フィリピンの歴史について
フィリピンは 日本から わずか4時間のフライトの距離だが、歴史や文化は 全く違う。
フィリピンは その立地から、永い間 他国に支配され続けてきた。
1565年にはスペインのミゲル・ロペス・デ・レガスピ(初代総督)が セブ島を領有したのを皮切りに、1899年まで300年以上 スペインの植民地となっていた。
スペインが16世紀に伝えたものは、ローマン・カトリックであった。そのため、今でも 人々のほとんどが、ローマン・カトリックの信者である。キリスト教徒は、フィリピンの全人口の90%以上を占める。
他には、スペイン人到来以前にもたらされた イスラム教が 南部ミンダナオ島を中心に5%、その他が1.8%、不明が0.6%、無宗教が0.1%である。
カトリック教会の影響下が強く、政教分離規定がフィリピン憲法にあるが、フィリピン司教協会は 離婚法や 人工妊娠中絶や 避妊に対して反対し、政治家に対して政治介入している。結婚があっても 離婚自体が 法律上無い国として有名であり、「離婚ができない国」は、バチカン市国と フィリピンのみ である。
永いスペインの支配が続き、1899年に アメリカの支援を受けて 念願の独立を果たすことができたが、そのアメリカとの 米比戦争の末 1901年には アメリカの主権下に置かれて、過酷な植民地支配を受けることとなった。
その後 第二次世界大戦が始まり、1941年 アメリカと開戦した日本軍が アメリカ合衆国軍を放逐し マニラ市に上陸した。アメリカ軍司令官のダグラス・マッカーサーは オーストラリアに撤退し、1942年 日本軍は フィリピン全土を占領したのである。
それから日本の敗戦までの3年弱、フィリピンは 日本軍とアメリカ軍の戦場となり、110万人ものフィリピン人が犠牲となった。
1945年に日本の敗戦とともに、再び アメリカの統治下に戻ったが、翌年 マニラ条約により 再度の独立を果たした。
フィリピン第6代大統領、エルピディオ・キリノ。
彼も 日本軍に 家族を殺された一人 であった。
フィリピンのモンテンルパ刑務所に 日本人戦犯108名(うち53名の死刑囚を含む)が収容されていた。終戦後に 大統領に就任したキリノは、 憎しみを超えて 収容所にいる日本人戦犯を 全員釈放することを 決めたのだ。
『私はこれまで、日本人戦犯に対する恩赦の請願を 種々の形で熱烈に受けてきましたが、最後の最後まで 許すことが出来ませんでした。なぜなら、私は 妻と3人の子供、及び 5人の家族を 日本人に殺されたからです。しかし、もし 私が この個人的な怨みを いつまでも持ち続けるなら、私の子供たちも 次々と 永遠に持ち続けることになるでしょう。将来、フィリピンと隣り合わせの位置にある日本との関係は,あらゆる点において 親しく助け合って 共存共栄の実を 挙げなければなりません。そのためには 私恨を断ち切らなければならない、と決心したのです。』
『私たちは、憎しみや 恨みの気持ちを 永遠に 持ち続けるわけにはいかない。もし、許すことができなければ、穏やかな人生が訪れることはないのだ。我々は 許すことを学ばなければならない。』
これはフィリピンの民族性に起因する「寛容の精神」が根底にあり、これを聞いた大多数の国民も大統領に賛同したのだ。そして 東南アジアの他の国々も フィリピンに習って、次々と恩赦へ傾いていったのである。
中国と韓国を除いて・・・
1965年より 反共産主義を唱えるフェルディナンド・マルコスが、マルコス独裁国家体制を築いた。
アメリカ合衆国からの支持を得たマルコス政権は、経済成長ももたらしたが、20年に渡る 開発独裁政権となり、イメルダ・マルコス大統領夫人をはじめとする取り巻きによって、私物化され 腐敗した政権であった。それが 今日まで続いている「汚職まみれの役人構造」の根源と言っても過言ではない。
そんな政府に対して、中国やロシアからの支援を受けたモロ民族解放戦線や、再建共産党の新人民軍 (NPA) 、また、ミンダナオ島を活動拠点とする、南部武装ムスリム勢力などが反政府活動を活発に展開しているのも事実である。
このような不安定な状態を嫌う フィリピン人の富裕層や エリート層や 知識人が、アメリカ合衆国などの 英語圏に移住してしまうケースが多く、優秀な人材が海外へ 頭脳流出してしまう現状が、フィリピン経済の発展を妨げている。
現在では フィリピン系アメリカ人は アメリカで2番目に多いアジア系外国人で、移住や高い出生率で年々増加し、現在400万人のフィリピン人がアメリカに移住している。