初めてのハッピーバースデー
大切な人の誕生日に、おめでとうと言ったことがない。
ありがとうと伝えたこともなければ、だいすきという気持ちの欠片すらも口に出したことがなかった。
誰より愛しい弟の誕生日に兄が口に出来たのは。
"僕が付いているからね"
"きっとすぐ良くなるからね"
"少しだけでもお水を飲もうか"
誕生日とは一切関係のない、体調を気遣う言葉ばかりだった。
寒さが残る春間近の冬に生まれた弟は、その誕生日には必ずと言って良いほど風邪を引く。
赤く火照った顔で熱を主張し、ケホケホと息荒い咳を繰り返し、堪えきれない苦痛を呻くことで小出しにするのが、ルイスの過ごす誕生日だった。
だから兄は一度だってルイスの誕生日に「誕生日おめでとう」と言えたことがないし、「生まれてきてくれてありがとう」と言えたことも、「今までもこれからも、ずっとだいすきだよ」と言えたこともない。
せっかくの誕生日に風邪を引いていることを知らしめるのは、ルイスにとって残酷なことだと思ったからだ。
ゆえに兄にとって弟の誕生日とは、苦しむ弟を励ます日であり、いなくなってしまわぬようひたすらに祈りを捧げて看病する日でしかない。
生まれたことへの喜びよりも、死んでしまう恐怖の方がその心の大半を占めていたのだから、今更祝いの仕方など分からなかった。
「誕生日の祝い方が分からない?」
「はい…」
クリスマス休暇を終えた一月の始め、ウィリアムはアルバートとともにイートン校の寮へと戻っていた。
長い休暇を過ごしたのは建てたばかりのモリアーティ邸だ。
可能な限りのセキュリティに力を入れた新しい屋敷には、モリアーティ家の末弟であるルイスが一人住んでいる。
一人とは言っても週に三度はジャック、もしくはロックウェル家の人間が様子を見に来ているため、ひとまずの不安はない。
もう半年もすればルイスもイートン校に入学するのだから、それまでの間に屋敷の管理に慣れておきたいという当人の希望を聞いた結果、この形に落ち着いたのだ。
今頃ルイスは屋敷の隅々までを丁寧に掃除しているのだろう。
そんな弟のことを思いながら、ウィリアムは兄の部屋で瞳を伏せながらアルバートへと問いかけていた。
「そうだな。一般的に考えるのなら、ケーキに蝋燭を立ててプレゼントとともに"おめでとう"と伝えるのが誕生日の祝いだろうね」
「ケーキとプレゼントと"おめでとう"…」
「ルイスの誕生日だろう?ケーキは馴染みのパティスリーで予約をしているが、何か希望があるのかい?」
アルバートは机に置かれた卓上カレンダーを見やり、そのままページをめくって二月を表に向けた。
二月頭に誕生日を迎えるルイスを祝うのは、アルバートにとって初めてのことだ。
それどころか、そもそも兄弟の中で誕生日の祝いをするということ自体、今回が初めてである。
昨年五月に過ぎたアルバートの誕生日は生活を切り替えることに精一杯で、祝い事どころではなかった。
アルバートの復学とウィリアムの入学を記念してルイスが中心となり祝いの席を設けたことはあったけれど、誰かの生誕を慈しみ祝うのは、来月迎えるルイスの誕生日が彼らにとって初めての経験になる。
まだまだ時間の余裕はあるが、せっかく自分に懐いてくれた可愛い末弟の誕生日だ。
アルバートとて何か記念になるようなものを送りたいと考えていた最中である。
おそらくはウィリアムもそうなのだろうと思っていたのだが、彼の様子を見るにどうやらそれ以前の問題らしい。
全てを見透かすその笑みが、今のウィリアムの顔には張り付いていなかった。
「…何を贈るのか悩んでいる、というわけではなさそうだね」
「プレゼントもよく分かりませんが、そもそも誕生日にはあまり縁がなくて」
「縁がない…とは?誕生日は毎年来るだろう」
「…ルイスはいつも、誕生日に寝込んでいたので。僕はルイスの誕生日を祝ったことがないんです」
ルイスが生まれてくれたこと、世界中の誰より僕が一番嬉しいのに、ケーキもプレゼントも、おめでとうと言ったすらない。
ウィリアムの口からぽつりぽつりと出てきた言葉達は普段の彼からは想像出来ないほど頼りない、迷い子のような声色だった。
初めて聞くその声にアルバートは驚き、しかし不謹慎ながらもウィリアムの精神がより近くに感じられて、どこか嬉しく思ってしまった。
「僕にとっての誕生日は生まれてきたことを祝う日ではなく、死んでしまわないよう祈る日でした。苦しむ姿を見たくないから懸命に看病するのに、寝入ってしまうともう目覚めないんじゃないかとひたすらに怖くて、ふと気付けば誕生日なんてとうに終わっているんです」
「…そうか。そうだったんだね」
「……もっと昔は、張り切って祝おうとしていたような気がするんです。ケーキとプレゼントは用意出来なくても、温かいパンとスープを用意してお腹いっぱい食べさせてあげてから、おめでとうを言うため準備していたのに。いつしかそれもしなくなった」
結局食べられない食事よりも高価な薬を用意した方がルイスのためになると知ってしまってからは、何の用意すらもしなくなってしまったのだと、ウィリアムは両の拳を握りしめて長く秘めていた心の中を吐き出した。
ルイスに伝えたことはない。
薬を使うことにすら、せっかく貯めたお金を無駄遣いさせてごめんなさい、と謝るような子だ。
ウィリアムが秘密で食事を用意していたと知れば、熱で朦朧としている中でも無理を押して食べようと起き上がり、病状は悪化していたことだろう。
ルイスに秘密で用意した食事は秘密のまま、数口だけウィリアムの胃に入った以外は時間とともに駄目になってしまった。
「この冬、ルイスは体調を崩すことが減ったようです。もしかすると、初めて誕生日に元気な姿で過ごしてくれるのかもしれない」
「確かに顔色は良かったね。体が冷えないようきちんと部屋を温めて重ね着もしていた」
「僕はルイスの誕生日に看病しかしてこなかったから、どうすれば良いのか正解が分からないんです。あの頃みたいに食事を用意すれば良いのでしょうか。それとも形となる物を贈れば良いのでしょうか。蝋燭を灯したケーキなんて見せたこともないのに、今更用意したところでルイスは喜んでくれるのでしょうか」
眉を下げて、どうすれば良いのか分からない、と訴えるウィリアムの背をアルバートは撫でる。
いつだって頼りになる弟の、年相応に弱く脆い姿を見るのは初めてだった。
アルバートが想像していたよりも悲しい過去を生きてきて、今尚それを引き摺っている様子が痛ましくて仕方がない。
けれどウィリアムがこんなにも思い悩む理由など、結局一つしかないのだ。
「…ウィリアムは、ルイスの誕生日を祝いたいんだね」
「は、い」
「ルイスが生まれたこと、とても嬉しく思っているんだね」
当然だという肯定しかない紅い瞳を見て、アルバートはそのあまりの麗しさに胸が震えるようだった。
ウィリアムとルイスが経験したことのない誕生日の祝いをアルバートは経験したことがある。
だが誰一人として、アルバートの誕生を尊く慈しんでくれたことなどない。
アルバートの誕生はモリアーティ家嫡子の誕生でしかなく、それはつまりアルバートでなくても誰でも良いことと同義だった。
誰にも己が生まれたことを喜ばれたこともなければ、その心から来る祝いを貰い受けたこともない。
義務的な祝いの席に促されるまま座り、口先だけの言葉と見せかけのケーキとプレゼントを受け取ったことを、誕生日の祝いと称してはいけなかった。
ルイスを愛しく思うがゆえに正解を求めて思い悩むウィリアムを見て、アルバートは自身が誕生日を祝われたことなどないことを自覚してしまう。
けれどそれで良かったと思う。
アルバートに知らなかった世界を教えてくれるのが、新しく弟になった二人で嬉しいとさえ思うのだ。
「ルイスがこの世界にいることを嬉しく思うのなら、ウィリアムがどう行動しようとそれはきっと素敵な祝い事になる。僕はそう信じている。誕生日の祝いとはウィリアムが今抱えている気持ちの通り、嬉しいという感情を伝えるのが正解だと思っているよ」
「でも」
「ウィリアムが今までしてきた看病だって準備だって、それは立派な誕生日の祝いだ。ルイスの安寧と健康を祈ることだって祝いになる。恐怖を感じるほどルイスを大切に思っていたこと、ルイスが知ればきっと嬉しいはずだよ」
「…でも僕は、ちゃんとルイスを祝ってあげたかった。今度こそルイスを祝ってあげたいんです」
「ウィリアムなら出来るさ。ルイスが生まれたことを世界で一番喜んでいるのは君なんだろう?」
自信を持って良いとアルバートに励まされ、ウィリアムはようやく顔を上げて彼の顔を見る。
自分よりもルイスよりも幾分か大人びているその顔は確信に満ちていて、誰かを頼ることでこんなにも心が軽くなるなんて初めて知った。
ウィリアムはアルバートの言葉を頭の中で何度も反芻する。
おめでとうのひとつも言えなかった後悔ばかりの過去を、アルバートは許してくれるのだ。
ルイスの誕生日を懸命に生きてきたウィリアムの行為自体が祝いに繋がっているだなんて、一度としてそう認識したことはない。
気休めだとしてもそんなふうに考えたことのなかったウィリアムにとって、アルバートの言葉は確かに救いのひとつになっていた。
「こんなにもルイスを大切に想っているウィリアムなのだから、その一つ一つは必ずルイスに伝わっている。食事もケーキもプレゼントも良いが、きっとルイスはウィリアムがいればそれで満足なのではないかな」
ウィリアムを見上げる赤い瞳はいつだって信頼と親愛に満ちていて、ともすれば危うげなほど兄に心酔し、健気に想い続けているのがルイスだ。
一人屋敷で過ごす方がきっとストレスであり、誕生日に関係なくウィリアムと共にいることを望んでいるのがルイスなのだから、誕生日の祝い方を悩む必要などない。
それほどにウィリアムとルイスの絆が強いことを、アルバートはもう知ってしまっている。
眩く尊い繋がりはアルバートに新しい感情を教えてくれて、彼らに近しいところにいることで自分も美しいものになったような気持ちになれるのが嬉しかった。
「…ルイスは、僕がろくに誕生日も祝ってくれない酷い兄だと、怒ってはいないのでしょうか」
「ルイスのことはルイスに聞かなければ分からないな。けれど、ルイスがそういう子だとウィリアムは思っているのかい?ウィリアムが大事に見守ってきたルイスがそんなことを思う子だと?」
「いえ。…ルイスは僕に依存するよう教えてきたので、そんなことを思ったりはしないはずです」
「これは衝撃的な言葉が出てきたね。けど、僕もそう思うよ。ルイスはそんなことを思ったりしない。だから、ウィリアムが思うままルイスを祝うと良い」
こくりと、ようやくウィリアムは理解したように頷いた。
無駄になってしまった食事も、あらかじめ用意していた薬も、必死に看病してきた時間も、ウィリアムからのルイスへの祝いだ。
悔しいけれど大事な、ウィリアムとルイスが過ごした消せない過去である。
あの過去があるからこそこれから先により期待してしまうのだ。
元気になった弟を初めて祝うだろう来月があんなにも憂鬱だったのに、今は待ち遠しくてどうしようもない。
「…二月六日、ルイスが笑って過ごしていられると嬉しいです」
「そうだね。僕もそう思う」
今まで願い続けていたのに一度として叶わなかったことが、ついに今年は叶うのかもしれない。
病弱だった弟の顔色が良くなっていく様を誰より間近で見ていたのだから、ウィリアムにとってのこれは希望ではなく予感だ。
来月見るルイスの顔は熱ではなく興奮で赤く染まり、痛めていない喉からは高く澄んだ声が聞こえ、控えめに笑う表情からは屈託のなさが滲み出る。
そんなルイスを見て、自分は何を思うのだろうか。
ウィリアムは近い未来を想像して、心優しい兄らしく朗らかな笑みをアルバートに見せていた。
そうしてやってきたルイスの誕生日。
前日に寮から帰省していたウィリアムとアルバートと共に夜遅くまでベッドで夜更かししていたルイスが目覚めた瞬間、ウィリアムは大粒の涙をこぼし声をあげてルイスの体を抱きしめた。
初めて見る兄の様子に驚いたルイスは慌ててどこか痛いのか尋ねたけれど、返事どころか明瞭な言葉すら返ってこない。
ルイスはおろおろとアルバートを見るけれど、彼も彼でうっすら瞳を潤ませながらウィリアムに抱きしめられる自分を見るばかりだ。
どうすれば良いのだろうか。
少しだけ悩んだルイスだが、それでもウィリアムの温かな体に抱きしめられるのが嬉しいからこれはこれで良いかと、考えることをやめてその抱擁を堪能することにした。
(っく、う、うぅ〜…ぐす、ルイス、ルイス…!生きてる、ルイスが生きてる…!)
(に、兄さん?)
(ぐす…良かったな、ウィリアム…本当に良かった)
(兄様…?)
(ありがとう、ルイス。良かった、君が元気で僕は本当に嬉しい…!まさか今日、こんなに元気なルイスを見られるなんて…ありがとう…!)
(…?はぁ…それはどうも…?)
(…誕生日おめでとう。おめでとう、ルイス。今までもこれからもずっとだいすきだよ。ルイス、ありがとう)
(…はい!)
(やっと言えた…本当におめでとう、ルイス)
(うぅ…おめでとう、二人とも。本当に誕生日おめでとう、ルイス)