盗品仏像の帰属問題、韓国は寺院や仏像を破壊した過去を忘れたのか
窃盗犯罪も日本相手なら「愛国」行為と称賛
長崎県対馬のお寺から10年前に韓国人窃盗団によって盗まれた仏像について、韓国の高等裁判所は2月1日、韓国の寺に所有権があるとした一審判決を覆し、対馬のお寺に所有権があるとする控訴審判決を出した。
韓国側は、600年前に倭寇によって盗まれた仏像だと主張し、一審の判決も「略奪があった状況と蓋然性がある」とした。つまり何の証拠も証明もないのに「たぶんそうだと思われる」という推定・推量だけで、韓国の寺の主張と所有権を認めたのである。
仏像を盗んだのは韓国人4人組の窃盗団で、その前科は合計56犯、平均年齢62歳という筋金入りの窃盗プロ集団だった。別に文化財を取り戻そうとした訳ではなく、警備や管理が緩いという情報を得て対馬を乗り込み、金目の物は手当たり盗みまくるという犯行だった。そんな彼らが、韓国では、日本から仏像を取り戻した「愛国者」「英雄」と称賛されている。
(ソウル国立中央博物館に並ぶ仏塔)
国際条約を無視し国民感情に任せた一審判決
また1970年にユネスコ総会で採択された「文化財不法輸出入等禁止条約」では、この条約が”締約国において発効した後に”盗難被害に遭った文化財は海外への持ち出しが禁止され(第7条)、”条約発効前に”盗難・略奪にあった文化財の返還については締約国どうしの間で別途、協定を結ぶ必要がある(第15条)と定められている。要するに「条約が締約国において発効しているか」がミソで、韓国でこの条約が批准発効したのは1983年、日本は2002年である。仏像が盗まれ韓国に持ち込まれたのは2012年だから、当然、条約締約国として直ちに日本に返還されなければならないはずだった。
しかし、第1審の地裁判事はこの国際条約を完全に無視して、「略奪された蓋然性がある」という推量だけで、韓国の寺の所有権を認めたのである。そして、韓国国民はこの地裁判事を「愛国判事」と称賛し、控訴審で一審判決を覆した高裁判事を「親日派」「売国奴」と罵倒する。国民感情やポピュリズムで、法律や条約が簡単に変えられると考えているのだろうか?おかしな国だ。
仏教排斥の激しさを伝える博物館の無数の仏塔
韓国人は、そもそも朝鮮王朝になって、高麗時代に1万以上もあった仏教寺院を悉(ことごと)く破壊し、仏像や仏具を溶かして武器に変えた過去があることを忘れたのだろうか。
その証拠となるのが、ソウルの国立中央博物館をはじめ慶州や大邱など全国14か所にある国立博物館の庭園に並べられた仏塔の数々だ。中央博物館の庭園だけでその数は30基以上に上る。大きな石を削り何段にも積み上げられた仏塔は、本来ならそれぞれの寺院の境内にあるはずだが、それらの寺院の建物は600年前の15世紀前半には失われ、重くて移動できない仏塔だけが野ざらしで残された。居場所を失ったが文化財としての価値が高い仏塔だけが博物館の敷地に運び込まれたのだ。
(ソウル国立中央博物館の仏塔)
国宝級の仏塔や鐘があった名刹も今は公園
ソウル中心部の今は老人のたまり場になっているタプコル公園(旧称パゴダ公園)は、かつては「円覚寺」があった場所で、日本統治時代に「国宝第2号」に指定された高さ12メートルの「円覚寺址十層石塔」だけが当時の面影を残している。この石塔は、大理石の表面を彫刻して仏教説話を題材にしたさまざまな装飾を施し、文化財としては極めて価値の高いもので、今は大きなガラスの建物に覆われているが、500年以上にわたり、それこそ野ざらしにされ、かえりみられることもなかった。
現在、中央博物館の庭園に展示されている国宝の鐘は、もともとは円覚寺のために鋳造されたもので、寺院がなくなったあとは流転を繰り返し、結局、ソウル中心部・鐘路(チョンノ)にある鐘楼「普信閣」に吊され、城門の開閉を朝4時と夜10時に知らせる役割を持たされることで、かろうじて形を留めることができた。
(ソウル国立中央博物館展示の「普信閣の鐘」)
青瓦台の裏山にも廃寺の跡と流転の石仏
以前の大統領府青瓦台は、去年5月の政権交代後、一般に開放され、その青瓦台から北岳山やソウル囲む城郭の北の門、粛靖門(スクチョンムン)に抜ける登山道も去年、市民に開放された。その登山道の途中、つまり青瓦台の裏山に当る林の中には、新羅時代に創建と伝わる「法興寺」があった。今は崩れた石垣の一部があるだけだが、15世紀の青銅器の断片が見つかっている。1960年代に一度再建を試みたことがあり、そのときに運び込まれた礎石が転がっているのが見える。いずれにしても、ここも朝鮮時代に破壊された寺の廃墟の一つだ。
(青瓦台裏の「法興寺」址)
青瓦台といえば、もうひとつ、官邸のすぐ裏に作られた遊歩道の途中に石仏が置かれたお堂があり、「美男石仏」の名で知られている。もともとは初代朝鮮総督の寺内正毅のとき、慶州の「移車寺(イゴサ)址」から総督官邸に運び込まれたもので、元の場所に戻せという市民の請願運動もあったそうだが、戻しようにも移車寺という寺ははるか昔に姿を消している。
儒教を統治理念にするために高麗仏教を徹底的に排斥
高麗時代に1万以上もあった寺を次々に破壊したのは朝鮮王朝第3代国王太宗と第4代の世宗大王の時代だった。
朝鮮を建国した初代国王太祖・李成桂のブレーンに鄭道伝(チョン・ドジョン)という儒学者がいた。彼は国家の統治理念として儒教、なかでも朱子学を取り入れ、仏教を徹底的に排除しようとした。その背景には、高麗時代に仏教が護国仏教として優遇され、仏教が政治と癒着したことによって国政が混乱し、国力が衰退したという反省があり、高麗時代を通して深く根を下ろした仏教を国家の運営から徹底的に排除しなければならないと考えたためだ。
鄭道伝の国づくりプランは、第3代国王太宗(テジョン)と第4代の世宗(セジョン)大王に引き継がれた。このうち太宗は、全国に1万以上もあった寺院を、国家の保護を受けられるものは242寺だけ残し、その他は破壊した。また僧侶の多くを還俗させ、寺院が保有していた土地を没収し、寺で働いていた使用人を軍に徴用して兵役に従事させた。仏教の高僧が国王の顧問を務めていた「国師」の制度を廃止し、国王の墓・陵墓に付属していた寺院を廃止するなど、王朝から仏教の影響を徹底的に排除した。
僧侶を入城を禁じ、仏像や鐘を溶かして兵器に変えた
次の第4代・世宗大王は、さらに徹底して仏教を排斥し、それまで7つに分かれていた宗派を禅宗など二つに集約させ、全国の寺院の数をさらに3分の1の88にまで削減した。寺にあった仏像や鐘などの金属を溶かして兵器に変えさせ、寺に所属していた奴隷を国家の所有にした。そして首都を囲む城郭・漢陽都城のなかにあった寺は2つだけを残してすべて撤去し、僧侶が都城の中に入ることを禁じた。僧侶が文字通りの「門外漢」と呼ばれたのはそのためで、この制度は1895年、漢陽都城の門の朝晩の開け閉めがなくなる1895年まで500年近くにわたって続いた。
<参考資料「朝鮮思想史概説(【資料翻刻】高橋亨京城帝国大学講義)」(埼玉大学紀要)>
元凶は世宗大王、仏像を守るには外国に委ねるしかなかった
「世宗大王」といえば、韓国では大きな像があちこちに立ち、ハングルを創製した英明な国王として知られるが、同時に、中国に「貢女」として多くの朝鮮人女性を献納し、官婢・妓生(キーセン)の制度を作った人物でもある。また日本にとっては、1万7000余の兵を自ら率いて対馬に遠征し、乱暴狼藉の働いた国王としての恨みを抱える。(1419年『応永の外寇』)
その世宗大王は、仏教寺院や僧侶を排斥し、大量の仏像や鐘を溶かして武器に鋳造し直していた。この時、迫害を受けた寺院の僧侶や信徒が、せめて手で運べる仏像だけでも安全な場所に隠匿して保護しようと考えたとしても不思議ではない。つまり、この時代、日本など海外に運ぶ以外に、仏像を保全する手段はなかったということは、誰もが理解できる歴史的事実だと言える。
仏像の所有権を主張する韓国の寺は、倭寇によって略奪されたのは今から600年前、すなわち15世紀前半だというが、日本人が主体だった「前期倭寇」の活動が活発だったのは14世紀後半の50年間ほどで、日本が南北朝の動乱期(1336~1392年)で海賊の取締りに手が回らなかった時期にあたる。しかし足利義満が明の永楽帝に使節を派遣し冊封される1402年以降は海賊行為の取締りは強化され、倭寇も下火になった。
また、支那人が中心だった「後期倭寇」は16世紀前半から後半にかけて、具体的には海賊の首領・王直が捕まって処刑される1560年までの数十年間と言われる。
つまり仏像が略奪されたという600年前、つまり15世紀前半は前期倭寇と後期倭寇の狭間に当たり、海賊行為が取締りを受け下火になった時期である。反面、太宗や世宗大王による仏教排斥が猖獗を極め、寺院や仏像が悉く破壊された時代でもあった。つまり、時代状況と時代背景、それに動機のすべての面で平仄(ひょうそく)=つじつまが合う。すなわち、問題の仏像は倭寇による略奪ではなく、仏教排斥、仏像破壊の難を逃れて日本に保護されたものだ、ということに矛盾はない。