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HECP0357

「市長小学校」

2018.05.05 11:58

「市長小学校」=これからの市長


「市長小学校」では取り組みにより子供達が数十年かけて自己学習で芸術的な地域再生や地方自治を学んでいきます。

数十年後には選挙などという可笑しな制度は無くなっています。

地域活動やボランティア、NGOなどに黙々と行動する人間を対象とした住民たちによる他薦公募制に移行します。ほんとうに志のある人間は、たすきをかけて臆面もなく、自己自慢や賞賛の演説などする必要など無くなります。子供の時から地域のため、弱者のために市長や町長になろうと志を持った子供たちのためのサポートを行います。

、地域活動やボランティア、NGOなどに黙々と行動する姿こそが一番の

訴求ポイントになります。従来のジバン・カンバン・カバンなど全く役に立ちません。

自分で一歩を踏み出す必要などなく地域住民の熱意による他薦制になっていくしかないのです。

子供の時から市長や町長などの志を持った子供たちの、地域活動やボランティア、NGOなどに黙々と行動する姿こそが一番の

訴求ポイントになります。従来のジバン・カンバン・カバンなど全く役に立ちません。



バウヒュッテ・フォルケホイスコーレの

教育


世界の先進国の多くは、とっくの昔に21世紀に対応した教育システムに移行している。たとえばデンマークは、約20年前に「ティーチ(教える)」という概念を教室から追放した。なぜか?

 教えるという概念の前提は、教える人が答えを知っているということであり、教えられる人はその答えを覚えるだけになってしまうため、自分で考える能力がなくなる。答えを覚えることは人間よりコンピューターのほうが得意だから、コンピューターにできないことができる人間を育てなければ、国際的な競争力を失ってしまう。そう気づいたからである。

 そしてデンマークは、先生を「ティーチャー」と呼ぶこともやめた。生徒が自分で考えることを助けるという意味の「ファシリテーター(促進者)」に変えたのである。

 21世紀は答えのない時代である。そこで生き抜いていくためには、自分で質問して答えを予測し、他人と議論する中でリーダーシップをふるって答えに至る道筋を見つけられるようにならねばならない。しかし、今の日本の教育制度では、そういう人間を育てることはできない。逆に言えば、21世紀の世の中で通用しない人間=AIやロボットに置き換えられる人間しか育てていないのである。

日本のアカデミーの現場でお互いに教職者どうし「先生」と呼ぶ合う奇妙な習慣があります。バウヒュッテ・フォルケホイスコーレでの「教授」の呼び合いは、ご教授願いますという謙譲の意味であると同時に知性やアカデミーに対する皮肉を込めたメタファーでもあります。

イタリア人の家は、人を家に招いたり、招かれたりするサロンとして人と人との交流場所になっています。そこから素敵なモノを家に置きたい、人生の素敵な舞台を作りたい、という気持ちが生まれて、美大や美術館よりも、それがアートの土壌となっています。

高齢者を中心とした地域の住民と子供たちが日常的な生活空間の中で、コモディティーとしてのアートに触れ合う場として位置づけられます。欧米ではクリスマスや誕生カードは手作りが基本で、どんな絵の下手な人でも絵をコピーして色を塗ったり、あるいは落ち葉を集めてそれを貼ったりと下手は下手なりに工夫して自己学習でアートの感性を磨いていきます。

また、イタリアのレッジョ・エミリアアプローチのように、アートやモノづくりを通じて高齢者や障がい者たちの家づくりに子供たちが集まって参加するというスキームです。従来の教育方法とは根本的に異なるアプローチなのです。

“クラウド上の学校”自己学習の提唱者であるスガタミトラ氏によるスラムの街角にコンピューターを置いて、子どもたちに自由に使わせる自己学習アプローチを踏襲するものです。