カラー秘録 太平洋戦史(1974)
『カラー秘録 太平洋戦史』は、東京12チャンネル(現・テレビ東京)制作のドキュメンタリー番組で、アメリカ軍記録班(モーパック)が撮影した映像をベースに構成されております。60分番組で全23回。
個人的には『秘録・第二次世界大戦』と並ぶ、戦争ドキュメンタリーの双璧だと思っておりますが、残念ながらDVD化はされておりません。
1 奇襲!真珠湾
1941年12月8日真珠湾、いつものように穏やかな日曜日の朝を迎えようとしていた。突然の日本軍の攻撃は、この街を火の海と化した。これは後に日本軍が痛烈な洗礼を受けることになる太平洋戦争の始まりであった。
2 第一次比島作戦と東京初空襲
石油資源確保のためフィリピンに破竹の進撃を続ける日本軍に対し、米軍は防戦一方であった。しかし、空母「ホーネット」、「エンタープライズ」から発艦したB-25による日本本土初空襲は、わずかながらも日本上層部に対して、心理的動揺を与えることになる。
3 珊瑚海海戦
1942年5月7日、ニューギニアのポートモレスビー攻略のため珊瑚海に入った日本機動部隊はアメリカ第17機動部隊と遭遇、「翔鶴」「瑞鶴」対「レキシントン」「ヨークタウン」が戦大戦史上初の空母戦の火蓋が切って落とされる。
4 ミッドウェー海戦
日本連合艦隊司令部は、米軍の空母をおびきだし致命的な打撃を与えるべく、山本五十六連合艦隊司令長官自ら旗艦「大和」に座乗し、日本海軍の総力を結集したミッドウェイ作戦を決定する。1942年6月5日、歴史に残る大海戦が幕を上げる。
5 死闘の島ガダルカナル
日本軍は南太平洋において着実に占領地域を拡げていった。一方アメリカ軍は反撃の足場をガダルカナル島に固めた。アメリカ軍に占拠された飛行場奪回のため、一木支隊900名の日本軍がその真正面から突撃を開始した。
6 激闘ガダルカナル
旧日本軍のガダルカナル島の反撃作戦はいよいよ激しさを増し、第2次ソロモン海戦の火蓋が切られる。そして日本陸軍川口支隊4000名は、ガダルカナル上陸に成功。米軍より飛行場奪回のため、三方より突撃を開始する。
7 ソロモンの激闘
日本軍川口支隊敗退の後、大本営はガダルカナル島奪回の決意をさらに固め、丸山師団の総攻撃を旗とした。弾薬も残り少なく、兵士たちは飢えと戦いながら突撃したが、再び敗退する。あくまでガダルカナル島を奪回するか撤退するか、大本営は今や重大な選択を迫られる。
8 ニューギニア攻防戦
南太平洋にて防戦一方であったアメリカ軍はガダルカナル島の占拠から攻勢に転じてきた。このような中で日本軍はニューギニア作戦を開始したが、地形の困難と食糧不足は、ガダルカナル島よりもっと悲惨な戦いを強いられることになる。
9 死守ラバウル航空基地
1943年4月、山本五十六連合艦隊司令長官はラバウルに進出する。この地に司令部を設置し、自ら航空部隊の指揮を取り、米軍優勢な航空兵力を一気に打ち砕く報復攻撃を押し進めるためであったが・・・。同月18日、最前線にて壮絶な戦死を遂げた。
10 壮烈!タラワ島玉砕
アメリカ太平洋艦隊司令長官ニミッツ大将は、ハワイ真珠湾を基点とし、日本までの最短距離である中部太平洋を直接横断する作戦を練っていた。そしてギルバード諸島のタラワ島が最初の攻撃目標となった。
11 アッツ島玉砕
北方より迫るアメリカ軍の脅威に備えて、千島列島に近いアリューシャン列島に航空基地を置かれるのを避けなければならなかった。そしてアッツ島にて、米兵1万1000名に対し、2千500名の山崎部隊の必死の防戦が繰り広げられる。
12 壮絶サイパン島攻防戦
アメリカ軍は長距離爆撃機B-29の開発に伴い、日本本土を直接攻撃できる太平洋上の基地の必要に駆られていた。そしてマリアナ諸島サイパンに大機動部隊が殺到する。対する日本軍は南雲中将以下、陸・海合計3万2千名がサイパンにたてこもっていた。
13 サイパン島玉砕
1944年6月15日のアメリカ軍サイパン上陸以来、圧倒的な兵力の前に日本軍は後退を余儀なくされ、7月7日バンザイ突撃、玉砕に至る。そして日本本土空襲の基地としてサイパンの飛行場に次々とB-29が舞い降りた。
14 マリアナ諸島攻防戦/テニアン・グァム作戦
サイパン島の陥落は戦局に重大な変化をもたらした。すなわちB-29が直接日本本土を攻撃できる基地をアメリカ軍に与えたことであった。また、サイパンに200門の重砲を据え付けたアメリカ軍は、5km先のテニアンの日本軍に向かって砲弾の雨を降らせた。
15 ペリリュー島の死闘
1944年9月、パラオ諸島ペリリュー島にたてこもった日本軍守備隊1万名は、押し寄せるアメリカ大軍の前に壮絶な戦闘を繰り返した。40日に及ぶ激戦でわずか150名になった日本軍の守備隊は、以後終戦まで執念のゲリラ戦を続けることになる。
16 太平洋の天王山/レイテ激戦
アメリカ軍の怒濤の進撃を阻止しようとした日本軍は、必勝を期して捷一号作戦を発動した。戦艦「大和」「武蔵」を中心とした日本連合艦隊は総力をあげてレイテ湾に突入する。また、この作戦から出現した「神風特別攻撃隊」は、零戦に250キロの爆弾を搭載してアメリカ空母めがけて勇壮な体当たりを敢行する。
17 フィリッピン作戦/ルソン島の攻防
第14方面軍司令官山下奉文大将は、レイテ島の敗北によって、アメリカ軍の日本本土直接攻撃は避けられないことを悟った。そしてこれまでの戦術を大転換、持久戦構想を打ちたてた。それは、アメリカ軍をできるだけルソン島に引き止め、日本本土攻撃を少しでも遅らせるためである。
18 地獄の硫黄島/摺鉢山の血戦
1945年初め、アメリカ軍司令部は、B-29による日本本土爆撃をより具体化、そして沖縄作戦を遂行するために、サイパンと東京の中間に位置する硫黄島攻略の決定を下した。一方、栗林中将以下日本軍は、硫黄島の重要性から全島要塞化に全力を注いだ。
19 硫黄島いまだ陥ちず
1945年2月23日、硫黄島摺鉢山に星条旗がひるがえった。しかし、硫黄島の戦闘が終結したわけではなかった。アメリカ軍の予想を裏切り、作戦終了日が大幅に遅れていた。栗林中将以下、日本軍守備隊は固い決意のもと、洞窟陣地にたてこもり、3月26日総攻撃に転じる。
20 マニラ市攻防戦/山下奉文とマッカーサー
"マレーの虎”と恐れられた山下奉文大将は、マニラ市を戦場から外そうとしたが、軍内部の反対により、2万人の兵士により、玉砕覚悟でマニラを死守することを強いられる。そして大将から元師に昇進、意気あがるマッカーサー軍と対する。
21 最後の戦い沖縄
1945年3月26日、アメリカ軍は沖縄本島に上陸を開始した。一方牛島中将以下日本軍は、住民の協力を得て、強力な防備体制を築いていた。しかしそれはまた、住民の集団自決という悲劇を生み、沖縄住民15万人のあまりにも多大な犠牲者を生んだ。
22 本土進攻作戦
沖縄の戦いが終り、米軍は総仕上げとして日本本土上陸を覚悟していた。日本の主要都市は、連日のB-29の爆撃により、食料が底をついていた。そんな中、B-29による原爆投下部隊の訓練が密かに進められ、テニアンにて発動の命令を待っていた。
23 終戦
日本本土への連日の爆撃により焼土と化し、食料も底をついていた中、世界最初の原子爆弾が広島、長崎に投下される。そしてついに日本国は、ポツダム宣言を受諾。4年にわたる太平洋戦争に終止符を打つ。