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次に来るもの 6.後三年の役開戦

2018.04.30 09:30

 承暦四(一〇八〇)年八月一四日、白河天皇はついに決断した。

 内大臣藤原信長を太政大臣に昇格させると発表したのである。内大臣から太政大臣への昇格自体は過去に例のないことではないが、丸六年に渡って政務をボイコットしていた人物を太政大臣に昇格させるというのはああまりにも異例であった。また、太政大臣に昇格したと同時に右近衛大将から解任された。右近衛大将を太政大臣が兼ねることはあり得ないことであり、右近衛大将解任自体は通例に基づくものである。ただし、そのやり方はあまりにも強引であった。何しろ、太政大臣でありながら位階は正二位のままなのだ。正二位でありながら太政大臣というのは

 人事の詰まりが解消されたことにもなり、同日、大幅な人事刷新が行われた。

 権大納言の藤原俊家が右大臣に、同じく権大納言の藤原能長が内大臣に昇格し、空席ができた権大納言に、権中納言であった藤原師通と藤原実季が昇格した。また、右近衛大将は権大納言源顕房が兼ねることとなり、それまで内大臣兼右近衛大将が政務ボイコットをしていたため止められていた人事が正常化した。

 ただし、この人事に期待を寄せていた貴族の中には失望を味わった者もいた。人事が膠着しているのは藤原信長のせいであるとは共通認識であり、藤原信長が太政大臣になったことで自分はこれから出世できるのだと考えていた貴族の中には、自分ではない他の者が出世したこと、さらには出世競争で追い抜かれたことに対する激しい怒りを見せるようになったのだ。

 権中納言から中納言へと出世した藤原祐家であるが、同じ権中納言でも自分より格下であると考えていた藤原師通と藤原実季が揃って自分より上の権大納言に飛び級で昇格したことに怒りを見せ、今度は藤原祐家が政務ボイコットに、さらに藤原祐家の兄の藤原忠家も弟に呼応して政務ボイコットに加わった。

 太政大臣に出世した藤原信長もボイコットを続けていたため、これで政務ボイコットの貴族が三人に増えたこととなる。

 ただし、ボイコットにしろ、ストライキにしろ、放棄するというのは放棄されたら支障が出るという場面であるから効果があるので、いてもいなくても誰も困らないという場面でのボイコットやストライキなど何の効果も無い。藤原信長のボイコットが強引に終結させられたこともあり、ボイコットは失笑を買っただけであった。

 藤原信長のボイコットを強引に終結させた白河天皇は、承暦四(一〇八〇)年一〇月、藤原信長にトドメを刺した。

 関白藤原師実を一座とするという宣旨を下したのである。

 一座(いちざ)というのは貴族の座る順番においてもっとも天皇に近い場所である。

 通常は太政大臣がトップで、左大臣が二番目、右大臣が三番目である。太政大臣藤原信長と左大臣藤原師実とを比べれば、それまでの常識に従えば太政大臣藤原信長がトップであり、いかに関白であろうと左大臣である藤原師実は藤原信長の下に位置することとなる。極論すれば、貴族全員が集まる儀式において、太政大臣藤原信長が不在であるなら、天皇のもっとも近い席を文字通りの空席にしなければならなくなる。

 しかし、関白を太政大臣より上席とするとなると、藤原信長は藤原師実の後塵を拝することとなる。これで藤原信長が藤原師実よりも上席に立つ方法は完全に無くなった。最上位になるには藤原師実に何かしらの事情があって、それこそ死去や出家などの事情があって繰り上げで最上位になることだけであるが、それでは藤原師実を追い越すことにならない。

 太政大臣は議政官として法案作成に加わる資格を持たない。上奏された法案に対する拒否権が存在するのみである。ただし、どのような法案に対して拒否権を行使したのかについては全て公表される。ゆえに、太政大臣がその権利を行使したことは滅多にない。極論すれば名誉職である。藤原公季が治安元(一〇二一)年に太政大臣に就任したときも、長く藤原道長の右腕として藤原道長の政務に協力したことに対する報償の意味があったとは言え、藤原頼通の政権にとって障壁になるであろう藤原公季を名誉職に祭り上げることで事実上の引退に持ち込ませたのである。このときの藤原信長も藤原公季と同じ運命を命じられたのであった。

 ただ、藤原公季は藤原道長の右腕であったという実績があり、世間からの評価も高いものがあったのに対し、藤原信長はそのような評価など全くない。とにかく迷惑を掛けさせられたのがやっと処罰されたという爽快感を呼んだだけであった。

 承暦五(一〇八一)年二月一〇日、永保への改元が発表された。

 特に何かしらの出来事があったわけではなかったが、当時の人は誰一人として、このときの改元を何の前触れもないサプライズであるとは考えていなかった。

 承暦五年、西暦で記すと一〇八一年という年は、十干十二支で表すと辛酉の年にあたる。辛酉の年は大規模な社会変革があるとされており、中国ではこの年に王朝交代があるという言い伝えもあった。

 そこで、昌泰四(九〇一)年に三善清行の提唱したのが、政権交代をさせない代わりに意図的な大規模改革をするとしての改元である。この年に延喜へと改元して以来、天徳五(九六一)年には応和へ、寛仁五(一〇二一)年には治安へ、そして、この承暦五(一〇八一)年には永保への改元がなされた。なお、いずれも前の元号の五年目に改元したが、単なる偶然であり、この六〇年後にも改元がなされたが、そのときは保延七(一一四一)年での永治への改元である。

 その翌日、関白左大臣藤原師実が高野山へ参詣した。

 同じ頃、源義家が鎌倉の八幡宮を修理した。

 世間で六〇年に一度しか経験できない特別な年での改元にそれなりの騒ぎを見せていたところでのこの行動の意味するところは計り知れていなかったが、すぐにその行動の意味を把握するようになった。

 永保元(一〇八一)年三月五日、興福寺から数千人の僧侶が多武峯(とうのみね)を襲い、人家を焼いたのである。同じ大和国(現在の奈良県)の寺院として勢力争いをしていたこともあっての衝突であるが、このときの興福寺の蛮行は平安京の人を恐怖に陥れるに充分であった。焼かれた家屋は三〇〇ほど。多武峯の僧侶たちは興福寺の僧侶たちによって凌辱され、多武峯に祀られていた藤原鎌足の像が持ち出された。

 三月二五日に入京した多武峯の僧侶たちが興福寺の非道を訴えた結果、興福寺別当であった公範はその職務から罷免され、多武峯を襲撃した僧侶たちは逮捕されることとなったが、それを興福寺がおとなしく受け入れることはなかった。

 ここで京都市民は理解したのである。武力を操れる源義家が八幡宮を通じて京都の南を守り、関白藤原師実が高野山に出向いたことで興福寺の南に楔を打ち込んだのだということを。ただし、それで問題が全て解決したわけではない。問題を看過してはいないというアピールにはなったが、問題を解決するという結果は生まなかったのであるから。

 永保元(一〇八一)年四月一五日、次に姿を見せたのは園城寺の僧侶である。園城寺から近江国大津に僧侶がやってきて日吉山王祭を妨害したのだ。数百名の兵士が園城寺からやってきたと記録にあるから、僧侶のデモ行進だとかというレベルではなく、武装した僧侶が数百人単位で祭のさなかに乱入して暴れまわったということになる。大津の日吉大社は、その歴史こそ比叡山延暦寺より古いが、この時代は事実上、比叡山延暦寺を構成する一宗教施設となっていた。ちなみに、後年、比叡山延暦寺の僧侶が神輿を担ぎだして強訴に赴くことが見られるようになるが、その時に用いた神輿はこの日吉大社の神輿である。

 この園城寺の僧侶たちを、比叡山延暦寺の僧侶たちがおとなしく見守っているわけはなかった。

 永保元(一〇八一)年四月二八日、今度は比叡山延暦寺の僧侶たちが園城寺を強襲。園城寺が数百人の兵で、それでも充分に迷惑千万なのだが、このとき比叡山延暦寺が派遣したのは数千人の兵である。

 当時の記録には、ただ「兵」とだけあるが、これは僧兵のことである。僧兵の誕生はこの時代よりも前に確認され、この時代には既に僧兵が日常によく見られる存在になっていた。ただし、僧兵を快く受け入れる者は極めて少なかった。寺院にとっては、あるいは寺院の持つ荘園に住む者にとっては自分たちを守ってくれるありがたい存在であっても、それ以外の人たちにとっては迷惑極まりない存在であった。いや、迷惑なだけならともかく、実際に恐喝され、暴行され、命を奪われる存在とあっては、憎しみの対象にしかなれない存在であった。

 僧兵という奇妙な現象を、平安時代特有の存在であると片付けるのは簡単だが、現在とは無縁の現象であると片付けることはできない。自分は正義であると考え、自分とともに行動をする者は正義であると考え、それ以外の者は悪であり敵であると考え、正義である自分は敵である存在に対しては何をしてもいいと考え、悪である敵は正義である自分に対して何かをすること自体許されないと考える者はたくさんいる。少し前の学生運動や、現在でも見られる首相官邸前や米軍基地前の反対運動など、この時代の僧兵とやっていることは変わらない。ついでに言えば、頭の悪さも変わらない。

 ただ、いくら頭が悪いという事実を突きつけようと、かれらは自分の頭の悪さを自覚しないだけでなく、その事実を突きつけてくる者を敵と考え容赦無く攻撃してくる。殺しても何の問題も無いが、反撃する姿勢を見せるだけで許されざる大罪であると考える。武器を持って暴れまわる者に憎しみを抱く者は多いが、その者を取りおさえることのできる者は少ないのだ。


 園城寺と比叡山延暦寺との殺し合いは当然ながら朝廷のもとにも情報として届いている。ただし、その殺し合いを止める手段を朝廷は持ち合わせていなかった。

 永保元(一〇八一)年六月五日、園城寺が比叡山延暦寺に攻撃を仕掛ける。どれぐらいの数で延暦寺に攻撃を仕掛けたのかは不明。

 永保元(一〇八一)年六月九日、復讐として比叡山延暦寺が園城寺に攻撃を仕掛ける。京都が受けた第一報は、攻撃に加わった延暦寺の僧兵は数千人におよび、園城寺のおよそ七分の一が灰燼に帰したというものであった。

 この時の園城寺の受けた被害については、六月一八日に園城寺に派遣された右大史の大江重俊が記録に残してくれている。御願一五ヶ所、堂院七九ヶ所、塔三基、鐘楼六基、経藏一五ヶ所、神社四ヶ所、僧房六二一ヶ所、舍宅一四九三ヶ所。以上が園城寺の受けた被害である。これはもう、一つの寺院の被害というレベルではなく、一つの都市が消えてしまったに等しい被害である。この被害の様子を受け取った京都では、延暦寺の蛮行に対する恐怖心が何よりも先に芽生えた。

 永保元(一〇八一)年九月一三日、園城寺が延暦寺への復讐のための軍勢を集めているとの情報が入り、朝廷は翌日、源義家にデモ鎮圧を命令した。既に白河天皇や関白藤原師実の個人的な命令でも動くようになっていたが、このときはそれよりも強力な、朝廷としての命令である。ただし、位階は持っていても官職は持っていない源義家に対して、ただちに動くよう命令するのは困難である。そのため、朝廷は検非違使に対してデモ鎮圧命令を下し、源義家はその検非違使から助っ人として呼ばれたので派遣されたというスタンスをとった。

 園城寺が延暦寺をターゲットとする軍勢を集めているという情報は、京都だけでなく比叡山延暦寺にも届く。そして、延暦寺がおとなしく園城寺の軍勢を迎え入れるわけもない。

 九月一五日の未時、現在の時制に直して午後二時頃、延暦寺の派遣した数百名の僧兵が園城寺に襲いかかった。園城寺の伝えたところによると、堂院が二〇、経藏が五、園城寺敷地内の神社が九、僧房一八三。その他を含め、一〇〇〇件を超える建物が灰燼に帰した。忘れてはならないのは、永保元(一〇八一)年六月九日に既に園城寺は攻撃を受けており、この日の被害は、六月九日の襲撃を逃れることのできた建物、そして、この三ヶ月で何とか復旧した建物だということである。

 おまけに、朝廷の派遣した検非違使はまだ園城寺に到着していなかった。武装蜂起を企てている園城寺を取り締まるために園城寺に向かっていた検非違使と源義家の目の当たりにしたのは、廃墟となった園城寺であった。取り締まるべき源義家の軍勢は、廃墟となった園城寺を呆然と見つめる被災者を救援する立場になった。

 ただし、園城寺は単なる被災者であったわけではない。延暦寺への復讐を誓う軍勢をまさに集めている最中であった上に、検非違使が京都から派遣されていることを園城寺は知っている。延暦寺からの襲撃があったことは想定外であったが、検非違使の取り締まりを逃れるために僧兵たちは園城寺の外に退避させていた。

 本来なら、この僧兵たちを取り締まるのが源義家の役割であったのだが、園城寺の被害はそのような取り締まりを後回しにせざるを得ない惨状であった。結果、いつ延暦寺への復讐に向かう軍勢が動き出すかわからない状態になってしまったのである。

 朝廷にしてみれば、園城寺に検非違使を派遣したことで平和になることを期待していたのに、園城寺から届いた知らせは、延暦寺が園城寺に襲いかかり、延暦寺の襲撃に検非違使が間に合わなかったために園城寺が灰燼に帰し、検非違使と源義家は園城寺の災害救援支援を優先させなければならなくなったために園城寺の鎮圧どころではなくなり、園城寺の軍勢は無傷のまま姿をくらましたというものである。

 園城寺の軍勢の所在が判明したのは具体的に何日のことかわからないが、山城国と近江国の国境にそびえ立つ音羽山の支峰である牛尾山に園城寺の軍勢がこもっていることが判明した。牛尾山からであれば比叡山延暦寺は目と鼻の先であるが、同時に、平安京も目と鼻の先である。つまり、ちょっとでも対応を間違えれば、延暦寺に攻め込むための僧兵たちが平安京に襲いかかることを意味する。

 白河天皇はまず、永保元(一〇八一)年九月二四日に、牛尾山に籠もった園城寺僧徒の追捕として源頼俊を派遣した。牛尾山が包囲されたことで牛尾山にこもっている園城寺の僧兵たちはこれで動かなくなったが、かといって、源頼俊に降伏したわけではなく、いざとなれば山を下りて一戦を挑むことも厭わないという姿勢であった。

 さらに、園城寺の復興支援にあたっていた源義家を京都に呼び出した。自らの身辺警護のためである。

 この身辺警護についての逸話として記録に残っているのは永保元(一〇八一)年一〇月一四日のこと。石清水八幡宮に行幸する白河天皇の身辺警護を源義家がつとめたのだが、既に述べたとおり、この時点の源義家は無官である。通常、無官の貴族は天皇の正式な警護をすることができない。そこで、白河天皇に随行する関白藤原師実の身辺警護をするという名目で警護にあたった。ここまでは何の問題も無かったが、夜に問題が起こった。

 それまで源義家は朝廷における正装である束帯を着て警護をしていたのだが、夜を迎えたと同時に、お世辞にも活動的とは言いづらい束帯から、より活動的な布衣(ほい)に着替え弓矢を携えて警護にしたのである。武士が天皇の警護をすることはあったが、これまでは、事実上は武士でも名目上は官職を持った貴族としての護衛であり、無官の武士が武装をして天皇を警護したというのはこれが初例となる。この出来事の衝撃は大きく、後に白河法皇の近親の一人となる藤原為房は、その日記である『為房卿記』に、「布衣(ほい)の武士、鳳輦(ほうれん)に扈従(こしゅう)す。未だかつて聞かざる事也」と書き記している。

 この前例のない出来事が、今後は通例となった。それも、夜のみの特例であったのが昼夜を問わない通例になった。

 一二月四日にも源義家は白河天皇の護衛を務めたが、そのときは布衣(ほい)の着用のみならず、甲冑を身にまとい、弓矢を身につけた郎党を率いての警護であった。しかも、源義家の警護の様子がそのまま観光になったのである。これまでも天皇の行幸を眺める庶民は珍しくなかったが、このときは、牛車の中にいるはずの白河天皇を眺めるのではなく、その前後を警備する武装した武士たちの様子を眺めるのを争うようになったのである。


 二一世紀の現在、京都市の建築物は、一部の地域を除いて高さ三一メートル以下とするよう決められている。京都市には京都タワーがあるではないかと思う人もいるかもしれないが、実は、京都タワーが建った昭和三四(一九五九)年時点ではそのような取り決めなどなく、不文律として、高さ五七メートルの東寺の五重塔より高い建物を建てないとなっていただけで、建ててはいけないという決まりは無かったのである。決まりを定めるきっかけとなった京都タワーの他にも、規制が緩和されている一部の地域ではオフィスビルなどで東寺の五重塔より高い建物は存在し、現在の京都市で、東寺の五重塔は六番目の高さの建物となっている。

 では、京都タワーができる前は東寺の五重塔が最も高い建物であったのか?

 不正解。

 東寺の五重塔が最も高い建物であった時期はたしかに長かったが、東寺の五重塔よりも高い建物が存在していた。

 その建物の高さ、八一メートル。それも、その建物の工事が始まったのは永保元(一〇八一)年一〇月二七日である。この建物を法勝寺九重塔という。京都市平安京創生館にも九重塔の復元模型が展示されており、その姿はこのようになっている。

 塔というのは本来、寺院の中で仏舎利を納めておくべき場所であり、高ければ良いというものではない。

 ただし、それは仏教としての話であり、観光としてはそうと言えない。巨大な建物を建てれば人がかなり集まるのだ。それだけなく、平安京から気軽に行き来出来る場所にある巨大な建物となると平安京を一望できる、と思わせることも出来る。寺院の塔というのはそもそも一般参詣者が気軽に中には入れるものではないし、それ以前にのぼる用途で建てられたものではない。だが、それでもそれまで見たことのない建物ができるとなれば観光客は押し寄せるし、遠目くから眺めるだけでなく近寄ってこの目にしたいと思うものである。二一世紀の現在の話になるが、スカイツリーに来る人の全員がスカイツリーにのぼるわけではない。スカイツリーの近くに来てショッピングを楽しむだけという人がかなりいる。このあたりの状況は今から一〇〇〇年前の九重塔でも同じであった。


 康平五(一〇六二)年に前九年の役が終わったあと、東北地方で最大の勢力となった清原氏のトップの地位は、清原武則、武則の息子の清原武貞、武貞の息子の清原真衡へと継承されてきた。この清原氏のトップの地位の流動の中で、延久蝦夷合戦において名をはせた清原貞衡の名はどこにも無い。清原貞衡と清原真衡は同一人物であるという説があるが、漢字表記が似ているだけの別人であるとの説もある。確実に言えるのは、永保年間にはもう、清原貞衡という人物が歴史上から姿を消しているという点である。

 清原貞衡という人物が歴史の闇に消えたのと入れ替わるように、歴史に登場するようになった清原氏の人物がいる。清原真衡の異母弟の清原清衡である。

 前九年の役の時点で清原武貞は結婚しており、妻が清原真衡を生んでいたことは判明しているが、妻と死別したか、あるいは離婚したか、前九年の役の終結時点では独身であった。その清原武貞の選んだ再婚相手が、安倍頼時の娘で、前九年の役で命を落とした藤原経清の妻であった有加一乃末陪(ありかいちのまえ)である。そして、彼女には当時六歳の息子がいた。この幼い少年が清原清衡である。

 清原清衡は複雑な血統を持った人物であることが宿命づけられていた。まず、実父は藤原氏である。藤原経清は俘囚であると同時に藤原氏の家系図にも組み込まれている人物であり、少なくとも五位以上の位階を得ていたことは判明している。摂政や大臣になれるほどではないにせよ、藤原氏の一員である貴族の息子であり、その気になれば中央政界でそれなりの位階を手にできる。次に、前九年の役で滅亡した奥州安倍氏の血を引いている。母が安倍頼時の娘であることから、今なお安倍氏への支持を隠せずにいる人にとって、清原清衡は安倍氏の後継者と見なされる人物であった。そして、今や東北地方で圧倒的存在として君臨するようになっていた清原氏の一員である。

 これで、清原氏のトップの地位が清原清衡に移ったらどうなるであろうか?

 安倍氏の後継者でありながら藤原氏でもあり、俘囚でもあり、清原氏でもある。これ以上は考えられない血筋だ。しかも、清原氏になったときは六歳であった少年も、既に二五歳の若者へと成長している。二五歳ともなれば一つの軍事勢力のトップになるのに充分な年齢だ。実際、この時点では既に、この時点ではおそらく一七歳ぐらいであったろうと推測されている、実弟の清原家衡とともに清原氏の一部隊を率いる立場になっている。

 清原氏のトップであった清原真衡にとって、異母弟が最大のライバルとして姿を見せるようになったのである。

 清原真衡の選んだのは、清原清衡に負けないレベルの血統を手に入れることであった。

 まず、出羽国司平安忠の次男を養子として迎え入れた。清原真衡の後継者として指名されることとなる清原成衡は、清原氏であると同時に平氏でもあるという、清原清衡に匹敵するとは言えないにせよ、中央政界に楔を打ち込むことぐらいはできる血統を手にしたこととなる。

 それだけでは弱いと感じた清原真衡は、源頼義の娘で源義家の妹である女性を清原成衡の嫁として迎え入れた。この夫婦に子が生まれれば、その子は平氏でありながら源氏でもあるという、清原清衡に匹敵する血筋の人物となる。

 ここに、個人の力量という考えはない。それが致命的な欠点となり破滅を迎えるのだが、当時の清原真衡の、そして、奥州清原氏にとっては、それが最良の決断だと見なされていた。

 ほぼ間違いなく、この時点の東北地方における清原氏の状況を源義家は掴んでいる。何しろ自分の妹が嫁いでいる。その上、ついこの間まで東北地方の入り口でもあった下野国司を源義家が、その後は源義綱がつとめている。

 東日本大震災直後の菅直人の愚行のせいで現在は通行が困難になっているが、それまでは関東地方から東北に行く場合、東北道と並んで重要な幹線となっているのが常磐道、鉄道で言えば常磐線、道路で言えば国道六号線である。しかし、それは近代に入ってからの話であり、平安時代、関東地方から東北に向かうのは、下野国、現在の栃木県から北上するのが通例であった。奈良時代にはもう現在の国道六号線に相当する道路があったことは確認できているが、重要幹線ではなかった。五畿七道で陸奥国と下野国がともに東山道であったのに対し、常陸国、現在の茨城県は東海道であったというのも、単なる地理区分ではなく文字通りの交通事情がそのまま反映されてのことであった。

 つまり、下野国を統治するということは、東北地方の入り口をおさえると同時に、東北地方の最新情報を掴めるということでもあった。

 藤原信長の政務ボイコットの影響で、大臣は長いこと左大臣藤原師実ただ一人という状況が続いていたのであるが、藤原信長を太政大臣に昇格させることで大臣一人という異常自体を回避することに成功いた。そして、ひとまずであるが安定も手に入れた。

 安定を手にした白河天皇がもう一つ手にしたのは身の安全である。もはや名実などどうでもよくなり、源義家をはじめとする武士たちが警護をするのが当たり前になった。当代随一の武人と評判の源義家が身を守る存在に対し、誰が武力で攻め込もうというのか。

 永保二(一〇八二)年になると、白河天皇だけでなく、中宮藤原賢子も源義家の護衛の対象となる。中宮藤原賢子が賀茂神社に御幸した際、その前後を武装した者が警護に当たったと記録に残っている。

 これでひとまずの安定と安全を手にしたと考えた白河天皇であるが、永保二(一〇八二)年、一つの現実に政治家として向かい合わなければならなかった。

 それは、この年の干害。とにかく雨が降らなかったのだ。いつもなら梅雨になれば雨が降るのが当たり前、梅雨にならなくても雨模様の日がそれなりに見られるのが当たり前だというのに、梅雨の時期を迎えても雨が降らず、梅雨が終わっても雨が降らなかったのだ。永保二(一〇八二)年七月一六日、このままでは全国的な飢饉になるとの緊急報告が上がった。

 と同時に、一つの噂が世間に広まった。

 前年の園城寺襲撃で、経典や仏像が炎とともに消えたことによる祟りではないかという噂である。

 これに対する白河天皇の反応は特別なものではなかった。神泉苑に僧侶を集めての雨乞いの儀式である。現代の感覚で行くとこの感慨で随分と呑気なことをしていると感じるが、この当時の執政者にとっては、雨が降らないことを嘆く声に対する嘆きの声が聞こえたときにとったごく普通の対策であり、この時代の庶民にとっては干害に対して時代の執政者がとってくれた最高の対策である。実際、この時の雨乞い命令に対する不満は出ていない。

 不満は出ていないが結果は出ている。

 永保二(一〇八二)年七月二九日、内裏焼亡。白河天皇は、火災当日に六条院を、八月三日には堀河院を里内裏とすると発表した。

 大臣が揃ったことの安定も永保二(一〇八二)年一〇月二日に終わりを迎えた。この日、六四歳の右大臣藤原俊家が亡くなったのである。

 比叡山延暦寺には、自分たちのやらかしたこと、すなわち園城寺の破壊がこのような混乱を招いているという罪の意識があったし、延暦寺に対する庶民の怒りはかなり激しいものがあった。その上、政権安定の一翼を担っていた右大臣の死去。延暦寺も、そしてこの時点では被害者と見られていた園城寺も、このタイミングで何かしらの行動を起こせば激しい反発を招いて、最悪、寺院存亡の危機を迎える可能性もあった。ゆえに、動きを見せないでいる。

 ただし、延暦寺でも園城寺でもない勢力が動きを見せた。

 右大臣の死去を聞きつけたとほぼ同時に行動を開始したその勢力は、永保二(一〇八二)年一〇月一七日に京都に到着。三〇〇名あまりが神輿を担いで入京し、尾張国衙の人による僧徒殺害を訴えでたのである。

 訴えを起こしたのは熊野である。後年、熊野詣でとして上流階級の人たちに参詣ブームを呼び寄せることになる熊野大社であるが、このときばかり延暦寺などのデモ集団と同じ扱いであった。

 そして、このときの熊野大社のデモに対する対処の失敗が後年の大問題を生むきっかけとなった。

 熊野大社は神輿を担いでやってきた。神輿は単に人々が担ぐためにあるのではない。神の移動手段であり、神輿の中には神がいるのである。つまり、熊野大社の訴えではなく、神の訴えを代弁しに三〇〇名ほどの集団がやってきたという構図なのだ。しかも、右大臣が亡くなった直後というタイミングは、神の意志への畏怖が現在よりもはるかに強いこの時代ではかなり強い効果を発揮するタイミングであった。

 それに、熊野大社の訴えにおかしなところはなかった。いかに無神論者であったとしても、殺人事件が起こったので処罰してくれと願い出る集団を追い返すなどあり得ない。神輿を担いでいるいないに関わらず、訴えを聞き入れないという選択肢はなかったのだ。

 ところが、熊野大社のやったように神輿を担いで行けばどんな難癖でも通ってしまうという風潮が出来上がってしまった。そこにはタイミングも、請願の論理性もない。ただ神の名を借りればいいというだけの前例ができあがったのである。


 永保二(一〇八二)年一一月一四日、内大臣藤原能長死去。六一歳での死である。藤原信長の政務ボイコットにはじまる大臣一人制が、藤原信長の太政大臣昇格に伴う玉突き人事で解消されたはずなのに、また左大臣藤原師実一人が大臣であるというだけの大臣一人制に戻ってしまったのだ。

 ただし、かつてのように藤原信長のボイコットが有効に働いたわけではない。何しろ、太政大臣になってしまっているのだから、誰かが藤原信長を追い抜いてしまうという問題とは無縁なのだ。

 右大臣もいなくなった。内大臣もいなくなった。だったら、大納言や権大納言から昇格させればそれでいい。

 永保二(一〇八二)年の時点ではまず、大納言源俊房が右大臣に昇格したと発表にされた。この時点で内大臣は空席である。かつて藤原頼通の後継者と考えられてきた源師房の登用であるが、当時の人はそうは考えなかった。今や第二勢力となるまで成長した村上源氏の隆盛の象徴とみなしたのである。

 年が明けて間も無くの永保三(一〇八三)年一月九日、関白左大臣藤原師実が左大臣を辞任し、関白に専任すると発表した。

 そのわずか二日後の一月二一日、右大臣源俊房が左大臣に、大納言兼右近衛大将の源顯房が右大臣に就任すると発表になった。また、空席であった内大臣に藤原師通が就任した。ただし、このあたりの記録は不明瞭な点もあり、資料によっては一月二一日ではなく、一月二六日であるとの記録もある。また、左大臣と右大臣の昇格が一月二一日で、内大臣の昇格のみが一月二六日であるとするものもある。おそらく、左近衛大将も兼ねている藤原師通が、内大臣に昇格するにあたって武人としての地位をいったん返上しなければならない事務的な都合があったのであろう。なお、どの資料を見ても、左右の大臣の就任当日、または内大臣の就任当日に大規模な人事の入れ替えがあったと記している。一見すれば左大臣等大臣が空席になったことによる空席埋めの人事であるが、より詳しく見てみると面白いことに気づかされる。

 それにしても、太政大臣は有名無実と化し、藤原師実は大臣を辞して関白専任。この結果、左右の大臣がともに村上源氏の源俊房と源顕房で占められることになるとは、この時点から見て一〇年前には、いや、この時点から見て五年前には想像もできなかったことである。

 そしてもう一つ想像もできなかったこと。それは、この人事の流動の中で全く名前の出てこない人物、すなわち源義家のことである。源義家がこのあと何をし、日本がどのような歴史を辿ったかを、二一世紀に住む我々は知っている。だからこそ、このとき源義家の名前がないことに違和感を覚えるのであるが、当時としては特におかしなことではなかった。想像すらできないことであったのだから。


 永保三(一〇八三)年三月二八日、富士山が噴火した。

 平安時代の京都人にとって、山と言えば比叡山である。富士山という山が東国に存在し、六〇年ほどの間隔を開けて噴火する山であるというのは知識として知っていたが、それが京都人の日常生活に関わるとは考えていなかった。実際、当時の記録を見ても噴火したことだけが記されており、どれだけの被害状況であったのかについての記録は全くない。

 ただし、直接の記録ではないが後年の記録にはこのときの噴火の様子がうかがえる文章が残されている。藤原宗忠が天永三(一一一二)年一〇月の日記に、「富士山の噴火のときと同じような鳴動が聞こえた」と記しているのである。天永三(一一一二)年時点でもっとも新しい富士山噴火の記録となると永保三(一〇八三)年のこのときの噴火しかない。つまり、永保三(一〇八三)年時点の京都人は富士山の噴火を知っていたが、その時点ではたいしたことないと思っていた。しかし、後になって大事だと気づいたということである。

 このときの富士山の噴火による火山灰が京都まで届いたわけではない。届いたわけではないが、富士山の噴火の影響の大きさを後になって実感させられたのである。

 二つの出来事によって。

 一つはこの年の作付け。飢饉とは言えないまでも、噴火の影響で収穫がかなり悪化しているという情報が東国から届くようになったのである。この情報は朝廷に向けてのオフィシャルな情報だけではなく、荘園領主に向けての個人的な情報としても届いていた。

 そして二番目が、東北地方から届いた不穏な知らせである・

 前九年の役の終結と、延久蝦夷合戦の終了を以て、東北地方の戦乱は終わったと考えていたのがこの時代のほとんどの人である。東北地方から届いてきた第一報も、一言で言えばどうでもいい情報であり、一見すれば富士山噴火とは何の関係もない話だ。この時点で得られている情報だけで富士山噴火と不穏な時代情勢を結びつける人がいたとすれば、その人は尋常ならざる知性の持ち主と扱われたであろう。悪い意味で。

 この時点で京都に届いた東北地方からの第一報は、清原成衡の結婚式に訪れた吉彦秀武(きみこのひでたけ)を清原真衡が無視したというものである。それも、囲碁に夢中になっていて無視したというのである。無視された吉彦秀武は、祝いのために持ってきた砂金を、怒りのあまり庭にぶちまけて帰ったというのがその第一報の中身であった。

 後に後三年の役と名付けられる戦乱の開始を告げる報告とは思えぬ中身である。

 吉彦(きみこ)氏は、かつては「君子」と書き、後に「吉美侯」と漢字表記を改めるようになって、この時代は「吉彦」が姓の表記となった。吉彦氏は代々出羽国に所領を持ち、清原氏に仕える家系となっていた。それは吉彦秀武の代になっても変わることなく、家臣団の中でも重要な位置を占めるようになっていた。実際、前九年の役の最終章である康平五(一〇六二)年の七陣からなる反乱鎮圧部隊の構成のうち、第三陣を指揮したのが吉彦秀武であり、第六陣を指揮したのが吉美侯武忠である。二人の姓の表記が違っていてもこの二人は兄弟であるとの説もあるが、吉彦秀武は清原武則の甥としての参戦であるのに対し、吉美侯武忠は清原氏に仕える武将として参戦している。兄弟でありながら姓の表記が違うことは譲れても、一方は甥、もう一方は血縁関係の記載は無く武将としての参戦なのは譲れる話ではなく、兄弟ではないとする可能性の方が高いと言える。

 さて、この吉彦秀武という人物が、清原氏のトップの地位が清原武則から清原武貞へと移るまでは清原氏の忠実な家臣であったことは間違いない。真偽のほどは不明であるが延久蝦夷合戦に吉彦秀武が清原氏の一員として参戦したとする記録もある。

 この上でもう一つ考えなければならないことがある。

 東北地方の清原氏はもともと出羽国を本拠地としていた。それが、奥州安倍氏の滅亡によって空白となった奥六郡を本拠とするようになった。そして、清原真衡は奥六郡で権力を築きつつあった。一方、吉彦秀武は出羽国に残っていた。清原成衡の結婚式に砂金を持参したのも、それが出羽国で産出されたものだからである。つまり、清原氏は出羽国の豪族であるべきと考えただけでなく、中央政界との結びつきを考えた養子縁組と、中央政界とのつながりをさらに深める結婚に反対していたと推測されるのである。

 荘園の経営を考えたとき、経営能力ではなく、能力と無関係の血縁関係がを最優先すべき選択肢とするのは正しいであろうか? ましてや、時代は段々と悪化してきている。農作物の収穫が悪化してきており、経済情勢が悪化してきており、ただでさえ悪い治安がさらに悪くなってきている。実力者が求められる時代において、血縁だけで清原氏のトップを作り上げようとするのは納得いく話では無かったのだ。しかも、それまでの本拠地を離れた場所で勢力を築こうとしている。

 もっともマキャベリの君主論にもある通り、新しく領地を手に入れた領主が、自身が新しい領主に赴くことで新しい領地の経営をスムーズにするというのは定石である。出羽国に勢力を持っているだけでなく、本拠地は出羽国であると考えるのは自由だが、この時代の東北地方で群を抜いた生産性を持つ奥六郡が手に入ったのである。出羽国に本拠地をおいてこれまでの権力構成のまま奥六郡を植民地であるかのように扱って奥六郡から年貢を搾り取るより、奥六郡を本拠地に定め一つの巨大な権力を築き上げるほうが理にかなっていると言えば理にかなっている。とは言え、奥六郡にとっての清原氏は、何の前触れもなく新しくやってきた勢力であり、その素性を訝しげる住民も多い。となると、それまで奥六郡の領主であった安倍氏の後継者としての資格を持ち、俘囚であると同時に藤原氏の血も受け継いでいるという、これ以上ない素性を持つ清原清衡は奥六郡にとって最高の人材といえる。すなわち、清原真衡にとってはあまりにも巨大なライバルとなる。だからこそ、平氏の血を引く清原成衡を養子として迎え入れると同時に、源頼義の娘で源義家の妹である女性と結婚させたのだ。そうすれば、平氏と源氏の双方の血を引く人物の誕生が期待できる。清原清衡に匹敵する血筋とも言える人物の誕生だ。奥六郡の支配を考えるならば、そして、異母弟の清原清衡のことを考えれば、それが最善のアイデアだと考えたのである。

 この清原真衡は中央との結びつきに寄った勢力構築に対して、真正面から異議を唱えたのが吉彦秀武である。より正確に言えば、あくまでも出羽を本拠地とした不拡大路線を主張する者たちである。確かに奥六郡が手に入るのは魅力的ではあるが、それによって出羽の所領が奥六郡の勢力の支配下に組み込まれてしまうことに異議を唱えたのだ。それは、出羽と奥六郡のどちらを上とするか下とするかの話ではない。前九年の役でまさに奥六郡の勢力である奥州安倍氏と命がけで戦い、勝利を手にしたにも関わらず、勝者である自分たちが敗者である奥六郡の支配下に組み込まれることに納得いかなかったのだ。奥六郡が出羽の軍門に降り奥六郡が出羽の植民地となるのであれば納得できたが、その逆は断じて受け入れられなかったのである。彼らが求めていたのは出羽の荘園の経営の最善であり、出羽のための統治者であって、奥六郡を含めた、彼らの考えに従えば奥六郡をメインとし、出羽を従とする地域の統治者ではなかったのである。それは単にプライドの問題ではなく、出羽の所領の安定のための清原氏の継続と、出羽の所領と所領に住む者の命も保つための考えであった。

 これはもう、気が合うとかの話ではなく、政策を巡る論争である。息子の結婚式に礼として足を運んだとしても、自分が正しいと考えた政策を譲ることはありえないと、互いが互いに対して考えていた。囲碁に夢中になって無視したというのも、持参した砂金を怒りにまかせてばらまいたというのも、エピソードではあっても、決定的な理由にはならないのである。

 ここにさらに問題として加わるのが、吉彦秀武自身は清原氏の家臣を自認し、清原氏の利益を考えて行動しているという点である。清原真衡はたしかに清原氏のトップであるが、無限の権力を手にした独裁者ではない。養子を受け入れ、中央政界と結びつきのある結婚を考え、その両者の間に生まれた子に未来を託すという清原真衡の考えた清原氏の将来設計が、清原氏全体の共通認識とはなっていなかったのである。それどころか、清原氏内部を二分する論争にもなっていたのだ。一方は清原真衡の考えた将来設計、もう一方はその将来設計への危惧である。ここで注意すべきは、吉彦秀武は清原真衡のアイデアを駄目だと考えたものの、自身で明確なアイデアを出してはいなかったこと。すなわち、対案を用意できなかったのである。奥六郡も自分たちの支配下に組み込まれたことは知っているが、その奥六郡も含めた統治に対するアイデアを用意できなかったのだ。いや、アイデアを用意できなかったのは吉彦秀武だけではない。清原真衡のアイデアに反発する誰もが対案を用意できずにいたのだ。たった一人を除いて。

 アイデアは用意できなかったが、軍勢は用意できる。吉彦秀武が、清原真衡の将来設計に同意できない者を集めることは不可能では無かったのだ。記録によると一日で六〇〇〇名もの兵士を集めることが可能であったという。

 一方、清原真衡も八〇〇〇名もの兵士を集めることに成功していた。

 なぜこれだけの兵士を集めることに成功していたのか。

 先に記した富士山の噴火はここに繋がるのである。

 富士山噴火の影響は、富士山周辺と関東地方に悪影響をもたらしていた。特に、農作物に対する悪影響は看過できないものがあった。火山灰をどうにかして来年度の収穫に備えることも不可能では無い。だが、簡単なことではない。

 簡単にどうにかする方法、それが、東北地方への移住であった。特に、奥六郡の生産性の高さは知られており、奥州安倍氏の滅亡による権力再編の影響もあって、人材は常に足りずにいた。東北地方では労働力を求める声があり、関東地方では仕事と食を求める声が挙がる。この二つが重なれば、関東から東北への人の流れも容易に発生する。

 とはいうものの、人というのは、東西の移動はそれまでの生活をさほど変えずにできても、南北の移動となると生活を変えなければならなくなる。南から北への移動となるとより寒さに強い暮らしを会得しなければならなくなる。その上、豊かであるはずの奥六郡も、その豊かな部分は既に誰かの耕す土地になっており、残されているのは生産性のあまり高くない土地である。奥六郡が求めている人材とは新しい土地を開墾する人材であって、すでに開墾している土地を耕す人材ではなかったのだ。一方、関東地方から北へと足を運んだ者が望んでいるのは、奥六郡の豊かな農地である。すなわち、現時点で誰かの農地となっている土地である。

 というタイミングで発生した一触即発の争い。ここでどちらかの側に立って兵となれば、そして、自分の加わった側が勝利を収めれば、相手の所領を手にできる。耕す土地を手にできるし、うまく立ち回れば、荘園領主とまでは行かないにせよ荘園内の有力者の地位を得ることも可能だ。その上、勝敗が不明瞭なものに終わったとしても兵として参戦している間は生活が保障される。

 ついこの間までであれば、誰一人として兵を集めることなど不可能であるとは言わないにせよ、千名単位の兵士を集めるなど無謀な話であった。だが、富士山噴火がその無謀な話を可能な話にさせてしまったのだ。

 京都の朝廷が手にした第二報は、数千名という規模の軍勢のにらみ合いであった。そして、第二報が伝わった直後か、あるいは独自に情報を手に入れていたのかは不明であるが、源義家は当時としてはかなり早いタイミングで動いたのである。このときの源義家の行動の早さは、源義家個人の栄達を考えれば迂闊とするしかないものであったが、平和を考えるならば最善の選択であった。

 さらに言えば、本拠地としている鎌倉が、富士山の噴火の影響をまともに食らったことも情報として掴んでいたことも見逃せない。東北地方で軍勢がにらみ合っているという点と、富士山噴火の影響で収穫が劣悪なものになりそうという情報とは、源義家の中で容易に結びつくことであった。

 朝廷はここで、源義家を急遽陸奥国司兼鎮守府将軍に任命することとした。

 東北地方に到着した源義家が目にしたのは、奥六郡が二方面から囲まれているという情勢であった。奥六郡に陣を構える清原真衡の軍勢を、西に構える吉彦秀武の軍勢と、江刺郡豊田に陣を構える清原清衡・家衡兄弟の軍勢が取り囲んでいたのだ。後に後三年の役と呼ばれる戦乱はもう始まってしまっていたのだ。

 一触即発の事態になっているだけでなく、東北地方の食料庫でもある奥六郡が戦場になろうとしている。実際に、清原清衡・家衡兄弟による攻勢で白鳥村(現在の岩手県奥州市前沢区白鳥舘)が灰燼に帰しており、資料に寄ればこのときの攻勢で四〇〇戸もの建物が灰になったともされている。このままでは奥六郡全体がこうなるのは目に見えていた。

 目に見えていたのはこのまま放置した場合の奥六郡の未来だけでなく、関東地方は富士山の噴火で収穫が厳しくなることもまた目に見えている未来であり、不足分を奥六郡での収穫を輸送することで補おうといたところで、肝心の奥六郡が戦場となっては、奥六郡の収穫で不足分をやり過ごすどころか、奥六郡が関東地方と同様に支援を必要とする場所になってしまうのである。

 源義家はこのとき、陸奥国司に任命された上で東北地方に赴いている。役職としてはあくまでも陸奥国司であり、その住まいも陸奥国衙、現在の多賀城である。そのため、奥六郡の軍勢と源義家の軍勢とが、清原清衡・家衡兄弟の軍勢を挟み撃ちにする構図となったのである。

 それにしてもなぜ、清原清衡と家衡の兄弟は、吉彦秀武の誘いに乗って清原真衡に対して刃を向けることになったのか? 行動としては兄弟とも同じである。だが、その理由は全く異なっていた。弟の清原家衡は、吉彦秀武の示したこれまでの清原氏の継続に賛同していた。保守的な考えというか、古き伝統と自分が考えていることに対するロマンを感じているというか、実利ではなく感情で行動した結果が、義兄に対しての叛逆であった。

 これに対し、清原清衡はもっと実利的であった。その考えは吉彦秀武や弟の考えた古き良き時代への迎合よりも、義兄の考えている新時代の清原氏、さらに言えば清原氏の勢力を超えた東北地方の一大勢力の構築にある。ただし、その中心にいるべきは義兄ではなく自分であるべきと考えている。義兄を打倒して自分がトップに立つことが重要なのであり、古き良き時代への回帰など全く考えていない。考えているのは未来の光景である。すなわち、かつての奥州安倍氏勢力も自らに取り込んで清原氏の勢力と一体とさせると同時に、蝦夷アイデンティティを掲げる者の支持も受けつつ、日本から独立するのではなくあくまでも日本国の一地域の有力者となるという未来である。そして、自分にはその中心になることの許された血統があると考えていた。血統を拠り所とする巨大勢力の構築という点では義兄と考えを同一にし、ただ一つ違うのは、中心が誰であるべきかという点である。その違いがあるがために、考えとしては正反対の勢力の一員として義兄に刃向かうことを決断したのだ。

 その決断が生んだのが、白鳥村を焼き尽くしたという自らの行動であり、その結果としての現在の戦況である。村を一つ焼き落とすというのは、仲間たちに不退転の決意をさせるという意味では意味のある行動ではあった。仲間を追い詰め、ここで相手側に寝返ったとしても待っているのは自分が蛮行を働いた過去を引きずる人生である。蛮行に手を染めた軍人に待っている未来は勝つか死ぬかのどちらかしかないのだ。

 清原清衡も弟の家衡も、勝つか死ぬかの選択に自分たちを追い込んだことを理解している。その上で、現状も理解した。

 戦闘というものは、突き詰めるといかに相手を包囲するかにかかっている。通常は包囲する側の方が有利で包囲される側の方が不利になり、包囲されていながら包囲している相手に戦いを挑んで勝利を収めたというケースはそう多くはない。ゼロではないが、極めて難しい。包囲されたがために二方向に向かって戦いを同時に挑むというのは、その極めて難しい中にすら含まれていない。通常は、包囲されたならば、どちらか一方、特に、弱いと見られる方に対してのみ勝負を挑み、包囲されているという局面を打開することで戦局を塗り替えることを意図する。これは二方面から包囲されながらも、一方ならば勝機があると考えられる状況に限定される。

 では、この時の清原清衡と弟の清原家衡はどうか?

 無駄だった。どちらに戦いを挑んでも敗れ去る未来しか見えなかった。

 清原真衡は、武人としての指揮能力が格別優れているというわけではない。だが、集めた軍勢が違う。およそ一〇倍の敵に正面から勝負を挑んで勝てると考えたならば、それは誇大妄想とするしかない。

 一方、南に陣を構える源義家はもはや説明不要である。軍を指揮すればこの時代のトップに立つ上、このときは陸奥国司としてのオフィシャルな権力を持ち、同時に、清和源氏に仕える武士たちを引き連れて東北にやってきている。

 清原清衡も弟の清原家衡もこれを理解していた。ただ、出した答えは違った。勝つか死ぬかという選択で、弟は死を、すなわち、兄に対して、死という結末を迎えようとどちらか一方に戦いを挑むことを促したのである。名誉の戦死というものにロマンでも感じたのかもしれない。だが、清原清衡は名誉の戦死など考えていない。どちらに転んでも犬死にと片付けられるだけだと考えている。何しろ、北の清原真衡は清原氏の正当な権力者であり、南の源義家は朝廷の派遣した正式な軍勢である。両者とも自分たちを反乱軍と定義しており、ここで戦いに挑んで負けたら、待っているのは悪の反乱軍を倒した正義の自分たちという相手方の名声と、その名声の彩りにしかならない自分たち戦死である。おまけに、自分たちは白鳥村を焼き尽くしたという罪科を背負っている。ここで死んだとして、ざまあみろと思われるだけで泣いてくれる人など現れない。名誉の死を遂げて戦場に散ったと評価されるのではなく、反乱軍に相応しい無様な死に様であったと評価されるだけなのだ。

 その上で清原清衡は考えた。北と南の軍の構成の違いについてである。北の軍勢は清原氏の正式な軍勢であり、南の軍勢は朝廷の派遣した正式な軍勢である。だが、北の軍勢は清原氏の、つまり、自分が所属する氏族の軍勢でもある。仮に戦いを挑んで相手の指揮官を倒すことに成功した場合のことを考えると、源義家亡きあとは別の源氏がやってきて朝廷軍を維持して、自分たちに対する戦いを維持することになるが、清原真衡が亡くなるとどうなるか? 指揮官がいなくなる。さらに言えば、その指揮官を自分とすることも可能となる。

 となれば、倒すべき相手は「軍勢」ではなく、清原真衡ただ一人となる。

 資料はこのように伝える。反乱を起こした清原清衡と弟の家衡が揃って清原真衡に降伏したのを受け、歓待が陸奥国府で行われた、と。戦乱平定を祝しての式典であり清原真衡が陸奥国司として赴任した源義家をもてなすという体裁であり、記録には三日厨(みっかくりや)とある。文字通り、三日間に渡って式典が執り行なわれたのだ。

 式典が終わった後、清原真衡は未だ降伏していない吉彦秀武を討伐するために軍勢を北西へ進めた。

 そして資料はこう伝える。この遠征に出た直後、清原真衡が亡くなった、と。急に病気になり急に亡くなった、と

 ……、偶然であろうか?

 あまりにもタイミングが良すぎる。

 戦乱が終わったので普通に考えれば軍団は解散する。仮に解散しなかったにしても戦闘が終わったと考えた軍勢に鬼気迫るものを感じるとのは困難である。

 しかし、戦闘が終わっておらず、いまだ刃を向いている存在がいる。その存在を倒せばこれで全て終わりになると考えると、鬼気迫るものを再び呼び起こすことも可能になる。夢見ていた平和を取り戻してすぐに、平和がまだ始まっていないことを思い出させ、最後に一仕事残っていると考え、平和に戻るための最後の戦いに挑む兵士たちは、敵とするには恐ろしく、味方とするには頼もしい存在になる。

 その存在に突きつけられたのが、指揮官の突然の死。そして、順番で行くと軍勢を指揮する継承権を持つのが、ついいこの間まで自分たちの敵の大将であった清原清衡。清原清衡にとっては最強の敵を最強の心境で指揮下に置けるのだ。これを偶然と扱うのは厳しいものがある。しかし、資料のどこにも急死以外の記載が無い。刺し殺されたわけでも、毒殺されたわけでもない。何の前触れもなく命を落とし、何の前触れもなく清原氏の軍勢がそのまま清原清衡のものとなったのである。

 清原真衡の急死の報を受け、源義家は清原氏の状況を理解した。そして、軍勢がそのまま清原清衡ただ一人のもとに集中した場合の恐ろしさも理解した。

 清原清衡は清原氏の正統な後継者であると同時に、滅亡した奥州安倍氏の血を引き、藤原摂関家の血も引いていて、俘囚をまとめ上げるシンボルにもなっている。東北地方全体を見渡してもこれ以上の血筋はいない。清原清衡の個人的な資質は未知数であるが、これだけの血統を持った人物がいて平穏無事な未来を迎える保証はどこにもない。バランスを崩す強さの集団ができあがってしまうのだ。そのような勢力が誕生してしまったら、次に待っているのは東北地方の独立を目指す戦争だ。独立戦争と言えば体裁は良いが、実際のところは独立の正義を名目にした侵略だ。桓武天皇から嵯峨天皇の時代にかけて、三八年間という長きに渡って本州統一の戦いを繰り広げたのも、東北地方を侵略するためではなく、東北地方から押し寄せてくる侵略者に抵抗し続け、身の安全を守るための戦いを繰り広げたからである。

 なぜか?

 いかに奥六郡が豊かな大地であるとは言え、その人口を養いきれるほどの豊かさではないから。人口が増えて食べていけないとなると、なんとかして食べていける手段を探さなければならなくなる。農業や貿易を突き詰めて考えれば、狩猟や採集だけでは食べていけなくなったので、そのほかの手段で食べていくことを考えた結果の産業の一つであり、嵯峨天皇の時代の文屋綿麻呂による本州統一以後、奥六郡をはじめとする地域での農業や、津軽で見られた北海道や日本海を渡った向こうとの貿易で東北地方はどうにかなったのだ。

 しかし、農業はその年の農業生産性に、貿易は相手の地域の経済情勢に依存する。収穫できなければ食べ物は得られないし、貿易しても相手から何ももたらされないとあっては船を漕いで海を渡っても得られるものは何もない。生活苦になっているとき、経済情勢の悪化ではなく、誰かを悪役とみなして攻撃するという光景はよく見られることである。名目上は、悪人の存在によって自分たちの生活が悪化しているのだから、悪人を倒せば生活は良くなると考えての攻撃であるが、実際は、強盗である。豊かな人のところに襲いかかって奪えるものを奪い、悪人に対する正当な報復を加えて、怒りを解消すると同時に苦しくなっている生活を埋めようとするのだ。名目は犯罪に対するカモフラージュでしかない。前九年の役ではここに、蝦夷アイデンティティを掲げた独立運動というさらに強力な名目が加わった。ただし、やっていることは犯罪以外の何物でもなかった。暴れまわる犯罪集団からいかに自分たちの身を守るかというのは、どの時代のどの執政者にも課されている使命であり、多少なりとも軍に関わっている者であるなら誰もが考えることである。それは源義家も例外ではない。

 源義家は清原氏の勢力が強くなりすぎることを警戒し、一つの命令を出した。

 奥六郡の分割である。

 清原清衡と弟の家衡に三郡ずつ分割するというのが源義家の出した命令である。資料によれば、奥六郡のうち、南に位置して陸奥国府に近い胆沢郡、江刺郡、和賀郡の三郡を兄の清原清衡に、北にある稗貫郡、志波郡、岩手郡を弟の清原家衡に与えたとある。源義家は陸奥国司であり、理論上、国司には領国内の郡司に対する人事権が存在する。清原氏が奥六郡の支配権を手にしたというのも、理論上は奥六郡の郡司を兼務していたという形になっている。ゆえに、郡司を任命しなおすだけで奥六郡の支配権の分割は可能となる。

 これで源義家はとりあえずの戦闘が完了したと考えた。ただし根本解決ではない。東北地方にできあがった権力の空白はただでは解決しない。それに、生活苦が独立運動を生み出して朝廷に反旗をひるがえす可能性も残っている。関東地方における富士山噴火の後始末も大切なことだと認識してはいたが、関東に戻るよりもこのまま陸奥国府に残って反旗をひるがえす可能性を削り落としてしまうことの方が優先されるべきだと考えていた。それに、主語を朝廷ではなく清和源氏とした場合、奥六郡をはじめとする陸奥国内の権力の空白は、陸奥国司としての滞在中に奥六郡をはじめとする陸奥国内に清和源氏の勢力を築き上げるチャンスとも言えたのだ。


 東北地方からもたらされた源義家からの第一報は、前九年の役の第一報とは違って京都市民に安堵をもたらした。無論、富士山噴火の後始末が残っていることは理解しているが、前九年の役のように物資の輸送に何年も費やす事態はやってこないと考えられるだけでも充分に安堵であったのだ。

 この安堵のシンボルとなったのが、白河天皇が建設を命じ、永保元(一〇八一)年より工事の始まった法勝寺の九重塔である。その九重塔が、永保三(一〇八三)年一〇月一日、完成した。

 完成式典には白河天皇が出席し、現在の感覚でも充分な高さの塔を見上げたのち、薬師堂や八角堂といった建物にも足を運んだ。無論、白河天皇一人で赴いたのではなく同行した僧侶だけで一六〇名に及ぶという大行列である。そして、新しい寺院の誕生を心待ちにしていた平安京の市民たちも、この、新しく壮麗な寺院を一目見ようと大挙して押し寄せたのであった。

 これは同時に、法勝寺という、既存の寺社勢力に属さない新たな寺社勢力の誕生をアピールする効果も持った。比叡山延暦寺にしろ、園城寺にしろ、あるいは奈良の諸寺院にしろ、ライバルになりうる新しい寺院の誕生は厄介なものであるが、それに対して堂々と圧力をかけることは無い。このあたりは現在の企業と同じで、新しくライバルとなりうる存在の誕生はたしかに脅威であるが、その一方で、上手く取り込めば自分のところの勢力拡張につながりもするのだ。

 話を現代に置き換えると、たとえば、ユーチューブやアンドロイドはグーグルという会社の製品の一つであるが、どちらもグーグルという会社が研究して生み出した製品では無い。ユーチューブという製品を生み出した会社、アンドロイドという製品を生み出した会社があり、その製品を持った会社そのものをグーグル社が買い取った結果、ユーチューブもアンドロイドもグーグルの製品となり、グーグル社に莫大な利益をもたらすことになったのである。

 時代を永保三(一〇八三)年に戻すと、法勝寺という白河天皇自身が関わる、しかも平安京と目と鼻の先にある新しい寺院の誕生はたしかに脅威であったが、同時に、取り込むことに成功すれば自らの勢力拡張につながるのだ。

 問題は、どこがこの新しい寺院を取り込むか、である。

 もっとも、この時点で白河天皇はどこかに取り込まれることを全く考えていない。

 年が明けた永保四(一〇八四)年一月二二日、白河天皇は再び内裏を六条院に遷御した。

 白河天皇が即位してからここまで一二年間。その間に内裏を変えること一一回。およそ一年の一度の割合で内裏を遷しているという異常なまでの多さである。ここまで考えると何でここまで内裏を移したのだろうかと訝しげざるを得ない。

 ただし、こう考えるとスッキリする。

 永保四(一〇八四)年二月七日、応徳へ改元すると発表になった。

 元号が変わってすぐの応徳元(一〇八四)年二月一一日、三条殿へ遷った。

 一条天皇以後、内裏の遷御は六〇回以上を数える。その六〇回以上に及ぶ内裏の遷御の中に三条殿という建物は存在しない。白河天皇のこのときの遷御が初例である。初例なのは当たり前で、三条殿という建物は白河天皇が建設を命じた建物なのである。つまり、内裏を色々と遷してきたのはその時点での政略であったり、火災に遭ったための緊急避難であったりといった違いはあるが、終の住処ではないという点では共通していた。

 その白河天皇が定めた終の住処が三条殿であった。それまでの試行錯誤を繰り返しを踏まえ、最高の立地条件、最高の政務のしやすさ、ついでに言えば新造なった法勝寺へのアクセスも考えた結果がこの三条殿であったのだ。

 それまで各地に出向いていた白河天皇であったが、これ以後は三条殿に人を呼び寄せるようになった。たとえば、応徳元(一〇八四)年三月一六日の和歌会は、この三条内裏で開催されている。それまでであれば和歌会の開催場所のほうに白河天皇が出向いているところである。

 応徳元(一〇八四)年八月二二日、京都を暴風が襲った。このときの被害状況について詳しい記録は残っていない。ただし、笑い飛ばせるような軽いものではなかったことが伺える記録がある。

 九月一二日、寬子太皇大后、関白藤原師実とその妻源麗子、右大臣源顯房、内大臣藤原師通といった面々をはじめとする皇族や貴族が揃って天王寺と住吉神社に参詣したのである。京都から大阪に行っただけではないか、これでは遠足のようなものではないかと考えるのは現在の感覚であって、この時代の感覚では充分に大旅行である。ましてや、関白、右大臣、内大臣に加え、太皇太后まで参詣している。これは尋常ではない。

 ただし、白河天皇はこの参詣に加わっていない。新造された三条殿にこもっている。

 いつもなら白河天皇も率先しているところなのに加わっていないということは、よほど三条殿の居心地が良かったのだろうかなどと考えるところであるが、実際にはそのような呑気なものではない。

 最愛の藤原賢子が病に倒れていたのだ。それも、回復の見込みのない状態になってしまったのだ。

 藤原賢子が倒れたことに最初の記録は九月一五日に確認される。中宮が病気で倒れたという知らせを天王寺で耳にした右大臣源顕房らが急いで京都に戻ってきたというのがその最初の記録である。淀川を下れば船で京都から大阪へ行けるが、逆はそうはいかない。そのため、馬に乗って京都に戻ってきたとある。

 白河天皇の人生を振り返ると、この人が心から愛した女性は中宮藤原賢子ただ一人であると結論づけざるを得ない。そのほかの女性との間に子どもがいたことや、平清盛は白河天皇の隠し子であるという説、あるいは同性愛に関する記録などを見ると性的に奔放なイメージを抱くかもしれないが、そのイメージの方が間違いなのではないかと言うしかないのである。

 この時代の規定として、天皇が死に立ち合ってはならないというものがあった。しかし、白河天皇はその規定を無視した。そのことを忠告した近臣の源俊明(みなもとのとしあきら)に対しても「例はこれより始められ」と言い放っている。

 そして、初例は誕生してしまった。応徳元(一〇八四)年九月二二日、中宮藤原賢子死去。二八という若さでの死である。

 最愛の女性に先立たれたことへの哀しみから、白河天皇は数日間に渡って何も口にしなかった。このときの白河天皇の様子を、当時の記録は「主上悶絶、天下騒動」と残している。


 新しい社会運動が起こるとき、共通している二つの事情が存在している。

 一つは、社会が固まっているように見えて、一発逆転のチャンスが存在していること。

 もう一つは、現状を現実と受け入れず、本来あるべき姿は別にあると考えていられるだけの暇があること。

 この二つに共通しているのは、正しい判断を下されているために社会構造の敗者となっている者が、自分の地位を上げるのではなく、社会の方を変えようとして自らの相対的地位を上げようとしているという光景である。

 応徳元(一〇八四)年末時点において、暇人が一発逆転のチャンスを狙うとすれば、それは宗教であった。比叡山延暦寺しかり、園城寺しかり、奈良の諸寺院しかり、そして新しく誕生した法勝寺しかり、宗教界に身を寄せれば、社会のヒエラルキーを一気に登ることができる。名もなき一庶民ではなく、朝廷もそれなりの対応をせざるを得ない存在へと自らを昇華させることができるのだ。

 しかし、既に存在している寺院に身を寄せるとなると、その寺院のヒエラルキーの一番下に身を置いて一つずつ登っていかなければならない。だが、まったく新しい宗教団体を作り上げるとどうなるか? 自分自身をトップとすることができる。天台座主や寺院の別当のように朝廷に結びついた権威を持った存在へと自らを高めることも不可能ではなくなるのである。

 自らがトップでないにしても、まったく新しい宗教団体に早い段階で身を寄せれば、宗教団体の成長に合わせて自らの組織内の地位を高めることが可能になる。これは、平安時代だから宗教団体となっているのであって、現在であれば、「〇〇に反対する会」とか「〇〇を許さない会」とかの社会運動団体ということになる。

 社会からドロップアウトして団体に身を投じた場合、団体内での地位を高める方法は三つある。一つはドロップアウトする前から社会適地が高いこと。厳密に言えば地位を高めると言うより、高い地位の状態で団体に入るということになる。二つ目は、団体により多くの資金を提供すること。これは、全財産のうちのどれだけの割合を団体につぎ込んだかではなく、絶対的な金銭で決まる。現在の物価で考えると、年収三〇〇万円の者が借金までして五〇〇万円を団体に上納した場合と、年収五億円の者が年収の一パーセントを団体に上納した場合とでは、全く同じ扱いとなる。そして三つ目は、どれだけの仲間を増やしたか。

 そうした団体というのは、正義感に駆られた行動をしていようと、あるいは経済の基礎を否定して資産の存在自体を否定するという命題を掲げていようと、運動のための資金は絶対に必要である。カンパとか布施とかの名目をつけようと、何ら生産を伴わない集団が他者から資金を巻き上げなければ団体を維持できない。巻き上げられる側に立つと、普通に考えればそれは非合理な行動なのであるが、これらの団体に身を投じている者の場合、その団体の一員である自分は、あるいは自分たちは、この団体と無関係の者より優れた存在であると考えており、カンパや布施という名目での資金巻き上げも必要出費として受け入れている。

 とは言え、それで団体が必要とする資金を満たされることは、絶対に無い。団体は常に資金が不足していると考え、カンパにしろ布施にしろ、もっとたくさん納めるよう命令するだけである。熱心な活動家であればカンパだろうと布施だろうと受け入れるが、だからと言ってノルマを果たせるとは限らない。そこで自分以外の者にすがろうとするのだが、彼らはその団体に所属している自分を優秀な存在と考え、それ以外の者を劣った存在と考えている。そして、その劣った存在から資金を巻き上げるのは何の問題もない行動と考え、資金を巻き上げるか、あるいは、自分が優れた存在であることを認識させるために他者を仲間に引きずり込もうとする。より正確に言えば、自分の下に置ける者を増やそうとする。仲間に引きずり込むことに成功した者は団体内の地位が高まるし、団体としても利益が増えるから、仲間を増やすことを厳禁とするような団体など考えられないと言える。

 これは人類史上いたるところで見られた光景であり、応徳元(一〇八四)年末時点も例外ではない。そして、この時点ではこれ以上無い勧誘のターゲットが存在していた。最愛の妻を亡くした白河天皇だ。中宮藤原賢子が命を落としてからこれまで、全く表に姿を見せていない。伝え聞くところによると心身ともに衰弱してしまっているという。そして、この時代の団体は宗教を名乗っている。

 いかにインチキな新興宗教であっても、宗教の持つ、人の心の救済機能は存在している。そして、この時代の誰もが、白河天皇は心の救済が必要だと考えていた。この時代に誕生した新興宗教団体はこぞって、あの手この手で白河天皇への接近を狙った。

 これに対する白河天皇の反応が見られるのは、年が明けた応徳二(一〇八五)年二月のことである。

 それまで表舞台から姿を消していた白河天皇の回答は、憤怒であった。新興宗教団体に対し無期限活動停止処分が下り、信者は問答無用で逮捕。新興宗教団体の設立した建物は信者自身での破壊が命じられ、従わない場合は検非違使によって強制撤去となった。撤去に要する費用は逮捕された信者の負担である。確認できるだけでも、福徳神、長福神、白朱社といった新興宗教団体が存在していたことが確認されているが、その全てが跡形もなく姿を消したのである。

 白河天皇の憤怒は新興宗教相手には通用したが、既存の宗教団体には通用しなかった。相変わらず、比叡山延暦寺と園城寺との争いは続いているし、奈良の諸寺院も厄介な存在であり続けている。自らの建立させた法勝寺は既存宗教に頼れなくなった人たちの希望の光となってはいたが、法勝寺の弱さも感じられるようになっていた。平安京のすぐそばにあり、白河天皇が建立を命じた寺院であり、他の追随を許さない高層建築物が敷地内にある寺院という特別な要素があって数多くの参詣者を集めることに成功していたが、この時代の多くの人が望んでいた、既存の宗教勢力や強盗などの狼藉から身を守ることや、豊作、天候の安定、そして健康は得られなかったのだ。

 応徳二(一〇八五)年三月の記録には、三月と思えぬ寒さが世を覆い、ときには雪景色を、雪が降らなかった日は霜の覆われた風景を呼び寄せたとある。この寒さはこの年の作付けが良くない結果に終わること、いや、この年の作付けも良くない結果に終わることを予期させるものがあった。

 今年の収穫が期待できないとなると、行動パターンは決まる。コメの買い占め、そして出し惜しみだ。コメを持つ者は手元のコメを手放そうとしなくなるし、コメを持たぬ者は何とかしてコメを手に入れようとする。これが正当な商売であればコメの値段が上がるというだけに留まるが、正当ではないものとなると犯罪に発展する。コメを保管する倉は強盗の襲撃対象となり、少ない実りになることが予期されている田畑そのものが襲撃対象になる。ならなかったにしても襲撃への恐れは消えるものではない。本来ならこのような不安から守るべき存在である朝廷権力は無力であった。もっとも強大な軍事力を持った源義家は東北地方に赴任している。不安に対する心の支えになる宗教に至っては、不安から助けるどころか不安を増す存在へと堕してしまっている。五月二四日には、興福寺の僧徒が大和国十市郡(現在の奈良県桜井市から橿原市に掛けての一帯)で暴れ回り、民家を焼いたとの情報が届いたほどである。

 白河天皇にこうした話は届いていた。朝廷の議政官の面々にもこうした情報は届いていた。しかし、何の動きもなかった。


 朝廷の無策をあざ笑うかのように、さらなる悪夢がこの時代の人たちに襲いかかる。

 天然痘の流行である。

 天然痘と日本国との関係は六世紀前半が最古である。もともとは日本国の風土病ではなかったが、平安時代になると当たり前の伝染病と扱われるようになり、天然痘に罹患して命を落とす、あるいは命を落とさないにしてもその痕跡を顔や身体に残すことは珍しくなくなっていた。

 平安貴族というと、顔を真っ白に塗って眉を墨で描くというのがイメージされるが、その理由も天然痘に由来する。文徳天皇の時代の仁寿三(八五三)年に天然痘の痕跡を隠すために顔を白く塗り、抜け落ちた眉を墨でごまかした貴族がいたというのがその開始で、初日はその光景を笑う者もあったが、翌日、藤原良房とその兄の藤原長良が全く同じ化粧をして出仕し、誰もが同じ化粧をすれば天然痘罹患の有無など関係なくなると言ったことで嘲笑は消滅。嘲笑するのは差別者として糾弾されるようになったという経緯がある。

 天然痘はこの時代の医学で防ぐことのできない病気であり、年齢も、性別も、身分の差も関係なく罹患する病気であるという認識ができていた。日本国では、病気やケガに遭った人は、病気やケガそのものだけでなく病気やケガに対する差別にも苦しまなければならず、天然痘に罹患した人も例外であったとは言えないが、天然痘に罹患した人に対する差別が恥ずべきことであるという認識はあったのだ。

 ただし、差別は許されないという公的な認識ができていることと、天然痘に罹患しないで済むこととは何の関係もないし、罹患しないで済むための医療技術が存在するわけでもない。天然痘が流行していることはどうにかしなければならないと誰もが考えていたが、誰にもどうにもできなかった。

 白河天皇は法勝寺に新しい建物を建てると同時に、平安京の南東にある醍醐寺にも支援をした。ただし、醍醐寺の支援は天然痘沈静化を狙ってのものであると同時に、亡き藤原賢子を供養するためでもある。

 着目すべきは、承保二(一〇七五)年を最後に一〇年に渡って表舞台から姿を消していた太政大臣藤原信長が、天然痘根絶を目的とする寺院、九条堂を建立したのである。もっとも、この建物は藤原信長の隠遁の地という意味合いも持っていたが。

 こうした宗教への支援は、この時代に終ける伝染病対策として当然のことであったが、もう一つの当然として、伝染病を食い止めることに何の役にも立たない。

 その結果は最悪な形で朝廷に現れた。応徳二(一〇八五)年一一月八日、皇太子実仁親王逝去。享年一五。

 皇太子実仁親王の死によって、一つの混迷が誕生した。

 白河天皇のあとを誰が継ぐのかという混迷である。

 弟の実仁親王が継ぐというのが後三条天皇の定めた既定路線であった。より正確に言えば、実仁親王のほうが後三条天皇の正統な後継者であり、藤原氏の女性を母に持つ白河天皇よりも、藤原氏ではない女性が母親である実仁親王のほうが後三条天皇の政治を継承するに相応しいと見られていたのである。

 この時点で禎子内親王は健在であった。白河天皇の祖母である彼女の朝廷内での発言権はなおも強いものがあり、政治的にはともかく、皇位継承権については白河天皇も無視できないものがあったのである。

 正統な後継者と睨んでいた孫の実仁親王が亡くなったのは事実であるが、それと、白河天皇の子が皇位継承することとは無関係である。皇位継承権は藤原氏の血を引かない男児であるべきとする考えであり、その条件を満たす男児がで存在していた。実仁親王の弟でこの時点で一五歳の輔仁親王である。禎子内親王は輔仁親王が次の皇太子であると宣言した。

 白河天皇は祖母のこの宣言に対する明確な答えを示さなかった。表向きの理由としては実子ならばともかく、元服していない弟を皇位継承権筆頭とするわけにはいかないというものである。たしかに、実子がいるにもかかわらず、それを差し置いて一三歳の弟を皇太子とするのはかなり無理がある。もっとも、輔仁親王が元服したならば話は変わる。この時点で、白河天皇の子の善仁親王は八歳であるから、元服した男児と元服していない男児の二人という争いになれば輔仁親王が皇太子になるチャンスも出てくるのだ。

 なお、白河天皇の男児とされる子は他にもいて、輔仁親王よりは歳上でこのとき仁和寺に身を寄せていた覚行法親王は白河天皇の子であると言われている。もっとも、僧籍から離脱させて還俗させたとしても、この時点でまだ一〇歳であるから元服には遠い。それに、白河天皇は、覚行法親王に対しては自分の子とされる人物であるがゆえに援助はしたが、皇位を譲る対象としては全く考えに入れていない。

 いや、白河天皇は皇位継承をどうするか既に決定していたとしてもいい。ただ、皇位継承となると祖母の禎子内親王の存在が無視できないものとなる。無視してできないことは無いが、この時点では難しいとするしかなかったのだ。

 なぜか?

 死してもなお後三条天皇の影響が残っていたからである。後三条天皇の定めた皇位継承は藤原摂関政治との決別が最優先であり、藤原氏の女性を母とする白河天皇は、藤原氏では無い女性を母とする皇族が帝位に就くまでの中継ぎ扱いされていたのだ。正当な皇位継承者は実仁親王であり、実仁親王に何かあったら輔仁親王が皇位を継承する。白河天皇に男児が生まれたとしてもその子は皇位継承権の低い皇族と扱われる。ましてや、白河天皇の中宮は藤原賢子。最愛の女性であったという点はそれまでにない例外であったかもしれないが、藤原摂関政治の視点で言えばごく普通の、後三条天皇の掲げた藤原摂関政治との決別を考えれば皇位継承権から外すべき要素になる対象の女性である。

 いかに白河天皇が、最愛の中宮の死に直面したときに「例はこれより始められ」と前例を拒否して自分が初例になると宣言しようと、亡き後三条天皇の影響を無視するのは容易な話ではなかったのだ。

 白河天皇という諡号は、京都の東、鴨川を渡った東の地名である白河に由来する。当然ながら当時の人がそのように記したわけではない。しかし、白河天皇と白河の地は切っても切り離せない関係にある。白河天皇の造営させた法勝寺が白河の地にあるのだ。

 ただ、白河天皇は白河だけに目を向けたわけではない。

 藤原頼通が宇治に隠遁したのを、そして、太政大臣となりながら一〇年に渡って姿を見せずにいる藤原信長の現在を思い浮かべ、平安京の中心から少し距離を置くことの意義を見出したのである。それは、平安京の南でなければならない。より正確に言えば、平安京から各地につながる交通網のうち、平安京より近い場所でなければならない。平安京にいるよりも、あるいは平安京の東の白河の地にいるよりも早く情報に接することができ、情報を出すにしても平安京で出すより早く相手に届く場所でなければならない。

 平安京は人為的な都市である。立地条件に優れているとか、既存の交通網の要衝にあるとかの理由で自然的に発生した都市ではなく、桓武天皇がこの土地に都市を作れと命令したことから生まれた都市である。さすがに三〇〇年という年月を経れば平安京を前提とした交通網や情報網は構築されるが、平安京につながる交通網や情報網は、平安京誕生以前から存在していた交通網や情報網の延長線上に存在する形となっている。つまり、平安京から情報を発するためには、平安京から少し移動して既存の交通網に乗せなければならないし、平安京に情報を届けるには、既存の情報網から分岐させて平安京に届けなければならないのである。

 その分岐ポイントが存在したのが平安京の南であった。平安京から南へ少し行くと、東西に走る道に出る。道を東に進むと東海道・東山道・北陸道、西に進むと山陰道・山陽道・南海道・西海道。この七つの道が平安京の南部で一つになり、北上すると平安京の南に位置する羅城門に出る。羅城門をくぐるとそこから先は平安京だ。

 ここで注目すべきは、七つの道がつながるポイントが平安京の外にあること。

 このポイントを押さえることができればどうなるか?

 応徳三(一〇八六)年七月、白河天皇は藤原季綱から巨椋池を買い取った。巨椋池は、七つの道のつながるポイントと平安京をつなぐ箇所のすぐ近くにあるという点では特別だが、この時点ではただの池である。もっとも、ただの池であるがために平安京の南の防衛を担えていたのだが、この時代、防衛を担えた池であるということ以外にそこまで注目している人はいなかった。

 この池のある土地を「鳥羽(とば)」と言う。二一世紀の現在に住む我々にとっては院政期の上皇の名と密接につながる地名であるが、当時の人たちにとっては平安京の南にある池のある土地という認識しかなかった。白河天皇がなんでこの池を買い取ったのか理解した人はいなかったとしてもいいのである。ましてや、その池のすぐそばに建物を建てることの意味を理解する人などいなかった。せいぜい、池のある優雅な風景を楽しめる別荘を建てるのかと考えた程度であった。

 平安京で中宮藤原賢子が亡くなり、天然痘が流行し、皇太子実仁親王が亡くなり、白河天皇が鳥羽の地に新しく建物を建てるよう命令している間、陸奥国府にいる源義家から朝廷に届く連絡は平穏無事なものであった。応徳三(一〇八六)年九月二八日までは。


 この日、朝廷は陸奥国府から届いた情報に仰天した。

 内乱再発。

 奥六郡を分割統治することとなった清原清衡と、弟の清原家衡は次第に対立を深めるようになり、家衡率いる軍勢が兄の住まいに攻撃を仕掛けたのである。清原清衡は脱出に成功したが、目の前で妻と子を殺害されながら何もできずにいたという無念さをにじませた脱出であった。

 清原清衡は陸奥国府にいる源義家のもとに逃れ、弟が攻撃を仕掛けてきたことを告げた。

 朝廷が受け取ったのはこの時点までの東北地方の情勢と、鎮守府将軍として軍勢を指揮して清原家衡を討伐するために出発する予定であるが、現時点で源義家の動かせる兵力では清原家衡を討伐できないため、朝廷からの援軍の要請であった。また、その援軍の指揮は源義家の弟の源義綱にとらせてほしいとも記されていた。

 朝廷ではこの書状に対する討議が重ねられたが、肝心の源義綱が兄からの軍勢派遣要請を拒否する事態となり、討議は収束。源義家からの連絡は朝廷で黙殺され、今後、源義家がどのような軍事行動に出ようとそれは朝廷のあずかり知らぬところであると決まったのである。

 一見するとあまりにも無責任な朝廷の態度であるが、冷静に考えると単純に無責任とは言えなくなる。そもそもこれは清原氏の内部抗争である。朝廷としてなすべきことは、あるいは陸奥国司としてなすべきことは、どちらか一方の立場に立ってもう一方を殲滅することではなく、戦いそのものをなくすことである。源義家が鎮守府将軍を兼任しているのも、東北地方の平和維持のためであって、清原清衡の側に立って清原家衡を打倒するためではない。これでは戦いを無くすどころかかえって戦いを深めることになる。

 また、清原兄弟のどちらが朝廷にとって都合のいい存在であるかを考えると、弟の清原家衡になる。それは、弟のほうが優れているからではない。むしろ逆で、弟のほうが朝廷として御しやすい存在であると考えたのである。清原清衡は、奥州安倍氏の血を引きながら清原氏のトップであり、さらに藤原北家の血まで引いている。この時点では清原清衡の失政者としての能力が未知数ではあるが、ここまでの血筋があれば充分に巨大勢力のトップとして君臨できる。下手をすれば、朝廷権力ではどうにもならない存在へと成長してしまう。だが、弟の清原家衡のほうはそのような血筋がない。その上、奥六郡の北部三郡を手にしているとは言え、本拠地と定めているのはかつて清原氏の本拠地であった出羽国であり、かつての清原氏の姿をこれからも残そうとする姿勢は見せても、東北地方の巨大勢力になろうという意欲は見せずにいたのだ。

 朝廷としてみれば、残酷な言い方になるが、清原家衡に勝ってもらったほうが、それも、兄を殺害した上で勝者となってもらったほうが、東北地方の統治という点ではありがたいのである。源義家はこれから陸奥国司として軍事行動を起こすと宣言しているが、宣言することだけでは国司失格とはならない。国内の治安維持は国司の義務だから何の問題もない。しかし、実際に軍を動かして内乱を拡大させようものなら、それは国内の治安維持を壊したとして国司失格となる。

 朝廷の考えは、ここで源義家が軍事行動に打って出て失敗すること、すなわち、清原家衡が内乱の勝者となることを狙ったものであった。厄介な存在となりうる清原清衡がいなくなってくれたほうがありがたいと考えていたのである。結果として源義家が戦場に散ったとしても構わないという冷酷なものであったのだ。