射場天体観測所(1)
射場保昭氏と18.6cm屈折赤道儀について
上の写真は、31-33歳頃の射場保昭氏です。
射場(いば)天体観測所は、実業家の射場保昭氏(1894-1957)が、1928年(昭和3)に神戸・須磨に設立した私設天文台です。当時の東京天文台、京都大学天文台に勝るとも劣らない観測機器や資料を備えていました。
射場保昭氏は、特に天体写真分野の先達ですが、最大の功績は、藤原定家の「明月記」中に記されている、"客星”(1054年の超新星爆発)出現を、海外の天文雑誌に英文で紹介したことと言われています。
射場保昭氏(本名鈴鹿保家氏)は、肥料商・鈴鹿商店の二代目当主でした。鈴鹿商店は、神戸の貿易商・兼松房次郎商店と提携し、主にオーストラリアから牛骨粉や硫安などの肥料原料を輸入・加工販売をしていました。1914年(大正3)の肥料業界では、東京における肥料問屋の横綱と位置付けられていたようです。
射場保昭氏は、当時としては珍しく、13歳からオーストラリアのシドニー大学スコッチカレッジに留学しています。そのため英語はとても堪能で、海外の著名な天文学者とも交流を持っていました。(ハーヴァード大学天文台シャプレー台長、キング教授、C.H.スマイリー、C.A.チャント、H.E.ウッド、C.D.ハンバード、E.ツィナー、G.F.ドッドウェル、S.H.ストレベル他)また、海外からの天文情報は、東京天文台から原文のまま転電され、各国天文台からの刊行物も、直接射場天体観測所に送られていました。
オーストラリアから帰国後、射場保昭氏が鈴鹿商店二代目当主になってからも、家業は好調でした。そのため、姉婿二人に事業を託し、1928年頃から私設天文台作りと観測に邁進しました。そこには、京都大学教授山本一清氏や、東京天文台の神田茂氏、昵懇の間柄の廣瀬秀雄氏の励ましや指導があったようです。
上の写真は、口径18.6cmF12の屈折赤道儀です。レンズは中村要氏作(1930年製作)、機械部は西村製作所製です。当時の販売価格は4000円(現在の貨幣価値に換算すると約2000万円、これには同架されていた星野カメラの価格は含まれていません。)レンズ研磨にあたっては、中村要氏は反射鏡製作の技術を用い、非球面を採用したことが分かっています。第4面は平面です。
写真裏面の射場氏の便りです。「弊所観測ポストカード 自作仕り候 一揃え呈上仕り候 左足の捻挫 歩行困難のため門外不出に候えども 杖をつきつつ 毎夜観測だけは致し居り候 十四の夜 射場生 昭和8年2月15日」
18.6cm屈折赤道儀のクローズアップと、日食観測用に鏡筒が白く塗られた鏡筒の写真です。下の写真の奥には、8インチ写真赤道儀の文字が見えます。
上の写真は、西村製作所のカタログに掲載された18.6cm屈折赤道儀です。右が西村新一郎氏、左が西村繁次郎氏と思われます。
18.6cm屈折赤道儀は、戦後東京天文台に寄贈され、掩蔽移動観測に活用されました。
(参考文献)
高橋周「新興肥料商の成長と貿易商―鈴鹿保家商店と兼松房次郎商店 (PDF) 」 『経営論集』第19巻第1号、文京学院大学経営学部、2013年、 21-36頁
竹本修三 (2011年). “明月記の客星出現の記録を海外に紹介した日本人-射場保昭氏について (doc)”. 京1000年天文学街道(小山勝二)
竹本修三「屈折・反射望遠鏡に関するエインスリー対ウォーターズの論争に加わった射場保昭 (PDF) 」 『天文月報』第106巻第10号、日本天文学会、2013年、 675-683頁
竹本修三「明月記をめぐる射場保昭と神田茂・井本進との交わり (PDF) 」 『天文月報』第108巻第7号、日本天文学会、2015年、 429-437頁
中桐正夫「射場天体観測所の7吋半屈折望遠鏡の行方(京都大学名誉教授・竹本修三) (PDF) 」
中村要「反射屈折天体望遠鏡作り方観測手引・新光社
続 日本アマチュア天文史編纂会,続 日本アマチュア天文史,恒星社厚生閣,1994年,P.285
(2枚目以降の写真は、全て伊達英太郎氏天文写真帖より)