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WUNDERKAMMER

俺だけが覚えていた

2018.05.05 13:51

穂高の稜線から少し下がったところで小休止。

その男は、プラスティックの容器を取り出す。

「どうすか」と手渡された容器の中は、薄切りされたレモンの蜂蜜漬けだ。

「お前、いい嫁さんになれるぞ」

そんな風に言いながら、パーティ全員が順繰りに甘くなったレモンを味わった。


別の山での夕食。

ウィンナーを入れたスパゲティに、そいつは顔色を変えた。

「俺、ウィンナーは駄目なんすよ」

「タバスコかけりゃ平気だよ」

乱暴な話だが、当時、山での俺達は、何にでもタバスコをかけて食っていた。

少し臭いの出始めた食料も、タバスコで食っていた。

第一、好き嫌いとは別に、その日の食事はそれしかなかった。

食えないものがあれば、食料係を自分ですればいい。

それが俺たちの考え方だった。

そいつはスパゲティと一緒にウィンナーを頬張り、喉を通らず、胃液もろとも吐き出していた。


その男のことを覚えているのは、俺だけだ。

他の誰も、彼を知らない。

山行中のスナップ写真にも彼の姿はない。

だが、高校時代の山の記憶に、彼は登場するのだ。

「あいつ、穂高でレモンの蜂蜜漬け持ってきたろう」

「あれって、お前が持ってきたんだろ」

荷物が重いのが山で何より嫌いだった俺が、余計なものを持ち込むわけがない。

当時、わずかでも荷物を軽くしようと俺は必死だったのだ。


下山中に足を踏み外し、棘だらけの茂みに突っ込んだり、

丹沢湖の沢で宙吊りになり、衝撃で骨折したそいつを皆で担いで降りたこともあった。

「それって、こいつじゃなかったっけ?」

指差された男は、その沢登りには参加していなかったし、山で骨折したことはないと応じた。

茂みには、全員が突っ込んだ経験があった。


10リットルも水が入るポリタンクをひっくり返したこと。

カラビナに細引きを掛け損ない、死にかけたこと。

そいつの登山靴は、ミンクオイルを大量に塗り過ぎたせいで妙にてらてら光っていた。

米の中に固形燃料が紛れ込み、そのまま炊いてしまったこと。


俺にとって、それら全てが彼の思い出だった。

そうした思い出の全てに、それぞれ別の名前が挙がった。

ただ、その場に居合わせた者の名前が出たときだけ、それは自分ではないと否定された。

固形燃料の一件は、俺だったと全員から言われた。


全ては高校時代のことだ。

そいつの名前は覚えていた。

俺だけが覚えていた。

山岳部のOB会名簿を開いたが、その名前はない。