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癒奏術・響庵ブログ

人は皆すべからく【生き霊】である~磐長姫の誠の鏡 《癒奏術・華厳の章》

2023.02.08 06:33




人は皆すべからく「生き霊」である。

「生き霊」たる自分が纏った『衣』がその身である。


老いて肌がくすみ皺ができてシミが出来るように、「霊」もまた然り。

「心」がありありと姿となって現れる。


自分という「生き霊」がどんな姿か気にするものは稀であろう。



『神』の御姿が美しいのは【誠】そのものだからである。

【誠の善】そのものだからである。

穢れなく浄いその心の御姿そのままである。



餓鬼畜生、天狗に獣の世となっていると聞いて、我を省みるものは少ない。

言葉を飾り身を飾れども、自らの霊を浄めるものは少ない。

毎日風呂に入って垢を落とすように、霊の垢を落とす者は少ない。




盲目の羊たちよ

人は皆すべからく「生き霊」である。

自分が「見えない」から「見られない」と思っているのだろう。


見たいのなら見れるようになればいい。

答えは簡単である。

自分が【誠】となることだけである。

されど

【誠】となる道のりは険しい。


【誠】になれば見えるという「答え」を知ったところで、その【目】は得られない。

その【目】を得るには自らが【誠】とならねば得られない。

自らが【嘘】を纏っている限り、裸の王様が裸であることさえ気付かない。

裸の王様を目にしていながら、その「衣」を讃える者には【誠】は遠い。




自ら目を塞いだ盲目の羊たちよ

目を塞いでも在るものは在る

心を隠せば隠すほど「穢れ」を纏う。

「嘘」を纏った者達で群れても、ただの亡者の群れと化す。

嘘が嘘を呼び重ね着をして、自らの「霊」を更に穢す。

穢れは老化を呼び、自らの「霊」が老いた姿となる。




盲目の羊たちよ

人は皆すべからく「生き霊」である。

自分の姿を映すのは【日の鏡】

【日の鏡】は【霊(ひ)の鏡】

おのれの心を高みから見下ろす鏡である。


【磐長姫】が掲げる鏡は「霊」の姿をありありと映す。

自分という「生き霊」がどんな姿となっているのか・・・

目を塞いでもけっして美しくはならない。



人の姿をとやかく言わぬのと同じく言わぬだけ。

ただ黙って離れゆく。

それだけである。