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次に来るもの 2.後三条天皇即位

2018.04.30 09:10

 即位間もない後三条天皇には、真逆の二つの期待が寄せられていた。

 世の中を大きく変えることと、世の中を大きく変えないことである。

 前者はより良い世の中になることを期待し、後者はこれまでの暮らしが続くことを期待する。相反するこの二つの期待は政権交代が起こるたびに見られるごく普通の期待であるが、解決するのは難しい。通常はどちらか一方しか選べないものである。

 しかし、後三条天皇はその双方の期待に応える一つの策に打って出たのである。

 それが、大規模な開発である。莫大な国家予算を通じて新たなものを生み出すのだ。

 世の中の変化を求める者にとっては、大規模な開発によって新しい時代が作られることの期待であり、これまでの暮らしが続くことを願う者にとっては、現状に手をつけないという安心感である。

 治暦四(一〇六八)年七月二一日、正式に即位した後三条天皇は、ただちに内裏再建を宣言する。その上、早急な建造であることを示すために、九月四日には、関白左大臣藤原教通の邸宅である二条第を内裏とすると宣言し、その上で早期の内裏建造完了を求めたのだ。この時代、自らの住まいが内裏となるのは名誉なことであったが、関白左大臣藤原教通にとっては朝から晩まで、いや、眠りについている間も朝廷の中で生活するようなものであり、心労はただならぬものがあった。この心労が終わりを迎えるためには、一刻も早く正式な内裏の建造工事が完了して後三条天皇が正式な内裏に遷ることを待つしかない。

 内裏再建につぎ込む予算は膨大なものとなったが、誰も文句が言えなかった。内裏が焼け落ちてそのままになっていることのほうが問題であり、仮の住まいを転々とするのがおかしな話であったのである。内裏は一刻も早く再建されなければならないというのは、誰も文句を言える話ではなかったのだ。ただし、国家予算の問題を除いて。

 藤原摂関政治は善かれ悪しかれ現実に目を向けた政治である。現実に目を向けると国家予算の都合にも目が向く。よく、野党があれこれと展開する理想の政治に対し「財源はどうするのか」という反論を向けられることがあるが、あれは何も揚げ足をとっているわけではない。予算がどのようなものであるかをわかっているからこそそのように応えるのである。そもそも、野党が思いつきそうな解決策など、予算さえ許せばとっくにやっている。

 後三条天皇の即位という政権交代も、与野党逆転という政権交代と変わらない。その上、それまで主張してきた急進的な改革ではなく、誰もが文句を言えない政策を展開している。だが、予算がないというのはどうにかなるものではなかった。どうにかするとしたら他の支出を引き締めるか増税するしかないのだが、そのどちらも後三条天皇は述べていない。後三条天皇が掲げたのは予算をつぎ込んでの内裏再建であり、その予算をどのように捻出するのかは全く述べなかったのだ。

 このとき、予算の問題を一手に引き受けなければならなくなったのが、藤原頼通の引退に伴い人臣のトップに立つこととなった関白左大臣藤原教通である。無い予算を生み出すことなどできないが、後三条天皇が自分の邸宅である二条第に身を寄せている。この結果、予算の問題を無視して工事を進めよという後三条天皇に対して予算の問題で拒否する藤原教通という構図が延々と続いたのだ。

 後三条天皇が二条第から遷ることとなったのは、内裏再建工事が終わったからでも、関白左大臣藤原教通の訴えを聞き入れたからでもない。治暦四(一〇六八)年一二月一一日、二条第が火災に見舞われたのだ。

 どのような理由での失火なのかは史料に残されていない。しかし、想像は容易につく。

 予算の問題をどうにもできなくなった藤原教通の選んだ最低最悪の選択肢であったのではないか、と。とは言え、証拠はない。朝から晩まで休むことなく後三条天皇の監視下に置かれることがなくなったという結果があるだけである。

 内裏再建を命じた藤原教通からの回答がこれであると考えた後三条天皇は、その対応策を出した。天皇としての人事権の発動である。間も無く年が変わろうかという治暦四(一〇六八)年一二月二九日、大規模な人事異動が発表された。

 その結果は下記の通りである。

 後三条天皇による昇格者が過半数を占めてはいない。しかし、藤原摂関家で独占していると言っても良い議政官の構成にくさびを打ち込むには充分であった。さらに、新たに参議に任じられた三人のうち藤原資仲は修理大夫、源隆綱は修理権大夫を兼任していた。すなわち、内裏再建の実担当者のうちのトップと二番手がその役職を兼任したまま議政官の一員となったのである。

 この時代、国家規模の事業を展開する際の予算は、まず中央でどうにかし、中央の予算でもどうにもならなくなったら令制国に割り振られる。ここまでは後三条天皇も、関白藤原教通も共通認識として持っている。

 問題は、令制国への割り振りである。例えば内裏再建ならば「この門はX国の国司」「この建物はY国の国司」というように令制国の国司に割り振られるのだが、後三条天皇の内裏再建計画は、各国への割り振り量が尋常では済まないことが判明していたのである。

 通常、まずは国司に責任が割り振られ、責任を割り振られた国司は自国から得られる税収を事業のための予算として朝廷に納める。もっとも、それで税率が変わるわけでも、特別税が課されるというわけでもなく、例年は用途未定の状態で税を納めていたのを、その年は国家規模の事業に用途が決まっているという前提で納税するというわけである。また、令制国に課されている税の全てが用途の限られた納税となるケースは少なく、通常はノルマのうちの一部が用途限定に割り振られるという仕組みである。

 ところが、後三条天皇の命じた大規模な内裏再建工事は、令制国に課された納税ノルマの全額をつぎ込まなければ無理だというレベルのものであった。

 これが問題であった。

 用途が決まっていなければ適当で済ませることができた納税が、用途が定められているという一点で厳密なものへと変貌してしまうのである。国司としても、何としても完納させなければならなくなり、統治国内での徴税が苛烈なものとなってしまうのだ。

 どういうことか?

 国司は、統治している国から税を集めて朝廷に届ける義務がある。ただし、どれだけの税を納めなければならないかが決まっているのであり、通常であれば、どのようにして税を納めなければならないかまでは深く追求されない。

 たとえば、統治国ではないところに荘園を持っている国司の場合、統治している令制国の税を軽くし、自分に納められる荘園からの年貢と合わせてノルマ分とすることも可能であった。要は合計が一致していればいいので、その内訳までは問われないのである。

 自分に届けられる年貢と相殺する前提で令制国内の税を軽くすることは、統治している国内に自分の荘園を築くきっかけになる。「税を軽くしてくれた今の国司様の荘園になれば、前の国司様のような重い税ではなく、今の国司様への税と同じ程度の年貢になる」というのは、荘園を寄進する側にとってかなりのメリットになる上に、国司としても、自分の収入源となる荘園を確保できることとなり、ほぼ永久的に収入を得られることになるのである。

 ところが、用途が決まっている税となると、自分の荘園からの年貢での相殺が認められなくなる。令制国内の納税記録を全て提出しなければならず、国司の判断で税を軽くしたり、さらには荘園であるという理由で免税したりということが認められなくなるのだ。

 荘園であるために免税であるというのは、法の拡大解釈によって成立している。その拡大解釈は、用途の決まった納税命令の前には沈黙させられる。つまり、「国のためなのだから荘園だろうが何だろうが、法に基づいた税を納めよ」という命令になるのだ。

 かと言って、荘園に住む者や荘園領主がおとなしく税を払うとは考えられない。

 それで、国司たちは板挟みに苦しむこととなったのである。


 この事情を後三条天皇が知らないわけではない。

 後三条天皇は自らの事業計画を遂行するにあたって、令制国ごとの税収を把握しており、その数値に基づいて責任を提示した、つもりであった。問題は、各国の国司がその責任を果たせそうにないという点である。

 荘園であろうと税を課せばいいというのは早計に過ぎる。免税であることが大前提である荘園に税を課すということは、荘園内外の景気を悪化させることを意味する。税というものは、好景気であれば減税をし、不景気であれば増税すべきものである。そして、この時点では特に不景気となっているわけではない。つまり、増税するタイミングではないどころか、このタイミングでの増税は不景気を呼び寄せてしまうのである。

 後三条天皇は、そもそも荘園というものがどれだけの規模で存在しているのかを調べる必要を感じた。予算をどうにかしようにも、現状を把握できなければどうにもできない。

 治暦五(一〇六九)年二月二二日、後三条天皇から以下の四つの命令が出された。

 まず、寛徳二(一〇四五)年以後の荘園は全て停止とする。

 次に、寛徳二(一〇四五)年以前からの荘園であっても、国有地である公田であるという記録があればそれは荘園と認めない。

 三番目として、寛徳二(一〇四五)年以前からの荘園は現状より拡大してはならない。公田でも荘園でもない土地を開墾して新たに荘園として組み入れてはならない。

 最後に、全ての荘園は、所在地、所有者、総面積を太政官に報告しなければならない。

 この命令はおよそ一ヶ月後の三月二三日にさらに強い命令となって再登場する。

 三月二三日の命令は、寛徳二(一〇四五)年以後の荘園に加え、未報告の荘園については荘園機能を停止するという命令であった。

 同日、後三条天皇は関白左大臣藤原教通を宇治に派遣させた。名目上は弟による兄の訪問であるが、前太政大臣を現役の左大臣が訪問するという実態を隠そうとはしなかった。いや、むしろ大いに宣伝させた。それは、藤原頼通はなお健在であることを示すかのような効果を呼んだ。

 そう、後三条天皇は隠遁した藤原頼通を引っ張り出してきたのだ。

 なぜか?

 藤原摂関家が所有する荘園についての報告をしたとなると、他も動かざるを得なくなるからである。しかも、隠遁したはずの藤原頼通を引っ張り出すというのはパフォーマンスとしてかなり有効である。かの藤原頼通ですら荘園の報告について逃れることはできないとなると、他の貴族も、寺院も、従うしかなくなる。

 なお、鎌倉時代に記された歴史書「愚管抄」によると、藤原頼通は後三条天皇に対し「五〇年間、政務を進めて行く上で幾度となく荘園の寄進を受けたため、今ではどの荘園が自分の荘園なのかわからない有様です」と述べたというが、その信憑性は怪しい。なぜかと言うと、藤原摂関家所有の荘園についての記録が提出されているだけでなく、提出した中の上野国土井荘については荘園停止に該当するとして停止されているからである。

 税を免除される荘園の存在が国家財政に多大な影響を与えているだけでなく、国内の大きな格差を生み出してもいる。ゆえに、荘園について規制をかけるというのは明瞭な考えであるが、同時に短絡的な考えとも言える。このときの後三条天皇の決断は、正義か非正義かで言えば正義と言えるであろうが、経済に与える影響は多大なものがあったのだ。

 貴族や寺社の権勢を利用して税を逃れる代わりに、貴族や寺社への年貢を納める。この年貢は税よりも軽いものである。貴族や寺社は年貢を受け取る代わりに、三つの点で荘園に住む者を守る。一つは国から命じられる税、二つ目は外からやってくる犯罪集団、そして三つ目が自然災害。特にこの三番目が重要なポイントであった。

 国というものは、国内規模で税を使う。国全体で必要と考えるポイントに税を使う。そのため、自分で収めた税が自分の必要とすることに使われないという状況を迎えることもある。水害にあって田畑がダメになったからといって、田畑を復旧させるために国がすぐに動くわけではない。より大規模な水害や、噴火、地震といった自然災害の方が激しい損害で、復旧の優先順位も高いと判断されたら、目の前の田畑がぐちゃぐちゃになったままであっても放っておかれる。

 しかし、荘園となると違う。国は何もしてくれないが、荘園領主はどうにかしてくれるのだ。水害からの復旧になるか、あるいは、別の田畑を用意するかはケースバイケースだが、少なくとも年貢を納めてくれた相手を放っておくことはない。偽善と考えるかもしれないが、荘園領主を企業の経営者と、あるいは株主と考え、荘園を株式会社と考えれば、被災した工場を立て直したり、被害にあった従業員を救済したりと、利益を生み出すために最善を尽くすのは何らおかしな話ではない。

 さらに、荘園というものは国税を収める土地と違い裕福であることが多い。現在でも福利厚生が行き届いている上に従業員への負担も少ない企業は給与も高く、生み出す商品の品質も高いことが普通だが、そのあたりは平安時代の荘園も同じである。

 生み出す農作物や日用品の多さは、周囲へと波及する。

 荘園に住む者は比較的裕福であった。裕福であるために、食べるものにしろ、着るものにしろ、あるいは日用品にしろ、買う。モノを持って各地を練り歩く商人も、国に税を納める土地に足を運ぶのと、荘園に足を運ぶのとでは売れ行きが違うのを実感していた。

 コンビニやショッピングモールのあふれる現在と違い、平安時代のモノの売買は市(いち)で行なわれる。市(いち)が年中無休で存在するのは平安京だけであり、通常は各地を練り歩く商人が月に一度か二度、地域の中心となるエリアに集まってモノの売買をする。近所で市(いち)が開催されるとなると、商人以外の者もモノを買いにくるし、売れるモノを持っている者がモノを売りに行く。貨幣経済の壊れたこの時代、貨幣の役割を果たしていたのはコメや布地であり、市(いち)でもそれは変わらない。

 商売の基本は、モノを安く仕入れて高く売ることにある。漆器を欲しいと願う者がいて、一人はコメ一升と、もう一人はコメ二升と交換すると申し出たとき、漆器はコメ二升を提示した者の手に渡る。この高値を出せる者が多く住むのが荘園であった。漆器を作る者も、自分の作った漆器がコメ一升からコメ二升に増えたとなったら、漆器作りを副業ではなく本業にできるし、生み出せる漆器の数そのものを増やせる。市場(しじょう)に流通する漆器の数が増えたなら漆器の値段は下がり、それまで漆器を買えなかった者も買えるようになる。最終的には漆器一つあたりの値段が下がったとしても、漆器の販売数量が増えるために売上も増え、利益は最高値を示す。

 荘園に住む者が豊かであると知れ渡れば、周辺の商人が荘園の近くの市(いち)に押し寄せるし、さらには市(いち)そのものが荘園のすぐそば、さらには荘園内に設けられるようになる。その上、市(いち)の開催頻度も増えてくる。月に一度の市(いち)が月に二度になり、三度になり、月の決まったタイミングでの定期開催となる。現在でも「四日市」とか「二日市」とかの地名が残っているのも、毎月四日、一四日、二四日というように、一ヶ月に三度、決まったタイミングでの市(いち)の開催があったことの名残である。

 荘園に行けば市(いち)があるとなると、荘園の周辺に住む者も荘園に足を運ぶようになる。自分で作ったモノを持っていけば、荘園の住民や市(いち)にやってきた商人が買ってくれるかもしれないし、なかなか手に入らない珍しいものも市(いち)で買えるかもしれない。こうなると、荘園の存在そのものが周囲に波及することとなる。

 荘園を整理するということは、荘園の持つこの経済効果を破壊してしまうことを意味するのだ。

 後三条天皇は言うだろう。荘園の現状を調べようとしているだけで、経済に冷や水をかけて冷やしてしまうつもりなどない、と。それどころか、届け出さえあれば、荘園の存在を国が認めるのだから、むしろ喜ぶべきことではないか、と。だが、荘園というものが法的にグレーゾーンであり、許されざる存在であるという認識は誰もが持っていた。この存在を明瞭なものにしようというのは、荘園の存在を認める程度ではプラスマイナスゼロにならない規模で、荘園の存在そのものの持っていた経済効果を破壊することを意味してもいたのだ。

 治暦五(一〇六九)年四月一三日、延久へと改元すると発表。ゆえに、後三条天皇によるこのときの荘園調査命令を「延久の荘園整理令」という。


 延久元(一〇六九)年四月二八日、貞仁親王が正式に皇太子に就任した。貞仁親王、このとき一七歳。いつかは自分のもとに帝位が来ると予期していた貞仁親王にとって、目の前に帝位が見えた瞬間であった。

 後三条天皇は即位するまで、兄の後冷泉天皇のもとに皇子が生まれたら、皇位継承権筆頭の地位を失うことを運命付けられていた。藤原摂関家が権力を独占しており、後に後三条天皇となる尊仁親王のもとに集った者は、藤原摂関政治のもとでは権力を握れないと考え、既存権力の対抗勢力として近寄る者が多かったのである。

 しかし、貞仁親王は父の即位の瞬間から次の帝位は自分のものとなると考え続けていた。そして、日本中の人がそのように考えるようになっていた。つまり、貞仁親王のもとに集うのは、既存権力が続くことを前提と考えている人たちだったのである。それは、かつて尊仁親王のもとに近づいた人たちだけでなく、藤原摂関政治のもとで権力を手に入れようと考えていた人たちも含まれていた。つまり、大規模な政権交代を狙う者ではなく、現在の後三条天皇の政権の維持を前提とする者と、政権を失った藤原摂関家の者とが融合して、貞仁親王のもとに集うようになったのである。

 一見するとこれは政権を強固なものとし、また、安定へと誘うものでもある。何しろこれまでの権力とこれからの権力とが融合した巨大な権力ができあがろうとしているのだ。これを普通に考えれば、それまでの体制と反体制とが融合し一つの巨大な、そして安定した権力へと誘うものである。

 だが、危険な要素もはらんでいる。貞仁親王に万能感を与えてしまうのだ。貞仁親王は後三条天皇の第一子であり、後三条天皇の後継者筆頭である。貞仁親王のもとに駆けつけるのは、貞仁親王が次の権力者であり、やがていつかはという話ではあるが、貞仁親王がこの国のトップに立つことがわかりきっているからなのだ。貞仁親王が無能無知であったとは言わないが、貞仁親王個人の資質で人が集まっているわけではなかったのである。

 貞仁親王は、すなわちのちの白河天皇は、そのことに生涯気づくことがなかった。気づくことなく、自らの万能感を信じ続けたのである。


 さて、延久の荘園整理令では、荘園の所在地、所有者、総面積を太政官に提出するとある。

 文書を提出し、太政官での審査が通ると、荘園として国から認められ、これまでの免税の特権が続くこととなる。一方、文書を提出しなかった場合は荘園として認められることが無くなり、免税の特権が失われる。武力に頼って強引に免税を続けるという手もあるが、文書の提出と、武力による納税拒否とを天秤に乗せたなら、後者のほうがはるかに重い負担である。

 このため、大量の文書が太政官に提出されたことが考えられる。どれだけの文書が提出されたのかについての記録は残っていないが、文書量が多大であったと推定されるのが、記録荘園券契所の設置についての記録である。史料によると延久元(一〇六九)年閏二月の設置とあるのだが、前述のとおり、延久へと改元されたのは四月一三日のことで、閏二月はまだ治暦五年であるし、それ以前に延久元年、すなわち治暦五年には閏二月などという月がない。太陰暦に基づく当時のカレンダーは、月と年の整合性を合わせるために、一九年に七回の割合で一ヶ月を追加し、それを閏月(うるうづき)と呼んでいた。たとえば、二月と三月の間に閏二月を入れるというように、一九年に七回の割合でやってくる閏月を、可能な限り月と季節とが合致するように調整して入れていたのである。確かに延久元(一〇六九)年は一九年に七回の割合での閏月が巡ってくる年であるが、この年の閏月が入るのは一〇月と一一月との間であることがかなり前から発表されており、記録荘園券契所の設置も、閏二月ではなく閏一〇月ではないかと考えられている。

 なぜ間違った日付が今日まで残っているかであるが、荘園整理令に基づいて提出された文書を整理する役所として記録荘園券契所が設置されたという記録が、「百錬抄」にしか存在せず、かつ、その記録は日付と、設置されたことを記す一文があるだけであることに由来する。日付の書き間違いがあったとしても、他の資料が存在するならば比較検討も可能なのだが、存在しない以上推定しなければならないのが現状なのだ。

 推定の結果の閏一〇月を記録荘園券契所設置の日付とすると、荘園整理令が出されてから八ヶ月は記録荘園券契所が存在せず、太政官で文書を整理していたと考えられる。

 太政官の事務局である弁官局は、日常から朝廷で使用する文書を整理し、請願を整理し、法案を整理し、天皇の裁可が下りた法律を公表していた。荘園整理令に基づく文書の提出も、朝廷の仕組みに従えば弁官局で処理することとなるのだが、弁官局という職務は現在のキャリア官僚にも似て、激務である。燃料代が現在と比べものにならず、夕方になろうと、あるいは夜になろうと昼と同様に仕事をするとなると照明に使う燃料代だけでも恐ろしく高価なことになるのがこの時代であるが、弁官局の燃料代は必要経費と考えられていた。すなわち、夜遅くまで残って残業をするという光景が弁官局では当たり前だったのである。

 というところで荘園に関する文書が大量に提出された。こうなると弁官局は処理しきれないこととなる。「仕事はこなせ」「残業はするな」は実際に仕事をしていない人間だから言える無責任な暴論である。仕事をこなすには時間が必要であるし、時間を守るなら仕事量を減らさなければならない。その結果が、弁官局から独立した、荘園に関する文書を扱う専門の部局である記録荘園券契所の設置であろうと推測されている。現在でも、仕事の多さから処理がこなせなくなってきている職場で、特定の仕事を専門に扱う部署を設置し、人をそちらに割り振ったり、新たに人を雇い入れたりするということがあるが、記録荘園券契所もそれと同じであった。

 記録荘園券契所では、提出された荘園に関する文書を精査し、荘園整理令に基づく荘園であると認可されれば、通常ならば弁官局を経てからでないと議政官に奏上されないところを、弁官局を減ることなく議政官に奏上される。理論上、議政官での審議を経ないと後三条天皇に奏上されないが、荘園整理令には後三条天皇の強い後押しが存在するだけでなく、記録荘園券契所からの奏上の内容は一般に公表される。その上、奏上されるのは荘園であると認められた結果だけで、不認可の場合は奏上されない。記録荘園券契所が荘園でないとするのを議政官が荘園であると覆すことは考えられても、記録荘園券契所が荘園であると認めたところを議政官が荘園として認めないということは考えられない。何しろ、議政官を構成する貴族たち自身が荘園の所有者でもあるのだ。

 この、記録荘園券契所には誰がいたのかについての明確な記録は無い。ただし、確実にいたであろうことが言えるのが、右少弁の大江匡房である。なぜか。この時代、法案というものは太政官から議政官に提出され、議政官での審議を経たのちに天皇の裁可を経て、太政官から発表されるのだが、延久元(一〇六九)年以後、荘園に関わる太政官符や官牒にはことごとく右少弁大江匡房の名が記されているのである。

 右少弁というのは弁官局でも六番目の地位であるから高いとは言えない。だが、大江匡房は史上最年少で方略試に合格し、その後も即位前の後三条天皇、当時の皇太子尊仁親王の側近として知的参謀を担っていた人物である。この時点でまだ二九歳であったが、貴族としてのキャリアは、藤原氏でない二九歳としては申し分ないものであった。

 また、大江匡房は右少弁であると同時に蔵人も兼ねていた。後三条天皇の即位とほぼ同時に蔵人に任命されたからである。右少弁であるというのは弁官局の中では高い地位ではないが、蔵人という天皇の側近の役職を兼務するとなると、弁官局の中の地位の低さなど問題では無くなる。大江匡房の発言や行動は後三条天皇の強い後押しがあることになるのだ。


 記録によると記録荘園券契所設置の後、記録荘園券契所設置が閏一〇月だとすると設置の少し前、後三条天皇が人事変更を実施した。

 まずは延久元(一〇六九)年八月一三日。この日、関白左大臣藤原教通が左大臣を辞職することとなり関白専任となったのである。

 そして、延久元(一〇六九)年八月二二日には、右大臣藤原師実が左大臣に昇格、源師房が右大臣に昇格、大納言藤原信長が内大臣に昇格した。

 藤原摂関政治に対する対立軸たることを期待され、実際に藤原摂関政治における経済政策である荘園制度に制限を掛けていながら、意外なまでに藤原摂関政治の時代の人事をそのまま残している。さらに言えば、関白としての藤原教通は健在であり、藤原頼通が宇治に隠遁したという一点を除けば、まさに藤原頼通の時代のままであったのである。

 しかし、藤原摂関政治のままであるように見える人事も、視点を少し変えれば後三条天皇のしたたかさが見て取れる。

 左大臣は藤原頼通の後継者である藤原師実で、右大臣は亡き藤原道長から藤原頼通の後継者に任命されていた源師房である。源師房は自分が摂関政治の後継者になることなく、藤原頼通の子の藤原師実が藤原頼通の後継者になっていることについて何も言っていない。藤原師実の後ろ盾となることを自ら選んだと言えるほどである。

 ただし、この時点の藤原師実は藤原頼通の後継者であって藤原摂関政治の後継者なわけではない。藤原頼通が隠遁したのち、藤原氏のトップは藤原頼通の弟で関白である藤原教通のものとなっている。関白の地位は後三条天皇が与えたものである。そして、内大臣に新しく任命されたのは藤原信長である。この藤原信長は関白太政大臣藤原教通の三男であり、長男と次男を早々に亡くしていた藤原教通にとっては最大の後継者となっていたのである。

 さて、この時点で藤原氏のトップである藤氏長者の地位は関白藤原教通の手にあり、その息子が内大臣になっている。一方、かつて藤氏長者であった藤原頼通は後継者に藤原師実を指名したものの宇治に隠遁している。

 誰もが藤氏長者の地位を藤原師実が引き継ぐと思っていたところで、ここにきて藤原信長に注目が集まるようになったのである。しかも、関白の息子にして内大臣という藤氏長者の後継者として申し分ない背景を背負っている。その上、まだ若すぎるという批判を受けることのあった藤原師実と違って、二二歳で権中納言に就任してから二六年間という長きにわたって議政官の一員であり続けたという申し分ないキャリアがあった。もしも関白藤原教通に何かあったときの安心感という点では藤原師実よりも上だったのである。

 藤原氏というのは、外に向かっては一枚岩になるが、内では激しい争いを繰り広げる集団である。内での争いが個々の能力を高めるトレーニングになってもいたのだが、集団の力を弱めようというときの急所でもあった。それを後三条天皇は突いたのである。

 関白は理論上天皇の相談役であり何ら決定権を持った職務ではないが、権威ならば、関白ともなれるとかなりのものを持つこととなる。それこそ、たかが家の中のトップ争いでしかない藤氏長者の後継者を誰とするかを指名することも不可能では無い。しかし、たかが家の中のトップ争いであるがゆえに、関白藤原教通よりも、宇治に隠遁した藤原頼通よりも強力な存在がこの時点でも健在であるという点が身動きさせられずにいた。

 上東門院彰子である。

 藤原道長の長女で一条天皇の皇后であり、後三条天皇にとって実の祖母でもある。日本文学史に視点を移せば、源氏物語の作者である紫式部をはじめ、和泉式部、赤染衛門、伊勢大輔といった女官たちと文芸サロンを形成した中宮彰子と言えばわかりやすいであろうか。

 この時代になると隠遁して出家し上東門院と名乗るようになっていたが、かつての天皇の皇后で、二人の息子と二人の孫が天皇となり、弟二人が関白になったという女性が君臨しているのである。藤原頼通も、藤原教通も、藤原氏という枠組みの中にあっては、上東門院彰子の前ではただの弟になってしまうのだ。政治についてあれこれ口を出すことはなかったが、藤原氏のことについては亡き父である藤原道長の遺言を最後まで守り続けた。

 それでも老いた女性の戯言と無視してしまえばよかったのではないかと思うかもしれないが、出家して上東門院を名乗るだけでばく、藤原道長の建立した法成寺に住まいを構え、今なお亡き藤原道長の威光輝く法成寺を自由自在に操れる立場にあったのである。法成寺の勢力は南都北嶺ですら太刀打ちできないものがあり、関白であろうと、前太政大臣であろうと、簡単に無視できる存在ではなかったのである。


 後三条天皇の推し進めた荘園整理がどのような結果をもたらしたか?

 正義を最優先に考える人にとっては、悪である荘園領主が退治される痛快事であり、鎌倉時代の源顕兼はその著書「古事談」で後三条天皇の治世を「延久の善政」として絶賛したが、現実は甘い物ではなかった。善か悪かで言えば善と言えなくもないが、結果に目を向ければ貧困を生み出していたのである。

 この国の農業生産性の推移を追った論文によると、奈良時代の農業生産性は一町歩あたり一・三七石であったのが、藤原摂関政治の時代を迎えると一・九三石へと増加していた。目安としては、一町歩がだいたい一世帯あたりの田畑で、一石が一世帯あたりの年間食料消費量に相当するので、一世帯の非農業従事世帯を養うのに三世帯の農業世帯を必要としていたのに対し、藤原摂関時代になると一世帯が非農業従事世帯一世帯を養えるレベルにまで生産性が上がってきたこととなる。いくら第一次産業の割合が多い時代であるとっても、家業が農業である世帯が全てであるわけではない。陶工もいるし、大工もいるし、鍛冶もいる。いずれも生活に欠かせない職業であると同時に、食料を生み出すわけではない職業でもある。農業との間に優劣があるわけではない。単に職の違いがあるというだけである。一・九三石という数字は、食料を生産するわけではないが生活に欠かせない職業に従事する人が総生産人口のおよそ半分を占めても国民生活が成立するぐらい農業生産性が高くなってきたということである。

 この一・九三石という数字が、後三条天皇の荘園整理によって一・八〇石まで減少してしまった。マイナス九・一パーセントである。生産性をそのままGDPの計算に用いるのはかなり無茶であることは承知の上だが、それでも冗談では済まないレベルのGDPマイナス成長を、すなわち、絶望的な不況を生み出した。農業生産性の低下が農作物の価格高騰を招き、貨幣無きインフレとなって市民生活に襲いかかるようになってしまったのだ。働いても食べ物にありつけないという絶望的な不況だ。

 絶望的な不況が起こったとき、目をそらす手っ取り早い方法がある。

 共通の敵を作り出して国民の視線をそちらに向けることである。

 共通の敵に関心を向ければ目の前の不況をごまかせるし、不況に対する不満を訴える声が挙がったとしても共通の敵の責任にできる。

 ここでの共通の敵というのは二つの条件のどちらかに該当するのが望ましい。

 一つは、自分たちの生活と直接のつながりを持たないこと。国境のはるか外の集団に対する敵愾心であれば、共通の敵として執政者にとってかなり都合の良い存在である。敵愾心の爆発は戦争を招くが、国境のはるか遠くであれば戦争になる可能性が少ない。

 もう一つは、自分たちが勝者になれること間違いない少数派。敵愾心が爆発して戦争となったとしてもまず勝てるであろうという安心感は、創り出す共通の敵としてうってつけの存在である。

 どちらにとても重要なのは、戦争に負けないこと。戦争をしないことではなく、戦争に負けないことが重要である。戦争になりそうだ、あるいは、戦争になったという局面を迎えたとき、人はたいていのことを我慢するようになる。執政者に対する不満があったとしても我慢するし、生活の苦しささえ我慢する。その我慢が千切れた瞬間、執政者に対する不満や生活の苦しさが爆発する。執政者が恐れているのはこの爆発のほうであって、戦争そのものではない。我慢を爆発させないことを最優先に考える人は、戦争が起きそうという雰囲気だけを作り、戦争そのものは避けようとし、戦争を迎えてしまったとしても勝てるように手筈を整える。

 後三条天皇が選んだのは前者であった。そして、この時代の日本には創り出す共通の敵としてうってつけの存在があった。ついこの間まで繰り広げられていた前九年の役である。朝廷に逆らう敵であった蝦夷、つまり縄文人たちは、これまで何度も日本に対して侵略をくり返し、略奪をくり返してきた存在であり、敵愾心を抱かせるのに充分であった。しかも、京都に住む人にとってははるか遠くの存在であり、日常生活で関わることはほとんど無い。この時代は現代人が考えているよりも貿易が活発な時代であったが、現代人が実体験しているほど貿易が活発な時代ではない。日常生活において国境の外の人たちを意識することはほとんどなかった。

 しかも、ついこの間まで戦争をして降伏させた相手である。おまけに、この時点では日本に対して何らかの犯罪もしていない。つまり、敵愾心を抱くのは勝手だが戦争を仕掛ける口実などどこにもないのである。

 そこで後三条天皇が選んだのは、前九年の役で関わりを持たなかった蝦夷である。北海道の蝦夷を敵に認定し、軍を進めることさえ考えたのだ。東北地方の蝦夷は朝廷に降伏したが、北海道の蝦夷は日本に降伏していないという名目は国民の目をそらすに充分であった。ただ、後三条天皇にとってこの決断は誤りを伴う中途半端なものであった。

 後三条天皇は戦争が起きそうだという雰囲気のまま留めはしなかったのである。

 何月何日に指令が出たのかはわからない。わかっているのは、陸奥国司源頼俊(みなもとのよりとし)に北海道遠征を命じたことである。そして、この遠征に清原貞衡(きよはらのさだひら)が従軍したことは記録に残っている。

 ただ、この遠征の詳細はよくわからない。

 そもそも清原貞衡が誰なのかがわかっていない。清原貞衡ではなく、後の奥州藤原氏の初代当主となる藤原清衡の義兄である清原真衡のことではないかとする説がある一方で、清原真衡の父である清原武則のことであるとする説、後の奥州藤原氏とは無関係の者であるとする説もある。

 また、北海道に渡ったことの記録として「衣曾別嶋(えぞのべつしま)の荒夷(あらえびす)」と「閉伊(へい)七村の山徒」を追討したという記載があるのだが、この「衣曾別嶋」がどこなのかわからない。普通に考えれば「衣曾」が北海道なのだが、「衣曾別嶋」となると、北海道のさらに先にある別の島、たとえば樺太あたりになってしまうのだが、そこまでの軍事行動があったとは考えられない。時間が短すぎるのである。

 後三条天皇にしてみれば、敵愾心を維持するために北海道に軍を進め、あわよくば敵である蝦夷を屈服させることで国内の不満をそらす目的があったが、そのためにしたのが軍の出動命令だけであり、軍勢を送り込むこともなければ兵糧を届けることもなかったのである。これで軍事的成果が得られると考えたとすれば、後三条天皇はあまりにも浅慮であったとするしかないが、国内の不満をそらすという目的を前提に考えると、同意できるか否かは別にして、納得はできる考えでもある。

 長期に渡る戦いをすることで、何度かの華々しい軍事成果をもって国内世論をまとめ上げ不満をそらすのである。はじめから早期の戦闘終結など最初から頭になく、戦争が長期に渡ることを前提とした上での軍事編成とすれば納得はいくのだ。戦争終了まで時間を要することになるが、一歩ずつ着実に戦果は得られる。後三条天皇の経験した戦争となると前九年の役が直近の戦争となるが、あれは前九年と名乗っていても実際には一二年間に渡る戦争である。つまり、戦争とは最初から長期に渡るものであり、多くの人が戦争前に想定する「この戦争はすぐに終わる」という考えを捨てていたとすれば辻褄は合うのである。

 しかし、これを命じられた者はたまったものではない。長期戦を覚悟すると口でいくら言おうと、最初から長期戦を予期して戦いに挑む者はいない。早々に決着をつけた上で勝鬨をあげるのをゴールとするのが当たり前である。結果として長期戦になってしまったとしても、一刻も早い勝利をおさめて戦争を終わらせるのを考えないとすれば、そのほうが異常である。朝廷に仕える者として、また、武人として、天皇の命令に従うのは徒然だと考えても、その命令が、いつ終わるかわからない長期戦を前提としたものとあっては簡単に了承できるものではないのだ。

 のちに「延久蝦夷合戦」と呼ばれることとなるこの軍事行動であるが、記録は乏しい。人類の歴史を戦争の歴史と短絡的に考える人が多いのは、単に戦争というものがニュースとして後世に残りやすいからにすぎないからであるが、戦争でありながらニュースとしてまともに残っていないということは、それだけでこの戦争がどのような程度のものであったか容易に推定できるということでもある。

 この戦争に関わる記録として残っているのは、後述することになる戦争の終わり方の記録、そして、この戦いの功績により清原貞衡をただちに鎮守府将軍に任命したという記録、そして、戦乱終結から一六年という長い年月を経て、この戦いの功績により源頼俊を讃岐国司に任命したという記録だけである。

 ゆえに、この戦いはこのように結論づけるしかない。

 軍を進めたもののそもそも戦いにすらならず、遠征だけして帰ってきただけであったのだと。後述する戦争の終わらせ方も、当事者にとっては最善であり、かつ、後三条天皇の体面を傷つけないだけの配慮があったが、とてもではないが勝ち戦とは呼べないものである。体面があるから戦争にすらならなかったとは言えないが、戦勝を大々的に宣伝できる代物ではない。この結果が、清原貞衡の鎮守府将軍任命。

 後三条天皇の考えた国民の不満をそらすアイデアは完全な失敗であった。

 歴史的意義としては、後世の奥州藤原氏の創世に一役買ったという点だけである。


 ここで視点を東アジア全体に拡大すると、一人の人物に焦点が当たることとなる。

 その人物の名は、王安石。この年、宋の副宰相に就任した王安石はこのとき四八歳。二二歳で科挙に合格したのち、多くの科挙合格者が中央での役職を求めるのに対して王安石は地方官を歴任していた。

 王安石の目に飛び込んできたのは、宋の財政赤字であった。一〇六五年時点の宋の歳入は歳出の八八パーセントにとどまる、すなわち、マイナス一二パーセントという異常事態に陥っていたのである。一〇二一年時点では一一九パーセント、つまり、プラス一九パーセントであったのだから、この五〇年間での急激な悪化である。歳出は確かに増えていたが、それは微増である。問題は歳入の少なさであった。この五〇年間で歳入が二四パーセントも減っていたのである。歳入が減って歳出が増えれば、国家財政は悪化するに決まっている。

 その上、歳出の中身も問題であった。歳入が少ないなら少ないなりに歳出を減らせば国家財政はどうにかなるが、減らしたくても減らせない歳出が存在したのである。

 宋の国家予算を悪化させた要因は三つある。

 一つは遼と西夏に対して支払う年貢。一〇〇四年に締結されたセン淵の盟に従えば、宋は絹二〇万疋と銀一〇万両を遼に毎年支払うとなっていた。これを現在の貨幣価値に直すと五〇〇億円ほどになる。セン淵の盟は西夏にも適用されるようになり、銀一万両、絹一万匹、銅銭二万貫、茶二〇〇斤が毎年西夏に支払われることとなった。侵略されない補償として支払う年貢は毎年のように増え続けており、これが国家財政を悪化させること甚だしいものがあった。ピーク時には国家予算の一〇パーセントが年貢として国外に提供させられるようになっていた。その上これは、どうあろうと減らせるものではなかった。減らそうものならただちに侵略されるのだ。

 二つ目は軍事費。いかに侵略されない補償を支払うと言っても、実際にいつ侵略してくるかわからない国と国境を接している以上、国境警備のための兵士を雇い入れる費用は膨大なものとなっていた。その上、宋という国において兵士の社会的地位は低い。「まともな者は兵士になどならない」「兵士になるのは人生の落ちこぼれ」とされる社会土壌がある国で、兵士がいかに光栄な仕事であるかを喧伝しても通用しない。誰もがやりたがらない仕事の人手を集めるには集めるためには相応の賃金を用意しなければ集まらない。研究者によると、この時点の宋の国家予算の四〇パーセント以上が兵士へ支払う給与に消えたとされている。これも削ろうものなら国の平和をぶち壊すことにつながった。先の年貢と合わせるとこれで国家予算の過半数が戦闘対策に回ったこととなる。

 三つ目が人件費。王安石自身もそうだが、宋の成立からこの時点に至るまでの間に繰り返し実施されてきた科挙によって国家公務員の数が激増していた。国家公務員である官吏は兵士と違って名誉ある職務とされていたが、同時に実利の伴う職務であった。官吏を登用するための試験である科挙に挑戦する者は年々増え続け、人生の全てを科挙合格に注ぎ込む者も珍しくなくなっていたのである。こうなると、科挙をいかに開催し、科挙でいかに合格させるかというのが国家の一大事となる。科挙というシステムは本来ならば国政に携わる役人の募集であるはずなのだが、時代とともに国家公務員になりたいと考える者に対する皇帝の慈愛とされた。つまり、国の必要とする役職を充足するレベルをはるかに超えた人数が国家公務員となるようになったのである。宋では、兵士と違って文官の社会的地位は高い。そして、その社会的地位の高さに見合う待遇は用意されてしかるべきとなっていた。

 この国家財政の危機に、宋の国民生活の悪化が加わる。

 日本の国民生活における格差の拡大も問題になっていたが、宋における格差の拡大は日本の比では無かった。

 日本は貨幣経済が破綻していたが、宋では貨幣経済が存続し発展していたことが問題であった。平安時代の日本では、税にしろ、年貢にしろ、コメで納めていたが、宋では現金で納めていたのである。と言っても、農業生産がそのまま現金に結びつくわけでは無い。田畑から生えてくるのは稲や麦であって金銀や銅銭では無い。収穫を税とするには収穫をいったん現金に交換しなければならない。つまり、農作物を売らなければならない。

 ちょっと想像すればわかるが、商売というのは、売りたいという人がたくさんいると値段が下がる。そして、農作物の収穫時期というのはだいたい同じである。税を納めるために農作物を持っていくと、同じ農作物を売りに来る農民が数多く存在するために、農作物が買いたたかれるのである。

 農作物が買いたたかれるからといって、税が軽くなるわけはない。前述の通り、この時点の宋の国家財政は破綻寸前である。税は軽くするどころか重くしなければならなかった。となると、規定通りの税を納めるために売らなければならない農作物の量が増えることに、すなわち、手元に残る食料が減ることになる。その食料の中には次年度の種籾も含まれる。

 種籾の無い農民は種籾を誰かから借りなければならない。そうしなければ失業し、さらには飢死にいたってしまうのだ。日本ではこのような農民を救うために出挙という制度があったが、出挙は平安時代当初にバブルとなって弾けて潰えた。最大利率一〇〇パーセントなどというふざけた金融は姿を消し、尾張国郡司百姓等解文にもあるように一八パーセントでも高利と扱われる時代となった。種籾も無くなるようなことがあったときに助け出すのは荘園の役割となったのが日本である。

 宋は違った。制度としての出挙が残り続け、税率一〇〇パーセントでの種籾の貸し出しも当たり前のように続いていたのである。その上、種籾を返せなくなったら土地は種籾を貸し出した者の手に渡るようになっていた。豊かな者はますます豊かになり、貧しい者はますます貧しくなっていく。本来なら政治介入すべきところであるが、政治介入の主軸を担うべき国家公務員、すなわち科挙の合格者自身が大規模土地所有者となっていたのである。

 日本の荘園も、宋の大規模土地所有者も、豊かな者はますます豊かになり、貧しい者はますます貧しくなっていくという構造であることに違いは無い。しかし、元々が失業対策であった荘園と、貨幣経済の失敗の結果である大規模土地所有とでは決定的な違いがある。

 それは、経済。

 荘園制は経済を成長させ失業者を激減させたが、宋の大規模土地所有は経済を停滞させ失業者を激増させた。

 王安石が直面したのは、後三条天皇が直面したのと同じ問題である。つまり、格差問題である。ほぼ同時期に異なる国で、格差問題に対する抜本改革に打って出ようとしたというのは面白い話ではある。ただし、それがどのような結果をもたらしたのかについては、語尾を濁してしまう……

 それにしても、後三条天皇と王安石とが同時代人で、日本と宋とが同じ社会問題を抱えていたことは注目に値するが、それに対する対策の差異について比較してみるのも面白いものがある。

 まず、宋の王安石の展開した改革案は以下のものである。

 青苗法。これは元々存在していた貧しい人の救済措置の手直しである。救済用の食糧貯蔵の見直しをし、種籾を必要とする者は貯蔵した食糧から借りることができる。利率は三〇パーセントだから、同時代の日本からするとかなり高いが、宋のそれまでの利率は一〇〇パーセントであったことを考えるとかなりの安値での貸し出しである。ただし、食糧貯蔵の管理義務は地元住民に課されていた。

 募役法。当時の宋の一般庶民に課されていた運搬等の無償労働義務を現金で代替することを認めるというものである。農地を離れて運搬等の職業を専業とすることも認められ、無償労働義務に代わる金銭の支払いがそのまま給与として充てられることにもなった。

 農田水利法と淤田法。どちらも田畑の拡張を図るものであり、前者が戦争等で破壊された田畑の復興、後者が新しい農地の開拓を図っている。

 方田均税法。田畑を測量しなおし、納税のごまかしを防ぐことを目的とする。

 均輸法。物資の運搬を工程の統制下に置くことで物価を調整する。

 市易法。均輸法を発展させた法律で、カルテルによる物価の統制と、都市住民への金融を目的とする。

 保甲法。一般庶民への軍事訓練を義務づけると同時に、治安維持のための地方統制を進める。江戸時代の五人組や戦前や戦中日本の隣組に似た相互監視機能も持っていた。

 保馬法。馬の飼育を命じたもので、馬を農耕用に使うと同時に、軍事転用も可能とさせた。

 そのどれもが急進的な改革であり既存勢力の大反発を招くものであったが、同時に絶大な支持者を集めるものでもあった。特に、科挙に合格して国家公務員となった者の中でも少なくない者が現状に問題があることを認めており、そうした急進改革派の面々が王安石の急進的な改革の熱烈な支持者になり実行者になった。

 これを日本に置き換えるとどうなるか?

 後三条天皇はそもそも金融について何も手を加えていない。金融工学に対する無知とも言えるが、この時点で一八パーセントでも高率とされる金融が成立しているタイミングで何かしらの金融政策を打ち出しても意味は無い。マイナス金利(ネガティブレイト)になっている現在はさすがに以上だが、国内の金利の低さは通常であれば国内経済の安定を意味する。他国が一〇パーセントの金利でありながら自国は金利五パーセントであるというのは経済のより強い安定を意味する。GDPで言えば宋は日本を上回っていたが、経済の安定としては日本のほうが上回っていたと言える。この時代に外国為替相場という概念は無いが、存在していたならば、いわゆる円高、より正確に言えば日本国の通貨価値の高騰が起きていたであろう。

 労働義務の職業化については、法律で定めようにも無駄である。日本ではもう起こっている。産業の分化が未然であり、かつ、失業対策が求められるならば新たな政策としては有効であったろうが、産業の分化が起こっている上に失業問題が直近の課題でもない状況でこのような政策を打ち出す意味は無い。

 田畑の拡張については政策としておかしなことではない。ただし、この時代の日本で起こっていた問題は田畑の不足では無く耕作者の不足である。荘園の増大に伴って田畑も増えたが、その田畑に見合うだけの人口は無かった。現在のような機械化農業が進んでいれば少ない人口でも田畑を耕作しきれるが、この時代の農業は人力である。放棄された田畑はたしかにあったが、それを田畑として再興させたとしても耕す人がいない。

 国防については、武士という存在の登場が回答である。徴兵制である防人から志願兵制である健児に代わり、健児が形骸化した一方で武士が台頭してきた。事実上、日本国の国防は武士が一手に担っているとしてもよい。ただし、この時点における武士というのは明瞭な存在では無い。貴族であり、あるいは地方の有力者であり、あるいは一般庶民である。職業としては役人とか農民とかであり武士という職業ではない。国が何かしらの褒賞を与えるとしても貴族や役人としての地位に基づく報償であって、武人としての報償ではない。強いて挙げれば近衛府の武人や検非違使といった武に携わる職務があるが、武人としての報償ではなく役人としての功績である。

 ここまでは後三条天皇と王安石との相違点である。

 一方、以下は後三条天皇と王安石との共通点もある。

 まず、現時点の農地の把握である。後三条天皇は荘園整理令によって現時点の荘園を把握させると同時に、荘園では無い土地の国庫組み入れを図った。王安石は田畑の測量による現時点の農地の把握を図った。

 目の付け所は同じであるが、後三条天皇は多少なりとも国家財政の赤字の削減に寄与はした一方、王安石の農地把握は国家財政の赤字の解消に寄与しなかった。荘園整理によって国庫に組み入れられた土地からの納税は日本国の国家財政の赤字を多少なりとも解消させたが、王安石の手による農地把握によって判明したのは、宋の全土を合計させても必要とする生産に届いていないという現実だったのだから。

 経済問題としてのインフレは日本でも宋でも見られた現象である。もっとも、日本の場合は荘園を整理した事による生産性の悪化であるが、宋の場合は生産の絶対量の少なさという違いがある。ただし、需要と供給のバランスが崩れた結果のインフレという点で違いは無い。

 二一世紀の日本国はインフレ目標二パーセントを掲げるほどのインフレの起こらない国になってしまったが、それでも物価高騰は時折散見される。中でも顕著なのが、イベントの入場券。野球場であったりサッカー場であったり、あるいはコンサート会場であったりといった違いはあるが、そのイベントの入場券を求める人と実際に提供できる入場券の枚数との間に大きな違いがあるために、入場券の正規価格をはるかに上回る値段で裏取引されるという現実がある。

 これが、入場券に限らず、生活用品全般で見られるようになったのが今から一〇〇〇年前の日本と宋である。特に生活必需品である食料が不足するようになり、値段がみるみるうちに上がってしまった。

 そして、後三条天皇も、王安石も、同じ対策をとったのである。すなわち、物価を法で決めてしまうのだ。厳密に言えば、延暦一七(七九八)年に太政官から出た通達によって公定価格が決まっていたのが時代と共に崩れてきたのを、後三条天皇は元に戻そうとしたのである。ちなみに、延久元(一〇六九)年時点ではまだ空文化した法の見直しに留まっており、新しい法として確立されたわけではない。もっとも、延暦一七(七九八)年時点では貨幣経済を前提としていたが、この時代になると貨幣経済が完全に崩れていたので運用はかなり苦しいものとなっている。

 この時点に限らず、物価を法律で決めてしまうというアイデアは古今東西いたるところで見られることである。需要と供給のバランスが崩れているところで、供給側の値段を固定させてしまうと、あるいは、最高価格を提示して、それ以下の金額での販売なら認めるが、その金額を超えての販売は認めないとすると、見た目は物価が落ち着く。ただし、商品が店頭から消える。この失敗については、人類史上何度となく繰り返された、そして、その全てで失敗に終わった社会主義について思い浮かべればいい。日本は社会主義とは無縁だと考え、冷戦で無条件降伏に至った旧共産圏を笑う人がいるが、その考えは早計にすぎる。戦前の、特に二・二六事件以後の日本国は社会主義国である。そして、この社会主義へと堕落してしまった日本国の存在そのものが、歴史上幾度となく繰り返されてきた社会主義の失敗の一部を成している。それは笑えない。


 後三条天皇の急進的な改革は日本中に混乱を巻き起こしていた。

 もともと時代の衰退を実感し、末法の騒動に狂乱していた時代である。それまでの藤原摂関政治を破壊して新たに政治体制を構築しようというのは熱狂的な支持者を生み出してもいたが、多くの日本人にとっては後三条天皇の手による急進的な改革がむしろ恐ろしい出来事ですらあったのである。

 恐ろしさの最たるポイントは、目に見えて貧しくなっているという現実がある。荘園でなくなってしまったがために収穫が落ち込んで、市場に流通する食料の絶対量が減り、コメを中心とする食料品の価格が高騰した。通常、秋になれば新米収穫によって食料流通量が増えて食料価格が下がるのだが、延久元(一〇六九)年という年は秋になっても食料品の価格が下がらなかった。

 それがいかに正義の実現であると力説しようと、目に見えて貧しくなったというのは隠しようが無い事態である。少し前は戦争によって貧しくなったことへの不満をそらそうとしていたのであるが、それも失敗した。というタイミングで末法を思い出させるような自然災害が起こると、狂乱はすぐに発生する。

 延久元(一〇六九)年一〇月一四日の戌時と言うから、現在の時制にするとだいたい夜八時頃、八坂神社で火災が起こった。八坂神社の当時の呼び名は祇園感神院。現在は独立した神社であるが当時は延暦寺の末寺を構成する寺院でもあり、鴨川の西岸にも土地を持ってその敷地を境内とすることで不入の権を獲得していた。その祇園感神院が火災に遭って建物という建物が焼け落ちただけでなく、御神体を運び出すことには成功したものの別当の安譽が大やけどを負い翌日には命を落とした。この出来事に対する平安京の人たちの反応は、神罰が下ったのだとするものであった。

 その反応は、延久元(一〇六九)年一〇月二〇日に一変する。この日の夜、京都から奈良にかけての一帯で巨大地震が発生。平安京の多くの建物が崩れ落ちただけでなく、奈良からは東大寺が半壊したという連絡が届いた。八坂神社の火災は八坂神社だけに向けられた神罰ではなく、これこそがまさに末法の始まりなのだとする声が平安京の内外に響き渡るようになった。

 この地震は年末まで余震を繰り返し、多くの人を不安と絶望へといざなっていった。

 この不安と絶望をさらに増幅させることとなったのが、上東門院藤原彰子の体調悪化である。延久元(一〇六九)年一一月七日、上東門院藤原彰子が病気に倒れたことを理由に、大規模な恩赦が実施された。

 ただし、この恩赦にはもう一点の側面がある。

 平安時代には死刑が無かった。最高刑を死刑とする刑法が存在しなかったのではない。最高刑としての死刑は存在していたが実施されないままでいたのである。そのため、犯罪者が逮捕されても、死刑の次に重い刑罰とされていた流刑になるだけであった。はるか遠くに追放されたとしても、追放された先からいつの間にか姿を消し、気付いたときには元に戻っていたこともあった。あるいは、追放先で強盗団を形成することまであった。

 現在からすればおかしな光景であるが、平安時代ではこの光景のほうが日常であった。

 ところが、その光景が延久元(一〇六九)年の閏一〇月に限っては激変するのである。

 閏一〇月四日に左衛門尉家宗が、閏一〇月七日にうは前駿河守維盛が、犯罪者の処罰をそれぞれ連絡しにきたのである。彼らは処罰をするという報告をしに来たのでも、どのように処罰すべきか相談しに来たのでもない。処罰したという結果の連絡である。

 そして、処罰の結果として、犯罪者の首を切り落として上洛してきたのだ。差し出された首は間違いなく犯罪者のものである。死刑にしたのではなく、逮捕する過程で犯罪者は命を落としたのだ。そして、犯罪者の首を切り落として京都へとやってきた。死刑を適用したのではない。取り調べの度合いを上げて犯罪者、いや、この時点では容疑者である人を殺しても構わないとする社会風潮ができてきたのである。それは、犯罪に対する感情の発露でもあった。

 取り調べにおいて命を落とさなかった犯罪者は一緒に連行されてきた。そして、自分たちの仲間が首を切り落とされ、京都市民の見世物となっている。と同時に、犯罪者自身も見世物となっている。これで安穏としていられるであろうか?

 これまでやらかしてきた犯罪に対する回答がこれなのだ。その上、出頭すれば罪を軽くするなど無い。犯罪者に与えられた選択肢は、このまま殺されるのを待つか、殺されないように抵抗するためにさらに犯罪を重ねるかのどちらかなのだ。そして、後者を選ぶと、生き残れる可能性が増えると同時に、より高い可能性で殺される。後者を選び続けるとどうなるか? 警察権力では太刀打ちできない存在ができあがる。

 これで治安が良くなるだろうか? 最も重要なのは二度と犯罪が起こらないようにすることであって、感情のままに犯罪者に対する処罰を課して犯罪を増やしてしまったら本末転倒なのだ。

 上東門院藤原彰子の病気祈願を願っての恩赦実施は、感情としては納得できなくても理屈としては納得できるものであった。恩赦なのだからやむを得ないという理屈と、恩赦を前面に掲げて犯罪者への処罰を軽くしないと失われる命が増えてしまうという理屈と。

 さらに、延久元(一〇六九)年一二月二六日には、後三条天皇が自ら円宗寺へ行幸したと同時に、皇太子貞仁親王を白河へ派遣した。目的は同じ。寺院に祈祷させるという名目での荘園の確定のためである。

 円宗寺という寺院は、二一世紀の現在は存在しない。ただし、現在の仁和寺の近くにあったことは証明されている。皇太子貞仁親王が派遣された白河の地は現在の平安神宮の周辺である。円宗寺は平安京の北西の入り口であり、白河の地は平安京の東である。つまり、どちらも平安京の区画内では無いが平安京と目と鼻の先にある土地であり、土地の私有を考えるときかなり重要な地になる。東から平安京に入るには白河の地を通るのが普通であり、北西から、すなわち山陰方面から平安京に入るには円宗寺のあたりを通らなければならない。この土地が誰かの荘園となってしまったら国防上大問題となる。

 誰かの土地にならないようにするにはどうすべきか?

 簡単なのは国有地とすることであるが、それでは荘園という高生産機能を失うことを意味する。国土の全てが国有地であることを前提とした班田収受を正義と考えるのは勝手だが、後三条天皇は自らの展開した荘園整理によって荘園の生産性を著しく悪化させたことに気付いていないわけでは無かった。

 だが、皇室自身が強い影響力を持つ寺院の荘園とさせればどうか? 寺院の荘園所有は珍しいことではない。そして、皇族が寺院に関わりを持つのも珍しいことではない。ならば、皇族が強い影響力を示せる寺院を用意し、その寺院に荘園所有をさせるという手段がとれる。

 後三条天皇がこのとき行幸した円宗寺は、後三条天皇自身が建立させた寺院であることが判明している。天皇自身の寺院建立も、自らが命じて建立させた寺院に行幸することもおかしなことではない。しかも、恩赦を実施しなければならないほどの重要人物の病気の平癒を願ってのことであるから何らおかしなところはない。

 一方、皇太子貞仁親王が白河の地に赴いたことは記録に残っているのだが、白河の地のどこに赴いたのかまでは記録に残っていない。残っているのは白河の地にある寺院というだけである。白河の地には後年、六勝寺と総称される六つの寺院が建立されることになるが、皇太子貞仁親王が赴いた時点では、六つの寺院の全てがまだ誕生していない。ゆえに、六勝寺のどれでもない。ただし、この時点で白河の地に寺院が多数存在していたことは記録に残っており、このときのために特別な寺院が建立されたという記録は無い以上、既存のどこかの寺院ということになる。

 わずか一年半である。

 たった一年半で、それまで一七〇年に渡って維持されてきた摂関政治は沈黙したのだ。議政官の面々を見ればたしかに藤原氏と源氏ばかりであり、藤原氏である関白もいる。その関白は、他ならぬ藤原道長の子で、藤原頼通の弟という、それまでの摂関政治であれば盤石な権力を伴う存在として君臨していたはずなのである。

 ところが、この一年半で、藤原摂関政治が形骸化してしまった。権力は後三条天皇に集中し、通常であれば関白が務めるはずの天皇の補佐役は一八歳の皇太子貞仁親王が担っている。摂関政治というものは、律令に定められた天皇の役職や皇太子の役職をそのままとしながらも形骸化させつつ、藤原北家の面々が皇室と結びつくことで権力を行使するという仕組みであった。それが、摂関政治のほうが形骸化したのだ。

 議政官は機能していた。議政官の議決が上奏され、議決に対して後三条天皇の御名御璽が加わることで日本国の法律となるという仕組みは変わっていない。変わったのは議政官の議決がかなりの割合で、いや、一〇〇パーセント、後三条天皇の意のままになったのだ。批判され続けてきた藤原摂関政治の終焉は、廃止でも、大変革でもなく、形骸化という形でここに実現したのである。

 ただ、それで庶民生活の向上は見られなかった。

 政治家としての評価は、庶民生活が向上するか否かだけで決まる。腐敗とか失言とかは政治家としての評価に全くつながらない。戦争に勝ったとしても庶民生活が悪化したらそれは政治家失格である。正義を実現させたと主張しようと、庶民生活の向上が見られなければそのような正義に価値など無い。

 この時点の日本国に起こっていたのは生産性の低下である。高生産性を追求して生まれた荘園という制度に制限を掛けることで生産性を低下させてしまったのだから当然の帰結である。ただし、それを後三条天皇は認めていない。気付いていないフリをし続けたか、それとも本当に気付かなかったのか、インフレについては認めていても、生産性の低下については認めなかったのである。どんなに悪評を受けることとなる政治家であろうと、あるいは、現時点で悪評を受けている政治家であろうと、自分の政治によって生産性が落ち、庶民生活が悪化したという事実は絶対に認めない。それは後三条天皇にも当てはまった。


 経済のインフレについて記す前に、前提として記さなければならないことがある。

 それは、通貨とは何かと言うこと。

 貨幣と通貨とは混同されることが多いが、厳密に言うと違う。貨幣は硬貨や紙幣といったお金そのもののことであり、通貨とはその国で通用する経済基準のことである。日本国の通貨は日本円であるというのは法律でそのように定めているからで、日本円以外の貨幣が日本国内に存在しないわけではない。ドルを持っている人もいるし、寛永通宝を持っている人もいる。ドルにしても寛永通宝にしても文字通りの貨幣であり、持っているだけで違法になるわけではない。ただし、それらは日本国で通用する通貨ではない。

 日本国における通貨の歴史は皇朝十二銭にはじまるものではないし、皇朝十二銭の終わったこの時代に通貨が経済から消えたわけではない。貨幣的役割を持つ存在、すなわち通貨は皇朝十二銭の前から存在していたし、銅貨が社会から姿を消しても通貨は日本国経済に残り続けたのである。

 その通貨が、コメや布地。

 今の日本国でコメが無価値なわけではないし、布地が無価値なわけでもない。とは言え、一〇キロのコメの値段が三〇〇〇円、ネクタイ一本の値段が一五〇〇円であるとき、一〇キロのコメと三枚の千円札、あるいは二本のネクタイと三枚の千円札との交換は可能であるが、一〇キロのコメと二本のネクタイとを交換できるわけではない。三〇〇〇円で一〇キロのコメを買うという人がいたときに一〇キロのコメと三枚の千円札との交換をしたあとで、三〇〇〇円の現金で二本のネクタイと交換するしかない。今の日本国における通貨はただ一つ、文字通りの貨幣である日本円だけである。厳密に言えば外貨も使おうと思えば使えるし、ビットコインをはじめとするブロックチェーンマネーもモノやサービスとの交換材料として利用できるが、それでも日本国内では日本円からの兌換を前提としている。

 この考えを、平安時代の経済を語るときは捨てていただきたい。皇朝十二銭の終焉とともに日本国を包み込んだ経済は、コメや布地を通貨とする経済であったのだ。モノやサービスの交換ではコメや布地が通貨となり、給与ではコメや布地が通貨となり、資産でもコメや布地が通貨となった。市で売られる魚の値段は銅貨何枚かではなくコメ何升かに変わり、人を雇うときに支払う給与も銅貨の枚数では無く渡すコメの量に寄ることとなった。

 ではなぜ、皇朝十二銭が見捨てられ、コメや布地が通貨となったのか?

 通貨とは信用だからである。

 銅貨は、物質としては銅の塊である。紙幣も、物質としては紙である。電子マネーに至っては0と1からなる2進数の数字の羅列である。それらを通貨であると日本国の法律は宣言するが、通貨として流通するのは、日本円そのものの持つ信用に由来する。政府がどんなに通貨であると宣言しようと、日本円の信用が無いとき、日本円は通貨として流通しない。

 千円札は日本国内ならどこでも一〇〇〇円分の品物やサービスと交換ができるのは、信用があるからである。品物やサービスを渡す代わりに千円札を受け取る人は、受け取った紙には、それが何であれ、一〇〇〇円分の品物やサービスと交換できる価値があると信用している。一冊一〇〇〇円の本と千円札とは同じ価値があるという信用があるから、書店員は千円札と一冊一〇〇〇円の本とを交換してくれる。

 日本円という存在は、日本国の生み出したものであるが、日本国だけのものではなく、強力な世界的信用がある。どれほど強力な信用かというと、日本国政府の信用を超えた信用を持っている。あまりにも強力すぎるために、政府ですら制御できなくなっている。

 近代国家は中央銀行を政府から独立させ、中央銀行だけに紙幣の発行権を与えることで、国内に流通する紙幣の量を政府の統制下から外すのが通例になっており、日本国もその例に従っている。日本国に限らず中央銀行を持つ国は、いかに強力な政府であろうと、政府自身がどれだけの紙幣を発行し、通貨として流通させるのかを決めることはできない。できるのは要請だけである。中央銀行総裁を時代の政府が交代させることは珍しくないが、中央銀行総裁は政府の要請を聞き入れなければならない義務は無い。

 すると何が起こるか?

 通貨の信用が政府の信用を超えてしまう。

 政府が何をしでかすかわからない一方、政府が何をしようと通貨は安泰だと考えたとき、人は通貨を手放さなくなる。いつ何があるかわからないという危機を感じ、何かあっても通貨は安泰だという信用があるとき、人は政府ではなく通貨を選ぶ。現在の日本人は民主党時代の強烈な円高を覚えているであろうが、あれは民主党政権の信用があまりにも低かった、いや、あまりにも無かったために、より強い信用のおける存在である日本円という通貨の価値が高く見えるようになってしまった結果である。

 話を後三条天皇の時代に戻すと、中央銀行という概念はないが、通貨が当時の政府の、すなわち朝廷の制御できるものではなかったという点では現在と一致している。何しろ自然の生み出す農作物であるコメと、同じく自然に由来する布地が通貨なのだ。その上、後三条天皇の展開した荘園整理は農業生産性をマイナスに導いた。結果は市場(しじょう)に流通する通貨の減少である。市場(しじょう)に流通する通貨の絶対量を減らせばインフレを抑えることができるが、通貨そのものはインフレを招く。通貨のインフレ、つまり、デフレだ。

 その上、コメも布地も生活必需品だ。特にコメは食料そのものだ。コメがなければ他の食料で間に合わせるということは不可能ではないが、市場(いちば)でコメ以外の他の食料を手に入れるための通貨が他ならぬコメなのだ。文字通り、コメがなければ生きていけないのがこの時代である。裏を返せば、コメさえあれば、コメそのものを食べることも、市場(いちば)で他の食料を買うこともできるのがこの時代である。という経済情勢において、コメの生産量が減ったらどうなるか? 答えはただ一つ。コメの値上がり。

 後三条天皇が直面したのはこのコメの値上がりという現象である。

 コメが値上がりしてしまいコメが手に入らなくなった。コメが手に入らないということは通貨が手に入らないと言うことである。こう書くと現代人はピンと来ないかもしれないが、このような書き方だとどうだろうか?

 働いても給料が増えない。

 繰り返すが、コメは通貨である。市場(しじょう)を巡り回っている通貨量が減ると売り上げが減る。売り上げが減っている状況でどうにかして売り上げを残そうとするとき、最も安易な方法、すなわち安売りに打って出る者は多い。何しろ顧客がいかにほしいと願っていても顧客の手元に通貨が少ないのだ。通貨が少ないから買えないという場面で値下がりしたと知ると、買おうとすると同時にこうも考える。「もう少し待てばもっと安く買えるのではないか」と。

 すでに資産を持っている人はそもそも需要などそんなに無い。

 需要がある人は資産を持たない。

 供給が需要に合わせようとすると値下げするしか無い。買いたいと思っている人が買えるだけの金額にするしか売れないのだ。だが、売る側は一方で買う側でもある。五つの陶器をコメ一升の金額で売る者は、陶器五つを売るまでは売る側であり、コメ一升を手にした瞬間に買う側になる。

 ところが、買う側が少なくなるとコメ一升で五つの陶器という値段が成立しなくなる。コメ一升で六つの陶器にするか、あるいは、コメ五合、すなわちコメ一升の半分で三つの陶器という値段付けにしないと売れなくなる。つまり、見かけの売り上げは増えるが、陶器を作って市場(いちば)に運んで売るまでの労働量は変わらないため、単価あたりの売り上げは減る。つまり、働いても給料が増えない時代がやってくる。

 コメを基準にするとモノの値段は下がっている。だが、コメを手にできる者を除いてはコメの値段が上がっている。働いても働いても手にできる通貨が増えないどころか減る一方。その上、やっかいなことにコメというのは長期保存できる食料なのだ。ほかの食料を通貨とするなら、食べられなくなって捨ててしまうぐらいなら使ってしまう、あるいは食べてしまうという選択肢が出てくるが、コメの賞味期限は保存技術が現在ほど進んでいない当時であっても精米しなければ一年は余裕で持つし、三年前のコメでも普通に市場(しじょう)に流通していた。いや、一年前のコメが普通に見られたというより、一年前のコメの法が価値のあるコメとみられていた。何しろ、年月を経て多少黄色くなってしまったコメのほうが珍重され高値がついていたほどだったのだ。今と違って、収穫してから一年を経ていない、精米すると白くなってしまうコメは貧しい人の食べるコメで、一年以上経て、精米しても黄色いままでるコメこそが上流階級の食べる高品質のコメとされていたのである。

 こうなると、ますますコメを貯蔵するようになる。さしあたって欲しいものは無いから、コメを自宅の倉に寝かせておく。おまけに、一年以上寝かせて黄色く変色すればそのコメは高級品となって市場(しじょう)において高値で取引される。おまけに時代は後三条天皇の荘園整理の影響で農作物の生産が落ち込んでいる。つまり、今の時点で持っているコメをそのまま倉にしまっておけばおくほど資産価値が上がるこれで誰が好き好んで気軽に手放すものか。

 荘園を大々的に展開していた藤原摂関政治の頃は、荘園によって格差が生まれていると多くの人が考えていた。だが、いざその荘園に制限をかけてみると、以前にも増して格差が、それも、より深刻な格差が生じるようになってしまったのである。