コンプレックスとルサンチマンとマウンティング
中二病みたいなことを言うけれど、普通と言う価値観が、長年コンプレックスであった。普通ではない家庭で育ち、学校のみんなとも違う好みを持っていたり、自分を持て余していた時期も長い。表現者としてある程度結果を出して、それは個性だと認めてくれる人たちにも出会って、やっとニュートラルにいろいろなことを許せるようになってきた。
先日、継続的に嫌味を言ってくる人達のことを改めて考えてみた。
例えば、外見を誇っている女子が、インスタ映えを意識して私を嘲笑し撮影から外したり、他人の話をする時にいちいちカオを批評していた。そういう価値観なんだなとスルーした後、残念な気持ちになった。それは私が全く傷つかなかったからで、その人を普通にカワイイ女性だと思っていたのに、外見で人を差別していることを露わにしていて落胆したのだ。人には様々な好みや魅力があって、私のことを魅力的だと思ってくれる人達に出会っていたのが事実であり、自分で自分を認めることができている今だから、相手を否定することで上に立って良い気になりたい「マウンティング」をされても、私の中でそれは何の勝負にもならない。雑誌に載っている服を着て、テレビに出ているお店に行って、ハイスペックな男性を狙って、料理をせず化粧を沢山して、文化的なものには全く感動しないという生き方は、私と価値観が違うだけ。それぞれ違ってそれでいいと思うのに、なんでわざわざマウンティングという攻撃をするのかなと考えると、結局その人にとって自慢である外見が、その人自身の「コンプレックス」を表しているのだと気づいた。自分より美しい人を見ると負けと思ってしまうんだろうなと思って。それは、せっかく自分が持っているものを、楽しむ才能ではなく、人を測る条件にしか使えないとは不幸なことだ。
また、頭が良いことを自慢にしている男性がいて、話の流れで私が様々な文化の話をすると、急に不機嫌になって否定的なことばかり、延々と個人攻撃を仕掛けてくる癖の人がいる。知的好奇心があれば、知らないことを知るのはワクワクするからジャッジは後でいいのに、即否定しないと自分が保てないみたいだ。この人は頭が良いが、おそらく心の器と頭のバランスが取れていなくて、自分の“灰汁”を持て余してしまっているのかなと気付いた。それを許すのは私のターンかもしれないけれど、そこまで灰汁を撒き散らさなくてもいいんじゃないかなと思った。
あるいは私は、1人で海外旅行に行くし、BARでお酒を楽しみ、ロックやガンダムが好きで、本を読み、絵を描いたり、散歩をしていることが本来の自分の楽しみだから、自分の人生を楽しんで生きている。それを年齢とか一人行動は可哀想とか、流行と違うから変わり者だと絡んでくる人もいる。手に入らないものは、“酸っぱい葡萄”にしないと気がすまないのかもしれない。好きなものが違うだけなら、それぞれが好きなものを楽しめばいいだけなのに、私が好きなものを聞かれて好きなことを話すと、自分が知らないものが楽しそうなのが嫌で、いちいち否定したがる人達。子供の頃から社会人になった今も沢山いる。
スルーをしているけれど、やっぱり少しストレスが溜まってしまったようだ。それはまるで臭気のようなもので、傷ついたりダメージは受けないけれども、不快ではある。
認めて欲しい思いが結果と結びついていなくて「ルサンチマン」になって攻撃に転じてしまうパターンは多いと思う。インディーズが、メジャーなんて商業主義で迎合だとディスるようなもので、それぞれのステージで最高のものを作ってれば、それそれが良いだけなのに。
自分が自慢に思っている事は、コンプレックスでもあるのだ。複雑に優越感や劣等感や欲望やや発散が混じっているから、それをコンプレックスという。
つまり陰陽だと思う。
何事も光と影、両方を含んでいて、その両方を認められて初めてバランスが取れて調和をするのだ。
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