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Okinawa 沖縄 #2 Day 239 (16/02/23) 旧首里真和志平等 (3) Samukawa Area 首里寒川町

2023.02.17 06:52

旧首里真和志平等 首里寒川町 (さむかわ、スンガー)



旧首里真和志平等 首里寒川町 (さむかわ、スンガー)

首里寒川町は、首里19カ町の中で最も西南端に位置し、首里城がある首里台地の西南中腹の斜面に町が広がっている。山川村と真和志村の真嘉比、古島と対峙し、東北側は金城に隣接している。寒川は比較的に見晴らしが良く、夏は涼しく冬は暖かい住宅地となっている。古くは寒水川村 (スンガームラ) と現在は消滅した立岸村 (タチヂシムラ) からなり、1880年 (明治13年) に寒水川村が立岸村を吸収合併し、1921年 (大正10年) の首里市制施行により、寒水川村から首里寒川町となっている。

寒水川大小路 (スンガーウフスージ) を境として、東の1丁目が旧寒水川村で、護佐丸の直裔として第二尚王統につかえ繁栄した豊見城、伊野波、識名、国頭などの毛姓一門の殿内が並ぶ屋敷街だった。 域内にある寒水川樋川が、寒川町の地名の由来となった井泉。現在の山川町三丁目 から寒川町西側の二丁目が、旧立岸村で、かつては農家が多く、住宅は少なく、一面畑が広がる寒村だった。現在では住宅が立ち並んでいる。また、首里城から延びる綾門大道の沿道には、安国寺、御客屋跡、中山門跡、美連嶽などの旧跡が多く、古都首里の面影を色濃く残している。

戦前までの寒川の民家の分布は琉球王統時代とさほどの変化はなく、現在の寒川町の北西地域に集中している。戦後は首里丘陵上部に復興が始まっている。現在は寒川緑地を除く全域に民家が広がっている。

寒川町の人口は戦後一時期は激減していたが、1960年代から1970年代にかけて順調に増加し、明治時代の1.4倍程に達している。その後は世帯数は増加しているが、人口は小康状態が続いていた。ここ数年は人口増加がみられる。この増加は多分、旧赤丸宗醤油跡地に建てられたマンションがと思われる。これ以降、同じような構想住宅街が建設されるかは不明なので、人口のx増加傾向が続くかは疑問。

首里区の中で寒川町の人口は、ほぼ真ん中に位置している。


首里寒川町訪問ログ



三日前に首里金城町の訪問終わり、今日はその隣町の寒川町を訪問する。寒川町には東西に走る幹線道路が三つある。丘陵上の方から、綾門大道、赤丸宗通り (上ヌ道、赤田寒川線)、そして丘陵中腹に下ヌ道が走っている。このそれぞれの道沿いに史跡などのスポットを見ていく。まずは、寒川町の西隣の旧真和志村の松川集落との境にあるノボテル (旧都ホテル) から始める。



迫ヌ坂 (サクヌフィラ)

県道40号線の交叉点のノボテルの構内には、琉球王国時代には、この上にある観音堂へ向かう坂道があったそうだ。この辺りはナチジナー毛また下ナチジナー毛と呼ばれる急峻な茅毛で、官松嶺とも呼ばれていたが、このナチジナー毛と対岸の寒水川の間は急峻な谷間で、そこからの登坂だったので迫ヌ坂 (サクヌフィラ) と呼ばれるようになった。1906年 (明治39) に那覇首里間の県道開通によっ坂は削り取られて、まったく面影は残っていない。ホテル玄関脇の左手の石厳当からホテル抜けて観音堂下の横断歩道の近くに出る急坂だった。


かつての迫ヌ坂 (サクヌフィラ) を登った所は道が二股に分かれる。左の道は坂道で首里城の中山門、守礼門にへの綾門大道に続く道で、右の平坦な道は、寒川の上ヌ道で赤丸宗通りと呼ばれている。ちょうど道の分岐点に「赤マルソウ入口」と刻まれた石柱が立っている。


観音坂

左の道を進んでいく。この坂道は漢音坂と呼ばれている。道の左側には慈眼院があり、ここ建てられた首里観音堂から、この坂が観音坂と呼ばれている。この慈眼院は現在の地番では山川三丁目になるのだが、琉球王統時代には立岸村の属していた。この慈眼院については首里山川町の訪問記に含める。


寒水川大小路 (スンガーウフスージ)

観音坂が綾門大道に続く手前には、上ヌ道、下の道へ下る急坂が何本かあり、主要なものが三本ある。慈眼院から観音坂を登っていくとまず一本目の寒水川大小路 (スンガーウフスージ) がある。この坂が、現在の寒川1丁目と2丁目の境界になっている。寒川2丁目が1880年 (明治13年) まで存在した立岸村で、寒川1丁目が寒水川村だった。寒水川大小路 (スンガーウフスージ) は首里王府時代に国王が識名園や識名の神応寺の参詣に出掛けるとき使用した迂回路だったと言われている。金城村の急坂である島添坂 (シマシービラ)玉陵坂 (ビラ、見揚森クビリ) を避けてここを使ったとされる。


小路小 (スージーグヮ)

更に観音坂を上ると二本目の坂道の真境名小路 (マジキナスージ) 。小路小 (スージーグヮ) と呼ばれている。この坂道もかなり急で、寒水川大小路よりも急坂だ。


寒水川チンマーサー (積み廻し)

小路小 (スージーグヮ) から観音坂を上がって行くと、樹々が生い茂った民家がある。ここには一里塚 (里程塚) にあたるチンマーサーがあったそうだ。(資料によってこのチンマーサーとこの上にある御待所跡・駅寮跡が玉になっている) チンマーサーは、土地によっては一里毛とも呼ばれ、「積み廻し」という意味で、腰高程の石を円形に囲み、土を盛ってガジュマルが植えられていた。


真境名小路 (マジキナスージ)

寒水川チンマーサーから下ヌ道へ下る急坂がある。この坂道が三本目の真境名小路 (マジキナスージ) と呼ばれている。坂の上の方には石道が残っている。真境名という人が、資金を出して整備したとの言い伝えからこう呼ばれたとか、モーイ親方 (伊野波盛平、唐名は毛克盛 首里毛氏八世、1648年∼1700年) が父親 (伊野波親方盛紀) より位階が上った (父親の首里毛氏七世盛紀は最高位の三司官だったので、モーイ親方がこれより上の官位とは何だったのかという疑問があるのだが、それは書かれていなかった) ことで、父親より先に自宅を出ることになり、しかし綾門大道を父親より先に歩くことを避けるために開削した道との伝承がある。更に別の説では、首里毛氏13世伊野波親方盛邑 (毛邦俊) と 嗣子盛典 (14世) が真和志之平等惣与頭職だったことからに伊野波殿内のある上ヌ道から真和志之平等所への至近道として、伊野波盛邑か盛典の時代に開削を願い出て開けられたものとも考えられる。真境名小路を登り切った北側の道向かいの大飩川小路の西隣に石垣囲いの真和志之平等所があったことから真和志之平等所ヌ小路 (マージヌヒラスージ) とも呼ばれ、それが「マジヌヒラスージ」 、「マジヒナ・スージ」、さらに「マジキナスージ」 に変化したとの説があり、こちらの方が説としては有力だそうだ。真境名小路が開削される以前は、伊野波家などの士族は真和志之平等所へ出るには、大廻りをして寒水川大小路を使用していたと考えられている。


御待所跡 (ウマチドゥクル)、駅逓寮跡

寒水川チンマーサーのすぐ上には戦前までは長屋門形式の建物が建っていた。真壁殿内 (マカンドゥンチ) へ祗候する真壁殿内の管掌する阿母志良礼や祝女たちの控え所の御待所 (ウマチドゥクル) になる。真壁殿内はこのすぐ近くにあり、中山門があった場所から来たに下る真壁小路沿いにある。(山川町訪問記に含める) 御待所跡は1873年 (尚泰26年) に首里で最初に郵便業務を行った駅逓寮となっていた。翌年には首里、那覇、今帰仁に郵便仮役所、九ヶ間切に郵便取扱所を設置し業務を開始している。


美連嶽 (メズラダケ、ミンチラダキ)

更に道を進むと中山門跡の手前に、真和志森の孤立岩を依代に北した美連嶽 (メズラダケ)という御嶽がある。方音ではミンチラダキと呼ばれ、それが訛ってビンダダキとも呼ばれ、美連嶽が当字されている。嶺線や尾根を指す地形語にミノがあり、ほとりやあたりを示す古語にツラがあることから、ミンチラ嶽とは、この嶽の立地する地形から、ミノツラからミヌチラさらにミンチラに転化した「嶺線の辺りに在す御嶽」の意味と思われる。琉球国由来記には康熙年間 (1662~1668年) に尚貞王により拝殿が創建されたメヅラダケノ御イベとある。球陽や首里古地図には免津良嶽と記され、拝殿が描かれている。 第二尚氏代まで王家の崇所で、世子殿が資金を出して修理していた。王府時代の祭祀を司る首里三殿内の真壁殿内管内の拝所にあたる。


京阿波根塚 (チョウアファグンヂカ)

真和志森の美連嶽の大岩の裏側、赤丸宗跡地にあるマンションの一画に京阿波根塚 (チョウアファグンヂカ) がある。尚真王に仕え、素手格闘術・空手の元祖として勇敢な人物として讃えられた京阿波根親方実基の墓があり、石碑が建っている。京阿波根塚と呼ばれている。この人物の正式な名は虞建極阿波根実基だが、京阿波根と呼称されるようになった由縁は、宮古の仲宗根豊見親玄雅から尚真王に献上された宝剣治金丸 (チガネマル) を京都の研磨師に磨かせる使命を帯び、実基は京都へおもむいた。ただならぬ刀剣と知った研師は、治金丸をすり換え贋造剣を実基へ渡した。琉球へ帰任後にそれを知った実基は、再び京都へとって返し、三年間の苦心の末、治金丸を取りかえしてきた。その知恵と剛直な行為によって、以後京阿波根と名を馳せることとなり、親方位まで陞身したが、その偉才を妬まれて暗殺されたと伝わっている。京阿波根は八重瀬の阿波根集落で生まれ、乳母が八重瀬グスクの城下町の富盛集落の人だったという。富盛村の八重瀬グスクを訪れた際に、この京阿波根が生まれた時に産湯に使ったという京阿波根生井戸跡があった。


赤丸宗醤油跡

御待所跡の側に上ヌ道方向に道があり、その入り口には赤マルソウ入口と書かれた石柱が立っている。この場所から上ヌ道までの斜面にはかつては赤丸宗醤油工場があった。上ヌ道はこの道沿いに赤丸宗醤油があった事から赤丸宗通りと呼ばれていた。赤丸宗工場は琉球王統時代の伊野波殿内跡に建てられている。寒川は水の便がよくて、赤丸宗以外にも泡盛で知られている石川酒造所などもある。この赤丸宗醤油は具志堅宗精氏が1950年 (昭和25年) に寄宮に具志堅味噌醤油合名会社を創立した事から始まり、翌年にこの寒川に工場を作り移っている。(寄宮の具志堅味噌醤油は兄の宗演が黒丸宗として現在でも営業をしている。) 1955年 (昭和30年) に具志堅みそ醤油、1966年 (昭和41年) に赤マルソウみそ醤油株式会社、1985年 (昭和63年) に赤マルソウと社名を変更している。1994年 (平成6年) に糸満工業団地に新工場および新本社社屋を建てここから移っている。跡地はマンションとなっている。


中山門跡 (シムントゥイ)

現首里高等学校の南西隅近くの綾門大道の西端、現在は首里琉染があるが、琉球の第一坊門であった中山門が建っていた。 中山門の創建は守礼門より古く1428年 (尚巴志7年) と伝わり、当初は建国門と呼ばれていた。王都首里の第一坊門の中山門は別名を下ヌ綾門、守礼門を上ヌ綾門と呼んでいた。1681年 (尚貞13年) に板葺きから瓦葺に葺き替えられた。尚巴志王の冊封使として1425年に来琉した柴山が「中山」の扁額を献上し、この門に揚げられた。

 中山門は老朽化が著しく、1908年 (明治41年) に入札売却し、取り壊されてしまった。


綾門大道

現在の首里琉染の前の中山門 (下ヌ綾門) から守礼門 (上ヌ綾門) までを綾門大道伸びていた。

この綾門大道が琉球王府時代第一の道路で、昔はこの通りで綾門大綱引きが行われており、2007年の首里城公園開園15周年を記念し、109年ぶりに綱引きが復活している。1700年代に作成された首里古地図には、綾門大道には首里城に向かって右側に御客屋、真和志森、美連嶽、安国寺、玉陵などが、左側には世子殿・中城御殿、大美御殿などが存在していた。中城御殿は、1875年 (明治8年) にここから龍潭向かいの旧県立博物館敷地に移転し、ここには沖縄尋常中学校 (後の県立第一中学校、 戦後は首里高校) が置かれている。


御客屋跡 (ウチャクヤ)、謝名親方 (ジャナウェーカタ) 屋敷跡

綾門大道を守礼門方向に進み、安国寺の西隣には、琉球藩の消滅まで薩摩の役人が首里城に登城する際の控え所である450坪ほどの御客屋跡 (ウチャクヤ) が置かれていた。薩摩藩からの在番奉行一行は、御仮屋 (在番奉行所) から一旦この御客屋へ入り、ここで城からの案内を待って登城していた。 薩摩藩の琉球侵攻後、薩摩に連行され、連判を拒否して即日斬首された三司官謝名親方の屋敷跡だったものを使用していた。屋敷の南東下には、亡父鄭迵の仇討を王府に願い出て、逆に謀反人として討ちとられた謝名三人兄弟の墓があったが、現在はブロック積で閉されてしまっている。イギリス人宣教師のベッテルハイムが首里地域を伝道する際にはここに宿泊していた。1879年 (明治12年) の廃琉置県後は首里警察署が置かれていたが、その後首里尋常小学校の校舎が建てられ、首里城内に首里尋常高等小学校として移転したため、民間の電気会社に払い下げられた。


真和志森 (マージムイ)

御客屋の西に大きな孤立岩があり、その孤立岩を中心に一帯は真和志森とばれていた。往昔は首里城内京の内辺りまでを指したとされ、首里が都邑となり、逐時開発され ていくなかで、京の内一帯は首里森または真玉森と呼ばれ、その西側の丘阜は天界寺松尾となり、現在の玉陵地の西南に第二尚氏鼻祖の尚円を葬送したことに因んで、その周辺は見揚森となり、真和志森は縮小の一途をたどった。この地点から京の内にかけては大きな断崖で、その地形から真和志はマアジの当字で、マは美称辞、アジはアズに対応する方音で、崖を指している。


安国寺、君恋嶽 (キミコイシタキ)

綾門大道には安国寺は臨済宗妙心寺派の太平山安国禅寺がある。尚泰久代 (1454~1460年)の創建で、 慈眼院 (首里観音堂)、大慈悲院などと共に天界寺の末寺として開基された。第一尚氏の国王尚泰久によって、天界寺や末吉の遍照寺、龍飛寺などと、ほぼ同年代につくられたと考えられている。日本で戦死者を弔う安国寺が建てたことから、尚泰久王もこれに倣い、岳父の護佐丸を女婿の阿麻和利に討せ、その阿麻和利を自らの手で討った際の戦死者の霊を鎮める為に各地に寺院を建設したといわれる。また別の説では、尚徳が亡父尚泰久追福の為に創建したともある。当初は、少し離れた上石門通り入口付近の久場下村 (クバシチャ) にあったが、1674年 (尚貞6年) に現在地に移転している。

十二支の守り本尊への祈願、現在では十二カ所巡拝と呼ばれている12の御寺巡拝の酉のウカチミ (酉の人の役寺) とも通称され、不動明王への祈願寺となっている。安国寺の現在の本堂は2009年にが落慶したもの。琉球国由来記には「キミコイシ嶽・安国寺園内ニアリ」とあるが、現在ではその跡も無い。首里古地図の安国寺境内の西南隅に、北面した石垣囲いの地が見える、現在の本堂の建つ辺りがその地点にあたる。

首里十二支詣り (ジュウニカヌウテラマーイ) は、琉球王国時代から続く参拝方法で現在は首里にある4カ所の寺院に祭られている十二支の守り本尊を巡拝し、日々の感謝を伝えて、健康や開運を祈願している。琉球王朝時代は王朝政府が寺を保護していたため首里には多くの寺があり、当時は12の寺院に、それぞれに干支が当てはめられていたが、時代の変遷とともに、現在では慈眼院首里観音堂、太平山安國寺、達磨峰達磨寺、⼤⽇⼭盛光寺の4カ所に祭られている。戦前には円覚寺が参拝寺に含まれていたが戦後再建が断念されて、万松院と首里観音寺に円覚寺のにあった守り本尊が移されている。1991年には万松院が参拝寺を返上している。その理由は明確ではないのだが、仏教の教義にのっとった布教に立ち戻る意向だったともいう。沖縄での宗教は根強く残る祖先信仰やユタの影響が強く、仏教、日本神道、琉球神道、民間宗教がミックスしている。首里十二支詣りもこのミックス信仰の産物であり、純粋の仏教とはかけ離れてしまっていることが理由かも知れない。ただ、参拝者のミックス宗教観は沖縄だけではなく、本土も同じだが、沖縄での仏教布教は更に困難な状況で、沖縄の伝統的宗教観を受け入れたうえでの布教を選ぶ住職が多いように思える。


上ヌ道 (赤丸宗通り)

次は寒川町の三本の東西幹線道路の真ん中の上ヌ道を行く。観音堂下の道の分岐点まで戻る。


沖縄放送所跡

丸宗通りと上ヌ道の合流点から上ヌ道に入ったすぐの所に戦前には沖縄放送所があった。1939年 (昭和14年) に小高い丘を削って放送施設の建築が始まり、3年後、太平洋戦争が始まった翌年に日本放送協会熊本中央放送局管轄下の沖縄放送所として開局している。 電灯線利用の親子ラジオ方式での放送だった。沖縄のラジオ放送発祥の地になる。


寒水川芝居跡 (スンガーシバイアト)、電車引込線跡

下ヌ道から細い里道があり芝居小路という。寒水芝居への道だった。

1882年 (明治15年) に、演劇興行取締規制が緩和され、廃琉置県で禄を失った首里士族たちが、組踊の経験などを生かし役者となり、寒水川芝居 (スンガーシバイ) を始めた。那覇にあった仲毛芝居 (ナカモーシバイ) からの分かれで、この小路北側の緩斜面を観客席として利用した天井のない麻袋 (カマジー) で囲った簡易の芝居小屋だったそうだ。寒水川芝居は、なかなか好評を博していたという。寒水川芝居は1914年 (大正3年) まで興業され、小屋を中心に飲食店、菓子屋、雑貨店などが集り活況を呈していた。

1914年 (大正3年) に首里から那覇西本町の通堂間を走る電車道が、この芝居小屋の敷地の一部となり、敷地は削られ、その歴史に幕を下ろした。 劇場の前の寒水川芝居小路 (スージ) は、一時電車の終点にもなったが、間もなく終点が山川入口東方 (現首里高校正門前) まで延長されてからは、上り線と下り線の交差する際の待機引き込み線が置かれていた。 その電車も1933年 (昭和8年) に廃線となっている。


識名殿内跡 (シチナドゥンチ)

上ヌ道 (赤田寒川線) 沿いには護佐丸を先祖とする琉球士族の毛氏の屋敷が連なっていた。小路小と真境名小路の間に識名殿内があった。識名殿内は、1700年代初頭、11代尚貞王の晩年から12代尚益王まで11年間三司官を勤め、琉球最古の琉球語辞典である混効験集の編纂者として著名な識名親方盛命 (毛起龍) の屋敷跡になる。識名盛命は、尚質代から尚貞代まで24年間三司官を勤めた伊野波盛紀 (毛泰永) の三男で、長兄は奇行や逸話で有名なモーイー親方で、盛命は政治家としてだけではなく、和文学者としても当代随一で、60種余りの和歌を挿入し、琉球最古の擬古文とされる随筆集の「思い出草」にまとめている。また進貢使で渡閩の際、平敷屋親雲上 (魏士哲、後の高嶺親方徳明) に欠唇の手術を学ばしめ、王世孫幼少尚益の兎唇を手術せしめ治癒させた話は有名。琉球大学医学部に高嶺親方徳明顕彰碑が立っていた。


国頭殿内跡 (クンジャンドゥンチ) 

識名殿内跡のすぐ東側には識名殿内の後裔の毛姓国頭殿内の屋敷があった。ここは、国頭殿内の祖で、琉球最古の琉球語辞典である混効験集の編集者として知られる識名親方盛命 (毛起龍) の屋敷跡になる。尚貞王時代の三司官で和文学者でも知られる人物。 盛命は、尚質から尚貞三代まで24年間三司官をつとめた伊野波盛紀の三男になる。


寒水川樋川 (スンガーフィージャー)

赤丸宗のあった南、上ヌ道 (赤丸宗通り) の道路下に那覇市の文化財に指定されている寒水川樋川 (スンガーフィージャー) があり、現在でも水が湧き出ている。寒川町の地名由来になったという説もある樋川にあたる。ソウズヌカーが起こりで、ソウズンカーに変化し、ソウが消音化してスンガーに変ったものと推測されている。正月の若水 (初水) や邪悪除けに使用する聖水を取る湧泉だった。首里王府時代には世子殿の御用水として、近年は地域の生活用水として、広く利用されていた。 金城大樋川程大きくは無いが、周囲は見事な石垣で囲まれ、石敷きされた水場が設けられている。


原井戸 (ハルガー)

寒水川樋川のすぐ下にも井戸跡がある。昔この一帯は畑地で、その中の井戸ということで原井戸 (ハルガー) と呼ばれた。(ハルは畑の意味) 上の樋川が主に飲料水、生活用水として利用したのに対し、この原井戸は主に農業用水に利用されていた。


寒水川村学校所跡 (スンガームラガクコウジュ)

寒水川樋川の西側、国頭殿内の上の道を挟んで真向かい下に閭塾 (リョジュク) と呼ばれた村学校があった。 「閭」は古代中国周の制度で村の塾の意味。「二十五家を里となし、その門を閭と呼び、それが転じて里の称となった」


伊野波殿内跡 (ヌーファドゥンチ)

上ヌ道 (ウィーヌミチ) を真境名小路 (マジキナスージ) を過ぎた所、左手に赤丸宗味噌醤油醸造工場があった場所には、琉球王国時代、伊野波殿内跡 (ヌーファドゥンチ) が置かれていた。モーイー親方と呼ばれた伊野波盛平は1647年 (尚賢7年) にここで生まれている。

モーイー親方の頓知 (とんち) として伝えられているのが、

ある日薩摩から灰縄と雄鶏の卵と山を持ってこいと難題が出され、首里王府はモーイーを父親の代理に派遣します。薩摩の殿様は父親はどうしたかと問われ、産気づいて来れませんと答えました。男がお産をする かと殿様が怒ると、それと同じことで雄鶏の卵もありませんといい返し、次に縄はどうしたかと言われ、目の前で縄を燃やしてその灰を差し出しました。さらに山は持ってきたかと問われると、山を運ぶ船を用意してくださいと答えた。 
愛煙家だったモーキーは、母親に吸い過ぎを注意され「一日一服にしろ」と言われた。ほどなくした或日、伊野波殿内から蒙々と煙が吹き出していて、近隣から「伊野波は火事だ!」と人々が駆け参じて見ると、モーイーが、真竹製の大煙管で「一日一服しているのです」と平然としていたという。
このモーイ親方の墓が繁多川にあり、そこを訪れていた。その時の訪問記にもう少し詳しく記載している。

伊野波家の先祖は第一尚氏時代に勇名をはせた 中城按司護佐丸盛春 (唐名毛國)。伊野波殿内はその六世豊見城親方盛良の二男盛紀を小宗として始まり、第二尚氏治世で三司官を輩出した毛氏に属していた。このモーイ親方は盛紀 (毛泰永) の長子盛平 (毛克盛) とされている。伊野波殿内の初代盛紀は1665年 (尚質18年) ~ 1688年(尚貞20年) までの24年間三司官を勤め、モーキー親方の盛平も、1694年 (尚貞26年) ~ 1699年 (尚真31年) の六年間三司官を勤め翌年没している。現在はマンション用地になっている。


豊見城殿内 ( トゥミグシクドゥンチ)

更に上ヌ道 (赤マルソウ通り) を進むと豊見城殿内 ( トゥミグシクドゥンチ) がある。石垣と赤瓦の門構えが、殿内の面影を残している。豊見城間切の地頭を務めた豊見城親方盛親の屋敷になる。 一世は毛國鼎 (中城按司 護佐丸盛春) で、 一族からは 15人もの三司官を輩出している。豊見城殿内は、ここ寒水川村には第二世の豊見城親方盛親から第十六世の豊見親方盛綱まで豊見城間切総地頭職を代々拝命し、殿内名も変わらず踏襲されていた。上寒水川村の一帯は、国頭殿内、識名殿内、伊野波殿内等はこの豊見城殿内の分家・支流であり、毛姓一族の独占した特有な地域といえる。


寒川町公民館

豊見城殿内から細い下り坂があり、その入り口に寒川町公民館と書かれている。坂を下っていくとそれらしき建物があるが、どうも使われていないようで、前の広場には草が生え放題になっている


寒川緑地

道を降りると、寒川緑地になる。西は先ほどの寒水川樋川 (スンガーフィージャー) から、東の金城町まで公園になっている。公園内には桜が何本も植えられて、今は桜が満開になっていた。

公園内には黄色の目立つ建物があり、よく見ると寒川自治会集会所と書かれていた。先程見た廃屋の様になっている寒川公民館がここに新しく建てられていたのだ。


下ヌ道 (シチャヌミチ)

東西に走る三本目の幹線道路は下ヌ道 (シチャヌミチ) で、芝居小路入口から急坂を降っていくと、この下ヌ道に出る。首里古地図にはこの道は描かれていないように思える。

この道は寒水川集落の下の境だったのだろう。寒水川村はこの急斜面に広がっていた。

下ヌ道の南側にはほぼ並行して川が流れている。この川一帯は畑だった。


海苔井戸 (ヌーリガー)

下の道へ降りた所の道路脇に海苔川 (ヌーリガー) 跡が残っている。かつての下寒川村の共同井戸で、清水にしか生育しないシマチスジノリがここにあったそうだが、いまでは石碑だけが置かれている。王府時代は松川村に属し、神女 (ヌール) が使用した井戸 (カー) とも伝わっている。この井戸の名の由来については、神女の使用したヌルガーからの転化したとの説もあるが、近世まで潮の干満の影響を受けた地形とシマチスジノリの繁茂していた状況から海苔川となったという説もある。後者の方が有力だそうだ。この周辺は寒川町でも最も開けている地域で、いくつもの集合住宅が立ち並び、その中には大型スーパーもある。


これで、首里寒川町巡りは終了。今日は朝は9時半に自宅に出発し、訪問を寒川町の終え、帰宅したのは6時半ぐらいになったが、だんだんと日が長くなり、まだ真っ暗にはなっていないほどだ。までこれからも日照時間は長くなり、使える時間が増えていくのはうれしい限りだ。


参考文献

  • 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗 (1979 那覇市企画部市史編集室)
  • 沖縄風土記全集 那覇の今昔 (1969 沖縄風土記刊行会)
  • 王都首里見て歩き (2016 古都首里探訪会)
  • 首里の地名 (2000 久手堅憲夫)
  • 古地図で楽しむ首里・那覇 (2022 安里進)
  • 南島風土記 (1950 東恩納寛惇)