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天地生成論

2023.02.20 02:44

Facebook日下修子さん投稿記事

最近入手した老子様の本です。シンプルで解りやすく52の箴言が紹介されています。

その日に開いたところがその時の自分自身にピッタリ、バッチリ出て来ます。

座右に置かれては如何でしょう?冒頭にある老子様のお言葉です。

ちょっと長いですがご紹させて頂きます。。

【 引力があってこそ、生命は自由な躍動を体得する。

草花は枯れ果て、木々は葉を落として、死んだように見える冬にこそ、自然界は生命のエネルギーを強化する。

土に落とされた種子が、もしも落とされたことで、未来を恐怖するのであれば芽は出ない。

落とされた意味を疑うことなく、その寒さと暗さを受け入れるからこそ、輝かしい花を咲かせることができる。

宇宙は常に創造を前提に、厳しさや崩壊を存在に与える。陰があるのは陽を生じさせるためである。

人間も大愛に生きる大人物ほど、大変な過去を乗り越えているものだ。

天に繋がる心となれば、自身に与えられた負荷が、何を生み出すためなのか、わかるものだ。

檜は真っ直ぐに天に向かって成長する。

引力を受け止めるからこそ、それに正反する力を得る。

真の信念はそうして生まれ、真の愛もそうして生まれる。

それが自然界の原理であり、宇宙の原理である。

陰は陽によって生まれ、陽も陰によって生まれるのである。】

https://maharishi.or.jp/lao-tzu-and-tm/ 【老子と超越瞑想の関係性(「タオ」の概念は、瞑想で現実化する)】より

今日は老子という人物と超越瞑想の関係性について、お伝えします! 一見関係ないように思いますが、両者が見ている価値が同じであるという点において共通点があります。

老子といえば、「タオ(道)」という思想が有名だな。

本記事では、そのタオの思想において重要な「空」の状態と瞑想における「超越」が同一であり、かつ瞑想によって「空」を体験できるということを伝えています。

老子とは

老子は古代中国(紀元前6世紀)の首都に住み、宮中で公文書保管所の管理人として仕えていた。彼は偉大な英知の持ち主であったため、多くの人が彼の英知に惹かれて集まり、自分の教師として敬っていた。しかし、老子は、その都市や国家の道徳的退廃を見るにつれ、そこは自分に適した場所ではないと感じ、そこを離れることを決意する。

彼は西に向かって旅立った。西の国境を超えて、その先の人里離れた辺境の地で、残りの人生を送ろうと考えていた。

しかし、老子が西の国境にたどり着いたとき、見張りの門番が彼に気づいた。そして、その賢人が永久に国を離れてしまう前に、彼の教えを書き残すように懇願した。

このようにして、「道徳経」が生まれたと伝えられている。

この偉大な著作から、道教として知られる優れた哲学的、宗教的な伝統が生まれ、2千年以上にわたって東アジアの国々に絶大な影響力を及ぼしてきた。そして、過去2世紀の間に、西洋の国々にもその影響は広がっていった。

老子の人生については、ごくわずかしか知られていない。ある学者達は、老子という人物が存在していたことさえ疑問視している(老子とは年老いた教師という意味にあたる)。彼が書いたとされる書物は、長い間、人びとが集積してきた知識をもとに書かれたと信じる人々もいる。しかし、それは重要ではない。重要なことはその英知だ。「道徳経」を書いたのが誰であろうと、そこには偉大な英知が含まれている。

老子の教えとは

では、老子の中心的な教えとはなにか?

老子は「道徳経」や他の著書の中で、人びとが人生でできる最も重要なことは、心をその源に開いて、静かな意識の状態を得ることであると主張している。

「空」という状態

完全に空っぽになりなさい。イライラした心を鎮めなさい。

そのときはじめて、すべてのものが、その「空」の状態から現れ、展開していくのを目撃するだろう。 すべてのものが、絶え間ない変化のなかで繁栄し、踊り、再び完全な「空」の状態へと溶け込んでいく。

真の静けさ、真の本質は、出現し、繁栄し、再び消滅する。このように、元に戻っていくという永遠の過程がある。

この過程を知ると、悟りがやってくる。

この過程を見失うと、災難がやってくる。

静寂でありなさい。

静寂は、永遠性の秘密を明らかにする。

永遠性には、すべての可能性が含まれている。

すべての可能性は、一体感のビジョンとなり、

一体感のビジョンは、普遍的な愛を生み出す。

普遍的な愛は、自然の偉大なる真実を支えており、その自然の偉大なる真実がタオである。

この真実を知るものは誰でも、永遠の生命を生きる。

体は滅びるかもしれない。行為は忘れ去られるかもしれない。

しかし、タオを得たものは、すべての永遠性を得る。

──16章

老子は、「完全に空っぽになりなさい」「イライラした心を鎮めなさい」と呼びかけている。そして、空の状態を体験し、その空の状態が、すべてのものの源と到達点を形づくっていることを知る。これが悟りをもたらし、永遠性の秘密を明らかにするのだ。この体験を土台にして、人は、すべてが一つであることを知り、普遍的な愛を生き、不老不死を実現する。その反対に、この過程を見失うと災害がやってくるという。

老子は、この生命の超越的な領域に「タオ」という名前を与えた。「タオ」とは、普通、「道」として訳され、しばしば「自然さ」という意味で理解される。明らかに、それは自然の最も深いレベルを指し示している言葉だ。なぜなら、老子が話しているように、「タオ」を得るとき、人は永遠性のすべてを得ることになるからだ。

この次の詩節で、老子は、「タオ」の体験は、心が表面的な想念や知覚を超えて進んでいくことと関係していると述べている。

それ自身の中へと溶け込んだ想念から解放された心はタオの神髄を見る。

それ自身の知覚と同一化した想念でいっぱいの心はこの世界の形だけを見る。

「タオ」の神髄を体験することは、真実を理解することであると老子は指摘している。そして、そのカギとなるのが、心を内側へと鎮めて、想念を超えて、それ自身の中へと入っていくことだ。

ここに、老子が書いたとされる別の著書「化胡経」からの一節がある。

宇宙が天空の星々を落ち着かせているように、

優れた人物は心を落ち着かせる。

心を微細な源と結び付けることで、

彼の心は落ち着いていく。

いったん心を落ち着かせると、心は自然に拡大し、

究極的に心は夜の空と同じくらい、

巨大で計り知れない無限のものとなる。

心が内に向かい、落ち着いていくにつれて、心は拡大し最終的に枠のない意識に達すると老子は述べている。この体験は、すべてを改善するカギとなり、この体験がないと、人は永遠に迷い続けることになると老子は強調している。

静かなままでいなさい。

あなた自身の存在の中に調和を発見しなさい。

それを取り入れなさい。

そうすれば、あなたはすべてのものを得て、

世界は再び健康を取り戻すだろう。

しかし、もしそれを行うことができなければ、

永遠に闇の中で迷うことになるだろう。

最後にもう一つ、「文子」と呼ばれる著書から引用した老子の一節がある。ここでも、心を落ち着かせ、考えを越えて、完全な単純性へと至ることは、偉大な達成であると老子は強調している。

彼らの目をきれいにすることで、彼らは見なくなる。

彼らの耳を静かにすることで、彼らは聞かなくなる。

彼らの口を閉じることで、彼らは話さなくなる。

彼らの心をそのままにすることで、彼らは考えなくなる。

知性の働きを止めることで、彼らは完全に単純さを取り戻す。

生き生きとした魂を休ませ、知識から離れることで、好き嫌いをもたなくなる。

これは偉大な達成と呼ばれる。

老子は超越について語っている

もしあなたが超越瞑想を実践すれば、老子の言葉は新しい光と共に輝き出し、老子は超越について話しているのだと気づくだろう。超越瞑想を行っている人の多くが、老子が話していることを実際に体験しているからだ。以下は、その一例である。

「私は、超越瞑想の指導を受けた日のことをはっきりと覚えています。そのとき初めて、超越を体験しました。先生の指導に従って、期待することなしに、より深いレベルのリラクゼーションへと押し流されていきました。まるでイスの中へと沈み込んでいくようでした。そのとき少しの間、一分か数分の間、考えのない、静かな、内側の状態を体験しました。まさに純粋な意識だけがあり、他には何もない状態でした。その後で再び、周りの環境を意識し始めました。瞑想によって、深い安らぎ、内側の幸福、生まれ変わったような感じがしました。」

タオは抽象的な概念ではなく、瞑想によって現実化される

「タオ」は単なる抽象的な概念ではないことを、多くの瞑想者が気づいている。それは、私たちの内深くにある想念の源、純粋意識の領域である。それは自然の知性の源であり、量子物理学によって数学的に説明されている自然法の統一場でもある。

瞑想するたびに、超越するたびに、私たちは、この枠のない領域を体験する。そして、その領域に目覚めて、それを活性化するのだ。それによって、私たちの意識は拡大し、創造性や知性が増していき、考えや行動は自然と調和するようになる。そうすると、自然の力が私たちの想念や行動を支えてくれるので、努力なく自分の願望を実現できるのだ。

この純粋意識の領域は、世界中のあらゆる哲学や宗教の伝統で説明されている。プラトンはそれを「善と美」と表現し、アリストテレスは「存在」と呼んでいた。プロティノスは「無限」、聖ベルナールは「神の言葉」、ラルフ・ワルド・エマソンは「大霊」という言葉で説明している。キリスト教では「内側にある天の王国」、ユダヤ教では「アイン・ソフ(無限)」とも言われている。この超越の領域の直接的体験は、インドでは「ヨーガ」、仏教では「ニルヴァーナ」、イスラム教では「ファナー」、キリスト教では「精神の結合」として説明されている。それは普遍的な真実と普遍的な体験に基づいた普遍的な教えである。

私は、「道徳教」や「文子」のような書物を読むたびに、過去に悟りを得た人びとの偉大さに大きな感銘を受ける。彼らは、それぞれの時代に、この普遍的な教えを非常に見事に提示した。彼らの言葉は、今日でも人びとにひらめきを与え、悟りへと至る道筋を指し示している。

そして、マハリシから受け取った、シンプルで自然で努力のいらないTMのテクニックにも深く感謝している。TMは、誰もが実践できる簡単なテクニックであり、このテクニックによって、超越するという貴重な体験を、毎日2回楽しむことができるからだ。


http://www.aqast.net/~tao/01seiseiron.html 【老子の宇宙観】より

まず最初に、老子の「天地生成論」を図でご紹介しておきます。

One-Point ◆ 老子は、天地生成の仕組みから、君子候王に治世の道を説きました。そのため『老子』の冒頭、第1章に「天地生成論」を置き理解を求めたのです。しかし、ほとんどの『老子』註釈書は、ここからして誤解をしています。

老子の思想を正しく理解するには、『老子』の冒頭部分を、まず正しく解釈しないことには始まりません。

「道(タオ)」や「太極」、また「陰陽思想」にかかわる老子の「天地生成論」の部分です。

この第1章の解釈が、『老子』全体の解釈の基礎となる重要な部分であるために、正しく理解しておくことが、『老子』全体の理解には必要です。

ここを間違えると、老子の教えを誤解し、『老子』の解釈に齟齬(そご)をきたす箇所が生じざるをえません。

このサイトでは、老子の「天地生成論」の正しい解釈をご紹介します。

ちなみに、かねてより『老子』解釈の重要なテキストとして、魏の王弼などの註釈が参考にされてきました。

すでに、旧き時代から、さまざまな註釈書があり、『老子』は誤釈されることが多かったことが分かります。

素直に、ごく素直に第1章を読めば、老子が実に分かりやすく、「天地生成論」を述べていたことが見えてきます。

●名もなき「道(Tao)」

先に「天地生成論」の概要を述べておきます。

そののち、第1章を一文ずつ解説してまいります。

そのほうが次ページから述べる第1章を理解しやすいと思うからです。

「道(Tao)」という言葉は、誰でも聞いたことがあると思います。

実は「道(Tao)」には名がありません。

名はないけれども、宇宙の根本を「道(Tao)」としています。

宇宙天地世界が始まる前、つまり深淵(しんえん)の深淵、暗闇のまた闇をのぞくように見ることができず、形容すべき象(かたち)もなく、あるべきもないので、名がつけられません。

しかし、何か命名しておかないと伝えることができないために、仮に「道(Tao)」としたものです。

ですから、一般の道と「道(Tao)」はまったく異なります。

天地の「道理」でもなく、人の「倫理道徳」でもなく、ふつうに歩く大地の「道」でもなく、もちろん名前がないので、「無」という名前でもありません。

そんなものがあるか、って?

私は見たことがありません。 当たり前ですね。

でも、それが、老子が『老子』の冒頭で述べている「道(Tao)」です。

One-Point ◆ 第32章にも「道常無名」とあります。「道は常に名無し」です。しかし、第1章をふつうに読めば、「道(Tao)」に名が無いのは当たり前だと分かります。

●名による「無」と「有」

「道(Tao)」をなんとなく分かったところで、次にいきます。

分かりやすくするために、少し飛ばして、陰陽思想で「太極」と呼ばれる、「無」と「有」を先にご紹介します。

そのあと、話を戻して、老子がいう「名」をご説明します。

森羅万象が生じた万物世界に私たちは住んでいます。

この世界は、確かに存在しています。

この天地の「始まり」は何か? 老子は問いました。

「有る」の前は「無い」ので、天地の始まりを「無」としました。

一方、「始まり」があれば、当然、その「結果」や「結末」があります。

「結末」とはこの万物世界のことです。

しかし、「無」からいきなり万物世界は生じません。

老子は、万物を生じさせたものがあることに気づきました。

それが、「有」です。

老子は「無」と「有」をそのように位置づけたのです。

もとい。

では「無」と「有」は、どこから生じたのでしょうか?

「道(Tao)」には名がありませんが、天地の始まりは、「無」という名ですし、また万物を生じさせた母には「有」という名があります。

では、いったいどこから名が生じたのでしょうか?

「無」と「有」に先んじて、「無」とか「有」とか名付けた働きがあるのです。

それを老子は、「名」と呼んだのです。

この「名」は、ふだん言われている名前や名分ではなく、むしろ命名に近い働きを意味しています。

「名」ありて、「無」と「有」、すなわち陰陽思想で使われているような「太極」が生まれたのです。

One-Point ◆ 古来、中国では、「太極」は万物の根源とされてきました。老子以後、太極の前に「道(Tao)」を置き「無極」としたり、一緒にして「無極にして太極」とすることがあります。老子の「天地生成論」の影響です。

●『老子』は単純でよい

老子ほどの頭を持つ人です。

難しく解釈する必要はありません。

老子は、『老子』第1章にちゃんと順番に、分かりやすく「天地生成論」を記しています。

まず「道」。

次に「名」。

「名」の次に、「無」、そして「有」です。

順番に触れていき、簡潔に定義づけをしています。

素直に、ごく素直に読めば、老子の「天地生成論」を理解できるのです。

多分、多くの知者は、「名」の理解が難しかったのでしょう。

難しく考えすぎて、「道(Tao)」と「無」を同一視したり、と。

「道(Tao)」は、「名」以前ですから、当然、「道(Tao)」なるものに名はありません。

一般的にも、命名されることによって初めて認識され、「概念」としての意味づけがなされ、「存在」として認知されます。

そのような命名の働きを老子は、「名」と呼び、存在可能ならしめるものとして位置づけたのです。

天地万物世界が生じる前に「無」と「有」(俗にいう太極)があり、「名」が、それに先んじていることに気づかなければなりません。

「名」以前は、名もなき「道(Tao)」です。

これが老子の「天地生成論」の概要です。

「えーっと、そうですよね? 老子さん」

「然り!」

老子もそう言っていますので、間違いはありません。

では、次のページから、『老子』第1章を一文ずつ、分かりやすく解説していきます。

お時間がありましたらお付き合いください。