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Okinawa 沖縄 #2 Day 237 (11/02/23) 旧首里真和志平等 (1) Ikehata Area 首里池端町

2023.02.12 04:13

旧首里真和志平等 首里池端町 (いけはた、[旧前端村 マエバタ])


今日から首里区のなかで琉球王統時代に真和志平等と呼ばれた地域を巡り始める。かつての真和志平等となっていた地域は現在では真和志町、池端町、山川町、寒川町、金城町の5つの町があり、まずは池端町から始める。



旧首里真和志平等 首里池端町 (いけはた、[旧前端村 マエバタ])

池端町は首里大通り (龍潭通り) に面し、この通りを境界にして真和志町があり、真和志、山川、 大中に囲まれた小面積の町になる。昔は首里三平等の真和志之平等 (マージヌフィラ) の管轄内の町端村だった。1715年 (尚敬3年) に市場 (マチ) が開設されて町端と呼ばれるようになった。明治以降に首里三平等制が廃止された後は真和志村、山川村と合併し、字町端として真和志村の一部となった。1921年 (大正10年) の市制施行後、町端町から池端町と改称している。池端は首里の中心地で繁華な地点であり、首里での買物はこの町まで出れば用達しはできたと言うほど、いろな店が軒を並べ、商業の中心地でもあった。

民家の変遷を見ると、明治期では既に密集状態となっている。戦後民家の密集は戻っているが、地図では民家と商業施設が区別できないので下の様になるのだが、人口は激減しているので、多くは商業施設と変わっている様だ。

明治期の前端村の人口は790人だったが戦後の人口は半減しそれ以降は減少している。近年の人口減少は著しく、年々人口が数パーセントずつ減っている。現在では152人で明治期の二割程度となっている。商業地として発展し、地価も高いのが原因かも知れない。

首里池端町の人口は首里区の中では一番少ない町となっている。

首里古地図と現在の池端町を比較すると、通りなどは少しは変わってはいるが、ほぼ昔の姿が残っているようだ。


首里池端町訪問ログ



自宅から識名、繁多川、首里金城を通り、首里池端町に向かう。金城町の丘陵を登り、首里城公園内を歩いて池端町の前を走る龍潭通りに出る。


首里市場跡 (スイマチ)

龍潭通りの龍潭までの区間には琉球王統時代から明治期にかけてに、大いに賑わった市場があった。首里古地図では当初は東風平按司邸の北に接する場所にあり、やがて町端大路の道沿いに広 がっていった。これが首里市場 (スイマチ) の始まりとなる。肉、野菜などを販売し、朝夕市場が 立っていた。 売れ残りを買い、夕飯 にしたということで「真和志、町端二度夕飯」という言葉もあった。那覇首里間に電車が開通した大正のはじめに市場は門大路の近くの広場に移り、大市場と呼ばれていた。

球陽の尚敬3年 (1715年) の記述では「首里市地の南に小店を創置し、並びに市の南地を広闘す」とあり、市場 (マチ) の草創年代は不明だが、この年以前から市が存在していたことがわかる。また、尚敬16年 (1728年) の条には、往昔の時より、本国の人宅、或いは石を築きて垣と為し、或いは竹を栽して囲と為す。而して家、以て垣と為し、並びに店を開き貿易するを許さず。是の年に至り、始めて開店並びに家垣を免す」とあり、 この年に初めて軒を連ねて商店にすることが許されているが、店を設けることには制限を設けていた。家の前に出店の湯女形で商売をしていたようだ。さらに尚敬30年 (1742年) の条には、「前に市法を定め、集りて晩に至るを禁止す。然れども多方の男女聚集して、以て之を制し難し、是を以て、命じて欄門六口を市の左右前後に設けて、以て小民生の端を杜ぐ」と出ていることから、この地での商業活動が活発化して、店が増えていくことを法律で禁止することが無意味となり、市法を改正している。ただ、これ以降も19世紀初頭までは家の囲を取払って店舗を開く事は許されず、許可となった後も、店を出すことは許可制で市集に関しては厳重なる取締のあった。1914年 (大正3年) に電車の終点駅を設けるためこの市を廃し、真和志町の玉陵付近の大市に移している。 この市 (マチ) の地であることで、当初は町端村 (マチバタ) と呼ばれていたが、1920年 (大正9年) に、龍潭の辺りだったことで池端と改称している。


朝ヌ坂 (チョウヌヒラ) 跡

龍潭通りから隣村だった大中村 (現在の大中町) への道がある。隣の大中村の高級士族が、評定所の朝議に通ったという坂道になる。朝議に通うということで、朝ヌ坂 (チョウヌヒラ ) と呼ばれていたという説がある。また、別の説では、国王 (御主加那志) に拝謁する朝見に因むとか、首里城の京の内に通う坂ともあるが、はっきりとはしていない。


世持橋 (ユムチバシ)

龍潭の横を走る龍潭通りにはかつては橋が架かっていた。道路拡張工事で車道、歩道が広くなり、現在では欄干もなく、橋があった事もわからない。龍潭の排水溝の上に架けられていたのがこの世持橋だった。以前は公称の世持橋より、ランカングーの俗称が通り名となっていた。

琉球国由来記に「尚質王御宇、順治十八年 (1661年) 辛丑七月、慈恩寺、移架此所也」とあり、蓮小堀 (リングムイ) に接した寺に慈恩寺に架けられていた慈恩寺橋を尚質王時代に移して架けた。当時の古写真が残っている。

橋欄には魚貝、水禽、蝦蟹などが見事に浮彫りされていた。沖縄戦で破壊されたが、その一部が県立博物館に収蔵され文化財に指定されている。この橋からの景観を詠んだ琉歌がある。

空も晴れ渡て、 浮世名に立ちゆる、世持橋照らす、月の清らさ (久志安寿)


大里御殿 (ウフザトゥウドゥン) 跡

世持橋 (ユムチバシ) を過ぎた右手、中城御殿跡の手前には大里御殿があったという。大里御殿は坊主御主 (ぼうずうしゅう) と呼ばれた17代尚灝王 (在位: 1804-1834年) の次男 (三男?) の尚惇で大里王子朝教が分家し元祖とする琉球王族にあたる。一世の朝教は、尚泰王の摂政を務めた。琉球王国末期には大里間切の按司地頭を務め、二世 朝要のときに琉球処分を迎えた。大里御殿は御殿の中では、王国末期に誕生した新しい御殿だった。


大溝 (ウフンジュ)

龍潭通りの世持橋がに架かる龍譚からの排水を流す疎水の溝を大溝と呼んでいた。 古くは水走 (ミジハイ) とも言った。大溝には、鯉、手長蝦や藻屑ガニなどが成育していて、大雨の後には道にまで流れ、近隣の住民は魚などを素手で取っていたそうだ。


大和井戸 (ヤマトガー)

大溝 (ウフンジュ) から小路を経由して朝ヌ坂に出る。朝ヌ坂を大中村方面に少し進んだ右手に大和井戸 (ヤマトガー) と呼ばれる井戸がある。琉球石灰岩の掘り抜き井戸で、町端村の唯一の共有井戸の村井 (ムラガー) だった。古くからある町村の共同井戸言うことだが、この井戸の由来については諸説ある。大正の初め頃に大和人が中心になって掘削したことで、大和川の名で呼ばれるようになったという説、交易のため大和船が往来していた水の補給をこの井戸から行ったことからという説で、この二つの説には時代が全く異なっている。個人的には後者の方が時代が古くて好みだが、この首里から那覇港まで水の補給をしていたとは考えにくいので、大正時代に造られたという説の方かとも思う。現在でも沖縄の人は本土の人の事を大和人 (ヤマトゥンチュー) と呼んでいる。現在でも、この井戸にポンプ式水汲み器が取り付けられて、地域住民が生活用水に活用しているそうだ。


三尾ヌ坂 (サンミヌフィラ)

龍潭通りの一部は町端大路と呼ばれており、この道から中通りへ細い小路があり、下り坂になっている。この坂を三尾の坂 (サンミヌフィラ) という。首里言葉で金魚のことをサンミといい、この坂沿いの城間家 (屋号 サンミ) の先祖が王府時代に中国から珍しい金魚 (サ ンミ) を持ち帰り、飼っていたことからの名付けられたといわれている。


村屋 (ムラヤー、 池端町クラブ)

三尾ヌ坂 (サンミヌフィラ) の階段を下った所に池端町クラブ (公民館) がある。戦前は村屋 と呼ばれていた。戦前まで眉間に王の字が刻印された獅子頭が安置されていたそうだ。


天山坂 (ティンサンビラ)、天山凝り (ティンサンゴーリ)

町端大路から後ヌ道への道がもう一つある。先ほどの三尾ヌ坂 (サンミヌフィラ) から少し西に行ったところに急な階段がある。ここが天山坂 (ティンサンビラ) になる。王府時代、 尚巴志王の墓である天山陵への参拝路であったことからこう呼ばれている。坂 (ビラ、フィラ) を下った一帯は、低地になって いることで、天山凝り (ティンサンゴーリ)と俗称されていた。ゴーリは「ほり」から転じた言葉で、原義は「一つに集る」などの意味で、窪地に水が集ることから窪地を指す地形語に変化したものと考えられる。


天山陵 (ティンサンリョウ)

天山坂 (ティンサンビラ) を下り後ヌ道に出ると、道沿いの民家となっている場所が第一尚氏王統の尚巴志の墓と伝えられ、天山 (天斉山) 陵と呼ばれていた。 第二尚氏初代王の尚円がクーデターを起こした際に焼き払われたが、尚巴志の遺骨は墓の抜け穴から持ち出さ れ、 読谷村に葬られたと伝わっている。この陵は玉陵に先行して造られたといわれ、崖の中腹に三つの石室を掘り、石室前には石の露台、 庭があったそうだが、沖縄戦で破壊されてしまった。天山陵はクーデターの後、第二尚氏の第一次葬墓陵 (シルヒラシ) として使用された例が中山世譜にある。六代尚永王妃の島尻佐司笠按司加那志 (坤功) を1637年に、天山御墓に葬り、1751年に東玉陵に移葬、七代尚寧王妃の阿應理屋恵按司加那志 (蘭叢) も、1663年天山御墓に葬り、1759年に浦添城下の極楽陵に移葬したとの記述がある。この天山陵は非公開なので近くまで行けず、石垣の外から眺めた。石棺の一部がコンクリートの塀の上に乗っているのだが、木の隙間から一部が見える程度だった。ここを訪れた人がインターネットにその写真をアップロードしていたので、借用した。


池端町は小さな地域で、史跡の数も限られている。まだまだ時間が残っているので、隣村だった大中町の史跡巡りに移る。大中町訪問記は別途。


参考文献

  • 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗 (1979 那覇市企画部市史編集室)
  • 沖縄風土記全集 那覇の今昔 (1969 沖縄風土記刊行会)
  • 王都首里見て歩き (2016 古都首里探訪会)
  • 首里の地名 (2000 久手堅憲夫)
  • 沖縄「歴史の道」を行く (2001 座間味栄議)
  • 古地図で楽しむ首里・那覇 (2022 安里進)
  • 南島風土記 (1950 東恩納寛惇)