ゴットフリート・ワグネルと出石焼
先日、京都国立近代美術館で開催中の特別展『明治150年展 明治の日本画と工芸』に行ってきました。明治工芸は近年、展覧会でとりあげられることが多く、「超絶技巧」というキャッチフレーズでずいぶん注目されています。実際、展覧会では精緻な工芸品も多数展示されていましたが、私のめあてはゴットフリート・ワグネルなる人物の資料でした。
ゴットフリート・ワグネルとはドイツ生まれのお雇い外国人で、日本窯業の近代化に尽力した人物です。『ドクトル・ゴッドフリード・ワグネル伝』(植田豊橘編、博覧会出版協会、1925)所収の年譜によれば、明治元(1868)年に来日し、同3(1870)年に佐賀藩の招きで有田に赴いて技術指導をしたのち東京に移住、ウィーン万国博覧会御用掛や、東京開成学校、京都舎密局、東京職工学校の教官などを歴任しています(明治25(1892)年に東京で没)。もともと数学・物理学で学位をとった人物だったようですが、日本では化学、ひいては窯業化学を指導していました。年譜をみるかぎり、ワグネル自身が但馬を訪れた形跡はありませんが、彼の二人の教え子が出石焼に大きな足跡をのこしています。
その教え子とは柴田善平と友田安清。柴田は有田出身の職人で、明治初頭にワグネルと出会い、コバルト顔料の製法などを教わったようです。彼はその後、明治9(1876)年、出石に招かれ盈進社の立ち上げに関わりました。一方、友田は金沢出身の元士族で、東京職工学校教官時代のワグネルに師事し、明治32(1899)年に出石に設立された陶磁器試験所で陶石や焼成窯の改良につとめました。近代の出石焼は彼らの活躍で一躍名声を高めましたが、その向こう側にワグネルがいたというわけです。間接的ながら、ワグネルは出石焼発展の「恩人」といえるのかもしれません。
江戸時代中期に開窯した出石焼ですが、生産は軌道に乗ったとはいいがたく、いわば「低空飛行」の状態が続きました。その供給圏も但馬周辺を超えるものではなく(このあたりの検証は考古学的な課題でもあります)、いわば片田舎の焼物にすぎなかったのですが、但馬に出石焼ありと全国に知らしめた柴田と友田が、ともに同じ人物から技術を教わったというのは、大変面白い符合に思えます。友田の作品を見ることはなかったはずですが、パリや東京の博覧会で好評を博した盈進社製の出石焼は、ワグネルも見る機会があったかもしれません。明治の但馬が、窯業を介して世界とつながった瞬間でありました。