「ボストン美術館 浮世絵名品展 鈴木晴信」
江戸時代中期の浮世絵師、鈴木晴信。錦絵創始期の第一人者としても知られています。
晴信の現存する作品は世界中に約2000点あるいわれ、約8割は海外にあり、日本で作品を観る機会は限られています。
今回は晴信の作品を含めて選りすぐりの約150点が展示されていて、その約8割がボストン美術館の所蔵品です。
※ 取材で伺い、特別の許可を得て会場内を撮影しています。転載転用はご遠慮下さい。
プロローグ
晴信を育んだ時代と初期の作品
黒一色の墨摺絵ではさみしい、という発想から生まれたのが「紅絵」墨摺絵に手作業で色を施していました。それでは手間がかかるということで生まれたのが「紅摺絵」版木を使って色を重ねる手法です。晴信が活躍する少し前の時代は、この「紅摺絵」の時代でした。
↑ 奥村政信と石川豊信の紅絵。筆で色を施していくので、よく見ると色に濃淡があります。
↑ 鈴木晴信《見立三夕》 大判紅摺絵 宝暦₍1751~64)末期
晴信の初期の作品。和歌の名手、定家・寂蓮・西行を美女に見立てた美人画です。
《見立て》とは「古典」「故事」「和歌」などを江戸時代の風俗に置き換えて描いたもの。やつし絵ともいわれます。
第1章 絵暦交換会の流行と錦絵の誕生
江戸時代は陰暦を使用していました。30日ある大の月と29日ある小の月があり、その順番は毎年変わりました。その暦を絵の中に紛れ込ませて示したの摺りものが絵暦です。
武家や裕福な人々の間で絵暦を作り交換することが流行しました。人々は争うようにカラフルでおしゃれな絵暦を作ったのです。これが、華やかな「錦絵」の誕生へとつながっていきます。
第2章 絵を読む楽しみ
錦絵が誕生した背景には絵暦があり、それを楽しんでいたのは文化人のサークル、いわゆる教養人たちでした。絵の向こう側に隠れている物語を読み解く楽しさを味わっていました。
鈴木晴信
右《見立て那須与一 屋島の合戦》明和3-4年 個人蔵(参考出品)
左《見立て玉虫 屋島の合戦》明和3-4年頃 ボストン美術館蔵
『平家物語』などで語られる那須与一の逸話が下敷きとなった2枚続きの作品。源平合戦での逸話を知っていればこそ、楽しめる作品。
第3章 江戸の恋人たち
宝暦のころから、江戸の町の人たちや恋人たちを描くことが増えてきました。晴信もそれを継承し、多くの作品を手掛けました。
このころネズミをペットとして飼うことが流行したそうです。絵の中にも描かれています。特別な教養がなくても楽しめるものに作品のテーマが移っていきます。
第4章 日常を楽しむ
日常風景の中の母子や家族の姿、晴信は江戸の人々の生活風景をよく主題としていました。
左 鈴木晴信
《風流五色墨「宗瑞」》明和5年頃 中版錦絵
享保16年₍1731₎に出版された俳諧集『五色墨』から宗瑞の句、這い這いしている子供に衣替えの着物を着せようとしたら立ち上がったという、子供の成長を喜ぶ家族を心情を描いた作品。 猫に注目♡
第5章 江戸の今を描く
晴信は明和5年(1768)頃から、当時の人々の興味を直接刺激するものを主題として選ぶようになります。例えば、江戸で評判の実在する美人たちや、
江戸の名所を人物の背景に描きこんだり、
実在する吉原の遊女の『豪華絵本』を作ったり。この頃の女性の顏はみな同じ。着物や小物などで個人を表現していました。
人々の興味に応じて「今の江戸」を主題とする晴信晩年の作品は、その後の錦絵の方向性を示すものとなりました。
エピローグ 晴信を慕う
晴信は明和7年(1770)6月、急逝します。活動期間はわずか10年。
が、絵師たちは「晴信に倣う画風」で描き続けます。
人々の「晴信の美人画をまだまだ見たい!」という気持ちに応えたものでした。
鳥居清経《晴信追善》中判錦絵 明和7年(1770)頃
晴信の死を悼んで制作された作品です。
晴信の時代から約30年、喜多川歌麿の作品。
右 喜多川歌麿《おきたとお藤》 大判錦絵 寛政5-6年(1793-94)頃
かつて晴信の時代に評判娘だったお藤から、歌麿の時代、寛政三美人の一人とたたえられたおきたに、巻物が手渡されています。美人の秘訣伝授、なのかもしれません。
活動期間わずか10年、40代半ば(と考えられる)でこの世を去った晴信。
今回出品される作品の約8割がボストン美術館い所蔵されて以来初めての里帰りなります。さらに、世界で1枚しか確認されていない作品も含まれています。
音声ガイドは必聴。キャプションもじっくり読んで、晴信の浮世絵の世界を堪能して下さい。
「ボストン美術館 浮世絵名品展 鈴木晴信」
あべのハルカス美術館で6月24日まで開かれています。