私の原点と向き合う(1)(2023.2.15)
1月に入塾した政経塾の課題の一つが、自分の原点を突き詰めて考えるというもの。
こうした思考は、普段からもち合わせるているので、思考し、深める作業にはストレスはないが、最終的に自分の今からの行動原理に落とし込む、実践につなげるのは、実に難しい。
なぜ、私が難しいと思うのかは、また、いずれ書きたいと思う。
原点を想起する中で、自我の目覚めについて、漠然としたイメージは、
小学1年生で始めた剣道。
なぜか、異常にのめり込んだ、特に小学生時代。
私を愛弟子のように可愛がってくれた師範代の先生から、宮本武蔵の五輪書の話を聞いた。
一番影響を受けたのが、構えはなし。というものだった。
五輪書からその部分と現代語訳を引用する。
五方の搆の事。
五方の搆ハ、上段、中段、下段、右の脇に搆る事、左の脇に搆る事、是五方也。
搆五ツにわかつといへども、皆人を切らむため也。
搆、五ツより外ハなし。
何れの搆なりとも、搆ると思はず、切事なりと思ふべし。
「構えは五つに分けられるが、いずれも人を切らんが為なり。構え五つより外は無い。いずれの構えも、構えると思わず、切ることなりと思うべし。」
人間、「構える」ようであれば、まだまだ究め悟っているとは言えない。「構え無し」の極意、すなわち平常心や自然流の域に到達しなければならない、と言っている。
剣道は常に相手の目を見て、全体を見る。
イメージ的には、目が先に動き、動きが始まる。その一瞬の目を動きを見逃さない。
もしくは、相手の目が動く前に、こちらが動く。
相手が気合いを発するのは、威嚇もあるが、おそらくは、こちらの平常心を崩すことが狙いである。これは手段の差こそあれ、他のスポーツでも同じことが行われる。
日本における道。道とは何か。
自分と向き合うことである。ひたすら自分と向き合うことで、今の我を知り、人として何が足りないのかを考える。
自分に焦点を当てれば当てるほど、自分というものがわからなくなり、いずれ、実は自分というもものなど、無いのではないかと気がつく。
いや、自分が自分をわかろうとする、位置付けるなど、無意味であるということを悟るのである。そういう感覚が心身に入った時に、とてつもない自由と可能性を得た気持ちになれる。
その境地こそが、空なのかもしれない。
ポリシーを固めること。それは、大変、重要に思えるが、執着することとは違う。
執着を持つと、自分とはまったく違うものを否定的に見てしまい、成長を妨げてしまう。
構えは自分流のスタイルではなく、人を切るためにある。(剣術の場合だが)。
誰かに認めてほしい。評価されたい。と考え、構えたり、行動するのではない。
あくまで、私が何をすべき使命のためだけに、構えがある。
師範代からは、己を磨け、己に集中せよ!
と、常に繰り返し教えをうけた。
素振り1振りで自分を。もう1振りで自分を。
そして、稽古が終わり、神前に対座し、呼吸を整え、黙想し、そこで、また自分を考える。
私が、少年剣士だった頃に、机の前に張ったのが、以下の 「二天一流の兵法の道」だった。
「二天一流の兵法の道」
第一に、邪心を持たぬこと。
第二に、二天一流の道をきびしく修行すること。
第三に、広く諸芸にふれること。
第四に、さまざまな職能の道を知ること。
第五に、ものごとの利害損得をわきまえること。
第六に、あらゆることについて、ものごとの本質を見分ける力を養うこと。
第七に、目に見えぬ本質をさとること。
第八に、わずかなことにも、注意をおこたらぬこと。
第九に、役に立たぬことをしないこと。
やはり、56歳の今も、何も変わらぬ。