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善立寺ホームページ 5分間法話 R⑧ R5.2.15日更新

2023.02.15 05:56

  「しあわせって」なんだろう―その①

 今回は「幸せって」なんだろうというテーマでお話ししたいと思います。

 皆さんは、日常、どんな状態になられたら、幸せってお感じになられるのでしょうか。

  最初に昔の古歌を紹介します。

 いつも三月花のころ

  お前十八、わしゃ二十(はたち)

  死なぬ子三人 

  皆孝行

  使っても減らぬ金百両

  死んでも命がありますように

 毎年のことですが、いただいた年賀状には何度か目を通します。年々、創意工夫を凝らしたカラフルな賀状が増えつつありますが、定型文は、圧倒的に「ご健康とご多幸をお祈り申しあげます。」です。誰に対して用いても受け入れられる無難な言葉ですね。

 「多幸」は、文字通り、幸せの多いことです。同義語では「多福」「多祥」などがあります。

 冒頭に紹介した古歌

 いつも三月花のころ は、自然災害がなく、流行り病いもない穏やかな一年を

 お前十八……    は、夫も妻もお互いいつまでも若々しくて健康で

 死なぬ子……    は、子どもたちが病気や事故で親より先に逝くことなく

 皆孝行 ……    は、家庭円満で親をいたわり大切にしてくれ

 使っても減らぬ…… は、収入が安定していて金に不自由することなく

 死んでも命が……  は、永遠に生きられますように

と、叶えたい多幸が端的に詠み込まれています。「死んでも命がありますように」などは、なんと欲張った内容でしょうか。でも、私たちが手に入れたいという思いが端的に表現されていて笑えませんね。

 お釈迦様は、人間はだれもが「四苦」」を抱えて生きていると説かれました。「四苦」とは、「生・老・病・死」という四つの大きな苦悩です。

 詩人の相田みつをさんは、この四苦を「真理」という詩で巧みに表現していますね。

 「生まれ 老いて 病んで 死ぬ だれにも避けられない 永遠の真理 真理の中に

  生かされている わたしのいのち」

 この真理については、だれもが教養としては知っているんですね。知ってはいるけれども、現実としては、そういう苦が自分の身の上には訪れないようにと願いや欲望に捉われてその思いから抜け出すことができずに苦しんでいるのが人間なんですね。

 幸福・幸せの対義語は不幸ですね。皆さんはどういう場合に不幸・不幸せと感じられるのでしょうか。願いが叶わない、欲しいものが手に入らない、世の中も人も自分が望むように動いてくれないなどなど、不平、不足、不満な状態が強くなればなるほど不幸感が膨らみますね。

 病については、自分はもとより家族が病んでも不安になりますね。私ごとですが、私は病の総合商社のようにいっぱい病を抱えています。心身のメンテナンスについては食養生に十分気を付け、信頼できる開業医には月一回の検診は欠かさす、医師の指示もしっかり守っています。

 平成21年10月の夜に生じた身体の異常について記します。その日の午前中に開業医で定期検診を受けました。医師からは、検査結果は異常ありません。このまましっかり療養に努めてくださいと励まされ、嬉しく安堵して帰りました。まさかその日の夜に味わった死の恐怖を体験することになろうとは想定外のことが生じました。

 その日の夕刻、友人がハマチが沢山釣れたからお裾分けだと、大きなハマチ持参してくれました。早速刺身にして夕食を摂った。8時過ぎのこと。鳩尾ミゾオチの辺りに何か異常を感じた。新鮮すぎるサカナを食べると食あたりすると聞いたことがあり、時間的にも食あたりかな?と思って、予防にセイロ丸を呑んでしばらく横になっていた。すると間もなく全身から冷汗がドツト噴き出して、頭からもポタポタと落ちてくる。肌着もずぶ濡れになり経験したこともない異常事態になった。コレハもう私の生涯も「一巻の終わり」かなと、正直にそう思った。家内は不在中で、孤独死になるかも、と思った。しかし、痛みもないし嘔吐も下痢症状もない。素人判断だけど、糖尿病を抱えているので、このままだと身体の中の水分が不足して血液がネバネバになって、脳梗塞か心筋梗塞か、糖尿病の合併症で二度破れている目の毛細血管がまた破れるかも知れないと思って、低血糖に備えて貯えているポカリスエットをカブ呑みした。でも汗は収まらない。これはもう救急車を要請しようと思って保険証とお金を準備しているとひどい汗症状が収まった。

 そこで、思い付きで何をしたかというと言うと、パソコンのスイッチを入れて、インターネトに接続、とりあえず、「病気、大量の冷や汗」と単語を打ち込んだ。すると、該当する病気の症状が画面に表示された。□心筋梗塞 □急性虫垂炎 □低血糖 これらの病気の詳細症状と応急手当も表示された。まず、血圧を測って見ると正常値。脈拍も異常なし。食後だから低血糖は該当しない。盲腸辺りの痛みも感じないので虫垂炎は除外。胸の痛みもないから心筋梗塞もないだろうと素人判断していると身体の異常感がなくなった。家内と娘には電話で報告、万一に備えて眠らずに夜明けを迎えて、前日に診察を受けている開業医に駆け込んで診察を受けた。異常状態が治まっているので、原因は特定できないとの診断であった。??。結局、異常汗の原因は不明であった。

 人間はだれも身体に異常を感じなければ、朝、目が覚めるのは当たり前。食事が摂れるのもトイレに行くのも新聞を読むのも、空気も光もみな当たり前と思って暮らしている。つまりは、普段、人間は、不思議としか言いようのないものに包まれていることに気付かないで暮らしている。たとえば、眠っている間は、人は意識して呼吸をしていない。なのに心臓は動いてくれ、意識して体温を36度に維持してもいない。肺も肝臓等の臓器も命令や指示もしていないのに働いていてくれる。朝、目覚めて、あぁ有難いことだなあ、などと感謝することなどしないで暮らしている。

 光も空気も食料も、異常な状態にならない限り、与えられ、恵まれていることに気付きはしない。当たり前の暮らし、当たり前感覚の中で生きていては、人間は、幸せ感なんて手に入れることは難しいと感じている。

「当たり前」の反意語は「有難い」です。私は、身の回りには有難いできごとがゴロゴロしていることに気付く人が、「幸せ」を手にすることができる人であると感じている。

 北海道常呂町にある浄土真宗大谷派の西念寺の奥様、鈴木章子さんは、癌の病で48歳で亡くなられた。病床で詠まれた『癌告知のあとで』という詩集を遺しておられる。この詩集の中には「幸せ」と題して詠まれた詩がたくさん載せられている。

 「幸せ」 気がついてみれば どれもこれも

      私には過ぎたものばかり 

      どんな幸せも 私には

      持ち切れぬほどの充分さ

 「幸せ」 幸せって 欲張り過ぎると 逃げてしまうものですね

      追いかけて 自分で掴むものだと 思っていましたのに 

      しあわせって いただくものでしたのね

      少しずついただいて 少しずつ分け合うことが

      大切なことだったんですね

 「幸せ」 幸せを追いかけると 追いかけていることが苦になる

      今が空になる

      お念仏に合わせていただいて もうすでに 持ちきれぬ程の

      幸せをいただいている

      自分を発見する 妙薬でございます

 私たちは、自然の恵み、無数の人々に支えられて暮らしています。何一つとして当たり前のものはないと思っています。昔の人々は、今、ここに自分が生きていることについて、自分が生きているのではない、自分は支えられて生かされていると受け止めて、

「有難い」と言い表しました。「有難う」は、英語の「サンキュウ-」や中国語の「謝々」のように、何かをしてくれた人に対して述べる単なるお礼の言葉ではないと思っております。私を取り巻くすべてのものの恵みに気付き、そのご恩やご縁を喜ぶ「お蔭様」の思いに気付く人には、多幸の人生が訪れるように思っております。

 次回は、4月15日に更新予定です。次回も「幸せ」についてお話します。