詩の尊厳:来住野恵子詩集『ようこそ』に寄せて
西脇順三郎との出会いが詩への覚醒だった来住野恵子は、自分もまた、彼のように、《永遠》の陰翳を帯びた詩の野原を、どこまでも歩いて行きたいと思った。十六歳から二十一歳までの作品を収めた第一詩集「ブリリアント・カット」には、永遠を語るため、ダイヤモンドのように言葉を研磨しようとする姿勢がすでにある。しかし、その作品世界には、まだ、漠然とした予感に満ちた、揺籃期の薄明のような叙情があった。
ベルリンの壁崩壊からソヴィエト連邦の解体へ。世界史的な大転換点だった一九八〇年代終わりに、来住野はロサンジェルスで暮らしていた。穏やかで暖かな光に満ちた場所だと思っていた詩の野原――それが殺戮と叫喚に満ちた血みどろの荒野であることに気づいて戦慄したのはその頃だった。血潮を噴き出す歴史の傷口に、素手で触れてしまったのだ。存在の奥底から噴出する悲しみ――西脇が感知していた存在そのものの淋しさではなく――を、来住野は自身のなかに見出した。彼女の詩には、そもそも感傷性が稀薄だが、第二詩集「リバティ島から」の眩いばかりに絢爛たる作品世界は、同時代の暗黒に曝された剥き出しの神経から生まれたものなのである。彼女が才能を開花させたこの時期に、触媒のごとき役割を果たしたのは、「黄金詩篇」の詩人吉増剛造だった。
胸が、潰れるような、悲しみ……。その源泉にあったのは、尊厳ある生を奪われた、子供、老人、動物といった、いつでも自分と置き換え可能な《他者》の姿だった。自分は全く偶然に、彼らではなかった。彼らが置かれた地獄と地続きの世界で詩を書くということは、荒野を歩き続ける覚悟を決めることと同義だった。第三詩集「天使の重力」の表題作は「人間を焼く/煙がたなびいている」という言葉から始まる。一体、どこで人間が焼かれているのか。この詩は「もう一度会おう/言葉で/明け初める原野で」と結ばれる。煙になった人間たちが、言葉で再会する。これこそが、世界のあらゆる場所が地獄になり得るこの時代に詩を書くことの根拠なのである。人間の尊厳を問うことは、詩の尊厳を問うことでもあった。もとより、悲惨の極にある人間にとって、詩は役に立たない。けれどもそれは、真理が役に立たないのと同じ意味においてである。
新詩集「ようこそ」でわれわれが出会うのは、これまでにも増して比重が大きい言葉たちだ。巻頭に置かれた作品は、カタストロフ後の世界の新生を、圧倒的な力強さで語っている。
ゆらめく水の天球から
漂着するすべての心におはよう
儚さ脆さ
ありったけのかなしみ
転覆した家も小径も囁きも
どんどんどんどん
いっしょくたに押し流しながら今日も
世界の心臓が驀進する
絶対の刹那 現在へ
最大出力
おはよう
生きよう
やわらかなちからをこめてほほえむ
しかしこの作品は、東日本大震災の二年前に書かれたものである。歴史的事件があって作品が書かれるのではない。この詩集で唯一固有の土地の名が登場する作品も、特定の歴史的事象の記述ではない。普遍の光を帯びた真理の開示こそが、彼女の作品の本質なのである。
「知をもってしては最後まで知ることができないものへ近づいていくことを生涯の仕事にしようと思った」(「ヴァル・ド・グラース、恩寵の谷間から」)と彼女は記したことがある。おそらくここで彼女は「知」を、客観的真理の解明を目的とする科学知の意味で使っている。詩人としての言語愛は、真理愛と深く結びついているが、彼女が目指す真理とは、科学知が到達し得ない、世界の本質的真理である。彼女は《美》を追求する以上に《真理》を追求しており、そこに幻想が入り込む余地はない。そして《真理》の本質提示が見事になされるがゆえに、作品は燦然たる《美》を放射し、われわれを魅了するのである。 来住野恵子の音域は広い。表題作は、西脇順三郎の詩の野原を思わせる、穏やかな光に包まれていて、われわれは思わず息を呑む。
母娘に見守られ
老いた蛇は朗朗とゆく
いつかそっと川を抜け
ひかりの腹を波打たせ
うたいながら
やがてうたとなってゆく
ここには《永遠》の刻印を押された循環する生命の神秘が語られている。彼女の詩の聖域は、おそらくここにある。蛇を見守る母娘は、第一詩集の巻頭作で、「母親は/添い寝して/小さな娘に物語する/やわらかな匂いにつつまれて/娘は昼間/ミストラルが倒したグロキシニアの/白い花ばかりを思い出す」(「白い夢」全行)と書かれた、あの母と娘なのかもしれない。
詩集から零れ落ちた多くの作品がある。胸を締めつけられるような散文の数々も。それら荒野に咲く慎ましい花々と、いつかまた巡り会えるならば、心からの歓びと言わねばならない。
*初出:来住野恵子詩集『ようこそ』(思潮社、2016年5月)栞