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唯識という、古の認識論・自由論を、俳句で学ぶという必然 ――「心の時代」の道しるべ

2023.02.13 07:03

https://book.asahi.com/jinbun/article/14374034 【唯識という、古の認識論・自由論を、俳句で学ぶという必然 ――「心の時代」の道しるべ】より

「田毎の月」とも表される、唯識の世界観とは?

 心の時代、また多様性の時代に適う世界像を、豊かに湛える唯識思想。ときに難解とも評されるその教えは、実は、とても身近なものなのだった。千五百年来の思想は、今もって斬新に響く、人間の感覚・意識・深層心理のありようを説き明かす認識論であり、また私たちの日常の行為を、その源泉への深い洞察から厳しく律しつつ、どこか励ますような、自由の論理としても読める。そんな‘唯識’への新たな手引きとして、興福寺の前貫首・多川俊映氏による『俳句で学ぶ唯識 超入門――わが心の構造』を紹介しよう。

移ろいゆく「田毎の月」のリアリティ

 「心の時代」と言われて久しい現代。だが、この言葉が使われ始めた頃から今日まで、その意味するところ、強調するところは、さまざまであろう。

 当初、そこには「これからは物ではなく心だ」という時代のメッセージがあった。

 そしてやがて、目まぐるしいほどの情報社会を生きる私たちこそは「心の時代」を生きている、と言われるようにもなった。数多の情報に対して、自ずと為される取捨選択、また受容の可能性と限界という意味で、その人の世界とは、まさしくその人の「心」によって構築されているわけである。

 また昨今では、そうした「心」の多様性について、より目が向けられるようになってきている。「スタンダード」の矛盾や脆さに直面する私たちは、「心」がいかに複雑な〈世界〉との通路であり、また何より、おのおの異なるものであるかという現実に、今あらためて、切に向き合わざるをえないのだから。様々な分野での研究は進み、「ユニバーサル」であるところのデザインも、日毎に更新されている。そうしてさらに、例えばユクスキュルの「環世界」という概念にも示されるように、多様性の論理は必然、人間という枠そのものをも揺るがしていく。生きとし生けるものそれぞれの〈世界〉が重なり合ってある現実に、今一度驚きをもって臨む、私たちはそんな「心の時代」を迎えているのかもしれない。

多川俊映・著『俳句で学ぶ唯識 超入門――わが心の構造』

 さて、衆生(しゅじょう)すなわち「いのちあるものたち」は皆、それぞれの世界を描いている。そう言い切るのは、古来の仏教であり、唯識の思想である。

私たちは日常、「同じものをみている」とか「みているものは同じだ」なぞと簡単に言ってのけますが、一人ひとりの対象それ自体がすでに、時に微妙に・時に大きく相異しているわけです。与謝蕪村の句に「田毎(たごと)の月」という語がありますが、段々畑に耕作された一枚一枚の水田の田面こそ、このさい、他ならぬ私たち一人ひとりの心でしょう。

(本書23頁)

 「人みな個性的な存在」とみる立場をとる、千五百年来の教え。いったいそこには、どのような知恵が湛えられているのだろうか。

おそろしい深層心。手前ではたらく意識は自由か?

 多様性の豊かさ――しかし裏を返せば、それは自我同士の対立する世界でもある。底の尽きない自己愛が、ふと顔を覗かせる。どうしようもなく、私は私を恃(たの)む存在であるという現実を、唯識は深層心の一つ目、「末那識(まなしき)」において説き、シンプルにこの身に突き付けるのだ。

 そして、またおそろしいのは、その一層奥にある「阿頼耶識(あらやしき)」である。そこにはその者のこれまでの行いが「種子(しゅうじ)」として全てプールされるというのである。しかもその「行い」とは、姿かたちを取った言動のみならず、心の内に生じた想念すら含むという。それら過去の全ての蓄積でもって、その者の〈世界〉ができあがっている、というまことに厳しい洞察を、唯識は説くのである。

 しかし、そんな厳しい世界の構造に、もし身の毛もよだつような思いがしたとしても、絶望することはない。というのも、そうした深層心よりも表立ってはたらく表面心――「前五識」(いわゆる五感覚、すなわち視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚に当たる、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識)と、「第六意識」(時空の制限を超えた認識や思考を可能とする、いわゆる意識)――のうち、特に第六意識については、意識的な変革の余地が残されているからだ。そして本書では、俳句鑑賞を通じて唯識を学ぶ、という仕掛けにおいて、著者はそれら「表面心」のあり方こそを、どこまでも丁寧に眼差しているのである。

俳句を媒介するという必然

 時に難解と評され、また実際に厳しい自己認識を突き付ける唯識の思想は、ともすればおそろしく厳格な話に聞こえるのであるが、本書においてその思想は、一貫して、どこかあたたかみを帯びている。著者の軽妙な語り口がそう感じさせるのであり、また、俳句をはじめとする短詩型文学そのものの深みと滑稽さにも由来して、そうなのだろう。

句作者には馴染み深い文学者の名が連なる。また本文中では、このほか多数の俳句や短歌、また都々逸や古川柳なども取り上げられる。

句作者には馴染み深い文学者の名が連なる。また本文中では、このほか多数の俳句や短歌、また都々逸や古川柳なども取り上げられる。

 本書において「唯識」は、一旦はその厳格さを脇に置いて、どこまでも親しみやすい世界を通じて語られる。生活の目線からふと、あるいは深い孤独の境地から湧き出た、句作者の心=〈世界〉に触れながら、読者の自由な心を基に〈世界〉はまた生まれ、そうこうしているうちに、唯識の考え方に自然と馴染んでいる、そんな「唯識 超入門」なのである。

 個別の生を突き詰めかつ大河の源流にも触れる大きな思想、唯識仏教を、芸術鑑賞を媒介に学ぶとは、なんとも豊かな体験である。その滋味はきっと、私の〈世界〉を深く耕してくれるだろう。

この本を書いた人

多川俊映(たがわ・しゅんえい)

1947年、奈良に生まれる。1989年、興福寺貫首就任。18世紀初頭に消失した興福寺中金堂の再建に精力的に取り組む。興福寺創建1300年を記念して開催した「国宝 阿修羅展」で全国に阿修羅像ブームを巻き起こしたことでも知られる。現在、法相宗大本山興福寺寺務老院、同寺菩提院住職、帝塚山大学特別客員教授。著書に『観音経のこころ』、『唯識入門』、『旅の途中』、『合掌のカタチ』、『唯識とはなにか』、『仏像 みる・みられる』など多数。

https://www.asahi.com/articles/ASQ2H7H8RPBDPOMB015.html 【唯識を俳句で解説 興福寺の多川俊映寺務老院が本を出版】より

 仏教の教えの一つに「唯識(ゆいしき)」がある。あらゆる事柄は心の働きに起因するという考え方だ。この難解な教えを、俳句をはじめとした七五調を通して解説した本が「俳句で学ぶ唯識 超入門 わが心の構造」(春秋社)だ。奈良市の興福寺の多川俊映(しゅんえい)・寺務老院(じむろういん)(74)が書いた。心の構造とその働きをわかりやすく説明している。

 唯識は、南都六宗の一つ、法相宗(ほっそうしゅう)の教えの根幹をなす。法相宗の大本山は興福寺と薬師寺(奈良市)だ。多川さんは1989年に唯識を平易に解説した「唯識十章」(2013年に「唯識入門」と改題)を著し、今回の本はその続編の位置づけ。松尾芭蕉、正岡子規、夏目漱石、永六輔らの句のほか、短歌や古川柳も取り上げている。

 多川さんは「仏教では真実を理解してもらうために使う手段を『方便』というが、今回は日本人になじみ深い七五調を方便に選んだ。七五調は万葉の昔から脈々と日本人に息づく音律であり、感性だ」と話す。

 たとえば、江戸時代の俳人・山口素堂(そどう)の句だ。

 「目には青葉山郭公(ほととぎす)初鰹(はつがつお)」

 ここには「前(ぜん)五識」が隠れている。前五識とは視覚や聴覚、味覚などの5感覚。青葉を見、ホトトギスの声を聞き、匂いや味で初鰹を楽しむ。素堂は、これら5感覚とともに、意識のことをさす「第六意識」をめぐらして名句を生み出した、と多川さんはいう。

 この前五識と第六意識が日常生活で自覚される心の働き、いわば「わが心」だ。心の表層の働きともいえる「表面心」。これに対し、唯識仏教では、意識よりも深いところ、意識下に「深層心」があると考える。心は、意識と意識下の二層構造になっている。

 意識下の深層心は「第七末那識(まなしき)」「第八阿頼耶識(あらやしき)」からなる。こうした心の構造を菱餅(ひしもち)にたとえた。

 「菱餅の上の一枚そりかへり」(川本臥風(がふう))

 桃の節句で供えられる菱餅は3段重ねの餅のこと。もっとも上が前五識と第六意識。臥風の句でいえば、そりかえった上の1枚だ。2段目が第七末那識、一番下が第八阿頼耶識になる。

 こうした心の構造は果物のビワでも例えられる。

 「枇杷(びわ)むけば種堂々と現われる」(永六輔)

 ビワを食べるとき、皮をむく。その薄い皮が前五識と第六意識だ。実が第七末那識で、大きな種が第八阿頼耶識。

 第七末那識とは何か。「心の深層領域にうごめく自己中心性、あるいは自己愛の根源」と説明する。意識より深いところから、意識に向けて「自己中、大いにケッコウ」と自己中心性の正当性を声なき声で絶えずささやき続けているという。「私たちの意識下には、まことにやっかいな心の働きがある」と話す。

 実は、第七末那識も、前五識も第六意識も、第八阿頼耶識が転変したものだという。第八阿頼耶識は「本識(ほんじき)」と呼ばれる。一人ひとりを根底から支える根本であり、「すべては第八阿頼耶識から発出し、第八阿頼耶識に収められる」と説明する。

 阿頼耶とはサンスクリット語で「蔵」を意味する。この蔵である第八阿頼耶識には、心の働きや行為を引き起こす主な原因となる「種子(しゅうじ)」などが所蔵されている。種子は、一人ひとりの日々の行動や経験した情報をさす。「意識下の深層領域には、私たちの過去のすべての行動情報がプールされ、その過去から現在と未来が生じる」という。

 本の終盤では、唯識を端的に表す、多川さん自身の句を紹介している。

 「なにごともけだし心のなかのこと」

 多川さんは「今回は特に心の構造に迫り、心は意識と意識下の二層構造になっていることを解説した。仏教では、はるか昔から心の構造を研究し、そこには、現代でも、よりよく生きる知恵がある。唯識を身近に感じてほしい」と話す。