3.音楽療法士から演奏家へ
音楽療法士から演奏家へ。まさか自分がこんな方向転換をするとは、夢にも思いませんでした。ちょっと大げさかも知れないけれど、これは、私が何よりも大切にしたいことを実現するための、命がけの冒険でした。
2008年に帰国してから、音楽療法士として、同時に音楽療法士養成コースや医学ゼミナールの講師として働かせて頂けることに、いつも感謝の気持ちでいっぱいでした。まだ若い私に、このような大きな任務を任せてくださった皆さんの期待と信頼に応えようと、精いっぱい力を注ぎました。そして、確かな手ごたえも感じていました。
でも、なぜか、私には心からの喜びがありませんでした。仕事は楽しいのに、家に帰って一人になると、どうしようもない虚しさに襲われました。気がついたら、うつ病で入院していました。仕事も殆ど出来なくなっていました。特に療法の仕事をすると、きまって病状が悪化しました。もう音楽療法士として働くことは出来ない、その現実を受け入れることは、とても辛いことでした。
先がまったく見えない日々が、何ヵ月も続きました。病状もまったく良くならない。このまま病み続けながら、自分は人生を終えるのだろう、と思っていました。
ある日、「わたしはマララ」という本と出会いました。自らの命を危険に晒しながら、教育の機会均等のために活動を続けた、パキスタンの15歳の少女の手記でした。病院でこの本を読みながら、「私も私に出来る精いっぱいの働きをしてゆきたい!」と強く思いました。今の日本の現状に対して、私は何が出来るだろう・・・そう考えた末に出た答えが、「街の中で音楽を奏でる」というものでした。精神的(霊的)な力が私の演奏を通して働くように、もっともっと演奏を磨きたい。聴きたい人が寄って来て、聴きたいだけ聴いて、聴いた分だけ投げ銭をしてくれたら、それでいい。誰も何も強制されたり押しつけられたりしない場所。音楽が人間の意図や目的から解放されて、自らの美の力を自由に発揮することが出来る場所、そんな場所をつくりたい・・・
そう、私は人を縛ることと、自分が縛られることが、死ぬほど嫌いなのです(笑)。
ちょうどその時期に、私は友人に誘われて、あるコンサートに出かけました。たぶん、帰国以来初めて聴きに行ったコンサートです。それが、私の大切な師匠となった、古楽・アイルランド音楽の演奏家、守安功さんと雅子さんのコンサートでした。功さん、出て来るなり、「さっ、じゃ、やろうか」と一言。ふつう、演奏者がそんなこと言うか??? なんという肩に力の入らない、ゆるいコンサートだろうと呆れたのも束の間、信じられないほどいきいきと自由でパワフルで繊細で心に迫って来る演奏に、私はすっかり感動してしまい、不躾にも終了後、「私、リコーダーやります!レッスンしてください!」と申し出ていました。「どうぞ!」という即答にのって、次の週、早速ライアーとリコーダーを持ってご夫妻を訪ねました。
それから2年。抱えきれないほどの宝物を私はご夫妻から頂きました。守安さんに背中を押されて、まだちょっとおっかなびっくり、慎重に、私は演奏活動を始めました。演奏の回数を重ねるにつれ、うつ病の症状が少しずつ改善しています。最後に、守安さんから頂いたメールの一部を引用させてください。
「でも、自由って、本当には、とても大変なことです
教えられた通りに、業界の掟通りに、洗脳された通りに、
パターンに乗って、何も考えずに、演奏することの方が、
ずっっっと、簡単で、苦労もなく、楽で、イージーなことです
天才は、苦労を「発明」します
いろんな人たちが、何も考えずに、目の前のことに、
無反省に向き合っているところに、痛みを覚え、
むなしさを感じ、目の前のことと、真摯に関わろうとします」
この言葉は、一人立ちした今でも、深く私の人生に根づいています。