つまり,人間が死ぬということは,命を包んでいる肉体が滅びることであって,命は死なないと思っています。その確信がもてるようになったら,いつ死んだって,自分の命はまだほかの世界で生きてるんだと,自信が出てきました。本当の死という感覚が遠のいたというように思っていますね。
そういう確信が宿ってきたのは,80 歳前後の年齢の時からです。その頃,戦争で死んだたくさんの人たちのことが思い出されてきたのですね。それから,私は大正 8 年生まれですけれど,大正 8 年と 9 年生まれの「8・9 年組」は,戦後俳句といわれ,虚子の花鳥諷詠に対してはっきりしたアンチテーゼの俳句づくりをした連中です。今でもその影響は残っていますけれどね。
その戦後俳句の担い手には,優秀な連中がたくさんいるのです。それが,私が 75~85 歳ぐらいまでの約 10 年間に次々と死んでしまいましてね。ちょうど私の女房が患っていた頃でもあります。そういうことが重なったので,その時になって, 唱 名しょう みょう を 始めました。死んだ人たちの名前を,毎日 120 名ぐらい唱える。今でもやっています。立禅りつぜんを毎日続け ているうちに,彼らの身体は死んだけど,命は生きている,こう思うようになった。そこから,他界に命は生きているということで,「他界説」と言ったらいいのではないかと考えたのです。
亡くなった川崎展宏という優秀な俳人がいましてね。彼がよく「俺は死んだら,樫の木になりたい」と言っていました。彼の死に顔は実に静かで立派でしたよ。まだ生きているように,静かに目をつぶっていましたね。樫の木になったと思ったな。それだけの確信がもてたので,死は安らかなんじゃないかなと思うようになったのです。
そう分かってきた時に,死ぬということよりも,死ぬ場が問題だと気づきました。どういうところで,どういうかたちで死ぬか,これがむしろ問題なんだと。命は死なないんだけども,肉体から命が離れていく,その瞬間の場の整え方が大切です。単純に言えば,安らかな死の場を設けてやりたいということですね。
場所,環境,その中の関係性,言葉,すべて含めて“場”です。それに気づいて強調し始めたのは,戦争の体験が大きいですね。戦争で死ぬということは,これは無残きわまりないです。特に,その戦場という「場」がひどいです。
戦争で中部太平洋のトラック島に行っていました。戦中は,死にたくないとみんなが共通して思っていたことは事実ですけどね。ただ,怯えているっていう感じはなかった。戦場というのは死の場面ですから,死を怖がっている人は 1 人もいなかった。
みんな普通の生活をしていた。ただ,無気力状態ですけどね。
終戦が近くなって食糧不足が深刻化してきた時,餓死者がたくさん出ました。私はよくそれを,非業の死者と言っているんですけどね。日本の国のために死ぬんだなんて志をもたないで,トラック島へ来て,食料がなくなって死んだ人間のことは,非業の死者だと思います。食い物がなくなって,痩せていく。ある朝,仏様みたいな顔で,木の葉みたいに死んでいる。特に私の隊は,字が読めない,力仕事をやってきたような人たちが多かった。普段は,ごっ
つい顔で喧嘩をして,人の物でも何でも取って平気で食べる男たちが,お腹をすかせて,痩せて死ぬ。
これが私にとって悲惨でしたね。一寸試し五分試しで殺されていくという感じが一番つらい。そういう体験から,「場」ということを昔から思っていたことは事実で,それを最近は具体的に思うようになったのですね。
種田山頭火という,「放浪者」といわれる詩人が,旅をしている連中は「死ぬ時はコロリ往生したい。苦しまないでスッと死にたい」と言っている,と書き留めています。コロリ往生というのは,良き場だと思いますね。
いのちは死なないという考え方にたどり着いてからは,「いつ死んでもいい」と,照れ隠しも,気負いもなしに言えます。完全に消滅するという思いがないから。
ほかの生き物も全部そうだけれど,特に人間という不可思議な生き物を創り出したということは,神が創ったとしかいいようがないぐらいです。何か不思議なメカニズムが,自然界にはあるんだなと思っています。
編集部 俳句という世界最短の詩の中には,日本人と自然との関わりのあり方が表現されているのですね。今日は俳句と「生きもの感覚」の関係性について,奥行きあるお話をお聞かせいただき,ありがとうございました。