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Kazu Bike Journey

Okinawa 沖縄 #2 Day 237 (11/02/23) 旧首里南風平等 (1) Oonaka Area 首里大中町

2023.02.13 09:58

旧首里南風平等 (フェーヌフィラ) 首里大中町 (おおなか、ウフチュン)



旧首里南風平等 (フェーヌフィラ) 首里大中町 (おおなか、ウフチュン)

大中町は当蔵町の西側に面し、池端町や山川町などとも隣接している。沖縄戦以前には古都首里の中心地として御殿や殿内などが残り王都の雰囲気を残した屋敷街だった。大中の地名は、町内にある仲里御嶽に因み、首里台地に住み始めた村 (里) である「中の里」を意味し、大中はさらに奥の東にある大きな中里を意味すると言われる。大中は首里の中心に位置していたことから「大中」の名が生れたともいわれる。

沖縄戦で大中町は日本軍の本部が置かれた首里城が近くにあることで激戦地で廃墟となってしまった。戦前は起伏のある町だったが、戦後は米軍による大量砕石で高台がすっかりけずりとられて地形も変わってしまったが、その後、県道29号 (龍潭通り) を中心に街を整備して、首里城を訪れる観光客で賑わっている。




首里古地図を見ると、大中は首里の典型的な屋敷町で、赤田崎山鳥堀の首里三箇あたりからは西方 (ニシカタ) と呼ばれた町で、大中村は殆どが士族の屋敷となっていた事がわかる。御殿、殿内のほか士族の広大な敷地の立派な屋敷構えが並んでいた。尚家の御殿をはじめ、隣接して大里、今帰仁、金武、美里、摩文仁の御殿、殿内には譜久山、美里、嘉味田があった。屋敷の周囲には福木、ガジュマルの 深い緑を赤瓦の屋根に石垣と調和がとれた古都のたたずまいを見せていた。明治の廃琉置県後は士族が失業し、屋敷の転出入が増え、多くの屋敷が払い下げられている。

明治時代から戦前までの大中村の全域に民家が建っていたが、沖縄戦で大きな被害を受け、戦後は現在の一丁目の龍潭の北側に民家が集中しているのみで、2丁目にはほとんど民家は見られない。1972年の本土復帰頃から民家が増え始め、2000年以降現在までは明治時代と同じく全域に民家が広がっている。かつての広大な屋敷は細切れに小さな民家が密集している。

1880年 (明治13年) の大中の戸数は200で、人口は1,054人だった。 沖縄戦では激戦地となった事で、戦後の人口は他の地域と同様に激減し、戦後の復興で1968年には1,277人迄戻ってきたのだが、それ以降は人口減少が続いている。現在の人口は明治時代の7割までに減少し、今でも減少傾向は続いている。

大中町は首里区の中で中では下から3番目に人口の少ない地域。


首里大中町訪問ログ


大中町は先に訪れた池端町に隣接している。龍潭まで戻りそこから大中の史跡を見ていく。



中城御殿 (ナカグシクウドゥン) 跡

池端から池端大通りの世持橋を渡ると龍潭池の前に中城御殿跡がある。

この屋敷は首里王府時代の後継ぎである世子の屋敷にあたる。琉球王国の王世子は、中城間切を采地とし中城王子と呼ばれ、その邸宅は中城御殿と呼ばれた。琉球王国時代の中城御殿は17世紀前半に尚豊王時代に現在の首里高校の場所に建てられたが、1870年 (明治3年) に龍潭のほとりにあった大村御殿などを移転させて新しい中城御殿を造営を始め、1873年 (明治6年) に竣工、1875年 (明治8年) に完成し移ったが、1879年 (明治12年) に琉球王国が消滅し、最後の琉球国王尚泰は首里城を強制退去、この中城御殿へ移されている。

この中城御殿を詳しく調べる前には、琉球王国時代の史跡と思っていたのだが、これが明治明治6年に造られたのは意外だった。この時期は本土では廃藩置県が進み、それまでの封建制度から、藩主や士族の特権が剥奪され、東京の新政府の中央集権への移行の真っただ中だった。琉球もその変化は知っていた筈なのだが、この時期にこれだけ大きな宮殿を新たに造ったことには疑問がある。廃藩置県が行われた時代の本土、琉球の出来事に中城御殿の竣工、入居を重ねると下の表になる。中城御殿がの着工は版籍奉還の明治2年で翌年には廃藩置県が実施されている。この着工に対して日本政府は中止を要求した記事はなかった。薩摩藩は版籍奉還でそれどころではなかっただろう。琉球王国としても自国のこれからの行く末については不安があっただろうが、明治5年には琉球王国の特使として伊江王子と宜野湾親方が東京で天皇から尚泰王を「琉球藩王」とするお墨付きを得ている。これで、琉球王国はこれまでの大成が維持されると考えただろう。中城御殿の工事は進み、翌年竣工している。当時、日本政府は国内の廃藩置県による中央集権で国内の治安対策に集中しており、琉球の政治体制の変更を行う余裕はなかったのではないだろうか? また、日本と清国との間では主権の所在ははっきりと合意はなかった事で、琉球を明治2年の版籍奉還や4年の廃藩置県に含めると、清国との紛争の恐れがあっただろう。とりあえずは琉球に手を付ける事は避けたと思われる。それがこの時期に日本から琉球王国に対して干渉を行っていない。天皇からの「琉球藩王」の安堵を約束されていたにも関わらず、日本政府の態度が一変したのは、明治7年に台湾に出兵し、清国から賠償金と琉球人を日本国属民と認めされたことからになる。ここから日本政府の高圧的は要求が届く。日本国内では士族の反乱が続いたが西南戦争で官軍が勝利をおさめ、国内では政治的、軍事的にも中央集権が確立している。この様な動きに拝しては琉球政府内では亀川盛武親方を筆頭とした「亀川党」とも呼ばれた反日本派の頑固党と親日本派の議論が激しくなり、列国や清国に現状維持を日本に迫る働きかけも行っていた。この後も日本政府の圧力は強まって明治12年の琉球処分 (廃藩置県) とない琉球王国は滅亡、沖縄藩となっている。日本本土では藩主が知事を務める融和策がとられていたが、沖縄知事は本土から鍋島直彬が赴任し、尚泰は東京での生活を強制された。

明治6年に竣工した新しい中城御殿は敷地約3000坪、建物は約800坪もあった。

廃藩置県時の首里城明け渡し後は、琉球国王が中城御殿へ退去してその本邸となり、尚侯爵家の東京移住後は沖縄における尚家本邸となった。1945年 (昭和20年)、沖縄戦により焼失し、多くの尚家伝来の宝物もその後の米軍略奪に遭い、現在まで行方不明となっている。以前にここに来た時には門は閉まっており、中には入れなかったのだが、今日は門が開いており、中に入ることにした。跡地は既に発掘調査は終わっており、首里城公園の整備の為の機材置場になっている。ただ、だだっ広い平場だ。遺構などがあるかもしれないと思い敷地内を歩いてみる。

沖縄戦で焼失する前の写真が残っている。跡地を散策した写真も合わせて載せておく。


正門 (御大門) 

龍潭に面した門が正門になる。石垣 (石牆) のみで自体は残っていない。


中城御殿石垣の弾痕

石垣には沖縄戦での弾痕跡が残っている。中城御殿はこの戦争で全焼している。首里に残る唯一の戦争の爪跡だそうだ。


中城井戸跡

正門前の歩道の石垣 (石牆) に食い込むように井戸が保存されている。これには不自然さを感じ違和感を覚えた。調べると、井戸は石牆内つまり中城御殿内にあったのだが、石牆を復元する際に、道路幅の関係からセットバックしたために、井戸が移設復元された石牆からはみ出した形になっている。この不自然さの解決が中城御殿復元計画の一項目になっている。私見としては、元あった場所で忠実に保存するより、歴史のイメージを伝えるには、敷地内に井戸を移設した方が良いと思う。中城御殿で確認された井戸は上之御殿東側石積みの足元 (写真右下)、副門内側、 正門内側の門番詰所横 (歩道にある井戸) の3つあり、水脈まで掘り水を溜めた掘り抜き井戸と、 井戸に水が多く溜まるように開曲状に広めている椀胴井戸 (ワンドゥガー) と呼ばれた形式の掘り抜き井戸だそうだ。


御番所

正門を入った所が御番所で、ここで来訪者のチェックをしていた。


中門、大広間、望楼

御番所の東には大広間があった。ここで世子が家臣団との面談をしたのだろう。大広間の前は庭園が造られており、石垣の隅には石垣の外を監視する望楼が置かれていた。


御書院中庭、二階御殿、副門

大広間の北側の直線の道沿いの石垣の外壁にはもう一つ門がある。この道はかつての宿道 (しゅくみち) の中頭方西海道 (なかがみほうせいかいどう) で首里城の通用門だった久慶門から龍潭橋、中城御殿東側、安谷屋坂、桃原本通り、そして浦添番所跡へと通じていた。現在では門の石垣のみがが残っている。ここを入ると、世子や妃、妻、側室の生活の場所の御内原 (大奥に相当) への門と思われる。古写真では御書院中庭、二階御殿が残っている。


脇門、御蔵

敷地の西側にももう一つ門があった。この門はその形が残っているが、門入り口は石積みで塞がれている。この門を入ると蔵があった。物資の搬入門だったのだろう。


新御殿

御蔵の北側には新御殿跡があり、発掘調査が行われ、その報告所に遺構の写真が掲載されていた。


御寝廟、中庭

御内原には寝室にあたる御寝廟とその前の中庭。


上之御殿 (イーヌウドゥン)、御嶽

新屋敷の西側は高台の丘になっており、そこには上之御殿が建てられていた。正式には御花園御殿 (オカエンウドゥン) という。尚家の拝所にあたる。御内原から上之御殿へ上がる石階段が発掘されている。ここには庭園が造られていた。そこにあった池の跡が残っている。再建計画書にはこの池の復元イメージがあった。この丘には南側に御嶽と北側に大岩の拝所があったようだ。昔の姿は残っていないのだが、御嶽があった場所には小さな祠が置かれていた。上之御殿についての明確な資料はないのだが、1920年 (大正9年) 頃に尚泰子息の尚時夫婦の住居となり、昭和初期には無人となり、戦時中は宝物庫として使用されていた。、戦前にはエリア西側に御射場と称される弓場が存在した


尚氏邸宅となっていた中城御殿跡は戦争で焼失し、戦後は、首里市役所、琉球政府立博物館 (後に沖縄県立博物館) の敷地となり、2007年 (平成19年)、新県立博物館へ移転のため閉館した。

2012年 (平成24年)、博物館跡地に中城御殿が復元されるとの報道がなされた。以降何度か那覇市で検討会が行われて復元計画は公開されている。ただ、具体的なスケジュールについてはまだ決まっていない。首里城の火災は想定外の事で、その復元には多大な費用がかかる事からも、中城御殿、御茶屋御殿の復元計画や日本陸軍本部壕保存計画はまだまだ先のことになるだろう。以下は現在公開されている復元計画。


耳切り坊主 (みみちりぼーじ) 伝説

この中城御殿を造営する際に立ち退いた大村御殿が東南隅にあった。首里古地図では北谷御殿と記載されている。大村御殿は第10代尚質王の四男の北谷王子朝愛 (1650年~ 1719年) を祖とする王族の分家になる。当初は北谷御殿と言っていたが大村御殿と改めている。代々、北谷間切りの按司地頭を務めていた。朝愛は第13代尚敬王 (1713-1751) の摂政職 (1722年~1739年) にあり、蔡温を軸とした王府中枢の権力の座にあった。朝愛に男子がおらず、第12代尚益王の次男 (尚敬王の弟) が養子に入り北谷王子朝騎(1703~1773、大村御殿二世)となる。朝騎も嗣子がなかったので朝愛の外曾孫の名護御殿四世、名護按司朝宜の長男の朝永が養子となり三世となり大村御殿を継承している。この様に大村御殿に男の子が生まれても亡くなるので、このときから大村御殿の家族たちは男の子が生まれると大女が生まれたというようになったと伝わっている。これが次の大村御殿の角耳切り坊主 (みみちりぼーじ)  伝説となっている。 

昔むかし、首里に黒金座主(くろかねざぬし)という坊さんがいました。大男で色が黒かったので、黒金座主と呼ばれていました。黒金座主はお坊さんの修行をするため唐の国にいき、人を惑わす妖術も習ってきました。そしてお寺で、三世相といわれる占いの仕事も始めました。そのため、女の人達が黒金座主の所に通ってくるようになりました。ところが、黒金座主は唐の国で覚えた妖術をつかって、寺にくる女の人を次々とだまして、悪い事ばかりするようになりました。この噂を聞いた王さまは、大村御殿に住んでいる弟の北谷王子(チャタンオウジ)を呼び、「黒金座主を懲らしめてくれ」と命じました。
北谷王子は、黒金座主を呼び、「碁打ち名人のお前と、勝負がしたい」といいました。そして、「ただ打つだけでは面白くないので、賭けをしよう。黒金座主よ、お前が負けた時には、その耳を切り落としてよいか」「では、北谷王子、あなたが負けた時には、あなたの片かしら(まげ)をいただきましょう」といって、ふたりは碁を打ち始めました。
勝負は、北谷王子が勝ちました。すると、黒金座主は北谷王子に妖術をかけ、隠し持っていた小刀で北谷王子を殺そうとしました。けれども、側においてあった刀で身を守り、約束通り黒金座主の耳を切り落とし、成敗してしまいました。黒金座主は、「北谷王子よ、お前の子孫を絶やしてやる」といって、死にました。
それから大村御殿の角に、耳を切られた黒金座主の幽霊が出ると言う噂がたちました。その頃、北谷王子に男の子が生まれましたが、生まれてすぐに死んでしまい、男の子は育ちませんでした。そのことが続いたので人々は、黒金座主のたたりだと噂しました。ある時、また男の子が生れまれました。赤ん坊を取り上げた乳母が、今度は、「うふいなぐ(立派な女の子)が生まれました」と告げました。うふいなぐと告げられた赤ん坊は、命を取られずにすくすくと育ちました。それで、大村御殿では男の子が生まれても、男の子と告げずに、「うふいなぐが生まれた」と言うようになりました。それから、北谷王子は黒金座主の霊を丁寧に弔ったので、大村御殿の角に立つ幽霊の噂は、いつのまにか消えてしまいました。
その後から周りの人達も、男の子が魔物に命を取られずに育つようにと、男の子が生まれても、「うふいなぐ(立派な女の子)が生まれた」と言うようになりました。
そして、こんな子守歌が歌われるようになったんだよ。
大村(ウフムラ)御殿(ウドゥン)ぬ角(カドゥ)なかい[大村御殿の角に]
耳切り(ミミチ)坊主(ボウジ)ぬ立っちょんどう[耳を切られた坊さんが立っているよ]
いくたい いくたい 立ちょうが[何人 何人 立っているの]
三ちゃい 四たい 立ちょんど[三人 四人 立っているよ]
いらなん しーぐん 持(ムッ)ちょんど[鎌も 小刀も 持っているよ]
泣ちゅる 童(ワラビ)や 耳ぐすぐす[泣く子は 耳をぐすぐす 切られるよ]
へいよう へいよう 泣くなよ[さあさあ さあさあ 泣かないで]

へいよう へいよう 泣くなよ[さあさあ さあさあ 泣かないで]


首里警察署 (スイキーサチ) 跡

中城御殿を西には戦争直前まで高床式木造瓦葺き平屋が建ち首里警察署として使われていた。廃藩置県の1879年 (明治12年) にここに設置されている。当時は親清反日派の三司官亀川親方盛武が、連日、旧藩主要官吏を中城御殿に招集して日本政府抵抗運動の組織化していた。反日抗命派の執務態度は各間切役人にまで波及していた。県庁当局は首里人士族の動向を監視、警察権力の威圧を加える意図があり、旧物奉行安室親方を逮捕、反日抗命派の与那城按司、津嘉山親方、沢岻親方、その他首里各村旧中取旧筆者十余人を拘引した事件も起こっている。警察署には消防団も組織され、亜鉛びきの鉄塔が消防用の望楼として建てられ、最新式の消防自動車一台も配置されていた。沖縄戦で消滅、現在は駐車場になっている。


聞得大君 (チフィジン) 御殿跡 (譜久山殿内跡)

旧池端村の大和井戸があった朝ヌ坂 (チョウヌヒラ) の通りを儀保方面に進むとの聞得大君御殿があった場所になる。聞得大君御殿は何度となく移転している。第12世尚益の読谷山御殿に同居していた尚益生母の思戸金按司加那志 (尚純妃) が、1703年に七代開得大君の義雲を拝命して、1706年に読谷山御殿内の仮殿から大中の聞得大君御殿へ移転している。この聞得大君御殿落成から25年目の1730年 (尚敬18年) に尚益王妃で八代聞得大君坤宏の時に、再び、汀志良次村の虎岩山麓の前聞得大君御殿の地へ移転している。その後、大中の聞得大君御殿は第二尚氏中期末葉に三司官を出した向姓譜久山殿内 (フクヤマドゥンチ) となり、沖縄戦直前まで使用されていた。戦後米軍の石粉砕掘で屋敷半分が削られ、現在は住宅、アパートが建っている。


赤土毛 (アカンチャモー)、赤土毛道 (アカンチャモーミチ)

中城御殿跡の北側に通る道はこの後に訪れる大中大石に通じていた砂礫を敷き詰めた主要な石粉道だった。大中大石からは緩やかな上り坂となり、その小高い丘は赤土でできていたので赤土毛 (アカンチャモー) と呼ばれていた。この赤土毛へ通じる道ということから赤土毛道 (アカンチャミチ) と呼ばれた。この道の大中大石までの両脇は、全て石垣囲いの士族の屋敷で、静寂な典型的な首里の街の雰囲気が漂う通りだった。戦後の宅地、採石などで赤土毛は削りとられ、赤土毛も途中で分断されている。


南風之平等学校所跡 (ハエーヌフィラガクコウジュ)

赤土毛には1798年に設立された南風之平等学校があったとされている。1700年頃の首里古地図によれば、琉球王国時代の久志親雲上の屋敷にあたる。廃藩置県当時、この南風之平等学校敷地は県有地となり、後に県立沖縄師範学校へ引き継がれている。この様な広い敷地を必要とする施設は大きな士族屋敷が使われたのだが、現在ではその跡地は細切れにされて、細い路地が迷路の様に走り、小さな民家が密集している。


カーミシマシ坂

旧大中村にはカーミシマシ坂と呼ばれた坂が存在していたそうだ。漢字で書くと上島添坂と推測される。沖縄本島南部の島尻へのシマシィビラ (島添) に対して、沖縄北方の上 (カミ) への坂 (フィラ) で カミシマシィ(上島添) ビラと呼んだと思われる。上つまり国頭 (クニカミ) に関わる坂の様に思える。この坂があった場所は戦後、米軍により土地整理で丘が削り取られ住宅が建設されて、道は分断されてしまった。


首里劇場

1950年 (昭和25年) に首里における戦後初の有蓋劇場として首里劇場が建てられている。それまでは、首里公民館として米軍放出品を利用した野外劇場として活動をしていた様だ。首里劇場は観客が1,000人も入る程の広さで、二階席も設けられていた。また、舞台の裏側は劇団の楽屋兼宿泊場所となっていた。芝居のほかに映画も上映され、学生の団体客などで、席は満席で人気の劇場だった。1959年以降に沖縄テレビ、琉球放送がテレビ放映を開始し、沖縄映画産業は衰退し多くの劇場、映画館が閉館に追い込まれていた。首里劇場は一般映画上映から日活ロマンポルノなどの成人映画上映に方針を転換していった。80年代に入るとレンタルビデオ店が現れ各地の映画館が次々と閉館に追い込まれた。また、にっかつロマンポルノも1988年に製作を終了し、首里劇場はピンク映画をメインにした上映を行うようになる。環境の変化がめまぐるしく映画館の経営が難しくなっていく中、2000年代に入ると劇場の貸館を始め、コンサート、発表会、講演会など各種イベントが行われていた。近年は新型コロナ感染症の蔓延で、経営は苦しい中、次は懐かしき昭和の時代の名作映画を上映する「名画座」へと衣替えをしている。色々なアイデアで幾たびもの逆風にアイデアで生き延びていた首里劇場だが、その原動力となっていた館長が昨年4月に亡くなり休館となり、残念だが6月に閉館となってしまった。

入り口には映画上映スケジュールが手書きで貼られている。これは去年のスケジュールなのだろう。現在は建物の老朽化で取り壊しか保存かの瀬戸際の様だ。


旧大中村の西側を見ていく。


大中坂

旧大中村の西の山川町との境界線となっている道を龍潭通りから進んでいくと登り坂になる。大中坂という。戦前は延長6~70mの石畳の急坂だったが、戦後道路の石粉採掘で現在の形になっている。


石頂跡 (イシンナジ)

大中坂を登った所、池端町と山川町の町界にあった天山陵の北からこの一帯にかけては、沖縄戦直前までは大中稜線で最も高い場所で、石頂 (イシンナジ) と呼ばれていた。1654 年 (尚質7年) に大中大石への近道を開通させた球陽にある。石頂から南に大中坂を下ると山川町へ、北にカーミシマシ坂を下ると桃原町に通じている。戦後、道路建設などで削り 採られて平地となり住宅街に変わっている。


大中村学校所 (逢源斉) 跡

大中坂を登りきり石頂跡 (イシンナジ) から北側は下り道になる。道を降りていった所には大中村学校所 (逢源斉) があった場所といわれている。 学校所は逢源斉と呼ばれ、「文章の意味を徹底させる」ということから命名されたと考えられ、四書五経を徹底して身につけさせることを主眼の学校名だった。その跡はコ ンクリート住宅、遊び場などになっている。 


大中大石 (ウフチュンウフイシ) 跡

大中村学校所跡のすぐ北側にはかつては大中大石 (ウフチュンウフイシ) があったという。首里開拓時に、琉球石灰岩の稜線を掘削して街路を開いた際にも大人数人がかりで取り巻くほどの大石が、道の真中に屹立していて、この大石の地点でロータリー状になっていた。この地で三本の道が交差していた。北へ下ると石敷の道は桃原町に至るカーミシマシ坂、南へ下ると坂道は山川町に至る大中坂、東へ向かうと赤土毛道へと通じていた。この後にこの大中出身のおじいと会い一時間程世間話をしたのだが、この大石の事を懐かしく話していた。大中の中ではランドマーク的なものだったのだが、戦後の採石や宅地開発で消滅してしまった事を残念がっていた。現在はロータリーの面影もなくなり駐車場になっている。写真右下は大石があった頃の写真。


仲里御嶽 (ナカジャトゥウタキ)、仲里大嶽跡 (ナカジャトゥクフタキ)

首里山川町との境近くには仲里御嶽 (ナカジャトゥウタキ) がある。ここは元々は首里大阿武志良礼 (スイオオアムシラレ) が管理するする城外八嶽の一つの仲里大嶽跡 (ナカジャトゥクフタキ) だった。この東側にあった仲良里小嶽跡 (ナカジャトゥクタキ) を合祀している。首里古地図では石垣に囲まれた御嶽が描かれており、今よりも広く150坪程の敷地だった。戦後の米軍の砕石や宅地開発で破壊の恐れがあったため、仲里大御嶽と仲里小御嶽二つの御嶽を合祀し 現在地に移転している。


仲里小嶽跡 (ナカジャトゥクタキ)

仲里御嶽の東の住宅地となっている所が小嶽があった場所になる。大嶽同様、首里大阿武志良礼の崇所だったが、戦後、仲里大嶽と同様に米軍の砕石によって消滅し、仲里御嶽に合祀されている。


村屋跡 (大中町倶楽部)

仲里小嶽跡の道を北に進むと、大中町倶楽部がある。大中村の村屋 (ムラヤー) だった。


次は旧大中村の東側を散策する



安谷川坂 (アダニガービラ)

中城御殿跡の東側石垣沿いに北に伸びるかつての宿道 (しゅくみち) の中頭方西海道 (なかがみほうせいかいどう) は安谷川坂 (アダニガービラ) に通じている中城御殿跡の東北隅から下ヌ橋口まで下り坂になっている。この坂道沿いにある湧泉の安谷川 (アダニガー) に因んでこの坂の名が付けられている。戦後しばらくは石道もあったが、現在は舗装路になっている。坂の通りには安谷川御嶽もあるのだが、地番は当蔵町なので、当蔵町の訪問記で触れることにする。


仲田殿内跡 (玉那覇醤油)

安谷坂の途中に玉那覇味噌醤油工場がある。1855~1860年琉球王朝末期の安政年代に創業し、1879年の廃藩置県で職を失った士族の屋敷を買い受け、この地に工場を移したのが現在の玉那覇味噌醤油で170年もの歴史ある老舗になる。琉球王国時代は士族の仲田殿内の屋敷だった。 石垣、玄関の石門や踊り場の石敷は往時をしのばせ、敷地内は非公開なのだが、井戸も残っており男女別の水浴び場も併設されていた。


安谷川 (アダニガー)

玉那覇醤油から少し下ると安谷川 (アダニガー) がある。昔はアダンが生い茂っていたの で、安谷川と呼ばれたと言われている。別の説ではアダニは崖川岸、端を表わし「崖 (川岸) の根方辺りに湧く泉」からの名としている。阿旦川や阿丹川と記載されている文献もある。井戸は琉球独特の相方積みになっている。大中村の村井 (ムラガー、共同井戸) として近隣住民が使っていたほか、首里城へ上る人や馬の休憩場所でもあった。井戸から下の橋口までは40m程の暗渠の排水路が敷設されていた。


羽地 (ハニジ) 御殿跡

安谷川 (アダニガー) の西が羽地朝秀を初代とする按司総地頭の代々屋敷だった。羽地朝秀は唐名は向象、羽地王子朝秀、羽地按司朝秀とも呼ばれ、沖縄では琉球の五偉人の一人とされ、著名な歴史上の政治家。1609年 (尚寧21年) の島津の琉球侵略以降、薩摩藩と親交を深め、薩摩藩への従属をベースとしたな政治改革を行い近代的な国家形態に琉球王国を立て直した。1650年 (尚質3年) に従兄の尚質国王の命を受けて、王府の家譜に当たる中山世鑑を著し身分制を確立していく。この中で開闢伝説から、舜天、英祖、察度の各王統を経て第一尚氏、第二尚氏王統へと擬制的に連続して語られ、開闢伝説に登場する天孫氏や利勇は羽地による創作だとされている。また、琉球最初の王の舜天が源為朝の子であり、琉球は清和源氏の後裔によって開かれたという源為朝来琉説も羽地の創作とされている。羽地朝秀は薩摩藩をバックとした改革を進めるにあたり、日本人と琉球人の人種的・文化的同一性を主張する日琉同祖論を展開している。かなり、薩摩藩を意識した内容になっており、薩摩侵攻は、当時の三司官であった謝名親方が奸臣であったためにやむなく島津が琉球への討伐に乗り出したという論理になっている。進貢の際に三司官等王府首脳部も関わった金品略奪の北谷・恵祖事件が契機となり、反薩摩の三司官を罷免し1666年 (尚質19年) に羽地朝秀が摂政 (シッシー) に就任し、1673年まで務めている。この期間には数々の改革を進めている。評定所を中心とした各機構を整備した行政機構の改革、王府慣習を簡素化や合理化により政治行政組織を強化、儀礼や冠婚葬祭の改革により政治と祭祀の分離、役人の賄賂など不正の防止、開墾 (仕明) した土地は永代に所持を許可する農地開墾の奨励、間切再編成、仏教徒の結党による弊害対策として寺院整理と儒教奨励などの改革を行なっている。また摂政の期間には1660年失火により焼失した首里城を総責任者として再建している。1675年 (尚貞7年) に59歳で没している。


嶺間御殿跡 (ミーマウドゥン)

安谷川の西側にはニ代目の聞得大君 の嶺間のきこゑ大君かなしの御殿跡になる。開得大君は第二尚氏初代尚円王の長女月清 (尚真王の妹) が初代として始まり、その後を継いだのが三代尚真王の長男で廃嫡された尚維衡浦添王子朝満の娘の梅南とされる。首里古地図では津嘉山御殿となっている。御殿跡は工事中だった。工事と思ってたのだが、現場には教育委員会之テントが張られていたので、発掘調査が行われているようだ。


嶺間括り (ミーマクビリ)

嶺間御殿の西方に隣接して小坂があったそうで、嶺間括り (ミーマクビリ) と呼ばれていた。クビリは元来は地形の括れた部分を示す地形地名だが、時代と共にクビリの意味が薄れ、この地の様に括れた場所でないところにも使われるようになった。現在はこの坂は消滅したそうだが、その付近には民家入り口への坂がある。この様なものだったのだろう。


これで池端町と大中町の史跡巡りは終了。今日訪れた中城御殿が予定通りに2026年に首里城と共に復元公開がされることを知り、ぜひとも三年後に再訪したい。


参考文献

  • 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗 (1979 那覇市企画部市史編集室)
  • 沖縄風土記全集 那覇の今昔 (1969 沖縄風土記刊行会)
  • 王都首里見て歩き (2016 古都首里探訪会)
  • 首里の地名 (2000 久手堅憲夫)
  • 沖縄「歴史の道」を行く (2001 座間味栄議)
  • 古地図で楽しむ首里・那覇 (2022 安里進)
  • 南島風土記 (1950 東恩納寛惇)
  • 沖縄県立埋蔵文化財センター調査報告書 第53集 中城御殿跡 県営首里城公園中城御殿発掘調査報告書 (1) (2010 沖縄県立埋蔵文化財センター)
  • 沖縄県立埋蔵文化財センター調査報告書 第58集 中城御殿跡 県営首里城公園中城御殿発掘調査報告書 (2) (2011 沖縄県立埋蔵文化財センター)
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