音楽の表現とファミコン
トランペットのレッスンは奏法や楽器についての基礎的な知識、練習方法、音楽の作り方や解釈についてなど、そのときの生徒さんが求めていること、必要なことが話題に上がります。
レッスンでは、そのほとんどが実際の演奏か言葉による伝達です。
同じ言葉を使っても、ある生徒さんにはストレートに伝わり、ある生徒さんには真逆に解釈される、なんてこともあります。言葉は本当に難しい。
中でも伝わりにくいのは、自分の中で消化されていない言葉、いわゆる受け売りの場合(僕はこれは使いませんが)、自分の中だけで理解している言葉をそのまま伝えること、専門的な用語を多用する場合です。
理想は僕の言葉が生徒さんの中で「脳内翻訳」できること。
そのために必要なことは「共通認識」です。
例えば「この場面は嬉しい気持ち」、と伝えたとしましょう。「嬉しい」は当然お互いが持っていて、経験したことがあるものですから、僕があまり細かく言わずに、生徒さん自身が感じられる「嬉しいこと」を想像してもらえれば良いのです。
共通認識ができれば、おおかた伝わるものです。
音楽は、現実と架空が入り乱れている存在です。それは作品に込められたテーマもそうなのですが、例えばリズムとかテンポというものは歩いたり飛び跳ねたり、ボールを投げたりバウンドさせたり、そういった日常的な現象がそのまま音楽表現になることが多々あります。
一方で、「投げたボールが空中で止まったまま」とか「今までここにいた人が忽然と姿を消す」と言った自然の法則を無視したことも平気でできてしまうのも音楽の楽しさのひとつです。
現実的であって、非現実的な存在。
これは音楽だけに限らず、クリエイティブな世界で共通していることです。
中でも身近でわかりやすいのが「ゲーム」。
ファミコン。
僕は初期ファミコン世代です。小学生の頃は生きている時間のほとんどをファミコンに捧げていました。
ゲームは楽しいです。それぞれに違った世界観があり、現実的なものも非現実的なものも一度に楽しめる。
小学生まででファミコンをやり尽くしていた僕は、中学へ入り吹奏楽部に入ると、それまで持っていたファミコンに対する興味や熱量のすべてをトランペットに注ぎました。
僕の中でゲームとトランペットは繋がっているのです。
ですから、音楽で何かを表現したり、イメージをするそのほとんどがファミコンになるわけです。
例えば、拍感やフレーズ感は、スーパーマリオなのです。
先日、今年度の吹奏楽コンクール課題曲のトランペットパート解説を全曲掲載完了したところなのですが、一番最後の更新記事で、こんなものを掲載しました。
この場面は5拍子なのですが、いちいち細かくビートで12345!と数えるのではなく、後半は少しジャンプ力が高いと思えばもっと自然に5拍子を感じられますよ、といったことを書いたわけです。
こんな発想はまさにスーパーマリオ。特に上に掲載した動画のジャンプ台を使うとジャンプ力が飛躍的に上がるところなど、まさにこれ。
音楽には「フェルマータ」という記号があって、場面によって様々な解釈ができるのですが、そのひとつに「次に行くことができずにストレスがたまる→そして解放されるとそれまでのストレスが爆発する」
こんな解釈をする場合もあります。
これもゲームで解釈しています。
これはファミコンではなく、PCエンジンというハードのゲームでしたがよく遊んでいました。
シューティングゲームはミサイルを連射することが多いですが、このゲームは「溜め」ができます。ボタンを長押しすると画面下中央のゲージが伸び、伸びたゲージのぶんだけパワーのある一発が発射できる。
少々時間がかかるけれど、溜めたことによって爆発的な次が生まれる。
フェルマータに限らず休符の存在やシンコペーションなど、音楽ではこういった場面がとても多いです。
他にも、テンポや指揮などは重力や引力の知識がとても重要です。物体の自然落下と、上にのぼっていくためには力が必要なこと、それらは「バルーンファイト」で学びました。
海辺の巨大ナマズが怖いんですよね。
僕は音楽とあらゆるゲームの経験が複雑に関係しています。
ゲームをすることを推奨しているのではなくて、どんなことでも経験したことは何かしら自分の中の「引き出し」としてストックしていて、それを的確に必要なぶんだけ場面に応じて出していけるかが大切です。
一見音楽とは無関係に思えることも何らかの役にたつ。だからたくさんの様々な経験は無駄にはなりません。
荻原明(ドラクエXI、最初の街到着を最後に一度もやっていません...)