神の安息に入るには
こういうわけで、神の安息に入るための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれに入れないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。ヘブル4:1
先日、MLBで活躍した野茂英雄選手が1995年に「ノーヒットノーラン」を達成したときとVTRを見ました。この日は野茂選手がなかなか三振を取れず、はらはらするピッチングだったことがわかりましたが、、、でも安心して観ることができたのは「結論」がわかっていたからです。主イエスさまを信じて救われている私たちの人生も(実は)同じだと思いました。はらはらする出来事があるけれど、結局は神の最善がなることを知っているからです。
出エジプトを経験したイスラエルの民は神のことばを聞き、約束の地に入ることができるという良い知らせを聞いていました。にもかかわらず、彼らは荒野を40年もさまよい、ヨシュアとカレブ以外はみな死に絶え、残った民は新しい世代だけとなりました。彼らは(モーセを通して)神のことば(良き知らせ)を聞いてはいましたが、信仰をもって(それを)受け取ることがなかったわけです。同様に、私たちもイエス・キリストが「わたし」の罪のために死なれ、よみがえられた、という「福音」を聞いています。でも、もし、この福音を聞きながら、それでもなお、信仰をもって(それを)受け入れなければ、荒野で滅んだイスラエルの民と同じように滅んでしまうのです。4章2節には、このような「みことば」があります。
福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。
ここには、とても大切な信仰の原則が記されています。イスラエルの民が約束の地に入ることができなかったのは、「みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかった」ということです。「信仰は聞くことからはじまる」(ローマ10:17)とのみ言葉がありますが、★信仰は「いかに聞くか」にかかっています。
イエス様の救いを信じる私たちにとって、主の救いを信じる生き方とは、みことはを通して「神が私たちに語られていることをいかに聞くか」が「いのち」なんですね。その聞き方とは、信仰をもって聞くことです。
イスラエルの民は、(モーセを介して)神の声を聞いていましたが、神が「わたし自身」に語ってくださっているものとして聞くことができませんでした。一方、ヨシュアとカレブの二人が約束の地に入ることができると確信していたのは、神が約束されている「み言葉」を素直に信じていたからです。★これが信仰なんですね。信仰とは「みことば」を(信仰によって)自分自身に(当てはめて)結びつける必要があります。わたしたちは(イエスさまの救いという)神の素晴らしい恵みの中に入れられているわけですから、み言葉を自分への語りかけとして受け取り、大胆に神に近づきましょう。