rebotリボットー「ダブル・イマージュ」 〝役立たず、ロボットの有用性〟
rebotリボットー「ダブル・イマージュ」
〝役立たず、ロボットの有用性〟
シミュラクラ現象(Simulacra=類像現象)とは、人間の目には3つの点が集まった図形を人の顔と見るようにプログラムされている脳の働き。和訳は類像現象。
人は他人や動物に出会った場合、敵味方を判断したり、相手の行動、感情などを予測したりする目的で本能的にまず、相手の目を見る習性がある。人や動物の目と口は逆三角形に配置されていることから、点や線などが三角形に配置されたものを見ると、脳は顔と判断してしまう。
「芸術」の形象においては、その完成した「作品」を見て、思わず「笑み」が噴きこぼれる瞬間がなければならない。
現在の日本のデザインアートは余裕もなく、とても笑みは噴きこぼれることはなく、悲壮感にあふれている。日本のモノづくりは、あたかも「マーケットさん」という人がいるかのごとく、「マーケットが求めている」「マーケットの言うことを聞かなければ」という言い方がなされているが、「マーケット」という言い方をすることで、金に人格を与えてしまうのだ。
不完全な素材形状を不統一なパーツアッセンブリを自由に動かし、組み替えることができる。この性質をふんだんに利用し、生み出されたのがあの奇妙な身体をもつ〝リボット〟の数々だったのである。〝リボット〟の身体は奇妙さはもちろんだが、。「幼稚」で「プリミティブ」なシミュラクラによるユーモラスな感じを与えられている。あの奇妙な身体の〝リボット〟は不完全であることの正当性を表象している。「完全」という概念に対して、〝リボット〟という直接的には社会的有用性のない「オブジェ」雑貨 を生み出すという皮肉をきかせたものだった。「表向きは不完全と称されているものこそが、じつは悦楽」であり、それこそが「完全な有用を目的とする場合に必ずついてまわる不快の感情を追い払ってくれ、 好奇心にそって表通りを外れた横道のかずかずを教えてくれる」のだという。 存在そのものに意味を求める多くの〝リボット〟は人間の身体から大きく異なった形態をしているが、そこに身体パーツが含ま れていることからそれが人間を模したものだと理解することができる。
各身体パーツは、頭‐胴‐脚というように本来は連 続しており、分かれては存在していない。つまり各々の「パーツ」の存在とは、 ことばに対応した概念レベルでの区切りに他ならないのである。そのため「全体像」が解体され、本来あらぬ位置に部位が配置されるとき、概念レベルでし かありえないはずのパーツがそれとして「現われ」てくる。「馴れ親しんだも の」であるからこそ、それは「不気味なもの」として現われるのである。ひとつきりの表象では複雑に変化していく「現実」を描きとめるのは難しい。この「二重写し」の現実は「ダブル・イマージュ」と呼ばれた。作品はあらゆる対象には「広がり」を見いだせる。自我とその外界との間に張られたレイヤーに偶然が存在しているのだ、と考えたがる人もあろう。このレイヤーの上には無意識によって投影される相合する二つのイマージュが重 なり合う場合にはじめて意識にとって目に見えるものとなるのだ。対象の性質は、このレイヤーの構造に集約することが できるだろう。数々の対象は何かを投影されることによって多層化し「目に見える」現実となるのである。