村の掟
江戸時代の「村の掟」や「村社会」のしきたりが現代にも色濃く投影されているという指摘が以前からある。改めてウキペディアに出ている「村社会」を見てやはりなあと心胆が寒くなった。
- 長による支配、ボスと子分の上下関係が厳然と存在する。
- 所属する「村」の掟や価値観、しきたりが絶対であり、少数派や多様性の存在自体を認めない。
- 出る杭は打たれる。長い物には巻かれるべし。寄らば大樹の陰。義理と人情。横並び。
- 排他主義に基づく仲間意識が存在する。
- 自分逹の理解できない『他所者』の存在を許さない。
- 同郷者に対しては「自分達と同じで当たり前」という意識を抱いており、自我の存在を認めない。
- 傍目には異端者に寛容だが、相手を理解しようとではなく理解できるものに改造しようとしていたり、特例で見逃されているだけであったりする。
どうだろう?いまだに現代の会社、組織に十分に当てはめられる。
「右にならえ」だし、「泣くこと地頭には勝てぬ」だし、「村八分」だ。
つまり、これらって少数意見の封殺、排除である。
現代に流れ込んで来て、「同調圧力」になり、「空気を読め」だし、「忖度」そして「イジメ」になっている。
欧米人にとっての大人になる事とは「経験を元に考え学ぶ」こと。日本人にとっての大人になる事とは「理不尽をを受け入れること」だ。「村の掟」が隠然と支配している。
規則だから、皆が言っているから、で思考停止の習慣。若者からの合理的な問いに対しては
“青いねェ”“俺も昔はそうだったよ”と圧殺する。
『How Google Works』のなかで、前CEOのエリック・シュミットが、
「能力主義を浸透させるには、『異議を唱える義務』を重視する文化が必要。ある考え方に問題があると思った人は、懸念を表明しなければならない。そうしなければ最高とはいえない考え方が通り、懸念を口にしなかったものも共同責任を負うことになる」
と言っているのだが、日本もしくは日本の企業・組織との絶望的な落差はなんだ。
少子高齢化社会の日本がこれから闘うのは長期後退戦だ。とても困難な戦いだ。その戦いの中で必要なのは前例や経験則に囚われない若者たちの斬新なアイディアと行動力じゃないのか?それを押しつぶして日本丸どこへ行くのだ?
「港に居れば船は安全だろう。 しかし船はその為に作られた訳ではない」
( グレース・ホッパー提督)