異国の春
この前とある公園で、真っ赤なブラシ状の花をつけたその名もブラシノキ(bottlebrush)という木の下を通りかかった。頭上でぶんぶん羽音がする。見上げると、いくつもの影が特徴的なホバリングと高速移動を繰り返しながら、花と花の間を行き来している。ハチドリについて、死骸をひとつ見つめて前回の記事を書いた後だったので、生きている個体がたくさん飛び交っているのを見て、なんだか安心したような、拍子抜けしたような気分になった。場所さえ知っていれば、けっこう普通に見られるのだろうか。
また別の日には、ジョシュア・ツリー国立公園というところに出かけた。ロサンゼルスから車で3時間ほど、東京都の1.5倍の面積で、広大な乾燥地帯が保全されている。公園の名前になっているジョシュア・ツリーというリュウゼツランの仲間や、各種のサボテンを始めとして、乾燥に強い奇天烈な形の植物がたくさん生えている。湿潤な日本の気候に慣れた頭では「砂漠なんて死の世界なのでは」と思ってしまうけれど、こちらに来て、それは間違いだということを学んだ。どんな環境にあっても、生物は適応のために気の遠くなる時間をかけて命を謳歌している。
ジョシュア・ツリー国立公園では一年中ほとんど雨が降らないらしいのだが、それでも私の訪れたときには、冬場のわずかな降水をとらえた植物たちが、あちこちで目の醒めるような花々を咲かせていた。さすがに動物はあまり見られないなと思っていたら、こんな土地でも特定の花にはハチドリが来て、活発に蜜を吸っている。ハチドリというのは、思ったより適応力のある、したたかな生き物のようだ。後で調べると、ハチドリに受粉を依存している砂漠の植物もあるらしい。
考えてみると、私がここに来たのは秋の始めで、生き物の活動が静かになっていく時期だった。ずっと暖かいので分からなかったが、山の下生えや市中の街路樹も干からびた枯葉だらけだった。その頃に比べれば、現在は草木が新しい枝葉を伸ばし、乾燥地の白っぽい景色にも鮮やかな緑が加わっている。蜜源となる花が増えたので、私がハチドリを目撃する回数も増えているのだろう。
単純にハチドリが多く飛んでいることに加えて、それを見る私の意識と「目」も変化している。前の記事を書いたときに、図鑑やネットである程度ハチドリのことを調べた。また、野外でハチドリを見つけるたびに、生きた姿のサンプルも頭の中に蓄積されている。
絵本の『ウォーリーをさがせ!』は、「ウォーリー」が何を指すのか分からないと楽しめないが、「ああ赤白ストライプの人ね」「眼鏡と帽子の人なのね」と学習することで、探す対象が目に入ってくるようになる。
同じように、ハチドリがどんな生き物か、なんとなく頭に入っていると、視界の隅で影が走っただけで「あ、ハチドリ!」と分かるようになる。分かるようになると、今度は何ハチドリなのか、種名まで見分けたくなってくる。カリフォルニアでは5種類ほどのハチドリが見られるらしいが、おそらく私はそのうちの1、2種しか見ていない。
名前が分かるというのは大事なことだ。知識を持たない人の目には「森」はたんなる緑色の塊にしか見えないだろう。しかし見る目があれば、そこに生えている木は何と何と何で、下草はどんな様子で、どんな食物連鎖があって、人の手がどんな影響を与えていて、生態系全体として衰えているのか、それとも豊かなのか、膨大な情報を読み取ることができる。読み取った情報は、「森」の正当な評価の前提となる。
漠然と広がる世界全体にそのまま向き合っても人は惑うばかりだが、その一部に名前をつけることで、はじめて他と区別された部分として認識することができるようになる。人間の赤ん坊はそうして世界の奥行きをつかんでいくのだろうが、今私は齢三十にしてその過程をやり直している。一時的に疑似赤ん坊と化した私の目には、きらめくハチドリも、花壇を這うダンゴムシも、同じように心惹かれる、謎をはらんだ存在である。
イシイシンペイ