次に来るもの 8.藤原師通
寛治五(一〇九一)年八月七日、京都を中心とする地域を巨大地震が襲った。
藤原道長の建立した法成寺は大打撃を受け多くの建物が崩壊した。
白河上皇の建立した法勝寺は、そのシンボルであった九重塔が傾いたほか、確認できるだけで五つの建物が崩壊した。
大和国からは吉野にある宝殿が崩壊したという連絡が届いた。
歴史の記録として残っているのは寺院に関するものだけであるが、それ以外の被害が全くなかったとは考えられない。それどころか、被害は史料に残された具体的な記録よりはるかに大きかったのではないかと推測されるのである。
何があったのか?
寛治五(一〇九一)年一一月一五日、藤原清衡から関白藤原師実に対して二頭の馬が献上された。まずは第一弾として二頭を送るが、必要とあればさらに増やすことも可能というメッセージも同封している。
この時代の馬は現在で言うクルマやオートバイ、あるいは工事現場でのブルドーザーに相当する。この時代の東北地方は馬の名産地であり、後三年の役でも清原家衡は逃走する前に愛馬の花柑子(はなこうじ)を弓で射殺しているほどであった。馬の名産地の覇者となった藤原清衡から馬が届いたというのは、単に名産品の献上ということではない。自然災害の情報が東北地方に届いた結果、奥州藤原氏が自然災害からの復旧支援を申し出たということである。
この地震について朝廷がどのような対処をしたのか? この記録は全く残っていない。
奥州藤原氏から支援の申し出があったことは記録に残っているが、その回答も記録に残っていない。
唯一残っているのは、奈良の興福寺の復旧工事完了の式典に関白藤原師実が参加したという記録だけである。
この態度は失望を呼ぶに充分であった。
朝廷に失望しても、他に期待があるならまだ救いはある。
特に、宗教は本来ならばこのようなときの救いになるべき存在である。
ところが、宗教はこの期待を裏切るのである。
復旧工事を終えた興福寺から届いた次のニュースは、興福寺の僧徒が京都のある山城国まで来て、平安京の北にある荘園の賀茂荘を襲撃し、荘園住民に暴行をくわえて民家を焼いたというニュースであった。奈良から賀茂荘まで来るのに平安京の近くを通らないと言うことはあり得ない。仮に平安京の視線に入らないように遠回りをしたとしても、誰にも気づかれずに賀茂荘までたどり着くなど無茶な話だ。
この時代の人が実感したのは、これから暴れようとしている集団が南から北へ大挙して移動してきているのに誰も止めようとしないし、止めることのできる存在もないという現実であった。
これまでであれば清和源氏がどうにかした。清和源氏から動かなくても、藤原摂関家の命令一つで清和源氏は動いていた。藤原摂関家と清和源氏とのつながりは多くの人の知ることであり、藤原摂関家が命令すれば、清和源氏の武士たちはただちに動くことが常識となっていた。
その藤原摂関家が動かなかった。いや、動けなかった。
興福寺の僧徒が加茂荘で暴れたという知らせが届いたのが寛治六(一〇九二)年三月六日のことである。これでも充分恐怖を感じるニュースなのであるが、同日、京都はさらなる恐怖に包み込まれた。
京都を大火が襲ったのだ。
この火災で関白藤原師実の邸宅の三条第が灰に消えた。
犯人が興福寺であるとは記録に残っていないが、これは容易に想像できることである。我が家が灰になり、仕える者が焼死し、その住まいもまた灰に消えている。テロに屈しないというのは、目の前で殺されている現状の前では綺麗事になってしまう。
それでも、藤原摂関家の命令なしで清和源氏が動くことは出来なかったのかという疑念が出るが、その疑念は、源義家は後三年の役についての責任がまだ問われ続けているために鎌倉から出てこないこと、そして、清和源氏内部は源義家と弟の源義綱との争いとなっていることを考えると、簡単に立ち消えとなる。
清和源氏以外はいないのか? 平氏では駄目なのか? このような考えを持つ人もいるかもしれないが、平氏はこの頃、武士として認識されてはいたが、名声とは無縁の存在であった。伊勢国を根拠地とする平正衡(たいらのまさひら)が藤原師実に仕えて京都における事実上の警察権力として行動していたという記録もあるが、そこにオフィシャルな地位はない。
寛治六(一〇九二)年時点での権力構造は、表面上は、摂関政治の復活が機能していたことになっている。若き堀河天皇を関白藤原師実が支え、藤原師実の子の藤原師通が内大臣として議政官に君臨している。藤原師実は関白専任であるため、議政官に対して何らかのアクションを加えることは許されていない。議政官の議決が堀河天皇に上奏されてきたとき、堀河天皇から相談を受け、助言を上奏することはできるが、藤原師実の意見は最終決定ではない。
ただし、これまでの摂関政治と一つだけ大きな違いがある。それは、白河上皇の存在。
白河上皇は自分のことを関白に比すべき存在と考えていた。堀河天皇へと上奏された法案を読む権利もあれば、堀河天皇に対して、それが最終決定ではないにせよ助言を与える権利があるとも考えていたのである。つまり、関白が二人いるという形に持って行くつもりであった。
ところが、白河上皇をそのように捉える人は多くなかった。無視するわけではないが、関白に比すべき存在と考える者は少なかったのである。白河上皇の知らぬところで法案が通り、堀河天皇の御名御璽を伴って正式な法律となって発令されるのだ。これは白河上皇も想像していなかったに違いない。
白河上皇を政務から遠ざけたのは、白河上皇が忘れられた存在になったからではない。忘れることのできない存在として君臨しているからこそ政務から遠ざけることを意図するようになったのである。
それを意図したのが内大臣藤原師通であった。藤原師通は白河上皇が権力を発揮しないための方法を選んだのだ。法案が提出され、議政官で決議され、可決されれば天皇に上奏されて正式な法律となる。この流れにおいて、関白も、そして上皇も、必要条件には含まれていない。白河上皇に何かを伝えるにしても、法案について議政官で議論しているときでも、決議を堀河天皇に上奏するときでもなく、既に堀河天皇の御名御璽によって正式な法律となった後での報告である。ここで白河上皇が何かを言おうとしても、既に法律は発令され、全国へと飛んでいる。白河上皇が法律に反対しようと、白河上皇が反対したというニュースが飛んでも、法律が廃案になるわけではない。
ただし、それが良い結果をもたらすかどうかと考えると問題が出てくるが……
止まったはずの荘園停止が、寛治六(一〇九二)年五月二日、何の前触れもなく復活した。この日、若狭国に新しく設立された荘園について、荘園としての許可を与えないと宣言されたのである。
いきなりの宣言に戸惑いを見せた人は多かったが、その理由は五月五日に判明した。この日、源義家が新しく設立した荘園について停止すると発表されたのである。有名無実化しているとは言え後三条天皇の出した荘園整理令は有効である。そして、この時の朝廷の判断は無効となっていない荘園整理令に従ってのものである。ゆえに、若狭国の荘園停止も、源義家の荘園停止も、法的には何ら問題のあることではない。そう、法的には。
だが、誰がそのように考えるであろうか?
明らかに、源義家をターゲットにした荘園整理令の発動である。若狭国はそのとばっちりを受けたにすぎない。
それにしてもなぜ、源義家がこのタイミングで朝廷から嫌がらせを受けることとなったのか?
一つは、後三年の役を源義家の私的な戦闘であるとする従来の方針を維持するため。興福寺が暴れまわったとき、多くの京都市民が考えたのが源義家の存在であった。ここに源義家がいればこんなことにはならなかったはずだとする考えは強く、この場に源義家がいなくなった理由である朝廷の態度に原因があるとする不満を抱く者が多くなったのである。
と同時に、清和源氏内部の争いでは明白に源義綱に肩入れするようにもなっていた。朝廷は、源義家に対して責任を求めはしても、清和源氏の武力そのものは必要としていたのである。朝廷にとっての最良は、後三年の役は源義家の私的な戦闘であるという立場を変えることなく責任は全て源義家が背負い、清和源氏の武力は後三年の役と無関係である源義綱が握り、これまで通り藤原摂関家と清和源氏とのつながりで清和源氏の武力を朝廷が使えるようになるというものであった。ところが、清和源氏に仕える武士のほとんどは源義家の家臣となっており、源義綱のもとの軍勢はあまりにも少なすぎる。これでは朝廷が動かせる軍勢に程遠い。
源義家に対する嫌がらせは、この時点における朝廷なりの清和源氏対策であったと考えれば理解はできる。ただし、同意はできない。朝廷の考えでは、朝廷の敵と認識されるようになった源義家は孤立し、清和源氏内部の自浄作用が働いて源義家が隠居に追い込まれるか追放されるかしていなくなり、源義家の地位を次弟の源義綱が受け継ぐはずであった。そこでは、当然ながら後三年の役は源義家一人の責任とされ、その費用は全て源義家の負担となり、源義家に従って戦いに加わった者は悔い改めて朝廷の元に降り、朝廷の指揮下にある源義綱のもと、朝廷の意思によって動く軍勢の一員となるという構想であった。
これはあまりにも甘すぎる構想とするしかない。武士というものを理解していないし、戦争というものも理解していないし、朝廷の権威をあまりにも高く見すぎている。
朝廷のこの甘い認識を白河上皇はとんでもないことと考えていた。白河上皇は私的に源義家に連絡をとり出したのである。それも、朝廷の決定を何一つ破らない形で。
まず、受領功過定を受けることを促した。つまり、源義家が国司であった間、陸奥国から納めるべきであった税を、分割払いでいいし、時間を要してもいいから、とにかく全部納める。その代わり、全部納め終わるまで、源義家は鎌倉から動かないし、源義家に従う武士たちも京都から呼ばれたからという理由で京都に来る義務はない。命令が出たとしたら源義家に対する処分の撤回が優先である。
また、清和源氏がいなくて困るという状況が続いてもそのまま放置するようにさせた。要はストライキである。自分の要求を相手に認めさせるための手段としてのストライキは、現在でこそ権利として認められているが、この当時はそのような権利もないし、それ以前にストライキなどという単語もない。だが、概念ならあった。居ないと困るという人が、その人のなしている仕事に対して正当な報酬を得ていない、正当な待遇を得ていないというとき、正当な報酬や正当な待遇を得るまで自分の仕事をしないというのは、当然の話である。その人がいないと困ると言う人がすべきことは、困ると文句を言うことではなく、困らないようにするにはどうするかを考えることである。清和源氏がいなくて困ると言うなら、清和源氏に変わる軍事力を作り上げるか、清和源氏がに対するこれまでの態度を改めて適切な報酬や適切な待遇を用意することである。そのどちらも拒否しておいて上から目線で対応していては、問題は全く解決しない。
さらに、寛治六(一〇九二)年六月三日に朝廷に対してある知らせを届けさせた。陸奥国司藤原基家から届けられた、藤原清衡の挙兵計画に対しての報告である。東北地方で再び戦乱となろうものなら、現在の朝廷ではどうにもならなくなる。どうにかできる手段があるとすればそれは、鎌倉にいる源義家に清和源氏の軍勢を率いさせての軍事行動しかなくなる。
新しく東北地方の覇者となった奥州藤原氏は、その勢力に見合わぬ広大な土地の支配者となってしまった。新しく支配下に組み込まれた中には、新興勢力である奥州藤原氏を快く思わない面々もいるし、隙あらば支配からの脱却を図ろうとする面々もいる。
朝廷もそれについて無策ではなかった。藤原清衡に対して正六位上陸奥押領使という、朝廷に組み込まれている公的な地位を与えたのである。陸奥押領使は陸奥国だけでなく出羽国の治安維持のための武力発動が認められており、藤原清衡が挙兵しようと、相手が反朝廷の勢力であればそれは堂々たる公務になる一方、奥州藤原氏に対して反旗を翻すことは、それが朝廷を思っての行動であろうと朝廷への叛逆と扱われ、藤原清衡の行動は朝廷の治安維持活動の一つとなるのである。
しかし、奥州藤原氏が日本からの独立を目指して立ち上がったとしたらどうなるか? そもそも前九年の役は日本からの独立戦争であり、そのときに独立を目指して戦った者やその子孫が奥州藤原氏に仕える身となっている。こうなると、独立をめざるための戦いを起こしたとしても陸奥押領使としての職務であるとカモフラージュできてしまうのだ。
さらに、寛治六(一〇九二)年六月二七日に届いた知らせは、この危惧を深めることとなった。日本海の向こうにある遼との関係についてである。この時代、北海道は蝦夷ヶ島と呼ばれており、はるか北で大陸とつながっていると考えられていた。北海道の北にある樺太が独立した島であり、大陸とは海峡で隔てられていると判明するのは江戸時代になってからであり、それまでは北海道が島であるらしいという認識はできていてもハッキリと確認されてはおらず、その北に樺太という場所があるらしいと知っている者はごく一部、樺太が大陸と離れている島であると知っているのは地元住民のみであるという状況が続いていた。というところで遼の存在がクローズアップされたのである。
遼は日本海に面していた渤海国を滅ぼした国であるということで、日本の最大の同盟国の渤海国を滅ぼした国ということで警戒されていたが、その警戒は減っていた。少なくとも、日本国に対する遼からの侵略の記録は無い。とは言え、驚異は全くなかったとは言えなかった。なぜかと言うと、渤海国が滅んだのとほぼ同時期に北海道の各地域で環濠型集落が見られるようになり、一時的な防御施設の予定が、集落を構成する通常の光景へと変貌していったのだ。
環濠型集落とは集落の周囲を取り囲むような堀や塀といった防御施設を構えている集落のことで、このような設備を必要とするようになったのは、集落の外から攻撃を仕掛けてくる存在があるからである。侵略を受けるようになったとして、それも、何度も繰り返し受けるようになったとして、黙って侵略を受け入れるなどということはない。侵略に対してどのように抵抗するかを考えるし、侵略に対して抵抗できないとなればその場から離れることも考えなければならなくなる。そして、皮肉なことに、侵略を受けたがために土地を離れた集団は、移動先においては侵略者となるなど珍しくない。
遼はたしかに日本に向けての侵略をしてはいない。しかし、遼に押し出される形でのちに満州族と呼ばれることとなる女真族が日本海沿岸に勢力を築き上げるようになっていたのだ。朝鮮半島の高麗王朝は女真族の侵略を受けていたし、高麗は高麗で日本へ海賊となって押し寄せた。刀伊の入寇はこういう事件である。もっとも、日本への侵略は失敗に終わった。侵略する側は、侵略先との戦力を比較し、負けると判断したら攻めてはこない。ただし、それは朝廷権力の及ぶところの日本国であって、朝廷権力が及ばない地域となると侵略者にも勝算が出てくる。
樺太や北海道が侵略されたら、次のターゲットは東北地方。東北地方が侵略されたら、次は関東、あるいは北陸。ここまで来たら京都は目と鼻の先だ。この動きを止めることができるのは誰か? 奥州藤原氏、そして、関東地方の清和源氏である。
清和源氏の武力を求める声は多く挙がったが、朝廷は国民のこの声を無視し続けた。
寛治六(一〇九二)年八月三日、大風,日本中を台風が襲い京都も少なくない被害が出た。家は流され、田畑は埋まり、多くの人が川から溢れた洪水に飲み込まれていった。いつもなら真っ先に平安京の住民の災害支援にあたる清和源氏はいなかった。
九月二八日、延暦寺から、藤原為房と高階仲実の二人に仕える者が日吉神社に仕える神人に対して暴行を加えたとし、部下の責任を取らせるために藤原為房と高階仲実の二人を罷免するよう求めて上京した。武器を持っていつでも暴れまわる準備が整っている僧兵たちに対し、いつもなら清和源氏が武力で立ちはだかってくれるところなのに、清和源氏はいなかった。朝廷は比叡山延暦寺の要求を全て受け入れ、藤原為房は阿波国へ、高階仲実は安芸国へ追放となった。要求を全て受け入れてどうにか、京都は平穏を取り戻した。
一一月一〇日、京都を震災が襲った。被害は台風のときと比べればマシであったが、それでもゼロでは済まなかった。いつもなら真っ先に救援に駆けつけるはずの清和源氏はここでもいなかった。
朝廷はあくまでも清和源氏を無視し続けた。清和源氏を動かすためにはこれまでの朝廷の全ての態度を覆し、後三年の役は私的な争いではなく国の戦争であり、その費用は源義家個人ではなく国が負担すべきものであり、戦争に勝利したことに対する褒賞も相応のレベルで用意しなければならないのである。時間が経てば経つほど朝廷の立場は苦しくなる。だが、それにも関わらず、あるいはそれだからこそ、朝廷は動かなかった。清和源氏を動かすためには源義家を赦さなければならないという一点が問題となっていた。
このとき、国民の不満のターゲットとなっていたのが内大臣藤原師通である。正確に言えば、内大臣としての藤原師通ではなく左近衛大将としての藤原師通である。理論上、武官のトップである藤原師通には日本中の全ての武官に対する指揮命令権が存在する。そして、法の上で藤原師通は源義家の上司である。ゆえに、摂関家と清和源氏との私的なつながりではなく、左近衛大将としての公的なつながりで命令を出せば清和源氏も動かざるを得なくなる。それを藤原師通はしていない。
この国民の不満に対する藤原師通の回答は、左近衛大将としての任務の遂行ではなかった。左近衛大将を辞任したのである。参議でありながら左近衛大将に就任したのも異例であったが、このタイミングで辞任したのも異例である。
これでたしかに藤原師通は左近衛大将として指揮権を発動することができなくなった。この三一歳の若き内大臣の行動は、法的には間違ってはいないが、国民の支持を集めることには繋がらなかった。
藤原師通は次代の摂政あるいは関白となることが決定している人物である。そして、その知性も、歴代藤原氏の中でも一・二を争う秀才と評されるほどである。
大江匡房を学問の師とし、古今東西の書に詳しい人物へと育った。ただ、頭は良いのだが、この人は人の気持ちを理解するというのが乏しかったのではないかとするしかない。自分から怒りを見せたことはあったが、他者の怒りを理解するのはできなかったのかもしれない。
そして、この人にはもう一つウィークポイントがあった。後継者である。
強引に離婚させられ、藤原信長の養女である藤原信子と結婚させられた。これは藤原信長に対する懐柔策の一つであったのだが、この結婚で子供は生まれなかった。この時点でいた藤原師通の子は、離婚させられた妻の産んだ子の藤原忠実、そして、側室の子の藤原家政、藤原家隆の三人。ただし、この時点で元服しているのは藤原忠実一人。つまり、藤原師通に何かあったら後を継ぐのは藤原忠実ということになる。
この藤原忠実は、父に対する怒り、そして、父の新しい妻の藤原信子に対する怒りを抱き続けた人であった。父に対する怒りについては後に和解するようになったが、藤原信子に対する怒りは生涯隠すことがなかった。
本人の怒りもそうだが、母の藤原全子の怒りは常軌を逸するものがあった。藤原全子は父である藤原俊家の肖像画を掲げてあたかも神であるかのように礼拝する一方、自分を捨てた藤原師通、そして、自分の地位に収まった藤原信長の養女を呪い続けたのである。藤原忠実はこの家庭環境で育ってきたのだ。
父の藤原師通が歴代の藤原氏の中でも一・二を争う秀才と評されていたのに対し、藤原忠実についてはそのような評判などない。朗詠(ろうえい)や箏(こと)での評判の高さの記録はあるが、政治家としての評判は芳しいものではない。実際、後の院政を生み出す原因の一つとなったのが、藤原忠実の政治家としての能力の結果である。
藤原師通が自分の後継者としてどのように考えていたのかについての記録は乏しいが、関白藤原師実が自分の次の次の代を受けることととなる孫の藤原忠実をどのように考えていたのかを示す一つの記録がある。
寛治七(一〇九三)年一月五日、藤原忠実が従二位に昇格した。役職は既に権中納言兼右近衛中将であり、従二位としてはおかしくない役職についている。
思い出していただきたいのが、三一歳の内大臣の息子だということ。なんと、まだ一五歳なのだ。
頭の良さには二種類ある。
「既に存在している知識をいかに獲得しているか」と「獲得した知識をいかに組み合わせて新しい知識を生み出すか」のの二種類である。
藤原師通は間違いなく秀才であった。古今東西の書を読み、法を把握し、これまでの前例を頭の中に叩き込んでいた。
ただ、そこから先については乏しかった。既に存在している知識の獲得は問題なくとも、存在している知識から新しい知識を生み出すことはできなかったのだ。世の中の秀才にはこのような人が多い。あるいは、天才と秀才を分ける境界線とも言える。
かと言って、自分が知性の低い存在であるとは考えない。知性の高さこそが誇りであり、どれだけの知識を獲得したかを持って知性の証左とする人に、既存の知識からどれだけ新しい知識を生み出したかという観点で知性についての疑念を投げかけても無視されるか、あるいは、投げかけ自体を愚かなことと一刀両断して終わりである。
ところが、二種類の頭の良さのうち、社会において求められるのは後者なのだ。知識をいかに獲得しているかは、あったところで困るというわけではないという程度の指標であり、社会の求める頭の良さとは違う。社会が求めるのは新しい知識をいかに生み出すか、特に、時代の移り変わりに社会をいかに合わせるかという新しい知識、ビジネス用語で言うところのイノベーションを生み出す人を社会は求めるのである。そこに、既に存在している知識を獲得しているだけで新しい知識を生み出せない、イノベーションを生み出せない人の居場所はない。あるとすれば、その人ではない誰かが作り上げたイノベーションを実践する人としての役割であるが、その居場所は、自分のことを頭が良いと考えている人間にとっては耐えられない居場所でもある。その居場所を受け入れるか、それとも、自分があるべき居場所を求めるかの選択肢を突きつけられたとき、後者を選んだ人に希望ある未来はやってこない。
自らの知性の高さを信じながら新しい知識を生み出すことのできない人は、他の誰かが既に作り出した知識を拝借して自らが生み出した新しい知識とする。それが、現在の社会を変えなければならないと考える人の場合だと左翼と、現在の社会を戻さねばならないと考える人の場合だと右翼と呼ばれる。どちらも現在の社会が現実の結果であると認めることはなく、空想上の社会を作り出そうとするか、空想上の過去に立ち返ろうとするかという点のほかに違いを持たない。頭が良いとされる人や、学歴が高いとされる人が、ときどき、理解しがたい行動をとることがあるのも、知識と知識を組み合わせて新しい知識を生み出すという点での知性が欠けている人だからである。
普通なら、自浄作用が働いて、そのような者は権力から淘汰される。だが、時として、自浄作用を働かせることなく自らの知性の高さを疑わない人間が権力を握ることがある。藤原師通はその例の典型でもあった。自分の頭の良さがどうあろうと、将来の摂政や関白が約束されている人であった。そして、自分がイノベーションを生み出せない人間であると気づかされることのないまま、イノベーションを生み出す能力の高さを求められる居場所が約束されている人であった。これは世襲だからという理由で起こる問題ではない。システムの自浄作用が働かないことが理由で起こる問題である。
それに、この時代、ほとんどの人は藤原師通の判断の悪さを批判はしても、頭の良さに関しては疑ってもいなかった。左近衛大将を投げ出したのも、清和源氏を赦さないままでいるのも、暴れまわる僧兵たちを抑えることに失敗していることも問題だと考えてはいたが、新しい時代の執政者となったならば立派な政治をしてくれるものとも考えていたのである。そう考えるのは堀河天皇も例外ではなかった。
源義家の権勢を抑えるために、荘園整理を復活させたことは既に記した。
この荘園整理の復活が寛治七(一〇九三)年になって思わぬ余波を生み出すこととなったのである。
誰もが、源義家の権勢を抑えるために、この時代は既に忘れられていた荘園整理を復活させたことに気づいていた。ただし、源義家を、そして清和源氏を抑えるための荘園整理であるとは全く言っていない。あくまでも、荘園整理は現在でも有効であると宣言しただけである。つまり、清和源氏と無関係であろうと荘園整理の対象となりうるのである。
これが荘園の活動そのものを抑えつけることとなってしまった。
荘園は現在でいうと株式会社であるというのは何度も記している通りである。以上を踏まえ、このように考えていただきたい。
株式会社を新しく作るのを禁止するという命令が出た、と。
歴史の長い株式会社というのは珍しくもないが、ほとんどの株式会社は創立三〇年を迎えることなく姿を消している。世界的には企業の寿命はだいたい三〇年と言われており、日本国内ではどうかというと、平成二七(二〇一五)年に東京商工リサーチが発表した統計調査によれば日本の株式会社の平均寿命は二三・五年と、世界の潮流よりも短い。とても歴史の長い企業が多いから日本国内の企業はなかなか倒産しないと思いがちであるが、実際には、大学を出てどこかの企業に就職したとしても、定年退職を迎える前に会社の倒産を体験することの方が珍しくないのである。
それだけの会社が倒産する一方、新しい会社もまた誕生している。世界的には金融危機のときに、日本国内では民主党政権時代に会社の総数が激減したが、それ以外は、倒産したり合併したりして社会から消えた会社の数と、新しく生まれた会社の数とでだいたい均衡がとれている。もっとも、日本国内の場合は、バブル崩壊以後の会社の減少について、平成一八(二〇〇六)年の会社法改正で株式会社を設立しやすくなったことで阻止したという面もあるが。
この意味でも荘園は株式会社と同じである。荘園は生まれる一方で永遠に消えない存在というわけではない。天災であったり、人為的な理由であったり、農作物などの状況や荘園で働く者の状況に基づいたりといった理由で姿を消す荘園も珍しくはなかったのだ。荘園領主もそのあたりのことは考えていて、荘園の経営が厳しいとなったら新しい荘園を用意して、荘園で働く者を移住させるのは当たり前のことであった。現在でも、職場が移転することで勤務先が変わるサラリーマンは珍しくない。転勤のない職場で働いている者であっても本社が新しいオフィスビルを建てたら転勤でなくても職場は変わる。会社の経営の都合上、会社が他社と合併することとも珍しくない。職場そのものが全く新しい会社に変わることも珍しくない。この流れが全部止まってしまったらどうなるか?
荘園整理とは、流れを全部止めることでもあるのだ。
会社が維持できないから新しい会社に移ろうにも、それが禁止されている。
会社を移転させようにも、それが禁止されている。
会社を移ろうにも、それが禁止されている。
これで失業者が増えなかったとしたら、そのほうがおかしい。
目に見えて増えた失業を減らし、就業者を増やすためには、荘園整理を止めるしかない。そのほかの方法で失業を減らし就業者を増やせるかもしれないが、そのようなイノベーションを起こせるような人材などそうそう簡単に生まれるものではない。それに、荘園整理を止めないまま失業対策をするより、荘園整理を止めた上で失業対策をするほうがより高い効果を得られる。
それでも朝廷は荘園整理を止めようとはしなかった。
荘園整理を止めて得られる失業対策より、荘園整理が失敗と認めないことのほうが優先されることだったのだ。
これは政治に限ったことではないが、知識を蓄えることに長けてはいても、新しい知識を生み出すことには長けていない人が権力を握って政策を実施させると、失敗を認めないだけでなく、失敗という報告を上げてきた人を平気で迫害する。自分のしていることは成功でなければならず、誰もが成功だと考えなければならないとして平然としている。仮に失敗であったと受け入れたとしても、それは自分の推し進めた政策のせいではなく、政策の不徹底のせいだとする。
ところが、イノベーションというものは、計画通りに行く可能性は一〇〇〇回に三回というきわめて低いものである。それは政策とて例外ではない。一〇〇〇回のチャレンジで九九七回は失敗するのがイノベーションというものである。たとえばデヴィッド・ヒュームは人間の理性というものが人間の考えているほど優れたものではないと考えたし、ピーター・ドラッカーはイノベーションの第一条件として「予期せぬ成功や失敗」、すなわち、人間の理性の生み出したものではなく、偶然を挙げている。政治にしろ、ビジネスにしろ、成功するのは無数の小さな試行錯誤を繰り返しての成功結果の選別であり、先に計画を立ててその通りに行動させることを墨守させると、偶然への期待もできないし、成功結果の選別もできなくなる。
長々と挙げてきた頭の良さの二種類であるが、どれだけの知識を蓄積するかではなく、既に獲得した知識を組み合わせて新しい知識を生み出す人というのは、特別な脳味噌をしているのではない。試行錯誤を繰り返した上で自分の思考や行動に失敗があることを認めた上で成功を選別している人なのだ。
この時代の朝廷が内大臣藤原師通の支配下にあったとは言わない。だが、次代の摂政や関白が約束されているだけでなく、その知性も評判を呼んでいた人物の言葉が、それも関白の後継者の言葉が、軽んじられるであろうか?
その上、藤原師通は今なお残る後三条天皇派にとっても、他の藤原氏より許容できる存在であった。後三条天皇の即位前の教育係でもあった大江匡房の弟子である。後三条天皇と同じ教育を受けた者が権力者になるというのは、それまで敵と見なしてきた摂関家の後継者であろうと許容できることでもある。その上、荘園整理という後三条天皇の掲げた政策を実行した。失業を生み出す原因とはなったが、失業を気にしないでいい立場の者にとって、荘園整理というのは正義の実現という意味のほうが強かった。
白河上皇はこの荘園整理について疑念を感じていたようで声明を発表している。しかし、関白に比する存在として自らを捉えていた白河上皇であったが、後の院政の頃と違い、この時点ではまだそのような捉え方が明瞭に示されてはおらず、白河上皇の言葉も重いものとは捉えられてはいなかった。
寛治七(一〇九三)年六月二七日、比叡山延暦寺からの圧力で阿波国へと配流していた藤原為房が召還された。刑罰としての流罪の終了であり、比叡山延暦寺としては許されざる犯罪者である藤原為房も、刑期を満了したため自由を取り戻したということになる以上、これからはともかく、これまでの経緯について口を出すことはできなくなった。
このときの刑期満了を指示したのが白河上皇である。この日、白河上皇は法勝寺へと御幸したことのであるが、そのご利益を増すためとして合計六一名の犯罪者に対して恩赦をしているのである。藤原為房の召還も、ご利益を増すための恩赦の一環という位置付けであった。特別扱いではなく、犯罪者に対する恩赦をすることとなったら、たまたまその中に藤原為房が含まれていたというだけである。理論上は。
この理論を、比叡山延暦寺が快く思うであろうか? そして、他の寺社が快く思うであろうか?
寛治七(一〇九三)年の六月から七月にかけて、寺社のその思いをさらに増幅させる出来事が、二つ、立て続けに起こった。
出羽国での暴動と、貿易船を襲う海賊の襲来である。
前者については後述するとして、後者について述べると、日本と宋との間を航行する船が高麗人に襲撃され、日本人と宋人が拉致され、船に積まれていた武器などを奪われたのである。この時代から二〇〇年前は新羅人が海賊として日本に襲来することなど特筆するまでもない日常の出来事であった。日本国内やその周囲で暴れまわる海賊は、捕らえてみれば新羅人であるなどというのは珍しくもなく、ただその事実のみが淡々と記されているにすぎない。新羅人ではない海賊が現れたらそのほうがニュースとなるほどである。これは新羅滅亡後も続いており、藤原純友の乱では藤原住友の率いる海賊が瀬戸内海を暴れ回っていたが、総大将や船を指揮する面々は日本人であってもその部下の日本人の比率はむしろマイノリティで、部下に対する指示や海賊同士で使う言葉は新羅の言葉が土台になった独自のものであった。
新羅が滅亡し、内乱を経て、朝鮮半島が高麗によって統一された後は確かに海賊が減ったが、海賊に対する警戒心はなお強く残っていた。藤原純友の乱もその余波の一つであるが、それより大きな問題として捉えられていたのが刀伊の入寇である。藤原道長という巨大な存在がいなくなったと思われたと同時に発生したこの海賊の来襲は、海賊の脅威を決して忘れてはならないことであると再認識させ、警戒心を呼び戻したのである。
その警戒心が時代とともに減ってきていた。海賊そのものが減っていたのである。高麗全土が遼の支配下に置かれることとなり、遼が朝鮮半島の憲兵となることで治安を強引に守るようになったのだ。朝鮮半島にしてみれば植民地とされた屈辱の歴史ということになるが、その周囲にとっては人的にも資的にも大損害を招いていた海賊がいなくなるというメリットのあることであった。
その遼の影響力が弱まり、海賊が復活した。海賊の襲撃に驚きを見せた日本国民であったが、ここで一つの現実が突きつけられた。今の日本国は海賊のターゲットとなる国であり、海賊から国民の安全を守る存在がこの国には存在しなくなってしまったのだという現実である。
後述すると記した出羽国の暴動は以下の通りである。
この時代の出羽国司は出羽守信明。姓は不詳である。史料には藤原信明とも源信明とも記されているが、源氏の系図を調べても、藤原氏の系図を調べても、この時代に信明という名のものはおらず、暴動に関する直接の史料には姓を記さずに出羽守信明とだけ記しているため、本稿では原典の記載に従って出羽守信明とする。
この出羽守信明と、出羽国府に勤める役人であった平師妙が激突した。平師妙は、藤原清衡の母系の従兄弟であった平国妙に関連する人であろうと推測されているが、その素性は不明である。どのような理由での衝突であったかもまた不明であるが、衝突の規模は判明している。
平師妙と、その息子である平師季の親子の率いる軍勢が、出羽守信明の住まいでもあった国司の館を襲撃したのだ。現在の感覚で行くと、どのような理由かはわからないが知事と県議会議員の一人が激しく対立し、その県議会議員が息子と仲間を率いて暴れ回って知事公邸を襲撃したというレベルの話である。しかも、この襲撃した軍勢がそのまま出羽国にとどまっているのだ。
しかも、朝廷に伝えられた第一報は、陸奥国司の藤原基家が任国で死去したことが合わせて記されていた。実際にはそうではなかったのだが、朝廷には、出羽国の暴動が出羽守信明の邸宅を襲撃しただけでなく、陸奥国司藤原基家を殺害したと伝わったのだ。朝廷は慌てて源義綱を陸奥国司に任命し、暴動鎮圧を命令した。これが源義家であれば清和源氏の面々も従うところであるし、鎌倉の源義家からも軍勢派遣の命令があればいつでも出陣可能であるとの連絡も届いていたが、朝廷はこれを無視。あくまでも朝廷の官職に基づいて陸奥国司として任命し、源義綱個人に従う武士たちを連れていっても良いという許可を与えた上で送り込んだのである。
出羽国の暴動の知らせを聞いた京都市民のほとんどは、源義家が再び東北地方に出向くものと考えていた。これまでの源義家に対する朝廷の対応を白紙撤回すると考えていたし、実際に源義家から軍勢派遣の準備が整っているとの連絡も届いていたのである。ここで源義家と清和源氏を動かさないことはあり得ないと、ほとんどの国民は考えたのだ。
それなのに、朝廷の回答は、源義家の黙殺と源義綱の派遣。これは失望を抱かせるに充分であった。その上、源義家がいない現在、平安京とその周辺でどうにかなる軍勢となると、源義綱しかいなかった。その規模は乏しいが、それでもいないよりはマシであった。
その、いないよりはマシの存在がいなくなった。
寺社は僧兵を抱えている。平安京の住民にとっては暴れまわる迷惑な存在であるが、その迷惑な存在の身内になれば、寺社がむしろ守ってくれる存在になる。心の拠り所としての寺社ではなく、ガードマンとしての寺社である。守ってくれる存在と言われてもそれまでは脅威を感じることは無かった。強いて挙げれば東北地方の奥州藤原氏や関東地方の清和源氏が攻め込んでくるかもしれないという恐怖があると言えばあったが、それは現実的な話ではなかった。誰かが攻め込んでくるのではという話自体が誇大妄想の話だった。
それが、攻め込んでくる存在が突然、現実の物となった。
海賊が来るかもしれない。
出羽国の暴動が京都までやって来るかもしれない。
この時代の人たちにとって、平将門や、藤原純友は、実体験したことではないが、語り継がれる脅威ではあった。現在の日本で言うと、第二次大戦の後に生まれた人の方が圧倒的に多いが、第二次大戦の状況は語り継がれている。そして、あの時代を繰り返してはならないと、ほとんどの人が、いや、全ての人が考えている。そう考えている人を現在の日本国で探すとすれば、リベラルを自称する人が作り上げた妄想の中にしかいない。現在の我々が第二次大戦の時代を繰り返してはならないと考えているのと同様に、この時代の人たちにとって平将門や藤原純友の乱の時代は繰り返してはならないことだったのだ。
ほとんどの人が、その繰り返してはならないことが起こってしまったと考えるようになった。しかも、自分たちを守ってくれる可能性のある武力はたった一つしかなかった。僧兵がそれだ。
寺社は言う。自分たちを迫害する朝廷のほうが間違いであり、自分たちの味方となれば兵力で守ることも考える、と。それまでであれば一笑に付されるこの申し入れが、高麗の海賊の出現と、出羽国の暴動によって、笑い話では無くなった。生活を壊す迷惑な存在と考えてもどうにもならないだけでなく、海賊の恐れ、暴動の恐れが現実なものとなると、迷惑と感じている存在のほうに巻き込まれたほうが、結果として命が助かる可能性が高まると考えらるようになったのだ。
寺社が武装した勢力を平安京まで送り込んでデモ隊として暴れること自体は変わらない。変わったのはデモ隊に対する平安京の市民の視線である。迷惑であることには変わりは無いが、それを取り締まろうとしない朝廷と比べるなら暴れ回る寺社のほうがまだマシだと考えられるようになってしまったのだ。
寛治七(一〇九三)年八月、奈良から興福寺の僧侶が大挙して平安京へ押し寄せてきた。要望は、近江国司高階為家の処罰である。高階為家の部下が春日大社の荘園に住む者に対して暴行を加えたというのがその理由であり、興福寺はこのとき、春日大社の神木を持ち込んでのデモを展開している。
本来、春日大社と興福寺は異なる宗教施設であったが、ともに藤原氏創建の宗教施設であるという点でつながりを見せるようになり、神仏混淆の結果「春日明神は興福寺を守護し、興福寺は春日明神を扶持す。寺と云い、社と云い、処一に代同じうす。社の愁は則ち寺の愁なり」という言葉が出るほどになった。要は、春日大社に何かあれば、あるいは興福寺に何かあれば、興福寺の僧兵が武器を持って、春日大社の神木を持ち込んで暴れ回るというのである。
このときの興福寺の要求は全て受け入れられた。
近江国司高階為家は土佐国への配流となった。
本音を言えば、多くの国民にとって朝廷のこの判断は不満だったのである。
国民が求めていたのは強い政府だった。国外からの侵略の危機に対しても立ち向かえる政府と、暴れ回るデモ隊に対しても断固たる態度をとる政府を求めていた。しかし、この時代の朝廷はそのような期待に全く応えられなかった。海賊に対しても何の対処もできず指をくわえてみているだけ。暴れ回るデモ隊に対しては言いなりになるだけ。これで支持を集められるであろうか?
この頼りなさに輪を掛けたのが、寛治七(一〇九三)年八月頃に顕著となった二つの天災である。
一つは天然痘の流行、もう一つは台風による水害。
そのどちらも、現在であればそれだけでその年を代表する大ニュースである。だが、この頃になるともはや通例となるニュースである。そして、そのどちらにも朝廷は無力であり、無力である朝廷に対して呆れるというのも、このような朝廷と比べるならまだ暴れ回るデモ隊の方がマシだという感覚になる時代へとなってしまった。結果として寺社が心の拠り所となったのも、信仰に安心を求めるようになったからではない。寛治七(一〇九三)年時点の平安京に置いて、良い意味でも悪い意味でも最も身近な武力を持った存在であるという点が心の拠り所となったからである。
後三年の役の結果、東北地方の覇者となった清原清衡が、実父の姓である藤原氏を名乗るようになったことから奥州藤原氏が始まる。
奥州藤原氏という存在が登場する前は、奥六郡の覇者であった奥州安倍氏が東北地方において絶大な存在であり、奥州藤原氏の前身である出羽清原氏は、東北地方において無視できるほどではないにせよ、最有力な存在であったわけではない。覇者となったのも、奥州安倍氏が滅亡したことで相対的に最大勢力となった結果である。ゆえに、奥州藤原氏に対して不満を持つ者も多くいる。当然だ。ついこの間まで自分と対等、あるいは自分より格下と見なしていた存在が、それまで圧倒的存在であったトップがいなくなったという理由で新しくトップになったのだから。
出羽国の暴動はその延長線上にあった。
奥州藤原氏は、この時点では既に奥六郡を本拠地とする氏族と見られるようになっていたし、藤原清衡自身も陸奥押領使という陸奥国の行政に組み込まれている役人である。つまり、出羽国の有力勢力であった清原氏が出羽国から離れ、出羽国に権力の空白が生まれたように見えた。
朝廷は陸奥国と出羽国にそれぞれ国司を派遣し、その配下に地元の人が雇われて役人として働いている。また、京都から任国に赴任するときにスタッフとなる人物をスカウトすることもあり、国衙は現地の人と京都から赴任してきた人とが入り交じっていた。現在の感覚で行くと、地元出身の県会議員と、その県の生まれではない知事がいて、知事のスカウトした役人がいるという光景である。さらに言えば、これまでの知事がスカウトしてきた者が地元に残って県会議員になっている。そして、この二つが派閥争いを繰り広げている。
これだけであればどうと言うことのない光景なのであるが、派閥争いで武力をもためらわないとなるとどうなるか?
出羽国で起こったのは、人間社会であれば頻繁に見られる派閥争いである。中央の圧政からの解放と名乗ろうと、やっているのは派閥争いに過ぎない。とは言え、その派閥争いが武力衝突を生み出し、国司の館に襲いかかるという結果を招いた。
この知らせを受けた朝廷の決断が源義綱の派遣であり、藤原清衡がこのときどのような行動を見せたか、あるいは見せなかったかはわからない。何もしていないとは思えないのであるが、藤原清衡の武力が活きたという記録は無いのである。
寛治八(一〇九四)年一月一六日、陽明門院こと禎子内親王、崩御。八五歳での死である。三条天皇を父とし、生涯を藤原摂関政治への叛逆に捧げ、後三条天皇の母として摂関政治からの脱却を目指す後三条天皇派としてよい勢力を築き上げてきた女性の死は一つの時代の終了を示す出来事であった。
ただ、この女性の死と後三条天皇派の衰退とはつながりを持たなかった。現政府としての朝廷に反発する勢力に対する需要がある中で、生涯を反摂関政治に捧げてきた女性の死と、現政府に対する反発の沈静化とはつながらなかったのである。
皮肉にもこれは白河天皇の政策の反動だった。白河天皇は、敵を作り出し、敵への攻撃を続けることで支持を集めてきていた。しかし、その行為は白河天皇に何かあったとき、白河天皇の敵とされていた面々が反政府の人たちの受け皿として機能してしまうのである。これは白河天皇が退位して堀河天皇の治世となっても状況は同じであった。表面上は堀河天皇と関白藤原師実の政権であり、白河上皇は第一線を退いたことになっている。そう、あくまでも表面上は。
だが、誰がその表面上の体裁を信じるであろうか。
後三条天皇の定めた摂関政治からの脱却を覆し、藤原氏の血を引く我が子を帝位に就けたことで、この政権を作り上げたのは白河上皇であると誰もが考えている。そして、現政権への批判が強まるとき、白河天皇時代に敵とされていた人たちが反発の受け皿となってしまう。
この時代の政情とたとえると、支持率が著しく下がっているときの政権である。そして、自民党政権にしても、自民党政権打倒を掲げて成立した細川政権や民主党政権にしても、政権に対する支持率が下がっているときは一つの共通パターンをとる。
首相交代。
内閣総理大臣という職務のないこの時代であるが、内閣総理大臣に相当する存在は副数人いる。太政大臣と左大臣と関白と摂政である。
まず、堀河天皇は元服を迎えているから、この時代に摂政はいない。元服からおよそ一年間は藤原師実が摂政を務めていたが、関白に転任したことで摂政はいないことになっている。また、太政大臣は寛治三(一〇八九)年に藤原師実が辞任して以来空席となっている。現在の内閣総理大臣の職掌にもっとも近いのは左大臣であるが、この時期、左大臣源俊房は左大臣としての職務を地道に遂行しているものの人臣の顔役とはなっていない。また、このタイミングで左大臣を何らかの理由で議政官から外すことは議政官の運営を破綻させることを意味する。
すると、答えは一つしか無い。
寛治八(一〇九四)年三月八日、陸奥国司の源義綱が凱旋してきた。軍勢の先頭には、出羽国で暴れていた平師妙と師季の首があった。源義綱はこの功績を称えられ、国司の中でももっとも競争率の激しかった、競争率の激しさゆえに報償として機能するまでになっていた美濃国司に就任した。
この、物騒ではあるが平安京の市民の熱狂を伴った凱旋を迎え入れたのが関白藤原師実である。
多くの京都市民が見つめる中、任務を達成した源義綱を褒め称えた藤原師実は、ここで予想だにしなかった宣言をした。
藤原師実、関白辞任。五二歳での関白辞任は、いかに平均寿命が五〇歳と言われる時代であるとは言え、特に何ら病気を抱えているわけではない藤原師実の関白辞任は驚き以外の何物でも無かった。
さらに翌三月九日、内大臣藤原師通が関白に就任すると発表された。
藤原師実の子で、かねてから秀才と言われていた藤原師通が関白に就任することは、血縁からも、能力からも、やがて訪れることと誰もが考えていたが、三三歳という若さでの就任は誰もが想像できないことであった。しかも、父が五二歳という若さで政界から身を引くとは、実際に起こるまで脳裏に一瞬として浮かぶようなものではなかった。
このときの発表は、プラスマイナスの両方の感想が伴った。プラスは、かねてより評判であった藤原師通の知性の高さと、藤原師実の後継者というこれまでの政治の継続に対する保証、そして、三三歳という若さが生み出す新鮮さである。これまでの政治が継続されながら新しさもあるという、これまで以下はありえず、これからは向上する一方だという未来図が脳内に描かれたのである。一方、マイナスは藤原師通のこれまでに起因する。高い知性の持ち主だと誰もが考えたが、この時点での議政官で重要な存在となっているのも事実なのである。つまり、朝廷がおかしくなっていると感じている人にとって、藤原師通は朝廷を改革する存在ではなく、これまでの朝廷の政策を象徴する存在になっていたのである。
また、この時点の藤原師通は内大臣である。無官となった藤原師実は別として、官職としては、藤原師通の上に左大臣源俊房と右大臣源顕房がいる。この状態で、内大臣でありながら関白である人物がいるというのは政権の不安定を生む。
政権の不安定に関する懸念を払拭するため、寛治八(一〇九四)年三月一一日、藤原師通を藤氏長者とすると同時に、人臣としての序列は従一位左大臣源俊房の次ということとなった。つまり、内大臣でありながら右大臣よりも上という扱いになったが、ナンバー1というわけではないという微妙なポジションとなったのである。
それで混乱が起こらなかったのかというと、とりあえずは起こらなかった。藤原師通の関白就任でただちに社会が激変したわけでは無いからである。ただし、それは藤原師通が社会を変えないようにしようとしていたからではない。社会をどうするかという明確なビジョンを持っていなかったからである。
藤原師通はたしかに知識のある人であった。白河上皇の政治ビジョンも理解していたし、左大臣源俊房や、右大臣源顕房がどのような未来を目指しているかもわかっていた。わかっていなかったのはただ一つ、自分自身の政治ビジョンであった。
わかっていなかったのは当然で、現在でも見られる光景であるが、批評はできても自分自身の意見というものが無かったのだ。
他人についての講釈を垂れることについては一流で、知識量の多さから頭の良い人物と見られていたが、それと、政治家として求められる唯一のこと、すなわち、目に見えて前より暮らしぶりが良くなっていると実感できることとは結びつかなかったのである。
藤原師通に限ったことではないが、現状はおかしいと考えていながら、現状を変えるための有効なアイデアを持っていない、持っていたとしてもそれは妄想に過ぎないというのは珍しくない。そして、このような人が権力を握り、おかしいと言って批判していた側から、おかしいと考えているのを改善しなければならない立場に変わったとき、とにかく怒りを隠さなくなる。批判を許さなくなるし、失敗を認めなくなるし、絶賛以外の論評を許さなくなる。
明確なビジョンを持っているわけではないから現状通りにするしかないが、現状はおかしいと考えている。このような人が権力を握ると、まず法律があり、現状の側から法律に合わせることを求めるようになる。ここにあるのは、現状がおかしいと考える思考であり、そのおかしさの説明として本来の姿を考えることができないために、既に存在する法律にしがみつく。現在が間違っているのは、法律は正しいのに法律通りにしなかったから現状がおかしくなっているという姿勢である。
このような政治的立ち位置に対して、世界一般では半ば侮蔑を込めて保守と呼ぶことがあるが、日本国の場合はこのような人たちのほうが、法律を変えようとしている側のほうを保守と呼んでいる。では、守旧派と呼ぶべきかというと、それも違う。守旧派は現状を変えようとしないが、法律を変えることなく現状を変えようとしている人の場合はいうわけでもない。守旧派の場合は現状を変えようとしないが、保守の場合は現状をあるべき姿に直そうとする。変えたあとのあるべき姿として想定するのが現在存在する法律である場合は保守で、存在しない新しい法律である場合は改革派と呼ぶべきで、現在の日本国はリベラルを名乗る保守派と、保守を名乗る改革派があるというのが正しい解釈だろう。
藤原師通の立ち位置を表現するのにもっとも近いのは、自分をリベラルだと主張する保守である。現在の法律が本来あるべき姿であるということにしておけば、法律通りではない現在がおかしいという自分の考えを正当化できるのだ。そこには、法律のほうが間違っているとか、法律のほうを現状に寄せようとかの考えはない。現状否定が前提となっているのだから、現状への歩み寄りは認められないのである。
源義家に対する態度も、その延長線上で説明できる。
後三年の役を源義家の私的な戦闘とし、陸奥国司として納めるべき税を納めなかったというのは、現状に軸足を移せばとんでもない話であるが、法律に軸足を移せば一応はその通りとなる話になる。おまけに、源義家に対する朝廷の態度には藤原師通も絡んでいる。現状をおかしいと考えて批判する人はたくさんいるが、その中に、自分の判断や行動が間違いであると認める人はいない。そのせいで損害が生じても断じて損害を認めない。
ここに、堀河天皇と藤原師通の両者に共通する、さらに言えば、古今東西全ての人に共通する心情が加わる。
一つ前の世代に対する叛逆である。
日本の右傾化とか、世界の右傾化とか、あるいはポピュリズムとか言われている現象も、その一つ前の世代の暴れまわり具合も、さらには文化大革命ですら適用して言えることがある。
自分たちは若者であるという意志と、一つ前の世代の古臭さからの脱却を求める姿勢である。ただし、ここに脱却後の明確なイメージが存在しないと、脱却が最優先になり、政治に対して求められるた一つのこと、すなわち、国民生活を目に見えて向上させることとという視点が完全に抜け落ちる。そして、一つ前の世代を否定するために、二つ前の世代を再評価するようになる。
社会をどうすればいいのかという考えについて、経済学や歴史学の視点が綺麗さっぱり抜け落ちている人に尋ねると、ほぼ間違いなく、社会主義的政策を口にする。頭の中では、豊かな人の負担を増やすことで貧しい人との格差が減るということになっているが、古今東西、様々な人が社会主義的政策として平等を目指して、金持ちに負担させて貧しい人に豊かさが行き渡るような政策を考えて実行し、そして、ひとつの例外もなく全部、その政策が始まる前よりも景気が悪くなり、国民生活が悪化し、失業が増え、初めは熱狂を持って迎え入れられながらそう短くない時間で失望を生み、最後には失敗に終わったことからも明らかな通り、平等を全面に掲げた社会主義的政策は、無意味を超えて有害な政策である。ところが、この時の堀河天皇、そして、新関白藤原師通にとっては、前の前の世代の政策であるがゆえに再評価の対象となるのだ。
摂関政治を否定した禎子内親王は八五歳でこの世を去った。
禎子内親王の思いを実現させた後三条天皇も亡くなった。
時代は白河天皇以降、それまでの藤原摂関政治に戻ったはずであった。
それが、白河天皇の実子である堀河天皇、そして、藤原摂関政治の純然たる後継者である藤原師通によって復活したのだ。
荘園停止は既に復活しており、そのせいで景気は目に見えて悪化してきた。侵略の恐怖も現実のものに感じられるようになってきていた。迷惑極まりない僧兵がむしろ頼れるような存在にまで社会が落ちぶれてしまった。国民は、この社会情勢を変えてもらいたかったのだ。新しい関白の就任によって社会の空気が一変することを願ったのだ。
それが、蓋を開けてみれば、後三条天皇の時代に後戻りである荘園整理の維持。後三条天皇の意思に逆らっているのは、藤原摂関家と皇室の結びつきとの継続という点だけである。この時代に支持率調査の記録はないが、もし存在していたとすれば、藤原師通の関白就任直後は、新しい時代への希望として、新関白藤原師通に対する支持率が高い数字を記録していたであろう。と同時に、就任して三ヶ月で支持率は過半数を割り込み、不支持率を下回るようになっていたはずである。
荘園整理が止まるどころかより強化されたことで、景気は悪化し、失業者が増え、時代が重苦しくなってきた。
この一方で、奇妙な流行が見られるようになった。あるいは時代の重苦しさから逃れるための手段としてこの流行に飛びついたのかもしれない。
田楽が流行したのである。
田楽(でんがく)とはもともと田植えの前に、音楽に合わせて踊るという年中行事であったが、これに仏教が結びつき、神道が結びつき、田楽そのものが田植えの時期と無関係のイベントとなっていった。
踊りそのものは単純で、伴奏である音楽もさほど難しいものではないため、誰でも参加できる。また、日常生活では身につけない派手な服を着たり、普段は出会わない異性との出会いのチャンスがあったりと、田楽は滅多にない非日常の光景の特別なであった。
ただ、田楽は突発発生する流行であって、計画されたイベントではない。寛治八(一〇九四)年五月二〇日、少納言源家俊が部下たちと真夜中に田楽で練り歩いたという記録がある。この時代、烏帽子を脱ぐのは裸を見られるに等しい恥ずべきことであったのだが、源家俊ら十数名からなる田楽の集団は、裸になった上に烏帽子の脱いだ姿であっただけでなく、関白藤原師通の部下の邸宅に石を雨あられと投げつけるという信じられない暴れかたをしたのである。もっとも、当時の記録には外記太夫(げきだゆう)という役職名だけを記されているこの者の邸宅も真夜中に大騒ぎをしていたという記録もあるので、どっちもどっちと言ってしまえばそれまでだが。
ちなみに、この日、徹夜で練り歩く者や、徹夜で大騒ぎをする者がいたのは庚申待だからで、この時代としてはごく普通の風習である。日を数えるのに十干十二支を用いると六〇日に一回、庚申の日がやってくる。庚申の日の夜は寝てはならないのが風習となっていて、「年に六度の庚申を知らずして二世の大願は成就せぬ」という記録も残っている。
これに対する藤原師通の反応は残っていない。
ただし、何も無かったとは思えない。
藤原師通のように自らの知力を自負していながら人間は、細かなところまでやかましく目を付ける。そして、その細かさを武器として自分にとって都合の悪い存在を攻撃する。
寛治八(一〇九四)年五月二五日の権中納言藤原伊房の解任については誰もが納得いく説明があった。太宰権帥時代に遼と密貿易をしていたのである。密貿易は立派な犯罪であるから権中納言解任となるのもおかしくはない。
だが、寛治八(一〇九四)年八月一七日の源惟清らの配流については納得いく説明を伴わなかった。白河上皇を呪詛したというのが流罪の理由であり、いかにこの時代の法に従えば有罪になることであるとは言え、証拠も無ければ証人もいない、さらに言えば呪詛されたということになっている白河上皇からもその判決は不当だと言われながら、呪詛したとされる源惟清だけでなく、親の源仲宗、弟の源顕清、甥の源為国まで一斉に追放されたのだ。誰もが平安京に残った数少ない清和源氏の面々である。その面々が、被害者本人ですら納得できない不当な言いがかりで追放させられたのだ。それも、加害者とされた者だけでなく親や弟まで。
藤原伊房の解任は、罪状はやむを得ないにせよ、タイミングとしてはどうかと思う。
清和源氏三名の追放は、罪状をやむを得ないとすら言えない。
ただし、政権の安定という点では、同意はできなくても理解はできる行動ではあったのだ。前者が議政官の中で藤原師通に反対する論陣を張っていたし、後者は白河上皇のボディーガードでもあり、また、側近でもあったのだ。特に、白河上皇は藤原師通の政権をこれから構築するにあたって無視できる存在ではなかった。早いタイミングで白河上皇の権力を何かしらの方法で制御する必要を感じていたのである。その結果が、呪詛の疑いによる側近の追放。密貿易については罪状を理解した市民も、呪詛の疑いについては罪状に対する理解も納得もできなかった。
理解したのは、新しい関白の時代を迎えたことによる新鮮さではなく、独善的な独裁者による恐怖政治が始まってしまったということであった。
独裁政治が必ずしも悪であるとは言えない。
不自由な空気が社会を包み込もうと、庶民の生活水準が目に見えて向上したならば、それは政治として成功である。もし、それができたならばの話ではあるが。
こう書くと、歴史上に現れてきた独裁者たち、たとえばヒトラーやスターリンを評価するのかという反論が来そうであるが、無論、評価などするわけない。不自由、虐殺、侵略といった言い逃れのできない悪事もそうだが、政治の評価である庶民の生活水準の向上という点でも評価などできようもないのが、こうしたクズとしか呼べない独裁者である。
だが、ごく稀に、独裁者と評されながら庶民の生活水準を上げることに成功した人がいる。古代ローマのカエサルであったり、藤原道長であったり、イギリス初代首相ウォルポールであったり、二〇世紀に視点を向けると、韓国の朴槿恵元大統領の父親である朴正煕なども成功した独裁者に加えることができる。
歴史上の人物としか知りようのないカエサルや藤原道長やウォルポールはともかく、ニュースとして実体験した人も多いであろう朴正煕について成功した独裁者と評するのは何たることかという批判も当然出るであろうし、朴正煕政権下の韓国の日常を、それも、不満に満ちたデモに溢れかえる当時の韓国のニュース映像を観た人にとっては、朴正煕という人物を許されざる犯罪者としての独裁者と見る人が多いであろう。だが、まさにそうしたデモが存在できたというそのこと自体が、成功した独裁者としての評価を下せるポイントになるのである。
先に挙げたカエサルも、藤原道長も、ウォルポールも、そして朴正煕も、生前は激しい批判を浴びたのである。浴び続けたのである。ということは、こういう視点も可能になるということでもある。批判することが許されていたのではないか、と。独裁者の統治する社会でありながら自由はあったのではないのか、と。
話を寛治八(一〇九四)年に戻すと、独裁者藤原師通は、この点で失敗することが充分に予期される独裁者に成り下がっていた。この人は確かに知識を蓄えている人ではあった。だが、自分に反対する人は許さなかったのだ。この状態で自由の空気が誕生するであろうか?
独裁政治は必ずしも悪ではない。悪になるのは、独裁者を批判する自由が失われたときである。なぜか? 自由なきところに経済成長は、絶対に、存在しないのだから。
息子の暴走を、今や一個人となっていた藤原師実はどうにかできなかったのか?
結論から言うと、無駄な抵抗ならばした。ただ、自分を優秀な人間と考える独裁者というのは、それが親であろうと意見を受け入れはしない。ましてや、藤原師実は、我が子を無理やり離婚させて藤原信長の娘と結婚させたという前歴を持っている。この一事を口に出すだけで藤原師実は黙り込むしか無くなる。
寛治八(一〇九四)年六月二二日、藤原師通は、平安京に住む全ての者に、平安京内の道路と下水溝の清掃を命じた。「街をきれいにしましょう」というのはわかるが、いきなりの上から目線でのやれという命令。その上、清掃費用は住民負担とあっては不平不満が出る。なお、現在でもこのような住民の「自発的な」ボランティアを貴重な休日を奪いながら命令するところがあるが、そして、住民が出て行くばかりで入ってくる人がいないと嘆くところがあるが、当たり前の話である。
このときの不平不満について藤原師通は全く目を向けることなかったが、藤原師実は気づいていた。市民の不満をどうにかして反らさねばならないと考えた藤原師実は、二つのイベントを用意した。
一つはスノッブ気取りの者向けの歌合である。寛治八(一〇九四)年八月一九日に開催された高陽院七番歌合がそれで、通例にない規模の歌合であるだけでなく、開催場所も高陽院となると、その特別さも特筆すべきこととなる。それに、和歌の良し悪しが重要な教養であったこの時代、和歌に関するイベントを開催したところで藤原師通にどうこう言われることはない。
もう一つは清水寺の再建で、清水寺は平安京の市民にとって最も慣れ親しんだレジャースポットでもあった。その清水寺の再建工事は市民の不満をそらすに充分であったし、清水寺は坂上田村麻呂の創建した寺院である。寺院のデモ隊が目に余る光景になっていても、この時代にはもはや伝説の存在とまでなっていた坂上田村麻呂に由来する寺院の再建は、藤原師通も認めなければなrないことである。
そのどちらも、藤原師通への配慮を前提としたイベントでありながら、不満を逸らす効果も確かに存在した。ただ、不満を逸らすのであって、不満を消すというわけでは無かった。
寛治八(一〇九四)年九月三日、一つのニュースが届いた。
藤原信長死去。享年七三。
このニュースに関する反応はあまりにも冷淡である。まだ生きていたのかという感想しかなかったのだ。
無理もない。政務ボイコットで白河天皇の政権に大打撃を与えたことは記憶に残っていたが、政務ボイコットで譲歩を得るどころか、飾りにもならない太政大臣に就任させられ、その太政大臣も辞職させられ、忘れ去られた存在へと追いやられていったのである。
政務ボイコットを覆して自らの存在をもう一度アピールすることは考えなかった。たしかに、姿をもう一度見せたところで、どのツラ下げて今更姿を見せるのかという反応しか得られないであろ。それに、政務ボイコットはもはや、藤原信長にとって人生の全てになってしまっていたのだ。摂政や関白の地位に就くことは、どうあがいても受け入れられる可能性など無いと自分でもわかっていたであろう。だが、自分がこれまで続けてきた政務ボイコットを覆すのは、人生をかけてきたことの全否定になるのである。何ともつまらないことに人生をかけてきたものだと感嘆するしかないが、プライドというものの正体はこういうところにあるのかもしれない。
死ぬまでプライドを貫き通したことは、それはそれで褒めてもいいことであるし、そういう人生もありかとも思うが、自分の娘がどうなっているのかを知ってもなお自分のプライドを貫き通したとするならば、それは親として失格ではないのかと言うしかない。
自分の養女が藤原師通の妻となったのは既に記した通りである。問題は、無理やり離婚させられた藤原師輔が新しい妻との結婚生活をまともに過ごせたのかという点。結論から記すと、これ以上は考えられない失敗に終わった。単に藤原師輔の子を産まなかったと言うだけではない。現在であれば経済的DVとして裁判沙汰になるであろう仕打ちを受けていたのである。ひょっとしたら、経済的という接頭辞のつかない、文字通りの家庭内暴力を受けていたのかもしれない。
藤原信長の娘の暮らしぶりに対する当時の記録は、ただ一言、「乞食」と記されているだけである。我が娘がこうなっていながら親として何もしなかったとすれば、それは正気を疑う話である。と同時に、無理やり離婚させられた上に無理やり結婚させられた相手であるとは言え、自分の妻に対してこのような仕打ちに出る藤原師輔という人間の本質についても、とてもではないが尊敬などできなくなる。
清水寺の再建供養が盛大に執り行われてからわずか二日後の寛治八(一〇九四)年一〇月二四日、藤原師輔に対する不満が爆発した。この日、里内裏としていた堀河院が火災に遭ったのだ。放火である。ただし、犯人逮捕はできずにいる。
これまでも何度か内裏や里内裏が焼けたことはあった。ただし、それらは金品目的の強盗による犯行であり、このときのように藤原師輔への反発といった政治的不満の爆発によるものはなかった。
藤原師輔は犯人逮捕を命じたが、その動きは鈍かった。三名の清和源氏を追放したのは既に記したとおりである。その三名は、白河上皇のボディーガードであると同時に、平安京の治安維持として計算できる武力を持った貴重な存在でもあった。京都の治安維持を担当する検非違使の少なくない者が知り合いでもあったし、自身が清和源氏でなくとも清和源氏が東北地方でどれだけ苦労したかも知っていた。
清和源氏に関わりを持っていなくても、自分たちと同様に武力を駆使する者が苦労に見合った相応の報償を得てはいないことは知っていた。それどころか敵視するところも何度も目の当たりにしてきた。
内裏が焼かれたという大事件を目の当たりにしても、関白藤原師通は逮捕を命じるだけで何もしない。それどころか、逮捕できずにいることを無能と罵るだけである。たしかに逮捕できていないのは事実であるが、命懸けで治安を守ろうとしたことの結果として待っているのが報償ではなく無実の罪をでっち上げられての追放刑というのでは誰が真面目に働くというのか?
内裏が放火されたという大事件の前に、怒り狂うことしか知らない関白藤原師通よりも堀河天皇のほうがまだ冷静であった。新しい里内裏として大炊殿を選び、同時に内裏の再建についての協議を開始させた。
もう一つ、堀河天皇が協議を開始させたのが改元である。
正確に言えば、何かを変えなければならないと考えた末に出た結論が改元であった。
反感から内裏放火という事態を招いたことは堀河天皇としてもどうにかしなければならないとは考えていたが、かといって、どうにかしなければならない人物である藤原師通をどうにかするという選択肢は無かった。そもそも関白に相応しい人物が藤原師通しかいないのだ。藤原師通の子の藤原忠実はまだ一七歳。堀河天皇の政務を支えるという関白に求められる仕事をこなせる経験はとてもではないが積んでいない。
藤原師通をクビにして藤原師実をもう一度関白にするという手もなくはないが、一度関白を辞した者がもう一度関白に返り咲いたなんて例は無い。それに、藤原師実が関白を辞めたのは藤原師実に対する国民の支持があまりにも乏しくなっていたからである。いかに独裁者として失望されるようになっていたとしても、不人気で辞した者と交替するというのはできない話なのだ。
それどころか、この時期、議政官の構成に問題が生じていたのだ。左大臣源俊房は健在であったが、右大臣源顕房が病に倒れていたのである。このままで行くと内大臣藤原師通が右大臣に昇格する未来になる。関白ではあっても議政官の中では内大臣に留まり貴族としての地位のナンバー1ではないということでバランスをとっていたのであるが、右大臣源顕房がいなくなると内大臣であっても関白兼任ということで、その地位はかなり高いものとなる。
寛治八(一〇九四)年九月五日、右大臣源顕房死去。死後、正一位が贈られた。
右大臣源顕房の死去により、右大臣が空席となった。
多くの人は、関白内大臣藤原師通が右大臣に昇格するものと考えていた。
ところが、藤原師通は右大臣について全く興味を示さなかったのだ。出世欲が無いのではなく、関白である自分が今になって右大臣になるというのが納得できなかったのだ。内大臣を兼任しているのは事実であるゆえに手放さない。だが、右大臣という貴族の第二位の地位を求めるのは関白に相応しいと思わなかったのである。左大臣源俊房の上に立ちたいという思いを隠そうとはせず、内大臣としての自分よりも、関白である自分を優先させていた。何しろこの人は議政官すら軽視するようになったのだ。
議政官の中では、いかに関白であると言っても藤原師通は一票を投じるしかできない。議政官で活きるのは言葉の力であり、議政官の結論を自分の思いのままにしたければ藤原道長のように弁論の力で議政官を支配しなければならない。だが、藤原師通にそのような言葉の力は無い。知識量と弁論力とは全く違う。その上、内大臣は議政官の議事進行権も無ければ開催権も無い。さらに言えば出席の義務も無い。関白としての職務多忙につき議政官としての職務を遂行できないとうことで議政官を欠席してもやむを得ないとされていた。
これが何かを変えなければならないという局面にあった時期の議政官である。これで失望しない人がいるであろうか。
それでも、失望を乗り越えて何かを変えなければならないという思いを共有する者が集まり、協議を重ねた末に至ったのが改元という結論である。ただし、三ヶ月以上を要した。
寛治八(一〇九四)年一二月一五日、嘉保へ改元。
改元という大イベントに際し、イメージで行くと首を突っ込んできてもおかしくない関白藤原師通は何のアクションも起こしていない。自分に対する批判の声が聞こえていることに対するショックに見舞われているのも正解の一つであるが、関白というのは上奏された元号案から適切な元号を選ぶ側であり、元号案を作る側ではないという意識があったからである。
ただし、一つだけ首を突っ込んでいる。
改元の理由を、内裏の放火ではなく、天然痘流行の沈静化を願ってのものとしたのである。あくまでも自分の不支持と不人気を認めなかったのだ。
年が変わって嘉保二(一〇九五)年。
前年の内裏放火に対するショックによるのか、それとも改元の効果があったのか、藤原師通の独断専行はなりを潜めていた。
とはいうものの、根のところは全く変わっていない。
正四位上播磨守兼修理大夫である藤原顕季は六条殿を住まいとしていた。
北に行けば行くほど高級住宅地であるというこの時代の平安京の土地事情を踏まえれば六条にある邸宅というのは藤原顕季の位階と役職に相当する邸宅として不可解な位置では無い。
ただし、その建物がかつて里内裏であったとなると話は変わる。
それも白河天皇が里内裏としていた邸宅となると話は大きく変わる。
ただでさえ白河上皇のボディーガードを務めていた清和源氏三人を追放した藤原師通である。分不相応な邸宅に住んでいるというのは藤原師通にとって充分な理由であった。
突然関白に呼び出された藤原顕季は、住まいが位階に相応しくないから取り壊すように命じられたのだ。
この人はいったい何を言っているのかと当初は相手にしなかった藤原顕季であるが、どうやら関白は本気で建物を壊せと言っていると理解した。もっとも、理解することと同意することとは別の話である。そもそも、修理大夫として、いつでも里内裏として利用できるような建物を維持するために六条殿に住んでいるのであって、それを位階に合っていないから壊せなどというのは正気の沙汰ではない。
藤原師通のこの命令を聞いた白河上皇は、さすがにこれは看過できることでは無いと判断。六条殿は朝廷の所有物であって私邸ではないとした上で、仮に藤原師通が建物の取り壊しを命じるのであれば朝廷から白河上皇が物件を買うとしたのだ。位階に相応しくないという理由での取り壊しはこれで白紙撤回されたが、白河上皇は平安京から少し距離を置いたことを後悔するようになった。
堀河天皇と関白藤原師通の政務が視界に入るよう、嘉保二(一〇九五)年六月二六日、まずは白河上皇が閑院に遷り、後に里内裏とさせた。理論上は里内裏の変更であるが、事実上は堀河天皇を住まいに呼び寄せたこととなる。
白河天皇は敵を作って敵を攻撃することで支持を手にしてきた。
一方、藤原師通は白河上皇を明確に敵と認識するようになっていた。
敵を作り出すという点では両者とも同じであるが、敵の存在は両者で大きく異なる。
白河天皇にとっての敵は人為的に作り出した存在であるのに対し、藤原師通にとっての敵は自然発生する存在なのだ。そして、白河天皇は敵に勝利し続けていたが、藤原師通は敵に対する勝利とさほど縁のある存在ではなかった。
敵が存在することのメリットは、敵を作り上げることで自らの成果を強調することにある。敵に対して勝利をおさめる、あるいは、最低でも敵に対して優位に立っていると強調することにある。この意味で、白河天皇の敵を作るという政策は有効であったが、藤原師通の敵が発生するという結果はダメージとしかならなかった。
たとえば、嘉保二(一〇九五)年の時点で、関白藤原師通によって追放された者、五名。うち二名は証拠のある明白な犯罪があったがゆえの追放であり、誰が統治者であっても同様の処分を下していたはずであるから除外するとして、残る三名、つまり白河上皇を呪詛したとして追放された三名の清和源氏だけが、真面目に藤原師通の命令を聞いたと言えるというのが、藤原師輔のダメージを示す証拠になっている。
どういうことか?
藤原師通の命令が平然と無視されるようになったのだ。
独断専行で、無茶な命令を次々と出す。だが、その命令に従う義務は無いと気づいたのだ。源惟清ら三名の清和源氏のその後の消息は不明であるが、彼らの子孫はしっかりと後の史料に姿を見せている。罪が許されて戻ったというより、命令など守らなくて良いと気づいたから戻ったと言うべきであろう。
勝手に踊っている独裁者を周囲はただ眺めるだけという光景が展開されるようになり、皮肉にも、それでかえって政務がスムーズに進むようになったのである。
この時点における藤原師輔の役職は関白兼内大臣。関白は天皇の相談役であるがその意思で政策に対する最終決定とすることはできない。また、内大臣は議政官におけるナンバー3であるものの、左大臣や右大臣と違って、議長として議政官の運営をすることも、議決をまとめて奏上することもできず、さらに言えば欠席したとしても議政官における議決は有効となる。左大臣がいなければ右大臣が議政官のトップを務めるのが慣わしであるが、右大臣もいないとき、その代理を務めるのは内大臣ではなく、大納言筆頭の者である。つまり、藤原師通がいなくても政務は滞りなく遂行できると気づかれてしまったのだ。
敵を次々に作る藤原師通は、嘉保二(一〇九五)年一〇月二四日、ついに最大の敵と激突した。そして、このときは珍しく、藤原師通の側に世論が味方をした。
藤原師通の敵として登場したのは比叡山延暦寺。延暦寺の僧兵たちが美濃国司源義綱を訴え出たのだ。
源義綱は美濃国司として何をしたのか?
延暦寺の僧侶を逮捕したのだ。
記録には悪事をなした僧侶を犯罪者と失態補したとだけ記されている。延暦寺はこの逮捕に対し、日吉大社の神輿を担ぎ出して、逮捕された僧侶の釈放と、逮捕した者の処罰、そして、逮捕を命じた美濃国司源義綱の国司罷免を求めて京都までやってきたのだ。
藤原師通は延暦寺の訴えを無視しただけではなく、源義綱を呼び出して比叡山からやってきたデモ隊の排除を命じた。
これまでであれば神輿を抱えた集団に襲いかかるなど神をも恐れぬ所行と恐れおののくところであったが、源義綱は違った。平然と神輿に向かって弓矢を放ったのである。弓矢を放ったのは源義綱だけではなく、手下の武士たちも主君に従って弓矢を向けた。
この結果、比叡山延暦寺の僧兵たちに死者が出た。また、命を落とさなかったものの重傷を負ったまま比叡山に帰っていくしかなかった者が出た。
仲間の釈放を求めて京都まで出向いた結果、要求を受け入れられなかったどころか、殺された仲間も出たし、殺されなかったにしても生涯に関わる重傷を負った仲間も出た。延暦寺は京都のこの行為を蛮行として激しく非難し、朝廷、関白藤原師通、そして源義綱に対する呪詛がはじまった。隠れての呪詛ではない。大々的に呪いを掛けると宣言した上での呪詛である。呪いを意に介さないと笑い飛ばす人であろうと、僧侶が一斉に呪詛を唱え続けるのである。それも、延々と。これを不気味に感じないとすればそのほうがおかしい。
人気が最低まで落ちてしまっていた藤原師通にとって、この毅然とした決断は、多少ではあるが支持率を上げる効果があった。
他に頼りになる存在はいないからと僧兵のことを受け入れたとしても、本音は僧兵を憎んでいたし、迷惑としか感じていなかった。というタイミングで起こった僧兵中の僧兵たる比叡山延暦寺の行動は、積極的支持とまでは行かなくても仕方ないという感じで捉えられていたのである。ところが、予想だにしなかった僧兵に対する断固たる措置は、それまでの藤原師通に対する悪評を多少は消したのである。
関白になるまで自分がここまで批判されるとは夢にも思っていなかった藤原師通にとって、ここで起こった自分への支持の声は、喜想定していなかった批判の嵐のさなかに訪れた追い風は、本来ならば利用すべき性質のものであった。恐怖政治になってしまっているが、恐怖で治安を守るというのも手と言えば手なのである。ここで比叡山のみならず全ての僧兵に対し断固たる措置をとるとでも訴えれば、恐怖を利用した治安維持は可能となるのだ。
ところが、藤原師通はそのような方法を選ばなかった。
それどころか、この流れをいかにしてしゃぶり尽くすかと言うことしか考えなかったのである。
嘉保三(一〇九六)年一月五日、藤原師通が従一位に昇格した。
それまで関白ではあったが内大臣でもあったがために左大臣よりも下と扱われていたが、位階が従一位になったということで貴族としてのトップに立つことになったのである。
そして、自分が貴族のトップであることをことあるごとに宣伝した。それまでは左大臣源俊房が最初に来てその次に内大臣藤原師通が来ていたのが、この日からは関白藤原師通が最初に来て二番目に左大臣源俊房となったのである。
これで気を良くした藤原師通であったが、肝心な点は忘れていた。あるいは堀河天皇のほうが役者が上だった。貴族のランクとしてはトップであっても、その役職は関白であり内大臣であるという、全く無視できる存在ではないが、内大臣という議政官の開催権もなければ議事進行権も無い職務であり、関白という皇室の深くまで接することが許されていてもあくまでも天皇の相談役であって最終決定権は無いという、これまで通り無視しても政務が遂行される職務であり続けたのである。
基本は変わらず、ただ、独裁者気取りがいるだけというこれまで通りが。
失望しかない。
時代が悪化していると実感し、時代が変わることを願い、時代の変化が関白の交替として実現したら、それも、優秀と評判の若者が関白になるという希望あふれる時代が実現したと思ったら、そこにいたのは自分を優秀と思い込む独裁者気取りだけというのだから。
この現実の前に、庶民は寛治八(一〇九四)年に引き続いて田楽に救いを求めた。
きっかけは嘉保三(一〇九六)年三月の松尾大社の祭典である松尾祭が延期になったことに起因する。それだけで当時の人は田楽に身を委ねるようになったのだ。
そもそもきっかけは松尾大社ではない。嘉保三(一〇九六)年三月七日、摂津国の住吉大社の神主である津守国基(つもりくにもと)が比叡山延暦寺から慶朝という有名な僧侶を導師として招いて開催した完成供養にあった。有名な僧侶を招いての完成記念式典となると壮大なものとなるし、一般庶民の参加も当たり前のようにある。問題は、このときの記念式典が数千人もの人が詰めかける大規模なものとなってしまった。そして、この数千人の群衆が熱狂に感化して、はしゃぎの限度を超え、暴れ始めてしまった。
津守国基の臣下である宮道式賢(みやじのしきかた)はこのとき検非違使左衛門尉という地位にあり、主君の開催するイベントにも検非違使として、検非違使を指揮する立場として参加していた。現在の感覚で行くと、自身は全くの無関係者であるとは言わないが、職業が警察のキャリア官僚でありイベントの警護のスペシャリストでもある者が、万が一の事態に備えて警備のために機動隊を派遣し、自身がその指揮をしていたようなものである。問題は、その万が一の事態が起こってしまったことである。
想像していただきたい。はしゃぎ回り、暴れ回っているところに、機動隊が大挙して詰めかける光景を。機動隊と検非違使という違いはあるが、起こった現象は同じであった。
パニック。
秩序が失われ、検非違使に追い立てられた者の中には池に落ちる事態になった。その結果、最低でも一〇名以上の者が溺死するという事態になった。
死者が出るような大惨事というだけでも大問題だが、この時代の感覚では、死に接することもまた問題であった。特にこの完成記念式典に参加した僧侶や楽人、さらに検非違使たちがそのまま京都に戻って日常生活を過ごし、内裏や、前関白藤原師の邸宅に出入りしたことが問題となったのである。死とはケガレであり、死に接することがケガレであり、ケガレの人に接することがケガレである。つまり、この時代の権力中枢がケガレになってしまったのだ。
朝廷は慌てて、石清水、平野、松尾、当麻、森本、当宗、梅宮、中山、広瀬、竜田といった祭の中止や延期を命じた。ケガレに対処するために祭を中止させたり延期させたりすることは儀礼に基づいたものであり、対応として間違ったものでは無い。
ところが、その中の松尾祭の延期が物議を醸すこととなった。
前提として、平安時代は酒が貴重であり、現在のように居酒屋に行けば酒を飲め、スーパーマーケットやコンビニエンスストアに行けば酒を買えるわけではなく、この時代は酒を手にれることも困難ならば、酒を飲むことはもっと困難であったということを頭に入れておかなければならない。酒があまりにも貴重なので、飲むのではなく、塩や酢と並ぶ調味料としてほんの少し注がれるのが貴族の食卓であったほどである。それでも、さすがに貴族となると酒を飲む機会はそれなりにあったし、現在の居酒屋における光景に似た宴会も頻繁にあったが、庶民となるとそれはない。このような時代にあって、松尾祭は貴重な酒の機会であった。松尾大社は本来、大山咋神と中津島姫命の二柱を祀る神社であるが、同時に酒の神を祀る神社とも見なされていたのである。ちなみに、現在でも松尾大社は各地の酒造関係者の信仰を集めており、実際に足を運ぶと各地の酒蔵や酒造会社の名が記された酒樽が神輿庫に並んでいるのが見て取れる。
松尾祭はこの松尾大社が毎年開催する松尾大社最大の祭である。松尾祭の祭礼の中に酒そのものはないが、松尾祭と酒とは切り離せない関係があり、松尾祭はこの時代の数少ない飲酒機会として楽しみとされてきたのである。年に一度の楽しみを指折り数えて待ち続けていたところで直前になって延期となったことは怒りを隠せることでは無かったのだ。
その怒りを田楽に向けるというのはどういうことかというと、実は、直接田楽に至ったわけではない。松尾祭が延期になったことを神が怒っているという歌が流行し、その歌に合わせて踊ることが流行したのだ。歌詞は神の名による怒りであるが、その怒りの正体は楽しみを奪われたことに対する庶民の怒り、そして、時代が悪化していくことに対する庶民の怒りであったのだ。
藤原道長と違って、藤原師通は自分への批判を許す人ではなかった。歌が流行したのも、田楽が流行したのも、表立った批判ができない中で考え出されたギリギリの抵抗であったのだ。
この田楽を白河上皇が利用した。
政権批判を含む内容の歌詞であっても朝廷としては黙って受け入れるしかない。また、田楽そのものの歴史は稲作の歴史と密接につながっている、ということになっている。記録に残る最初の田楽は一条天皇の時代である正暦三(九九三)年までしか遡れないが、それでもこの時代から見れば一〇〇年の歴史がある。稲作の歴史とつながり、かつ、確認できるだけでも一〇〇年の歴史がある伝統行事とあっては取り締まるなどできない。
この事情を白河上皇は利用した。田楽を積極的に推奨しただけでなく、白河上皇の今は亡き最愛の女性である藤原賢子との娘である第一皇女の媞子内親王を伴って観覧したのである。藤原賢子亡きあと、事実上のファーストレディーとなっていた女性の参加は田楽に対する箔をつける効果もあり、一時期取りつぶしの危機のあった六条殿までが田楽の開催場所となるほどであった。
この田楽の流行がピークを迎えたのは嘉保三(一〇九六)年六月のことである。もともとは祇園祭であったのだが、祇園祭をきっかけにした田楽が京都市中で大流行を見せ、田楽に身を寄せない人を探すほうが難しくなるほどであった。大江匡房はこのときの熱狂を「一城之人皆若狂」と記録している。
田楽は簡単な音楽を伴った簡単な踊りであり、誰でも演奏できるし誰も踊りに参加できるところが魅力であった。ただ、簡単というだけではここまでの熱狂を生まない。熱狂を生んだのは時代背景も伴っていたのである。思い出していただきたいのは天慶八(九四五)年七月の志多羅神の大流行である。こちらも神輿の周囲に集って手拍子(当時の言葉では「志多羅(しだら)」)をして踊りまわるという、言ってしまえばただそれだけの流行である。この、ただそれだけの流行が、およそ一五〇年という歳月を経て復活したようなものなのだ。
嘉保三(一〇九六)年から一五〇年前のこの国は、平将門や藤原純友の乱がどうにか終わり、ようやく平和を取り戻したという時代であった。嘉保三(一〇九六)年に平将門も藤原純友もいないが、多くの国民が「誰かどうにかしてくれ」と叫ぶ姿のあったことでは共通していた。ただし、天慶八(九四五)年と違って、このうねりを利用しようとする存在があったという点が大きく違っていた。自然消滅した志多羅神の大流行と違い、田楽の大流行は留まることを知らないかのようであったのだ。
あまりの流行に、朝廷も手出しできなかった。それどころか、嘉保三(一〇九六)年七月一二日には、堀河天皇が里内裏となっている閑院殿で侍臣に田楽を行わせて観覧するに至ったのである。堀河天皇の横には白河上皇と媞子内親王もおり、田楽は皇室の認める芸能となったのだと思わせることにもつながった。
おまけに、田楽というのは、どのような格好をしようと、さらに言えば、どのような格好をしなくても、それこそ裸になったとしても許される。この時代、どのような服装をするかは身分と密接につながっていた。服の色を見ただけでその人の位階がわかったし、自分より上位の身分の服装をしたら取締を受けるだけでなく、下位の身分の服装をすることも許されなかった。奇抜な格好も許されなかったし、裸でうろつくなどもってのほかであった。まあ、裸でうろつくのが許されないのは現在も一緒であるが。
それが、田楽だと全て許された。どんなに派手な格好をしても許されたし、上位の身分の格好をしようと、下位の身分の格好をしようと、田楽ならば許されていた。謹厳実直な人が田楽の場で羽目を外すなんて光景も微笑ましいものとして見られていたのである。
ところが、この田楽の流行はたった一日で終わる。
嘉保三(一〇九六)年八月七日、媞子内親王、病死。七月二二日に突然の発熱があり、最初は単なる風邪かと思っていたが治ることはなく、症状が日に日に悪化して、ついには二一歳という若さでの突然の死を迎えることとなってしまったのだ。この誰もが予想すらしなかった出来事に誰もが驚きを隠せなかった。最愛の藤原賢子を失った直後の頃を思わせる憔悴が白河上皇にも襲いかかり、八月九日には白河上皇が出家するに至った。よって、これ以後は白河法皇という呼び名となる。
白河法皇の誕生、すなわち、白河上皇の出家は、一日にして田楽の流行を止めさせる大事件となった。このときの田楽の大流行を永長の大田楽という。永長というのはこの年の一二月に改元した後の元号であり、田楽の流行そのものは改元前の嘉保三(一〇九六)年の出来事である。このような呼び名となったのは、嘉保という元号を忘れてしまいたいと思わせるほどの思いがあったからだと解釈できよう。
嘉保へ改元してから三年目。ただし、嘉保への改元は寛治八(一〇九四)年一二月一五日であるため、この時点ではまだ改元から一年八ヶ月。この短さでありながら、嘉保という元号、そして、嘉保という年代は、この時代の人たちから忘れてしまいたいと思わせる年代になってしまったのである。
この田楽の熱狂と急速な冷却の間、関白藤原師通は何をしていたのか?
白河上皇が田楽を利用していることも、堀河天皇が田楽を観覧したことも知っている。ただし、藤原師通が田楽に興味を示していたという記録はない。それどころか、どうやらこの人は田楽の流行そのものに何の興味も示さなかったようなのである。唯一の反応となると、嘉保三(一〇九六)年六月一九日の日記に、「うるさいから比叡山に行って読経させていた」と記して終わり。研究者の中には、この藤原師通の態度を、既存の社会構造が田楽によって破壊されることを受け入れられなかったのではないかと考える人もいるが、実際にはそこまで深いものではなかったのではないであろうか。
自分を知識人と考える人は得てして、最新の流行に対する関心を示さず、くだらないという判断で一刀両断することがある。それはあたかも最新の流行に加わらず、超然としている自分を誇るかのようであるが、よくよく調べてみると、時代に取り残された者が何とか無理して体裁を取り繕っているだけであるということも珍しくはない。
田楽の大流行に身を寄せていた白河上皇に対し、藤原師通はこの時代の人であれば守るべき当然の礼儀すら守らなかった。この時代の礼儀では、自分より地位の高い人の邸宅の前を通るときは牛車から降りて歩いていくことになっていた。しかし、藤原師通は牛車に乗ったまま白河上皇の邸宅の前を通過した。牛車を止めなくていいのかという問いに対しても、「おりゐの帝の門に車立つ様やはある」と、現代語訳すると「退位した天皇に臣下としての礼をとる必要はない」と答えて平然としていたという。
嵐のような田楽の流行と急速な冷却、そして、媞子内親王の逝去と白河上皇の出家。これだけでも嘉保三(一〇九六)年という一年は無茶苦茶な一年だという実感を得るであろうが、この年終わりの三分の一は、それまでの三分の二の出来事などまだまだ大したことないと思わせる出来事が頻発した。
まず、奈良から興福寺が焼け落ちたという知らせが届いた。興福寺は何度となく火災に巻き込まれてきた寺院であるがこの流れの中での火災は不吉を増す材料になる。
さらに、中国大陸から宋の使者が来た。遼が女真族の前に勢力を小さくしていることは既に周知の事実になっていたし、遼と日本は正式な同盟国では無かったが、宋にとっては、遼、日本、ベトナムが包囲する構造になっていて、宋はこの包囲を崩すことを目的として日本との関係を築こうと何度も模索してきた。
どちらもこれまで何度もあったことであるが、時代の変化は何度もあったことが特別なことになる。遼というクッションが無くなってかつての新羅を彷彿させる高麗の海賊が復活し、南都北嶺の争いが拡大して寺を焼き尽くすことが珍しくなくなっている。これまでであれば大変なことではあっても平和の維持は可能であるはずのことであったのが、今や平和の維持を脅かす出来事になったのである。
ここで興福寺の火災を放置していては南都内部での争いや南都北嶺の争いがさらに拡大して京都にまで飛び火する。
ここで宋からの使者を放置してしまっては対外戦争の危機も現実味を帯びる。
かといって、南都北嶺の争いを多少なりとも鎮静化できる存在であった清和源氏はその大部分が鎌倉に留まったままで京都を守らせるには遠すぎる。
宋とのクッションを果たしていた遼はその勢力を衰えさせ、新興勢力である女真族に脅かされるまでになっている。遼との不明瞭な関係を維持すると宋と女真族の両方を敵に回すことになる。
これまでと同じ選択を選べないし、選んだところでこれまでと同じ成果を得られない時代になってしまったのだという現実を突きつけられたのである。
この上、嘉保三(一〇九六)年一一月二四日には大規模な地震が発生した。
この地震もまた、嘉保という元号を忘れてしまいたいとの思いからか、永長地震と呼ばれることとなった出来事である。
当時、右中弁兼修理左宮城使として、内裏再建工事の責任者を務めていた藤原宗忠はこのときの地震について日記にこのように記している。地面が揺れ続けること、およそ一刻(だいたい二時間前後)。主な被害として、東大寺の巨鐘が落下、薬師寺の回廊が倒壊、東寺の五重塔の先端を飾る九輪が落下、法成寺の二つの塔がともに破損、法勝寺の仏像が破損を挙げている。また、揺れから避難するために、堀河天皇が建物を出て庭の池に浮かべた船の上で揺れが収まるのをやりすごしたという。
その後、各地から被害の状況が届いてきた。木曽川の下流域では津波と液状化現象により人が住める状況ではなくなった。駿河国では津波でおよそ四〇〇以上の建物と数えきれぬ人命が失われた。伊勢国の阿乃津(現在の三重県津市)もまた津波に襲われて多くの人命が失われた。津波の被害は本州だけでなく四国でも見られ、阿波国と土佐国で津波により多くの被災者が出た。被害状況が届いてはいないが、現在の発掘調査により、このときの地震で浜名湖周辺でも大きな被害が出たことが判明している。
被害は海岸沿いだけでなく内陸でも及んでいた。特に近江国で勢多橋が崩れ落ちたことは、京都と東海道、そして、京都と東山道を結ぶ道が寸断されたことを意味した。
現在の研究者は、このときの地震を、最大震度七、マグニチュードは少なく見積もっても八・〇、大きく見積もる者だと八・四はあったと推測している。ただし、南海トラフ地震であるか否かという点では賛否両論があり、現在でも決着がついていない。
このときの地震について、関白藤原師通も記録に残した。藤原宗忠はおよそ二時間にわたって揺れ続けたと記録に残したが、藤原師通は二時間にわたって揺れ続けたのではなくこの短時間に六回の揺れがあったと記している。そのあと頻繁に余震があったことについて記しているが、その記載は藤原宗忠の日記に比べるとあっさりとしたものである。
この一年を、そして嘉保という元号を忘れてしまいたいと思う人の多かったところにとどめを刺すようなこの大地震は、改元という逃げを選ばせた。嘉保三(一〇九六)年一二月一七日、永長へ改元。これで間違いなく嘉保という元号は終わった。しかし、忘れてしまいたい悪夢は終わりを迎えなかった。
年が変わって永長二(一〇九七)年。もっとも年が変わったところで前年から続いている混迷は続いている。
ただし、一点だけ前年と違いがある。白河法皇が表から消えたのだ。
白河法皇の影響下に置くために閑院を里内裏としていたのであるが、藤原師通の二条第が里内裏に変わったのである。一方、白河法皇は亡き愛娘を弔うために、醍醐寺に無量光院を建立し落慶供養をとりおこなった。白河法皇が平安京から離れたことで、必然的に堀河天皇は白河法皇から離れることとなり、関白藤原師通の影響を受けることとなったのである。
あくまでも議政官は左大臣源俊明が議長であり、議事開催権も左大臣源俊明が握っている。理論上、内大臣でもある藤原師通は議政官に参加できるのであるが、関白であることにこだわるために議政官に参加せずにいる。その代わり、議政官から上がってくる決議について関白として藤原師通が口を出す。
このような政務体制ができあがるとどんな決議が上奏されるようになるか、容易に想像つく。
細かな礼儀を守ることは、礼儀作法を守っているという面よりも、口やかましいクレーマーに付け入る隙を与えたくないという面の方が強い。クレーマーの相手は百害あって一利なしである。相手にすればするほど時間は奪われ、本来の仕事は滞り、あとには疲労とストレスしか残らない。クレーマーを相手にする可能性があるときは、どんな些細なことでも難癖をつけるクレーマーですら付け入る隙を与えないほどの完璧さを用意しなければならない。
藤原師通というヘビークレーマーを相手にしなければならないのであるから、とにかく些細なことまで気を付けて誤字脱字だけはやたら綿密に気を付けた、内容としてはどうでもいい決議だけだ。藤原師通のような人間は口出しをする機会をいつでも狙っている。ただし、相手にすると時間と精神力が奪われ、あとには何も残らなくなる。
この時期、特筆すべき何か新しいこととなると、永長二(一〇九七)年一一月二一日の、承徳へ改元ぐらいしかない。わずか一年で、いや、そもそも一二ヶ月を経過していないのだから、永長という元号は一年も持たなかったということになる。にも関わらず、永長の大田楽と永長地震という二つの歴史的出来事として名を残したのは特筆すべきことなのか……
この頃、源義家は何をしていたのか。
どうやら、未納だった税を分割払いで納めていたようで、承徳二(一〇九八)年一月二三日の記録として、源義家の国司としての任務は果たしたので人事考課の対象に復帰させるべきとの意見が出たのである。
後三年の役を私的な戦闘であるとし、報償どころか戦費負担すら認めようとはせず、それどころか陸奥国司として納入すべきであった税を納めていない以上、次は無いとするのは朝廷の揺るがぬ決断であった。特に、関白藤原師通はこの姿勢を断じて崩そうとしなかった。本来なら税の未納として有罪になるところを問わないでいるのだからそれだけでも特別扱いなのだという理屈である。
原理原則を振りかざしてクレームを付ける人である場合、その原理原則を守っている限りグウの音も出なくなる。本音を言えば文句を言いたいのだが、文句を言うわけにはいかなくなる。世の中には、その時々で怒りの理由を変える人がいるが藤原師通はそこまで落ちぶれてはいない。
三六歳という藤原師通の年齢を考えても、藤原師通の次の時代に期待を掛けるなど無謀である。かといって、源義家には自分に付き従う清和源氏の武士達を養う義務がある。とすれば、藤原師通に従うしか、自分たちの生き残る道はない。
藤原師通に従うとなると課せられた税を払うと言うことになるのだが、今さら陸奥国に行って後三年の役の頃の税を払ってくれと言うわけにはいかない。つまり、自分で国司として納めるべきとされていた税を集めて治めるしかないのであるが、これはかなりの負担だ。
税は金持ちに多く負担させるべきという考え方があるが、そこまでの金持ちはそうはいない。いたとすればとっくに税を課せられているか、あるいは税を課す側の職に就いている。源義家は貧困にあえぐ一般庶民というわけではないが、任地の税を全て肩代わりできるような金持ちというわけではない。分割して延々と払い続ければどうにか払えきれないことはないが、払い終わるのはいつになるのかというレベルの資産状況であったのだ。
藤原師通が源義家のこの支払い状況をどのように捉えていたのかは記録に残っていないが、支払いを見守っていた人がいる。白河法皇だ。
税を完納したこともあり人事考課の対象となった。ここまでは規則通りである。
問題はそのあと。
白河法皇の強い推薦として、承徳二(一〇九八)年四月、いきなり正四位下の位階を獲得したのである。
白河法皇の強い推薦に対する反発はあったが、納税以外の人事基準をとっくに満たしているだけでなく、この時点の朝廷は源義家を必要とする事情が存在したのだ。正確に言えば清和源氏の体力が必要な事情が存在したのだ。
遡ること二ヶ月前、承徳二(一〇九八)年二月二二日に京都を大規模な火災が襲った。
燃えさかる炎を前に誰もがも呆然と眺めるしかできなかった。
焼け落ちる家を前に誰も何もできなかった。家に取り残された家族を助け出そうとしても助け出せなかった。助け出そうとした者は火災に巻き込まれて焼死体へとなってしまった。
だれもが、このようなときに動ける存在を求めていた。本来ならば検非違使がそれに当たったのだが、検非違使が弱くなってしまっていた。人手も少なく、その能力も乏しく、火災という絶体絶命のピンチなのに何もできずにいた。
というタイミングで思い出されたのが源義家の存在であった。後三年の役での活躍のあと、冷遇され、それでも耐え続け、ようやく復帰した源義家は、苦労を耐え抜いた英雄と見なされるようになっていた。
そして、承徳二(一〇九八)年六月二日、源義家が平安京の市民の期待に応える機会が訪れた。鴨川の氾濫である。
襲いかかる鴨川の水は、二月の火災の頃のように為すすべなく呆然とするしか無いと誰もが思っていたところに現れたのが、源義家率いる清和源氏の軍勢である。彼らは濁流に飲み込まれた者を助け出し、家の中に取り残された家族を救い出していった。
火災に対して何もできなかった朝廷と、水害に対して命懸けで守ってくれた武士たち。これでどちらが支持を集めるか、あえて記すまでもない。
承徳二(一〇九八)年一〇月二三日、白河法皇が源義家に対し昇殿を許すと宣言した。
通常、昇殿というのは内裏の清涼殿にある殿上の間に入ることが許されるという特権であり、三位以上の位階を持つか、四位以下であるが参議として議政官の一員であるかのどちらかが条件であった。ただし、この資格を与えることができるのは天皇のみであり、法皇というかつては天皇であった身であるとは言え、また、堀河天皇の実父であるとは言え、現在は天皇でない者が勝手にできるものではなかった。
ただし、全く同じ名称である「昇殿」を法皇自身の邸宅に適用することは可能で、通常は、本来の意味での昇殿の資格を持つ者に数名が加わる。
今回の白河法皇の宣言は、白河法皇の邸宅に適用される昇殿での、加わる数名のうちの一人として源義家が選ばれたということになる。武士がこの昇殿の権利を獲得したのは史上初のことである。
これに激怒したのが、現時点で昇殿の資格を得ていた上流貴族たちである。清和源氏という皇室に繋がる家系であるのはわかるが、彼らの考えでの源義家はあくまでも武士であり貴族ではなかった。後三年の役を私的な戦闘と判断され、これまで評価されないままであったことを同情する者はいた。しかし、その源義家が自分たちと同格に上がってくることは許せなかったのだ。
人間、本質的に平等は嫌いである。自分より恵まれている人がいることを快く受け入れる人などいないと言ってもいい。自分より劣っていると見なしている人が自分と同じ境遇になること、そして、自分を追い抜くことを受け入れる人はもっといない。
だが、議政官の面々がどんなに憤ろうと、白河法皇が個人的に決めたことであり、源義家が白河法皇個人にとっての昇殿が許されたことを多くの国民が好意的に捉えていることは否定できることではない。自らの狭量を示せば国民の怒りを買うことをわかっているから黙っているが、本心は怒りに満ちあふれていた。
この怒りをもっとも激しく煮えたぎらせていたのが関白藤原師通である。とは言え、理は白河法皇の側にある。
一方、白河法皇は世論の支持を集めていることを絶好のチャンスと見た。関白藤原師通は堀河天皇の指名した関白である。そして、藤原師通以外に関白に相応しい人物はいないのも事実である。
だが、藤原師通は堀河天皇個人の指名した関白であって、堀河天皇が退位をしたら別の人物を摂政や関白に選んでもいいし、そもそも選ばなくてもいい。
つまり、堀河天皇の次を用意すれば、ただちに実現するというわけではないにせよ、圧力としてどうにかなるのである。極論すれば白河法皇自身が摂政になることだって可能だ。もともと藤原氏が摂政になったということ自体が異例であり、それまでは皇族が摂政に就くとなっていた。
白河法皇が目を付けたのは、この時点で二五歳を迎えていた第二皇子の覚行である。仁和寺に入り、出家してからこの時点で一四年目に突入している。この僧侶を白河法皇は親王とした。皇族であっても親王宣下を受けなければ王に留まり皇位に就く資格を有さないが、親王宣下を受ければ親王となって皇位に就く資格を有するようになる。
覚行は出家して僧侶となっていたため、親王宣下を受けた後は法親王(ほっしんのう)という称号を得ることとなる。既に親王宣下を受けている者が出家した場合は入道親王ということで別の称号となる。
法親王であること自体は僧侶の身から一般社会の身に戻ることを意味しない。しかし、いつでも僧侶を辞めることができ、僧侶を辞めた瞬間に帝位に就く可能性があることを意味するようになる。これは圧力として充分に働いた。
白河法皇の圧力に対し、藤原師通はこれといった対策をとっていない。たとえば、自分の娘を堀河天皇のもとに嫁がせ、これまでのように藤原摂関家と皇室とのつながりを維持させようという対策はとっていない。藤原師通に娘がいなかったわけではなく、少なくとも娘は四人いたことは判明しているが、明確に名が残っている女児は一人もいない。そもそも正室である藤原信子との間には子供が一人もおらず、離婚させられる前の正室であった藤原全子との間に生まれた子である藤原忠実が自身の後継者となっている状態では、娘を皇室に嫁がせるという発想もできなかったのであろう。
承徳三(一〇九九)年一月二四日、二年前の永長地震を思い出させる巨大地震が発生した。
現在の時刻にすると午前六時頃、突然の巨大な揺れが平安京を襲った。関白藤原師通は通常通り参内し、宮中に被害が出ていないことを確認している。しかし、その翌日以降、各地から断続的に届いたのは凄惨な被害状況報告であった。
まず、奈良からは再建工事中の興福寺の塔が破損し、回廊と大門が倒壊したという連絡が届いた。なお、この時点で人的被害の報告は届いていない。
続いて、摂津国の天王寺からは、天王寺の回廊とその周囲の樹木が倒れたとの連絡が届いた。ここでも人的被害の記録は登場していない。
被害状況報告が届いたのは土佐国からである。二年前を思い出させる津波が土佐国の太平洋岸を襲い、最低でも集落一つ、一〇〇町歩以上の田畑が海に沈んだのである。このときの地震のマグニチュードは二年前と匹敵する八・〇から八・三であったと推定されており、震源地が京都から遠かったために平安京における被災状況が特に記録に残らなかったが、震源地に近かった土佐国では集落を放棄して新しく集落を作り直さなければならないほどであった。
この知らせを受けて朝廷は何をしたのか?
結論から言うと何もしなかった。
集落が一つ消えるほどの大災害であったのに何もしなかったのである。
厳密に言えば一つだけ布告を発したのであるが、その布告は震災からの復旧を手助けするどころか、むしろ足を引っ張る布告であった。
土佐国で津波に飲まれた集落は荘園であった。そして、荘園に住んでいた者のうち津波から逃れることに成功した者は、新しい荘園を作ろうとしていた。ここまでであればごく普通のことである。
ところが、朝廷が出した布告は荘園整理であった。荘園整理の再確認として、寛徳二(一〇四五)年以後に新しく作られた荘園を認めないとする布告を発したのである。土佐国の津波からの復旧を目指したはずの新規荘園開拓が、法律の厳密な適用によって白紙に戻されるという、国民生活の批判を真正面から受けること間違いない宣言をしたのである。
さすがにこの判断は世論の反発を受け、白河法皇も激しい怒りを見せたが、関白藤原師通は意に介さなかった。
このままでいけば、間違いなく国民の怒りが爆発したであったろう。
ところが、全く想像しなかった形で国民の怒りが一瞬にして消えたのである。
承徳三(一〇九九)年六月二八日、何の前触れもなく関白藤原師通が亡くなったのだ。享年三八。
死因は悪瘡とされている。
悪瘡という単語を辞書で調べると、悪性の腫瘍とある。
平安時代の考えで行くと、仏罰があたると悪性腫瘍が外からわかるレベルで発生し、ただちに命を落とすとある。そして、この仏罰に該当することを藤原師通はしていた。嘉保二(一〇九五)年に比叡山延暦寺の僧侶たちのデモを弓矢で襲撃させた出来事である。そして、このときの襲撃に対して比叡山延暦寺では朝廷に対する呪詛を続けていた。
ただ、藤原師通は比叡山延暦寺に足を運んでいる。田楽の大流行のときがそれで、延暦寺も関白の来山をごく普通のこととして受け入れていた。呪詛していることを知っていて延暦寺に行ったとしたらむしろ尊敬すべきレベルであるが、普通に考えればもう呪詛は終わっていて和解していたとするのが適切であろう。
この突然の死に対して納得いく説明をするとなると、ここまで遡らなければならなかったというのが、比叡山延暦寺の呪詛が発動しての死であったとするしかない。
関白藤原師通の突然の死は、息子を亡くした父としての藤原師実と、父を亡くした息子としての藤原忠実に予期せぬ現実を突きつけることにもなったが、政治にも予期せぬ現実を突きつけることとなった。
誰が関白に就くのか?
藤原師実は既に政界を引退した身であった。
息子の藤原忠実は二二歳の権大納言と、年齢も、経験も、役職も、とてもではないが関白に相応しいものではなかった。
前例を見れば、二六歳で摂政になった藤原頼通という例があるが、そのときは藤原道長の後見があった。このときだって藤原師実の後見を期待できるではないかと言われればその通りであるが、藤原頼通の頃は父の構築した権力をそのまま利用できただけでなく、藤原道長を二〇年以上右大臣として支えてきた藤原顕光と内大臣として支えてきた藤原公季がいたのである。一方、このときの藤原忠実にはそのような存在などいない。
そんな中、たった一人だけ関白に相応しい人物がいた。
白河法皇である。
藤原師通の対抗勢力であったただ一人の存在であり、堀河天皇の実父であるという、堀河天皇を支えるこれ以上無く強力な存在であった。
ただ、強力でありすぎた。
後年、院政と呼ばれることとなる政治体制はこの瞬間に完成した。後三条天皇が計画し、白河天皇が画策した院政という政治システムは、全く想像だにしない状況で生まれた。
この想像だにしなかった状況で生まれた新しい政治システムがこのあと一〇〇年間に渡ってこの国を支配することとなる。
- 平安時代叢書 第十三集 次に来るもの 完 -