「オッペンハイマーはなぜ死んだかー長崎に原爆が落とされた謎を解く」
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◼️ 「オッペンハイマーはなぜ死んだかー長崎に原爆が落とされた謎を解く」〜 西岡昌紀 著…現役医師による考察から学べること
"原爆の父"といわれた物理学者、ジュリアス•ロバート•オッペンハイマー。
広島、長崎に投下された原子爆弾製造の中心的指導者。
原爆投下時、41才のオッペンハイマーは、それから22年後の1967年、63才で咽頭癌により死去する。
本著は、長崎に原爆が投下された謎解きから、何故、アメリカが日本に原爆を投下したか、について、当時の証言や、様々な文献を元に、現在までに一般的に流布されているウソ情報の矛盾を指摘。
そして、そもそもの長崎への原爆投下への「動機」に迫る視点から分析されている。
著者は、語っている。
歴史研究において、一番難しい課題が、「動機」の解明である、と。
通説だけを信じていると、この原爆と原爆投下に潜む驚くべき背景や、政治的思惑、国際社会からの糾弾回避、利権…などに目を配らせることを困難にさせる。
余程、見識広く多角的な見方を普段からしていなければ、おおよその人々は、所謂、定説的な情報を元にこの原爆投下を理解するのだろう。
著者は、現役の医師である西岡昌紀氏。
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「オッペンハイマーはなぜ死んだかー
長崎に原爆が落とされた謎を解く」
西岡昌紀 著
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また、"原爆"に関する検閲について、原爆報道について、"見えない検閲"が存在していた、ことを指摘している。
"検閲"が、世論工作、反米感情の封殺、それ以上に"科学的知見を隠した"ことで、原爆の医学的影響に関する情報が閉ざされ、被爆者の命、また、戦後の核実験による犠牲者が放射線の危機に晒されたことにも言及している。
ベトナム戦争中、アメリカ政府の高官であったディーン•ラスク氏は、ベトナム戦争で工業力の差だけ注目すれば、大きな差があったにもかかわらず、北ベトナムにアメリカが負けた理由に、「検閲をしなかったからだ」と発言している。
恐るべき発言であるが、戦争当事国としては、当然の感覚なのであろうか。
そこには、良心や事実などは二の次とされ、世論を、戦争支持に導くために凡ゆる情報が統制、検閲されていた。
これは、今もなお世界中に行われている常識となっている。
本著を読んで、当時の原爆に関係した軍人や化学者などの証言を読み、戦争という状況下においては、良心や人間性というものが如何に麻痺してしまうかを如実に確認することご出来た。
そして、如何に戦闘行為に正当性を持たせるか、非人道的なこの行いに対して、非を持たせないためにも、事実よりも優先される数多の工作とその意図を本著を通じて、垣間見ることができた。
戦争という非日常時空間では、人間は人として持っている生命の尊厳や自身の愛というものは忘れてしまうのだろうか、と。
非常に複雑、且つ、その現状を知ると感情的には中々割り切れることはなく、苦痛を伴うものである。
オッペンハイマーは、戦後公職から追放された後、日本人科学者を招聘し研究の便をはかり、大の日本贔屓になっていたそうである。
そして、湯川、朝永両博士のノーベル物理学受賞にも、大きな貢献をした。
原爆開発時の40代そこそこの若き物理学者は、人間を標的にした原爆投下の脅威に何を感じていたのだろうか。
一物理学者として、彼は利用されたに過ぎない。
原爆投下を決断するのは、物理学者ではない。
人間への原爆投下の決定を知った時のオッペンハイマーの気持ちを推し図ったところで、数多の広島、長崎原爆の命は、戻ってはこないのだから。
形を変えて戦後、この核は存在することになった。
核というエネルギー自体は、良いも悪いもない。
それを使う、決定する人間の動機と良心に、これからの人類の生き残りがかかってるだろう。
大きなエネルギーを使うということは、それ相応の反作用が代々にわたり、影響を及ぼすことを忘れてはならない。
今、金、己の精神が充満する間では、この巨大なエネルギーを利する資格は、相当のリスクを覚悟の上、使わなくてはならない。
現状の歪んだ社会情勢では、まだまだその未熟さ故に同じ繰り返しとなるのでは?との懸念のほうが大きい。
再エネなど出所不確かな、自然環境、人間環境へのデメリットを開示せず、検証せずに進められていることの昨今。
人々は一体、何を過去から、歴史から学んできたのだろうか。。
西岡昌紀 @nishiokamasanor
私の新著です。原爆の父オッペンハイマーは、彼自身が、被曝者だったのではないか?そして、その事が、彼が喉頭癌で死亡した背景に有ったのではないか?と言ふ論考です。更に、長崎に原爆が投下されたのは何故だったのか?と言ふ謎に恐らく世界で初めての論考を加えて居ます。
米政府が隠した原爆開発者の被曝可能性。
なぜ「原爆の父」は2か月後の爆心地を訪れたか?
なぜ急転直下、長崎に投下されたのか?
戦後76年間つづく情報操作に挑む!
米政府による原爆放射線の医学的影響の隠蔽【いんぺい】と検閲。
一度は投下を止めたプルトニウム原爆をどうしても使いたかった理由とあわせて、タブーの解明に挑む!
<構成>
第1章 長崎に原爆が投下された謎を解く
第2章 アメリカはなぜ日本に原爆を投下したのか
第3章 オッペンハイマーの癌
第4章 アメリカは、いかに「原爆」を検閲したか
終章 オッペンハイマーの死は何を語るか?
https://www.amazon.co.jp/gp/aw/cr/4788788012/ref=mw_dp_cr 【アメリカは、いかに、原爆の真実を世界から隠したか?】より
アメリカは、戦後、日本に「言論の自由」をもたらしたと言はれて居る。だが、そのアメリカが、占領した日本で、実は、厳しい検閲を行なって居た事を、皆さんは、知って居るだろうか?
アメリカは、占領した日本において、日本の新聞、ラジオ、出版物に、厳しい検閲を加えた。その目的は、日本国民のアメリカ及び連合国に対するの批判を封じ込める事と、新憲法制定におけるアメリカの役割を隠匿する事に集約されて居たが、その一方で、特別な意味を持って居たのは、原爆に関する諸事実の発表、報道に対する検閲であった。即ち、広島、長崎に投下された原爆の悲惨を日本国民の目から隠し、占領軍への反撥、批判を押さえ込むと同時に、原爆の威力に関する科学的情報をアメリカが独占する為に、アメリカは、占領下の日本において、原爆に関する情報の発表、普及を、検閲によって、阻止したのであった。
この本は、アメリカが、占領下の日本で行なった、そうした原爆に関する検閲を、膨大な一次資料から検証した、驚くべき研究書である。この本には、アメリカが、占領下の日本で行なったそうした検閲の詳細が記述されて居るが、医師である私にとってショッキングな事の一つはアメリカが、占領下の日本で、被爆者医療に関する医学記録を押収し、被爆者の解剖記録などをアメリカに持ち去った事実などであった。そして、こうしたアメリカによる検閲が、世界の人々に核兵器の恐ろしさを伝える事を遅らせた事は、この本のテーマが、いかに世界史的な意味を持つかを意味して居る。-本書の著者、モニカ・ブラウ(Monica Braw)は、1945年に生まれたスウェーデンのジャーナリストである。彼女は、日本に永く在住した事の有るジャーナリストであるが、この本の冒頭の「日本の読者のために」と言ふ一文の中で、こう書いて居る。--「・・・私はまた、本書が読者にとって、権力者というものはどのようにして情報一般の統制をこころみるのか、そのことを考えるよすがとなるよう願うものである。権力者による情報統制の試みは占領下の日本においてのみおこったのではない。それは今日も多くの国で、あまたのやり方で行われている。・・・(中略)・・・原子爆弾の検閲の問題は、四○年前の日本にのみかかわる問題ではない。それは、私たち一人びとりの将来にもかかわっている。」
湾岸戦争やイラク戦争の際の情報操作を思ひ出すまでも無く、こうした情報統制は、今も続いて居る。原爆と、その原爆について、アメリカが占領下の日本で行なった検閲の問題は、優れて、現在のテーマなのである。
(西岡昌紀・内科医/広島と長崎への原爆投下から60年目の夏に)
https://www.city.osaka.lg.jp/higashisumiyoshi/page/0000033897.html 【 模擬原子爆弾投下跡地之碑】より
終戦間近の昭和20年(1945年)8月6日広島に人類史上初の原子爆弾が投下されました。その11日前の7月26日午前9時26分大阪市東住吉区田辺2-3(現在の田辺小学校北側)に大きな爆弾が投下されました、大阪市が作った「昭和20年大阪市戦災概観」という資料には死者7人、重軽傷者73人、焼失倒壊戸数485戸、罹災者1645人とその爆弾による被害が記録されています。
実はこれは模擬原爆という特別な爆弾でした。模擬原爆というのは長崎に落とされたプルトニウム原爆(ファットマン)と同じ型、大きさ、重さで、中身がTNT火薬の約5トンの爆弾です。ずんぐりした型で黄色い色彩からパンプキンと呼ばれました。
米軍は終戦近い7月20日から日本各地への空襲に紛れて模擬原爆を49発も投下しました。模擬原子爆弾による被害は死者400名、負傷者1200名を越えると記録されています。
なぜ模擬原爆が慌ただしく投下されたのか。原爆を投下するには技術が必要でした。目視で原爆を目標地点に投下する。投下とともに自らの機体が被爆しないように急旋回させる。それもB29という巨大な爆撃機をです。当時完成したばかりの実物の原爆は3発しかなく、それを想定通り実戦投下するためには訓練が必要でした。その訓練用爆弾が模擬原爆だったのです。
模擬原爆の存在が歴史の明るみになったのは戦後の平成3年(1991年)です。愛知県春日井市の市民グループが国会図書にあった米軍資料から模擬原爆の投下場所の一覧表や地図を見つけました。模擬原爆の事実を解明していくと人類最悪の兵器原爆がどのような意図で使用されたかが見えてきます。
模擬原爆追悼碑は令和元年(2019年)5月末マンション建設に伴い恩楽寺(田辺1-14-18)山門に移設されました。恩楽寺本堂も模擬原爆の爆風で傾いた被災モニュメントです。毎年7月26日の投下時間に碑の前で追悼式が行われます。